幹部室に取り残されたままの新妻(にいつま)さんはきっと退屈しているに違いない。すぐに連絡して、今日は帰ってもらうように伝えたいところだ。それから父さんの知り合いに片桐修哉(かたぎりしゅうや)を調べてもらう必要だってある。
 スマホさえ操作できれば、こんな状況どうとでもなるというのに。この空間の圧が強すぎて、僕はポケットに右手を移動させることすらできずにいた。
 
 四代目鳳蝶(アゲハ)さまに黒函莉里(くろはこりり)を立てたのはこの僕だ。莉里さんが鳳蝶さまとして権力を手にすれば叶韻蝶会(きょういんちょうかい)での僕の立場も安泰、そう思った。
 このことを三代目鳳蝶さまは知らない。随分前に見舞いに行ったが、三代目鳳蝶さまはもう生きるか死ぬかの瀬戸際で、意識も定まらず何度も死の淵を彷徨っている様子だった。
 死を待つなんて言うと聞こえは悪いが、いくら叶韻蝶会(きょういんちょうかい)が廃れたとはいえ、未だ顧客のいる鳳蝶さまの占いを僕は絶えず提供する義務がある。ひいては財界や政界とのパイプが途切れ、ようやく教授まで漕ぎ着けた父さんの立場だって危うくなるかもしれない。
 ことと次第によっては早急に、四代目鳳蝶さまの代人を見つけ出さなければならない状況だ。
 
「おい、前田」
 
 不意に名前を呼ばれて僕は思わずたじろぐ。腕の時計を一瞥した片桐は、僕に目を合わせて口を開いた。
 
「どうだ、これが真実だ。六年前のあの日、妹を焼肉店から運び出した浅倉潤はその身体に灯油を撒いて火を放っていた。損傷は激しく、一目で判断できたのは右手の欠損だけ。加えて焼肉店の網に置かれた右手が発見されたことにより、その後鑑識に回されてDNA鑑定されたのは、より情報が読み取れるだろうと判断されたその右手のみ(・・・・)だった。俺は当然、燃やされた妹の身体の方もちゃんと調べるようにと訴えたよ。だが上から圧力が掛かった。結果、死んだ人間は妹ではなく黒函莉里、そういう結論に至ったんだ。ふざけたことにな」
「僕は何も知らない。あの日、僕にはれっきとしたアリバイが」
「知ってるよ。さっき本人から聞いたから」
 
 ……本人?
 
「言っておくが、俺は妹の事件を今更蒸し返したいわけじゃない。妹のことはやるせなかった。だが反面、自業自得であることも否めない。あんた以外にも理不尽に脅されて金銭を搾取された民間人は多少なり確認できているからな」
「じゃあ、一体なんのために」
「過去は無かったことにはならないんだよ、前田。たとえお前が忘れても必ず誰かが覚えている。どんなに巧妙に隠していてもいずれ化けの皮が剥がれるんだ。特に、お前のように他を顧みない奴の行いはな」
 
 その時。耳元のイヤホンに気を取られた片桐は一瞬、表情を歪めさせた。
 
「ついさっき、あんたの自宅に捜査員が入った。そしてたった今目当てのものが見つかったそうだ。あとは解析班に回すだけ。中身が明らかになれば、この叶韻蝶会(きょういんちょうかい)諸共多くの人間が脱税の罪で逮捕される。これで礼状が取れるよ。一体どれくらいの大物が釣れるんだろうな。もちろん、あんたの親父も含めて」
 
 ……まずい。おそらく片桐の目的は叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の裏帳簿だ。それが見つかれば、これまで不正に受け取った金の流れや申告していない占いの謝礼が明らかになる。
 片桐の狙いは家宅捜索だった。おそらく夕奈が家を出て行ったことにもこいつが絡んでいて、捜索の許可が降りたのは浅倉くんがリアルタイムで事実を暴露しているから。
 彼の映像も、叶韻蝶会(きょういんちょうかい)を再結成しようと莉里さんが言い出したことも、全ては自宅から人を追い出して裏帳簿を探すため——いや、待て。

 おかしい。あの数字がそう簡単に解析されるはずがない。それに奴はさっき、“あとは解析班に回すだけ”そう口にしていた。その言葉がもし、寝室のクローゼットにある金庫の暗証番号を解析するという意味なら、帳簿の中身はまだ確認されていないのでは?
 
「時間だ。黒函莉里(くろはこりり)、死体損壊罪で逮捕する。あんたは自分自身を死んだことにして、これまで一体なにをしてきたのか。過去の余罪も含め、話は署でじっくり聞かせてもらうぞ」
 
 左右の通路を塞いでいた男たちが莉里さんに近づいていく。莉里さんはそれを受け入れるように一歩前に出ると、両側を挟まれゆっくりと連行されて行った。
 
「さようなら。前田清玄」
 
 最後に呟く。元より彼女はこのつもりだった。最初から、叶韻蝶会(きょういんちょうかい)を再建する気なんてなかったんだ。
 
 僕は、どうする。
 このまま逮捕されるしか道はないのか。
 いや、まだだ。まだあるはずだ。
 僕は選ばれた人間。
 ——要らないものは、切り捨てればいい。