同日。食い逃げ犯を所轄に任せて居酒屋を出た俺と目黒さんは、樋井紫子(ひのいゆかりこ)を連れて警察署内の備品庫へと場所を移していた。
 パイプ椅子を二脚広げ、そこに目黒さんと紫子が向かい合う。俺は目黒さんの斜め後ろに立ったまま、紫子に小さく頭を下げた。
 
「こんな場所で申し訳ありません。他に、人目のない場所が思いつかなくて」
「構いません、私が頼んだことですから。周りに人の気配があると集中して話をすることが難しいのです。それより、そちらの方は?」
 
 俺の隣に立つ女性を見上げて紫子が訊く。
 
「彼女は新妻杏奈(にいつまあんな)警部補です。密室に女性が一人では心許(こころもと)ないかと思い、来てもらいました」
「いいのですか。これから話すことを彼女に聞かれても」
「問題ありません。新妻警部補は信用に値する人間です」
 
 そう言って俺が目配せすれば、新妻は胸元から太めのペンを取り出した。それをみて、紫子は眉を顰める。
 
「それは?」
「ボールペン型のカメラです。会話と映像を記録用に録画させていただきたいのですがよろしいですか」
 
 新妻の問いに、紫子はゆるゆる首を振る。
 
「それはやめた方がよろしいかと」
「なぜです?」
「これから私が話すことは、あなた方御三方にとっては諸刃の剣の情報です。万が一、ほとぼりが覚めた頃にこの会話を記録した映像が出回れば、後にトラブルを招く結果になりかねません」
「いや、しかし」
「新妻」
 
 反論しようとする新妻を目黒さんが制止した。目黒さんの顔を見て、渋々納得した新妻がペンをしまうと、目黒さんは紫子の目を見て口を開く。
 
「初めに確認しますが、数日前片桐宛に電話をしてきたのは紫子さん、あなたで間違いありませんか?」
「はい。そうです」
「あなたはなぜ東京都青梅市の公園に、片桐警部の妹の右手が埋まっていることを知っていたのでしょう」
 
 目黒さんの質問に、新妻はギョッとして俺を見る。新妻には俺に妹がいることを話してはいなかった。
 
「私には、声が聞こえるんです」
「声?」
 
 すると紫子は突然目を閉じて、集中するように深く呼吸をする。
 
「……今、ここから四つ壁を隔てた左側の部屋には男女がいて、互いに愛を囁いています。会話から察するに、多分不倫密会中。通路を挟んだ向かいのトイレには腹痛と格闘する男性が一人、この部屋の真上の落としもの係では、スマートフォンを紛失した女性が絶望しています」
 
 俺に目を合わせた新妻が、確認のために部屋を出ていく。
 抑揚のない声で一気に喋った紫子は、ゆっくりと目を開けた
 
「私は十五のときにとある体験を経て以来、このように多くの声が耳に届いてしまう特異体質になりました。医者は統合失調症による幻聴だと言いますが信じていません。壁を(へだ)てていても、半径五十メートルくらいであれば声が拾えます。先ほど居酒屋でしてみせた予言は、聞こえた声に状況を加味して(おこな)っただけの予測なのです」
 
 半径五十メートル? そんな無茶な。
 
「グラスを倒したテーブル席の女性は、それ以前から醤油皿をひっくり返したり箸を落としたりと、声にも酔いが回っている様子でした。通り過ぎる時に見てみれば、厚みのあるコースターの上でジョッキがズレて傾いており、倒れるのは時間の問題かと。そうして私が目黒さんたちのテーブルまで辿り着いた時、タイミングよくその席で乾杯の音頭が。そこで私は、彼女がグラスを持ち損ねてジョッキを倒すのではないかと予測を立てたのです。当たる確率は七割、といったところでした」
「それなら食い逃げの方は?」
「そちらは簡単でした。彼は店に入った時からずっと、あと一品だけ、あと一杯だけ、とぶつぶつ自分に言い聞かせて食事をしていました。ときおり小銭入れを確認していたのか硬貨が擦れる音も聞こえましたし、注文数に対して所持金が足りないのは明らか。あれは常習犯です」
 
 その時、新妻が辺りを気にしながら部屋へと戻ってきた。俺と目黒さんに目を合わせると、全て事実です、と一言。
 
「信じていただけましたか」
「そんなまさか……じゃあ、あなたは青梅市の公園に右手を埋めた人物が誰だか知っているということですか? 声を聞いたんですよね?」
「はい。その女の名は黒函莉里(くろはこりり)。彼女は教琳寺院の宗胤(しゅういん)という僧侶の右手を切断し得たことで、元々所持していた片桐さんの妹さんの右手が不要になり、破棄したのです」