「片桐さん。僕と取り引きしませんか」
「取り引き?」
 
 怪訝な片桐に口を挟まれる前にと、僕は一気に捲し立てる。
 
「司法取引ですよ。暗証番号を教える代わりに、僕の罪を無かったことにして欲しいんです。帳簿に記録されていない、叶韻蝶会(きょういんちょうかい)を経由して脱税に関わった人間や団体の名も全て教えます。なんなら父を逮捕してもらっても構いません。僕はなにも知らなかった、そういうことにして貰えればそれでいいんです。それに今さら浅倉くんの死刑判決は間違いだった、なんて警察は公表できるんですか? 冤罪ですよ。叩かれますよ。それならいっそ、このまま浅倉くんには罪を被って死んでもらうのが一番いいと思うんです。木村礼人を轢き殺したのも、あなたの妹を殺したのも、全ては浅倉潤の犯行。それでいいじゃないですか。そもそも浅倉くんだって全くのシロって訳じゃないんです。さっさと死刑を執行して、辻褄なんて後からいくらでも」
「相変わらず最低ね」
 
 ふと漏れた声に、僕は視線を移動させる。
 声は一列目のポニーテールの女ものだった。
 
「その自尊心を保つためのエネルギー、どこから湧いてくるの? 司法取引? 馬鹿じゃないの外国じゃあるまいし」
「日本でも平成三十年に司法取引は認められている。馬鹿はどっちだよ」
「ペラッペラの知識だけで語る癖も変わらないのね。あんたの阿保(づら)、最後に拝めて良かった。片桐さんに感謝しなくてはね」
 
 僕はじっとポニーテールの女を眺める。
 
「へえ。本当にわからないって顔してる。髪を黒く染めて、少し体重が増えただけで案外わからないものなんだ。わざわざ一番前に座ってあげていたのに」
 
 僕はことの奇妙さに身震いして一歩下がった。ついさっきまで能面にしか見えていなかったポニーテールの女の顔が、記憶と共にその輪郭をはっきりと持ちはじめる。頭の中で髪を茶色にし、頬の肉を削ぎ落とせば、その目と鼻と口は間違いなく——木村有里乃(きむらゆりの)顔貌(がんぼう)だった。
 
「やっと分かった? この人殺し。あんたみたいなクズがなんの罰も受けずにこの十年、のうのうと暮らしていたかと思うと真剣に腹が立つ。本当ならあんたは捕まって裁判になって、地獄に落ちるさまを傍聴席で見届けられるはずだった。それがいくら訴えても、どんなに声を上げようと、警察も世間も私の話なんて全く取り合ってはくれなかったわ。ここにいる片桐さんと、宗胤(しゅういん)さん以外はね」
 
 僕は木村有里乃の隣の少女を見る。その視線に気づいたのか、少女はぐっと唇を噛み締めながら顔を上げた。
 その瞬間、僕の脳裏で過去がフラッシュバックする。衝突する瞬間、フロントガラス越しにこちらを振り向く木村礼人の驚愕の表情が、少女の顔と重なった。
 
「この子は主人の忘れ形見よ。この子が居たから、私は生きることを諦めなかった。主人が死んだのは私のせい、前田清玄というクズと関わった私のせいだと自分を責め続け、娘にも主人の両親にも、全てを打ち明けることができずに今日まできてしまった。苦しかった。自分が憎くて堪らなかった」
 
 木村有里乃は淡々としていた。脅せば金を出し、周りの目を気にしておどおど喋る当時の彼女とは、顔貌は同じでも別人のように思えた。
 
「ずっと復讐を夢見ていた。いつかこの手であんたを葬ってやる、そう思い続けて生きてきたわ。でもね、考え直したの。私が罪を犯したら、今度は娘が私のようになってしまうかもしれない。大事な娘の人生に自分の復讐の火を繋ぐことは愚かだと、そう宗胤さんに言われて……だから、私は片桐さんと宗胤さんに協力する道を選んだ。過去の過ちに囚われるのではなく、未来に繋ぐべき命を救う道を選んだの。そしてこのことは、娘にも知る権利がある」
 
 木村有里乃は立ち上がる。そうして僕に向かって、強く言葉を放った。
 
「認めなさい、前田清玄。全ての罪を受け入れて、今この場にいる全員に心から頭を下げるのよ」