「……なるほど。六年前の事件で浅倉潤の死刑判決がトントン拍子に進んだのも、前田清玄が無罪放免になったのも、全ては叶韻蝶会(きょういんちょうかい)と警視庁上層部に繋がりがあったから。財界や政界の有力者を手引きし、私的に大金を動かしていたのは、二代目鳳蝶と前田清玄だったというわけか」
 
 目黒さんが話を整理すれば、紫子はさらに付け加える。
 
「母の二代目鳳蝶が前田清玄に目をつけたのは、彼の父が大学病院の医師だったからです。有り余るだけの大金と、自由に治療を受けられる医療機関を手に入れることは母の悲願でした」
「それは、あなたのお姉さんのために?」
「そうです。姉は慢性的な身体の不調で常に治療を欲している状態で、その治療費は桁外れでした。祖母である初代から鳳蝶を引き継ぎ、母が叶韻蝶会(きょういんちょうかい)をビジネスとして運用し始めたのにはそういった理由があったのです。それがいつの間にか、前田清玄の暴走がエスカレートするにつれて組織は犯罪の温床に」
 
 気づけば、紫子は額に汗をにじませていた。顔色は蒼白で、息遣いも少々荒い。
 
「大丈夫ですか? すみません、こんな湿っぽい備品庫なんかでは息が詰まりますよね。少し休憩しましょう。新妻、何か飲むものを買ってこい」
「わかりました」
 
 目黒さんにそう指示されて、新妻が部屋を出ていく。そのタイミングで、俺は目黒さんに気になっている事を訊くことにした。
 
「目黒さん。紫子さんの姉だという樋井蝶子(ひのいちょうこ)さんとは、どのような知り合いなんですか」
「え?」
「さっきの居酒屋で目黒さんは、紫子さんが三代目鳳蝶を助ける方法を教えると言うとすぐに、樋井蝶子さんの名を口にしましたよね。目黒さんと樋井蝶子さんは以前から面識があった。妹である紫子さんを見て“似ている”と呟いたということは、目黒さんは樋井蝶子さんの顔を知っているんですよね」
 
 俺の質問を受けて、目黒さんは考えるように額を掻くと、答える。
 
「少し前に入院先の病院へ会いに行った。宗胤(しゅういん)という名の坊主を知らないか訊こうと思ってな。樋井蝶子さんには心臓に持病があって、今は移植のドナー待ちなんだ」
「それについてはもう一つ疑問が。目黒さんは、三代目鳳蝶だというその蝶子さんの命を助ける方法を知りたがっている、それはなぜですか」
「なぜってお前」
「移植を待つ人は世界中にいる。蝶子さんが入院している病院にだって、他にもそういった方が沢山いるんじゃないですか? 一刑事が、その私欲で助けたいと思うには出会ってからの期間が短すぎると思うんですけど」
 
 すると目黒さんは、なぜか呆れた眼差しで俺を見てきた。
 
「なあ片桐。お前最後に彼女ができたの、いつだっけ」
「はい? なんですか急に」
「いいから」
「さあ。十年以上は前だと思いますけど」
「そうか。顔はいいのに、お前がモテない理由がなんとなく分かったよ」
 
 ——いや、俺には意味がわからない。
 そんな話をしているうちに、新妻が水のペットボトルを手に帰ってくる。
 
「大丈夫ですか。横になりたければ、仮眠室にご案内できますけど」
「ありがとう、大丈夫です。新妻さんはお優しい方ですね。自動販売機の前で、どの飲み物がいいか色々迷ってくださって」
「あ、いや……」
 
 気まずそうに俯く新妻。その新妻と俺を交互に見ると、目黒さんは言う。
 
「新妻、今いくつだっけ」
「二十四ですけど」
「二十四のお前から見て片桐はどうだ。有りか無しか」
 
 は? と、俺と新妻の声が重なった。
 
「勘弁してください、俺は子供が嫌いです」
「いや、勘弁してくださいはこっちのセリフなんですけど。見た目年齢云々より、片桐さんみたいな石頭とプライベートで会話が続く気がしません」
「石頭?」
「片桐さんは人を男女でなく人間一括りで見るんです、つまり優しくない。上司としては尊敬していますけど、男としては無しです」
 
 ふん、と顔を逸らした新妻を面倒に思っていると、目黒さんは笑った。
 
「俺は案外いいと思うけどな、お前ら二人」
「まだ言うんですか」
「大切にしろ。今日隣で笑っていた人間が、明日も隣で同じように笑ってくれるとは限らない。命は有限なんだ」
 
 その意味深な顔に、俺は目黒さんが数年前に奥さんを癌で亡くしていたことを思い出す。
 そんな微妙な空気の中、水を飲んで幾らか顔色を取り戻した紫子が言った。
 
「目黒さんの仰る通りです。命は有限、だからこそ有効に活用(・・)しなければならない。準備は整っています。あとはあなた方が協力をしてくだされば、現状で出来る最善までは皆を導けます」
「正しい道へと導くって、それは具体的にどんな? あなたは一体何がしたいんですか」
 
 俺の言葉に、紫子は立ち上がる。
 
「まず浅倉潤(あさくらじゅん)。彼は死刑を受けるべき人間ではありません。彼を秘密裏に開放するには、警察上層部を黙らせる武器、つまり叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の実情を記した裏帳簿が必要になります。片桐さんには、それを前田清玄から奪略して欲しいのです」
 
 次に、紫子は新妻へと視線を合わせた。
 
「新妻さんはとても素敵な女性です。あなたが粉をかければ、間違いなく前田清玄という蝶は靡いてくる。それを利用して、新妻さんは(きた)るその日に前田清玄をとある場所へと導いてください。念の為、新妻さんの年齢はもう少し若く設定するのが好ましいでしょう」
 
 勝手に始まった紫子の指示に困惑する俺と新妻と違い、目黒さんはただただ黙って言葉を受け入れていた。
 最後に、と目黒さんに目を合わせた紫子は、ポケットから一枚の写真を取り出すと、それを目黒さんの手に握らせる。
 
「前田清玄の持つ叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の裏帳簿は電子データで、それには暗証番号が設定されています。暗証番号は98961502。これで、家族を救えます」
 
 彼女、樋井紫子(ひのいゆかりこ)の話は俺と新妻にとって的を射ないものだった。それでも、目黒さんの手に握られた写真に映る女性を見て、俺は一旦言葉を飲み込む。
 
 その写真に映るのは樋井紫子と、おそらく姉の樋井蝶子。仲睦まじく妹に寄り添うその蝶子の顔は、亡くなった目黒さんの奥さんに瓜二つだったのだ。