「今なんて言いました?」
「だから、出家する」
 
 祭囃子(まつりばやし)がBGMの陽気な大衆居酒屋、その角のテーブル席でビールを煽っていた俺は、目の前に座る先輩刑事の突然の報告を受けて心底驚いた。
 
「いや、あの。出家って先輩、意味わかってます?」
 
 俺が言えば、先輩は睨みを聞かせながら首をぐわんぐわん振って骨を鳴らす。やばい。めちゃくちゃ怖い。
 
「誰に口利いてんだ、片桐(かたぎり)
「すみません。でも、先輩がその、頭丸めて読経する姿とかあんまり想像できなくて」
「まあな。でも仕方がないだろう。俺をモグラ(・・・)として指定暴力団に潜入させたマル暴の先輩は汚職で捕まり、蓋を開ければ俺はとっくに警察をクビになっていた。結果として暴力団を解散には追い込めたものの、今更俺は警察官に戻ることもできない。身体もこんなんだしな」
 
 先輩が腕を捲れば、その肘から上には隙間なく刺青が彫り刻まれていた。
 
「でも」
「やめとけ片桐。こいつは一回言い出したら誰の言うことも聞きやしない」
目黒(めぐろ)さん」
 
 テーブルの皿のホルモン焼きを箸で摘み上げると、もう一人の先輩刑事、目黒さんは呆れたように言う。
 
「大体な、俺は潜入捜査をすること自体反対したんだ。こいつに潜入を指示した上司は元から信用性に欠けたし、荒くれ者だらけの組対四課(そたいよんか)を実質まとめていたのはこいつだったからな。まあ、上司にとって目の上のゴブだったから弾かれたんだろうよ、実際」
 
 口にホルモンを放り込んだ目黒さんは、数回も噛まないうちにビールでそれを流し込んだ。
 
「潜入してから三年。組織を壊滅させた上、命まで助かるなんて幸運以外のなにものでもない。だからこれからの人生はこいつのもんだ。好きにやるのが一番いい」
「さすが同期、俺のことをよく分かってる」
「うるせえよ」
 
 目黒さんの悪態に、先輩は景気良く笑う。
 
「っていうか、俺もう先週から坊主だから。今日も酒や飯は勘弁な」
「え? 先週からって、先輩頭丸めなくていいんですか?」
「いいか片桐。寺にもいろいろな宗派やルールがあるんだよ。全員が全員頭を剃らなきゃいけないルールでもないし、俺を拾ってくれた教琳寺院(きょうりんじいん)はこうして外出も許可してくれる。首の刺青も許してくれたしな」
 
 流石に身体は隠せと言われたけど、と先輩はまた笑った。
 
「ってことで、俺はそろそろ行くよ。さすがに門限はあるから」
「中学生かよ」
「規則正しい生活はいいぞ、目黒。心が洗われる」
「はいはい。(いか)つい顔面でよく言うわ」
 
 テーブルに肘をついてビールを飲む目黒さんの肩を強めに叩くと、先輩は席を立った。
 
「あっぶな、ビールが溢れんだろうが。力が強いんだよ、このクソ坊主」
「クソ坊主じゃない。わたしは宗胤(しゅういん)と名を貰ったんだ。君たちもなにか困り事があったら、いつでもわたしを訪ねてきなさい」
「はっ、たいそうな喋り方しやがって。会いたかったらお前から連絡してこい」
「……そうだな。そうするよ」
「先輩、外まで送ります」
 
 
 この日。去っていく先輩を目黒さんは見送らなかった。またすぐに会える、そんな風に頭の片隅で思いながら、俺と目黒さんは警察官としての日常を淡々とこなした。
 そうして十一年。俺は警部、目黒さんは警視と順当に階級を上げる。互いに忙しくなり、飲みにいくことも滅多になくなったそんなある日、目黒さんは俺を警視庁の備品庫に呼び出した。
 
「なあ片桐、叶韻蝶会(きょういんちょうかい)って知ってるか」
「なんですかそれ」
「やっぱ知らねえか。よく当たる占い、とかなんとか」
「占い?」
 
 目黒さんは備品庫を見回し、改めて人がいないことを確認すると小声で言う。
 
「なんでも、そこにいる鳳蝶(アゲハ)って女の占いがとんでもなく当たるって話でさ。それも抽象的なもんじゃなくて、過去や未来が見通せる特別な力を持っているらしいんだ」
「目黒さん、そういうの信じるタイプでしたっけ」
「まあ聞けよ。その占いに近頃、警視庁のお偉い方がちょこちょこ顔を出しているという話を小耳に挟んだ。他にも財界や政界の大物も関わっているらしくて、叶韻蝶会(きょういんちょうかい)を訪れたとされるそいつらが以前にも増して羽振りよく豪遊する姿も度々目撃されている。妙だと思わないか」
「確かに、それは少々気になりますね。調べますか」
「いや、話はここからなんだ。その叶韻蝶会(きょういんちょうかい)、どうもカルト宗教みがあって。少数だが熱心な信者を従えている。その作法や導きの教えを、とある寺が担っているらしいんだが……その寺の名前、教琳寺院(きょうりんじいん)っていうんだよ」
 
 俺は驚きで声を上げた。
 
「それって、先輩の?」
「ああ。だから余計に気になって」
 
 その時、俺のスマホに着信が入る。
 その知らせはまるで、俺たちの会話を聞いていたかのようにタイムリーなもので。
 
「あの、目黒さん。先輩ってその……名前、なんて言ってましたっけ。出家して貰っていた名前」
「なんだ急に」
「それが……」

 俺が言葉を続ければ、目黒さんは顳顬(こめかみ)に血管を浮かせて顔を歪ませた。
 俺だって信じられない。まさか十一年前のあの飲み会が、先輩と会えた最後の日になるなんて。
 
 二〇二三年 十二月——
 宗胤(しゅういん)と名を変えた先輩は、四十の若さでこの世を去ってしまった。