浅草駅から約二十分。叶韻蝶会(きょういんちょうかい)へと到着してタクシーを降りる時、運転手はなぜだか不機嫌そうに僕から現金を受け取った。
 なんだかモヤっとする。別に距離は短くないし……あ、なんだ。僕と新妻さんの会話を聴いて嫉妬したのか? 金を貰って客を目的地まで届けるのが仕事なら、客のプライベートは聞かぬふりをするのが大人のマナーなのに。
 
「あれ。どうかしました?」
 
 納得のいかない顔をする僕を新妻さんが気にしてきたので、僕は慌てて笑顔を作り去っていくタクシーを見送った。
 仕方がない、僕が大人になろう。
 夕奈(ゆうな)の件然り、最近は僕が色んなことに目を瞑ってあげているからこそうまくいく場面が多くなってきた。大体、夕奈は専業主婦なのに要領が悪すぎる。離乳食だって本当は五、六品作ってほしいところを三品ぐらいだし、僕がその離乳食の写真をSNSに載せたいことを知っているはずなのに、写真を撮る前に汐紘(きよひろ)に食べさせるし。
 この間は職場でも、レジュメが見にくいと手直ししたら睨まれた。その人は僕より歳や年次は上だけど、役職で言ったら僕の方が上だ。
 
「……本当、IQの異なる人種と関わるのって疲れるよね」
「え?」
「ほら、IQの低い人と会話するには、こっちが相手のレベルまで下がってあげないといけないじゃん? 無駄な嫉妬とか、怠惰で傲慢なそぶりとか、こっちがかなり目を瞑っていても相手はそれを理解できないっていうか」
「あー、分かります。最近は特にそれを感じますね」
「新妻さんも? やっぱり皺寄せって僕たちみたいな優秀な人間に回ってくるんだよね。本当、なんかあったらなんでも相談しなね」
 
 そう新妻さんをフォローしつつ、僕は腕時計を確認して焦った。時刻は十四時四十五分だ。
 
「あ、やば。会合まであと十五分しかない。えっと、どうしようかな」
「会合? あれ、そんなのあるって言ってましたっけ?」
「えっと、違う違う。会合っていうか説明会みたいな。結構人が集まるからさ、念の為ルールとか……ほら、今回新妻さんは僕の紹介で特別に無料だけど、普段はお金もかかるビジネスだから、その説明をさ」
「なるほど。その説明、私も聞いたほうがいいです?」
「ううん、新妻さんは大丈夫。先に幹部室に案内するから、そこで少し待ってて」
 
 僕が(おもむろ)に歩き出すと、新妻さんはその行方を目で追った。正面玄関に鍵を刺せば扉は既に解錠済みだったようで、回さずともすんなり開く。鳳蝶(アゲハ)さまが先に到着していたようだ。
 
「新妻さんこっち」
 
 振り返ると、新妻さんはまだ道路に突っ立っている。叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の文字が風化した看板に目を向けてから、建物の外観をまじまじと見上げていた。

「あ、ごめんね。汚いよね。イベント開くのがちょっと久しぶりになっちゃってて。でもこんなのすぐ綺麗になるよ、いい清掃業者を知ってるから」
「いやでも……なんていうか、清掃だけでなんとかなるレベルですかね、これ」
「大丈夫大丈夫。なんだかんだ、こういう方が雰囲気あるって意見もあったりするから」
 
 まあ、そんな意見はないけど。なんでもそれっぽくカバーすれば問題ないのだ。