令和六年 二月二十九日 
 その訃報は突然届く。
 
「……今、なんて?」
紫子(ゆかりこ)さんが首を吊って自殺を図った。この病院に搬送されて緊急処置を受けたが、脳死だそうだ」
 
 大学病院。総合案内を抜けて入院病棟に向かおうとした俺を逆に出迎える形となった目黒さんは、焦って来たのか息を上げていた。
 (せわ)しなく外来の呼び出しが行われる中、俺は外そうとしたマフラーに手をかけたまま衝撃で動きを止める。目黒さんは数枚の紙を手に頭を抱えていた。
 
「少し前、樋井蝶子さんのスマホに連絡が入ったんだ。弱い自分を許して欲しい、自分を死に至らしめたのは前田清玄だと、そう警察に伝えるようにって」
「それってどういう……だって紫子さんの話では今日、前田清玄を叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の施設に呼び出して緊急逮捕する予定でしたよね」
 
 そう。紫子が言っていた“(きた)る日”というのはまさに今日だった。
 不正が記載された裏帳簿を前田清玄の自宅の金庫から押収するため、新妻(にいつま)を看護師として前田清玄のそばに送り込んで機を(うかが)い、妻の前田夕奈も数日前に息子を連れて実家に帰ったと報告を受けている。
 あとは家宅捜索で金庫の中から裏帳簿を見つけて、それをネタに警察上層部の不正を暴けば、浅倉潤の死刑判決をひっくり返せる、そういう計画だったはずだ。
 
「彼女は、樋井紫子は初代鳳蝶と同じく本当に預言者だったのかもしれない」
「え?」
「ここに全てが記してある。俺たちに接触してきた理由も、彼女がなにをするつもりだったのかも、全て。片桐、俺たちはとんでもないことに巻き込まれたんだ」
 
 そう言って、目黒さんは俺に紙を差し出す。目を通せば、その内容に俺は血の気が引いていく思いだった。
 
 
 ◇◇◇
 
 目黒さん、片桐さん、新妻さん。
 私の愚行をお許しください。死んで償えるとは思っていません。でも私は、この命を持って最後に足掻いてみることにしました。
 
 私の心臓を、樋井蝶子へ。
 
 驚きましたよね。私があなた方に近づいたのは最初からそれが目的でした。しかし移植を実現するには、私が単に自殺と処理されるのでは足りません。
 そこで私は考えます。自身の罪を浅倉潤になすりつけた前田清玄に、今度は私の罪をなすりつけよう、って。
 証拠は全て、前田清玄が所持する古い黄色のスライド携帯に入っています。あとは元々の作戦通り前田清玄を呼び出し、金庫の中から裏帳簿を押収して浅倉潤を救い出せればそれで結構でした。ですがここで、予想外のことが起こります。
 
 暗証番号が、違ったのです。
 
 前田夕奈に案内の手紙を渡した日、変な胸騒ぎがした私はそっと部屋へと侵入して、暗証番号の解除を試みました。
 私が昔にこの耳で聞いた暗証番号は、先日申し上げた通りの98961502。でもそれでは開かなかった。このままではこの作戦は失敗に終わってしまう。猶予はありません。心臓は、もう持たない。
 
 暗証番号を知るのは、浅倉潤と前田清玄の二人だけ。どうか探り出して。目黒さんならきっと、浅倉潤を導ける。

 どうか。お願いします。

               ゆかりこ

 ◇◇◇
 
 
 全てに目を通した俺は、未だ頭を抱える目黒さんに顔を向ける。
 
「これ、どうするつもりですか。流石にこんな、いくらなんでも無実の罪をなすりつけるなんて」
「浅倉潤を、連れ出す」
「本気で言ってます? そんなことをしたら警察官では居られなくなりますよ」
「いい。俺はもう二度とあんな思いはしたくない。樋井蝶子さんが助かるのなら俺はなんだってするつもりだ。たとえそれが人道に逸れたことでも」
 
 目黒さんは拳を握りながら震えていた。
 きっと亡くなった奥さんを思い出しているのだろう。この様子だともう覚悟を決めてしまっている、そう思った。
 
「告発するならそれでも構わない。だが今日一日だけ待ってはもらえないか。せめて手術が、心臓移植手術が済むまで」
「たとえ手術が成功したとしても、実状が明らかになれば違法性を問われます。樋井蝶子さん本人にはなんて説明するつもりですか」
「ありのままを伝えるよ。紫子さんは、前田清玄によって殺された(・・・・)のだと」
「目黒さん……」
「時間がない。俺はこれから準備に入る。六年前の事件の捜査資料は全て頭に入っているんだ、俺ならやれる」
「やるってなにを」
「聞き出すんだよ。浅倉潤から暗証番号を」
 
 
 目黒さんは何もかもを捨てる気だった。
 俺は、どうする。このまま事実を見過ごして、目黒さんの言う通りに策を実行していいのか。新妻は俺からの連絡を待っている。心臓移植にも猶予はない。
 
 どうする。どうするのが正解だ。そう迷いながら目を瞑れば、いつかの先輩が笑う。
 
 “物事は大抵結末が決まってる。人はそれに抗うことはできないんだよ” 
 
 胸のペンダントを握りしめて、
 刻一刻とせまるタイムリミットに、
 俺はいよいよ覚悟を決めた。
 
「先輩の力を借りましょう。浅倉潤に、死刑の執行を告げるんです。目隠しをさせ部屋へと連れ出し、先輩は教誨師(きょうかいし)として奴を説得する。浅倉潤自身には本当に死刑になるつもりで自白してもらうんです。その方が、暗証番号を吐く確率が上がる」
「片桐、お前……」
「新妻からボールペン型のカメラを貰ってください。こちらに映像と音声が届くように設定してありますから、状況はそれで確認します。俺は当初の予定通り、叶韻蝶会(きょういんちょうかい)で前田夕奈を待ちます。紫子さんの指示の通りに」
 
 俺はマフラーを外す。首に這う蛇は、樋井紫子の決意への答えだった。

「全てを終わらせましょう」