「もうひとつ」
「え……」
 
 片桐の言葉に頬が引き攣る。
 これ以上まだ、なにかあるのか。
 
「当時、この事件について各メディアは一斉に速報を流した。だがすぐに情報には緘口令(かんこうれい)が敷かれ、世間には被害者の名前は明かされても、加害者の実名は報道されなかったんだ。世間がこの事件の詳細を知るのは、浅倉潤が殺人犯として死刑判決を言い渡された時。奴が不気味に笑う顔写真は、“猟奇的殺人者”や“サイコパス”なんて書かれて瞬く間にSNS上に拡散された」
 
 ……薄らとだけど覚えている。片桐のスマホの画面上でいまだ語り続けている浅倉潤。彼のことを、私も過去に断罪した。
 画面の向こうの遠い世界の話だからと、キモいだの怖いだのと友人たちと弄んで、その顔写真をSNSに拡散した。
 
「これがどういう意味だかわかるか」
「う、うん。私たちは無実の人を晒しあげてしまったってことだよね。情報を確かめる事もせず、指先ひとつで」
 
 片桐は若干眉を上げる。
 
「……ああ、そういう考え方もまあ、間違っちゃいないが。今問題にしているのは、この事件において前田清玄が共犯として疑われた事実が丸々消えているということだ」
 
 私はハッとした。そうだ。清玄が事件に関わった事があるなんて、私ですら今の今まで知らなかった。アリバイ作りに利用までされたのに、どうして警察は私のところに事情を確かめに来なかったのだろう。

「どうして」
「理由はここだよ」
「ここ?」
叶韻蝶会(きょういんちょうかい)だ。鳳蝶(アゲハ)さんの占いのを頼りにする政治家や富裕層は数多くいた。そして前田清玄はそこの幹部。つまり、信者(・・)が裏から手を回して情報を遮断したんだ。そうして最終的に生贄として差し出されたのが浅倉潤。これで事件は全て解決した。表向きにはな」
 
 するとそのとき、片桐は耳に装着したイヤホンに手を添わせた。どうやら着信が入ったみたいだ。片桐は二、三会話すると、すぐに電話を切る。
 
「これからこの拝堂に人がやってくる」
「え、ここに!?」
「今日は叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の会合の日なんだ、随分久しぶりのな。さっきも建物の正面に男たちが来ていたろう。あれは信者だよ。間も無く、前田清玄もこの場に来る」
 
 私は反射で立ち上がった。震えている場合ではない。
 
「そ、そんなの急に言われても! 清玄に会って私、どんな顔すれば」
「会の最中、信者が鳳蝶(アゲハ)を直視することは御法度なんだ。皆この長椅子に座り、俯いて話を聴く。その特徴的なコートを脱いでマスクでも着けていれば、鳳蝶とともに壇上に上がるであろう前田清玄に顔がバレることはまずない」
「でも!」
「ここから先、作戦通りに事が運ぶかどうかは俺にかかっている。全てが台無しになれば俺も、いま浅倉潤と一緒にいる俺の同僚(・・)も首が飛ぶ」
「同僚ってあなた……本当に、何者?」
 
 片桐は私を一瞥するも、質問に対する返事は返ってこない。それから一歩ずつゆっくり私に近づくと、目の前まで来て右手を差し出した。
 
「見極めるんだ。今度こそ、自分のその目で。答えは全てを知ったその後に出せばいい」
 
 片桐の手にはビニール袋に梱包された一枚のマスクと、伊達眼鏡。
 
「どうする。今ならさっき入ってきた勝手口から帰ることもできる。決めるのはあんただ」
 
 私は片桐の顔を見上げた。
 
 ——そうだ、決めるのは私。
 今までの人生も、これからの人生も、全ては自分の選択の結果だ。
 今の私にとって一番大事なものは、汐紘。それは揺るがない。過去の自分に失望したり、見栄で目の前を霞ませている場合じゃないんだ。前田清玄という男に、私は向き合わなければならない。
 
「逃げない。ちゃんと見極める、今度こそ」
 
 片桐からマスクと伊達眼鏡を受け取ると、私はすぐにそれを装着する。そうして再び顔を上げれば、片桐の右手は未だ差し出したままだった。

「健闘を祈る」
「そ、そっちこそ」

 そうして片桐の手を握ると同時に、私はぎこちなく腕を振った。