思い出に(ふけ)りながらも案外冷静な自分がいた。人を好きになる基準を、私は最初から間違えていたんだ。
 
 “あんたは自分の価値を見誤った。だから愛も見極められなかった”
 
 片桐に言われたこの言葉が全てだ。高い食事をご馳走してもらえる自分には価値があると思っていた。欲しいものは買って貰ってこそ意味があるのだと信じて疑わなかった。
 自分からは決して何も与えやしないのに、相手の気持ちを搾取して、自分の都合の良いように相手に期待し、勝手に失望していただけ。
 
 私は腕を伸ばし、身につけていた薄いブルーのコートの袖をまじまじ眺める。
 このコートを自分で買った時の気持ちが、本物なんだ。思えば自分で稼いだバイト代で、自分を高めるアイテムを吟味し購入していた学生時代が、私の人生で一番充実していたような気もする。
 
 なにくそ、負けるものか、と。
 
 そして、汐紘(きよひろ)を授かったとき。私はそれまで鎧のように纏っていた虚勢や見栄のほとんどを捨て置いた。というより、纏い続けることは無理だった。嘘で塗り固めた鎧は小さな命を守ることにおいては全く役に立たない代物で、乳児がいてもエステや飲み会に出かけることのできる友人のSNSをみても、不思議と嫉妬を覚えることはなかった。そうしてだんだん、その友人たちとは疎遠になって……自分のコミュニティにいる大人は、清玄(きよはる)だけに。
 
 そうだ。清玄が変わったんじゃない、私が変わったんだ。汐紘のためならどんなことでもできる。汐紘の成長と健やかな笑顔に、ブランド品も高級寿司も焼肉も今は必要ない。
 だから癇に障った。子供を産んでも何も変わろうとしない清玄のことがどんどん嫌いになった。でも。
 今の清玄は、過去の私なんだ。
 
 私は気まずさで瞬きを繰り返した後、未だ呆れ顔でそっぽを向く片桐に話しかける。
 
「ごめんなさい。私、自分の話ばかり。話を戻すけど、清玄に連れて行ってもらったその焼肉店、その後はなかなか連れて行ってもらえなくて。汐紘を妊娠して入籍することになった一年くらい前に久しぶりに行ってみないかって提案したの。そしたら、もうやってないって」
「当然だな。殺人事件が起きた焼肉店、ましてその店の網で人体を焼いただなんて噂になったら、店を畳むより他ない」
「じ、人体!?」
「手首だよ。妹は前田清玄に首を絞められ窒息させられたあと、浅倉潤に手首を切断されてそれを店の網の上で焼かれた。店からの通報を受けて警察が駆けつけた時には既に浅倉潤は店から姿を消していて、残されていたのは網の上の手首だけ。殺害現場の男子トイレは血の海だったが、妹の遺体は浅倉潤と共にまるっと消えていたんだ」
 
 想像しただけでシンプルに吐きそうだった。生々しく手首の皮膚が焼ける様子が、想像である分グロさを増した状態で脳裏に映し出さる。私は口元を手で押さえつつ、ふと気づいたことがあり視線を上げた。
 
 
「え、清玄は? 清玄もその合コンにいたんじゃないの?」
「前田清玄は先に店を出たんだ。店の防犯カメラにもその様子は記録されている。裁判において、当初検察は店を予約した前田清玄と浅倉潤の共犯を訴えた。だが前田清玄は事件への関与を完全否定。加えて、店を立ち去る前田清玄が軽装であったために、検察は前田清玄が妹の殺害にかんでいる証拠を十分に提示できなかった」
「軽装だとなんなの?」
「妹の遺体が発見されたのは浅倉潤の住むアパート近くの空き地だった。赤坂の焼肉店から足立区柳原にあるそのアパートまでは車で約三十分。店から警察に通報があったのが十九時過ぎで、浅倉潤を追ってその空き地に警察が到着したのが十九時五十分だ。人気のない闇夜、空き地に立ち尽くす浅倉潤を発見した警察はその場で現行犯逮捕に踏み切る。そこに、前田清玄の姿はなかったんだ」
「それは、清玄は先に店を出たから」
「そうだ。さらに浅倉潤が妹の遺体を運んでいる間、前田清玄は赤坂から神楽坂に向かう電車に乗っていた。赤坂、乗り換えの大手町、そして神楽坂。その全ての駅構内の防犯カメラに前田清玄の姿があった。ご丁寧に誰だか確認できるよう顔を上に向けて、手ぶらでな。つまり前田清玄に妹を運ぶことは不可能。そうなると、確実に前田清玄が殺害を実行したという証拠がない限り、自首をした浅倉潤の発言が採用されるのは必至。証拠が偏り過ぎているからな」
「浅倉さんは、なんて?」
「全て自分がやったと。昔に父親を殺した犯罪歴を探られて、顔写真を撮られたからカッとなって首を絞めた。写真を消すために妹のスマホを踏み潰し、店の厨房から拝借したナイフで手首を切断。同じく厨房にあった黒いビニール袋に妹の遺体を入れて非常用エレベータで降り、乗ってきた車で自宅まで帰ったんだと」
 
 そのとき、私は途端に身震いした。頭の中を走馬灯のようなものが駆け巡り、エコーして歪んだ清玄の声が脳を揺らす。

 “乾杯——”

 私は慌てて鞄からスマホを取り出すと必死で操作した。その様子に、片桐が訊く。
 
「あんた、まだ前田清玄に連絡しようとしているのか」
「違う。思い出したの。六年、六年前」
 
 私は人差し指で画面をスクロールし続ける。次々に切り替わる写真の山から目当ての写真を見つけ出すとタップして拡大し、ぐりぐり眼球を動かしながら食い入るように画面を見つめた。
 
「なんだ。どうした」
「……ねえ、あなたの妹さんが亡くなった日って、六年前の何月何日?」
「五月二日だけど」
 
 それを聞いて、私は背中全面に鳥肌が立つのを感じた。唾を飲み、スマホを持つ手を震えさせながら片桐に向けて掲げる。
 
「私たちね、昔の写真をアプリ上で互いに共有しているの。スマホ本体のカメラロールじゃ、すぐに容量がいっぱいになっちゃうからって。そのなかに、まだ付き合う前の、誰にも言えない時期の写真なんかも保存したりしていて」
 
 私のスマホ画面を見る片桐の瞳孔は開いていた。
 
「二〇一七年、五月二日。この日ね、私、清玄と食事してる。神楽坂の、カウンターのお寿司屋さんで」
 
 写真は私と清玄のツーショット。艶やかな寿司が並ぶ寿司下駄を目の前にして、肩を寄せる二人。
 その清玄の左腕には、何かに引っ掻かれたような傷がはっきりと映っていた。