驚いたのは僕だけではない。夕奈の隣、刑事である片桐も僕と同様に、夕奈が手に持つ携帯電話を見て面食らっていた。
 ……この片桐とかいう刑事、さっきは目当てのものが見つかったなんて言っておいて、やはりカマをかけていた。
 
「離婚を有利に進める手助けになればと思って、家を出る時に持ち出したの。こんなに古い携帯を頻繁にいじっているのを見て、ずっと違和感だった。清玄はこれを、なにか浮気のツールとして利用しているんじゃないかって」
「ちょっと待って、離婚ってなんだよ。夕奈、落ち着いて。その携帯を今すぐ僕に寄越すんだ」
「私は十分落ち着いてる。むしろ胸をざわつかせているのは清玄、あなたの方でしょ。この携帯を調べられたらまずいことになるって」
 
 どうする——今度こそ、本気でヤバい。
 叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の裏帳簿は紙でなく、このガラケーのメモ機能に日付と共に羅列していた。このガラケーは僕が契約したものではないけれど、中身を見られれば言い逃れることは到底不可能だ。
 夕奈の馬鹿がこうして持ち出したりしなければ、わざと金庫の外に出して他の古い携帯と一緒くたに箱に詰められたこのガラケーが捜索の目に止まることはまず無かっただろう。金庫の中にある帳簿をいくら調べたところで、それは裏ではなく表の帳簿。不正の証拠にはなり得ないはずだったのに。
 
「前田夕奈、その携帯電話を今すぐこちらに」
 
 片桐が夕奈に手を伸ばす。だが夕奈はその手を避けると、慌てて片桐と距離を取った。
 
「やめて。私に近づかないで。無理にこの携帯を取ろうとするなら、今すぐ地面に叩きつけて踏み潰す」
 
 夕奈が手を振り上げれば、片桐はその動きを止める。
 ……そうか。踏み潰す、それだ。
 
 僕はスクリーンに映る浅倉くんを見上げた。彼は今日、死刑になる。それが事実なら、もうこんなガラクタをわざわざ手元に置いておく必要はなくなるんだ。裏帳簿に記載した主要な収支はなんとなく覚えている。僕が助かるには、いま夕奈の手にあるあのガラケーをなんとかして破壊するしか方法はなかった。
 僕はゆっくり一歩ずつ、拝堂の出入り口を背にこちらを牽制する夕奈に近づいていく。
 
「夕奈よく聞いて。きみが離婚したいと言うなら僕はその意思を汲むよ。汐紘(きよひろ)の親権は相談したいけど、きみが当面一人で生活できるだけの資金を援助するつもりも勿論ある。でもね。今そのガラケーが警察の手に渡れば、その資金援助がうまくできなくなる可能性があるんだ。それは僕が犯罪を犯しているとかそういうことではなくて。僕の父さんやこれまで脱税に関わった人間全てが、その使い込んだ金を返せるわけがないんだから。僕が家族のために必死で働いて貯めたお金も、きっと警察は理不尽に徴収していく。そうなればきみだって困る、僕はそういう話をしているんだ」
「……ごめん清玄。ちょっと本当になにを言っているのか理解できない」
「ほらね、今きみは混乱してるんだよ。片桐って刑事になにを吹き込まれたのか知らないけど、僕はなにもしていない。だから変な意地を張らずに帰っておいでよ。一緒に帰ろう? 汐紘を放置してこんなところで油を売っていたことは、この際なにも咎めたりしないから」
 
 僕が夕奈へ距離を詰めるたびに、夕奈は出入り口へと背中を近づけていく。未だ右手を振り上げたままの夕奈に片桐は唇を噛み、証拠品であるガラケーを一点に見つめていた。
 もう少し。夕奈がこのままガラケーを破壊すれば、状況は好転する。
 
「来ないで」
「分かってる。ちゃんと話そう?」
「来るな!」
 
 なぜだか震える夕奈に、僕は優しく微笑む。
 夕奈はいつもこうだ。自分が悪いことをしていても、決まって怒りを露わにするのは夕奈のほう。まあ、仕方がないか。夕奈は僕より六つも下だし、だからこそうまく扱えてきたようなところも多々ある。
 離婚だってしてやるものか。じっくり話し合えば結局、夕奈は僕の意見に賛同するんだ。
 
「あ……」
 
 夕奈が後ろを振り向く。とうとう、夕奈の背のすぐ後ろに扉が迫った。
 
「壊していいよ。夕奈」
「違う、私は……!」
「そうすれば何もかも元通りになるから」
「違う! もう、なにも喋らないで!」
 
 ぎゅっと瞼を閉じた夕奈は遂に、右手に力を込めた。
 
 そうだ。いいぞ夕奈。
 そのまま今すぐ地面に叩きつけて——
 
 
 
 
 そう思ったのも、束の間。
 夕奈の背後の扉が軋む音を鳴らしながら開いたかと思えば、まさかの人物が顔を出した。
 
「いや、流石に遅すぎます。これ以上は待てないんで。強行します」
 
 そう言って現れた新妻(にいつま)さんは軽々と夕奈の手から携帯を奪い取ると、もう一方の手に握っていた拳銃を、僕へと向けてきた。