いよいよ、と扉を開ける。そうして空間に身を投じれば、僕は一瞬にしてアンニュイな記憶に引っ張られた。
 数日前に清掃業者を入れて一通りは内装を保てたものの、資金不足で原状回復までには残念ながら至らず。だが、懐かしのレッドカーペットは健在だ。
 僕は数歩進むと、扇風機のように首を動かして目の前をざっと眺める。左から医務室、幹部室、食堂、拝堂、寮。(ふだ)の文字が風化して剥げた五つの扉に目を細めると、最後に空間を見上げた。
 部屋の中心を(つんざ)くように聳え立つ螺旋階段。そのグルグルの先を辿(たど)るようにして視界にとらえた鳳蝶(アゲハ)さまの部屋に、反射で嗅覚が刺激される。あの咳き込むような甘い香りは、もう跡形もないというのに。
 
「……あの。前田さん聞いてます?」
「え?」
「大丈夫ですか、なんだかぼうっとして。それにやっぱり廃墟にしか見えないんですけど、ここ」
「あ、ごめんごめん。大丈夫だよ。説明会は二十分程度で終わる予定だし、そのあと新妻さんを一番に占うように話を通しておくから。すぐに戻る」
「あ、いや。そういうことを言っているんじゃなくて」
 
 危ない危ない。僕としたことが少々浸り過ぎてしまった。とりあえず今は、疑心の拭いきれていない新妻さんをなんとかしてその気にさせるのが先決だ。彼女を取り込み、父親までうまく繋ぐことができれば、これからの活動費(・・・)が潤沢になる。今、四代目鳳蝶さまの機嫌を損ねてはまずいのだ。
 
「ほら、今のうちに考えておくといいよ。占いで相談したいこと」
「うーん。そうですね、どうしようかな」
「なんでもいいんだ。仕事のことでも、恋愛でも家族のことでも。あ、そうだ。この間飲みに行った時にちらっと言っていたやつ、あれを相談したら?」
「なんでしたっけそれ」
「なんか仕事で悔しい思いをしたって話。その時はお茶を濁されたけど、気に食わない奴なんかがいたら占い師に相談して縁を切ってもらうといいよ。まあ、多少のことなら僕に言ってくれてもなんとかできるとは思うけどね」
「……なるほど。それいいですね、相談してみようかな」
 
 明るい表情で前向きな変化を見せた新妻さんを肯定するべく、僕は頷く。そうして納得した新妻さんを幹部室に残して部屋を出ると、僕はコートを脱いで身支度を始めた。
 リュックからクリーニングしたてのカッターシャツを取り出して袖を通し、革製の紐に通された青いクリスタルのペンダントを首から下げる。そうしてひとつ深呼吸をしてから、僕は慕うべき祖を迎えに螺旋階段を上がっていった。
 
 そうだ。思い出してきた。僕は鳳蝶(アゲハ)さまの占いをダシにこうして少しずつ信用を勝ち取り、ただの占い好きな客を熱心な信者へと導いてそして、(ひざまず)かせてきた。数年前の僕にはそれが生き甲斐だったのだ。
 僕が現役として活動していた頃の鳳蝶さまは三代目で、歴代の鳳蝶さまと比べてもそのカリスマ性は紛れもなくトップ。三代目鳳蝶さまの占い及び予知は、一時(いっとき)数ヶ月待ちが発生する程に人気があった。その栄華を、僕は四代目鳳蝶さまと共に再び手にするチャンスを得たのだ。
 
 階段を上り切り、小さな架け橋を渡って。目の前の扉をノックすればすぐに扉が解鍵される。
 
「失礼します」
 
 僕は目をそばめた。固定概念ですっかり薄暗いものだと思い込んでいたその部屋の天井には、簡易的に取り付けられたLED照明が昼白色に点灯していた。壁に飾られていたはずの蝶の標本もごっそり処分されている。
 そして、その部屋の奥。見覚えのある高い背もたれの椅子に鎮座する女性は、僕が知っている華奢で妖艶な女性——では、なく。
 グラマラスなボディラインを強調する、袖の長いグリーンのチャイナドレスを見に纏った美女だった。
 美女は椅子から立ち上がると、手首辺りからラッパ状に広がる袖を胸前で合わせて拱手(きょうしゅ)のポーズをとる。フェイスベールがはらりと揺れた。
 
「遅かったですね、清玄(きよはる)。再起の手筈は全て整っています。そちらの準備はよろしくて?」
「仰せの通りに。幾人か金の成る木もご準備出来ておりますし、建物外に幹部の男を二人ほど待機させておりましたところ、鳳蝶(アゲハ)さまご所望の例の蛇男(・・)が勝手口から侵入する様子も確認出来た、とのことです」
「よろしい。大変素晴らしいですよ、清玄。いよいよですね」
「はい。こうして再び鳳蝶さまのお役に立てること、恐悦至極にございます」
 
 僕は鳳蝶さまと同じく拱手のポーズをとり頭を下げた。いよいよだ。終わってしまった、そう何度も自分に言い聞かせて諦めた夢の世界が、再び始まる。
 
 夕奈(ゆうな)のことは残念でならない。けど、代わりならこれからいくらでも作れるだろう。まあ、今のところは新妻杏奈(にいつまあんな)が最有力候補だ。いらなくなった夕奈(人形)は、しかるべき方法で処理すれば良い話。とすれば、今は早急に——
 
 浅倉潤のような生贄を、探さねば。