五月。ブラインド越しの空は土砂降りだった。その雨に打たれ、新緑の葉が小さなバネのように跳ねるのをしばらく眺めていると、背後から声が掛かる。
 
新妻(にいつま)警部」
 
 振り返れば、そこにいたのは片桐さんだった。
 
「ご報告です。おととい発生した港区議会議員への爆破予告の件、先ほど被疑者を静岡県にて検挙したとの連絡があったのですが、二年前のサイバーテロに関係があるようで引き続き調査が必要かと」
「そうですか。わかりました」
「監視中の過激派団体は今のところ特に動きはありません」
「あの、片桐さん」
「最後に」
 
 私の制止を無視して、片桐さんは淡白に報告を続ける。
 
前田清玄(まえだきよはる)の裁判、先ほど最高裁で判決が出ました。殺人教唆に脱税、その他余罪も含めて懲役二十五年の実刑判決だそうです」
「そう、ですか」
 
 では、と踵を返す片桐さんに向かって、私は今度こそと大きめな声を出して引き留めた。
 
「なんなんですか片桐さん、その喋り方」
「なにか気に障りましたか」
「障りますね」
「どの辺りが」
「わざとらしい敬語が」
「それは失礼を」
「馬鹿にしてるんですか」
「まさか。警部昇格おめでとうございます。さすが、キャリアは出世がお早い」
 
 やはり馬鹿にしている。そう思いながらふと片桐さんの首に目を向ければ、そこには蛇の影が薄く、シミのように広がっていた。
 
「その首の刺青、消したんですね」
「はい」
「っていうか本当に入れていたなんて。シールかと思っていました」
「手頃なシールがなかったので」
「だとしても、実際に入れる必要があったんでしょうか。別に黒函莉里(くろはこりり)は、そんなことをしなくてもあの日あの場に訪れたんじゃないかと」
「どうでしょうね。まあ、今となってはどうでも良いことです」
「どうでもいいって」
「私が現場に戻ることはもうないので」
「……本当に、それでいいんですか」
 
 会話に一瞬の間が開く。それでも、片桐さんは私の質問に答えてはくれなかった。
 
「まだ雑務が残っているので、私はこれで」
 
 去り行く背中は配列されたデスクを右に曲がり、直ぐに自席へと着席する。散らばる領収書を整理しながらキーボードを打つ、そんな片桐さんの後ろ姿を私は憂いていた。
 
 
 
 
 片桐さんは警部から巡査部長へと階級を降格していた。ただこれは処分としての降格ではなく、片桐さん自らが希望した処遇だ。
 もっとも本人は退職を望んでいたらしいが、警視長がなんとか引き留め最終決定を先延ばしにしている状態である。
 
 片桐さんがこのような選択に至るまでには、実にさまざまな要因が重なっていた。
 
 まず初めに、前田清玄が所持していた古いスライド携帯はとんでもない代物であった。
 その内部データにより、叶韻蝶会(きょういんちょうかい)を経由して不正に金銭を動かしていた政治家や病院関係者、警察上層部を一網打尽に出来ることは勿論、既に前線を退いている多方面の権力者をも潰せるほどの影響力を持つ通称——イエローデビル。
 このイエローデビルの存在は、現状表には出ていない。結果だけを言えば、この先もイエローデビルが世間を騒がすことはないと言える。
 
 警視庁は、今回の件を丸ごと隠蔽する方針を固めたからだ。
 
 するとどうなるか。この証拠品を提示できない事件は立件できず、裁判も当然成り立たない。その決定に、片桐さんは当初反発していたのだが——
 
 “条件をつける”
 
 そうして警視長から出された条件を飲まざるを得なかったことで、片桐さんは隠蔽を黙認し、更には自らの立場を下げる決断へと至ったのである。