都会の人は車に乗らないなんてよく言うけれど、かく()うわたしも免許は持っていない。だって管理が面倒でしょ? メンテナンス費や維持費だって掛かるし、それならタクシーを呼んで移動したほうがよっぽど効率的だ。金さえ払えばあとは座っているだけで良いのだし、そのシステムもなかなかに好ましい。
 まあ、わたしも一度は免許を取得しようかという気にもなった。だけどルールが多くて、そんなものに意味があるのかなって。だって、勉強した内容を一言一句頭に入れて運転している人なんているはずないでしょう。だから事故もなくならない。それなら最初から自分は運転席には座らずに、人に運転させるほうが良いかなって。
 
 車窓に流れる景色を一瞥してから、わたしは隣に座る女性へと視線を移した。
 
「漁夫の利って言葉。わたし、あの言葉好きなんだよね」
「……はい?」
「見知らぬ誰かが車の運転で事故を起こしているかもしれない今、わたしたちはこうして優雅にタクシーで移動できている。ね?」
「はあ。っていうかそれ、なんか使い方違うような」
「ん? なにが?」
「あ、いえ。なんでも。それより前田さん、自分のことわたしって言ってましたっけ? 普段は僕呼びでしたよね?」
「ああ、それね。TPOに合わせて使い分けているんだよ。このあとの仕事では“わたし”で話さなきゃならないからさ。あ、それともなに。僕っていったほうがきみに対して親しみが出るとか、そういうこと?」
 
 僕の質問に対して隣の女性、新妻杏奈(にいつまあんな)は軽く微笑んだ。その顔がたまらなく可愛い。
 
「じゃあ、新妻さんがいる今だけは僕にしようかな。なんだか照れるけど」
「そんなこと言って、奥さんの前でも僕って言っているくせに」
「そりゃあ、まあ。でも最近は全然、会話もないよ。彼女、子供の世話もそこそこに一日中家でダラダラしているだけでさ。この前も食べた食器はそのままで、息子が泣いているのに抱っこもしないんだよ。仕事から帰って疲れていたけど、仕方がないから僕が洗い物して、夜中(よるじゅう)ミルクやらオムツやら息子の対応したからもうヘトヘト」
「へえ。前田さんて家事に協力的なんですね。意外。ハウスキーパーでもなんでも外注すればいいじゃんって、そんなイメージでした」
「ああ、確かにね。それもあるかな。でも、結婚前から僕が色々やってあげていたから、ちょっと甘やかし過ぎたかなっていうのもあって。人間、努力はしなくちゃさ」
 
 僕は脳裏に夕奈(ゆうな)を浮かべる。
 結婚前にはハリのあった肌も今じゃ乾燥気味になり、髪もパサパサ。化粧は身だしなみだっていうのに時々サボるし、服も外出時にしか着替えない。出産を経てプロポーションが崩れるのは多少仕方がないにしても、もう少し痩せてほしいところだ。
 
 比べて、今隣に座っている彼女は完璧。
 ゆるふわに巻かれた栗色の髪からほのかに香るシャンプー。化粧は薄いが、目鼻立ちがくっきりしているからとても明るい印象だし、何より肌が綺麗。身体も華奢で、あまり服のバリエーションはないけれど、自分に似合う形や色をよく理解している。
 そんな彼女の今日のコーディネートは、黒のタートルネックに焦茶色のロングスカートが大人っぽく、薄いグレーのコートがよく似合っていた。

 彼女、新妻杏奈(にいつまあんな)さんは僕が勤める病院に先月からインターンで来ている看護学生だった。若干二十歳にして仕事覚えもよく、愛想も良く、それでいて両親は大手医療機器メーカーの役員だとか。
 
「大変なんですね、結婚って」
「まあね。新妻さんもすればわかるよ。誰かいい人とかいないの?」
「私ですか? いませんいません。っていうか彼氏が居たら仕事終わりに飲みにも行かないし、こうしてオフの日使ってまで前田さんに付き合ってませんよ」
 
 お。これは好感触かも。つまり新妻さんにとって僕は、オフの日を潰してでも付き合うだけの価値がある、ということだ。
 
「なんかごめんね。新妻さんが占い好きって小耳に挟んで、つい紹介したくなっちゃって。今向かっている場所、僕が経営に携わってる叶韻蝶会(きょういんちょうかい)って所なんだけどさ。あ、全然怪しいやつとかじゃなくて。ほら、僕が口をきけば初回は無料で占いできるし、なんならそのあとご家族とかに紹介してもらっても全然構わないっていうか」
「え、経営に携わってるんですか? 凄いなあ。病院でも役職は事務長だし、人望が厚いですよね、前田さんて。お父様もこの春で教授になるって噂だし」
「まあね。でも噂はあくまで噂だよ。あ、そうそう。今から行く叶韻蝶会(きょういんちょうかい)、ご家族以外には他言無用で頼むね。なまじ大物政治家や有権者も関わっている組織だから、一見さんお断りなんだ。変な噂が立って経営が立ち行かなくなったら困るからさ」
「わかりました。内緒ですね」
 
 そういうと、新妻さんは人差し指を立てて口元に持っていく。その仕草すら、可愛くてたまらない。