思わず乾いた笑いが漏れる。
 
「本当に出ないじゃん。やば。あの人何やってんの? マジで無理なんだけど」
「出ないんじゃない、出られないんだ。前田清玄は今、自滅への階段を上がっている真っ只中。あと二時間半で全てが終わる」
「っていうか、さっきから何? 残り二時間何分とか、きもいんだけど。全てが終わったらなんなの? 清玄が警察に逮捕でもされるわけ? 私、あなたとこんな不気味な場所であと二時間以上も過ごさなきゃならないなんて無理! 帰る。汐紘を迎えに行かなきゃ」
「そうか。さすが前田清玄の嫁、自分のことばかりだな」
 
 私は今度こそ片桐を睨みつけた。
 
「なんだ怒ったのか。自分勝手で傲慢な女、言葉の通りだろ? 考え方によっては前田清玄も気の毒だ、愛のない結婚しちまって。でもまあ、お互い様か。似た者同士だもんな、あんたら」
「本当ムカつく。ずっと喧嘩売ってきて何様なの?」
「俺は事実を言っているだけだ。今まで出会った男が十人だか二十人だか知らないが、そんな苦労いくら重ねたところであんたが捕まえられる男はせいぜい前田清玄止まりかそれ以下。百人と顔合わせしたって同じだろうよ」
 
 気がつけば私は立ち上がり、片桐の目の前までズンズン向かった勢いのまま、その頬を引っ叩いていた。
 手のひらにじんわり熱が広がると、ついでに鼻先と目頭も熱くなって。歯先がカタカタと鳴るのを必死に唇を結んで我慢すれば、ぼたぼたと美しくない涙が落ちる。
 
「うるさい……うるさい! 分相応じゃないって自分でも分かってるよ! でも仕方ないでしょ?! 物心ついた時から私の周りにあったのは美容やオシャレに敏感なコミュニティで、必死で話に食らいついていくしか友達でいる方法がなかった。もちろん両親のことは尊敬してる。でも、有り余る資金がある家庭と違ってうちは平凡な家族で、優雅に持ち物取っ替え引っ替えする友人とは無理しなきゃ肩を並べられなかった!」
 
 とめどなく流れる涙を拭くこともせず、震える唇を懸命に動かす。そんな自分を俯瞰して、妙に冷静なもう一人の自分がため息を吐いた。
 ああ。私ってどうしてこうなんだろう。でも、もうこうなったら止められない。

「そんな私が彼女たちを大逆転するのに方法は一つしかない! それが結婚! だから、雑誌見て化粧研究してバイトして、デパコスやブランド品に手をつけて、食事制限してトレーニングして、努力したの! それの何がいけないの? 平凡な人間は、裕福で優雅な生活に憧れてはいけないの? お金持ちと結婚したいって思うことがそんなに悪いわけ!?」
 
 座ったまま何も言わない片桐。私はその胸ぐらを掴んで、無理矢理に引っ張り立たせた。
 
「なんとか言いなさいよ」
「……コート」
「コート?」
「あんたが今着てるそのコート。自分で働いて買ったっていうそのコートはあんたの努力の証だ。金積めば買えるブランド品も結構だが、親やパートナーの金でポンポン与えられるものより、俺はそのコートの方がよっぽど価値あるものだとおもう」
「なに、急に話を変えないでよ」
「変えてない。別に金持ちと結婚しなくてもあんた、自分の欲しいものは努力して手に入れてきたんだろ? トレーニングだって、まあ動機はどうであれ継続して満足のいく結果を出せた。それなのに、なんで男や金にこだわるんだ。あんたはそのままで十分価値があることになんで気づかない?」
 
 力の緩まった私の手を、片桐はそっと自身から引き剥がす。
 
「あんたは自分の価値を見誤った。だから愛も見極められなかった。そうなりゃ当然、相手に不満も募る。でもそれは誰のせいでもない、あんたのせいだ。仮にも現在パートナーである前田清玄が殺人犯だと聞かされて、動悸や経緯も気にならず、更に心配するのがパートナーでなく自分とその息子の将来だけの時点でもう、関係は詰んでる」

 言葉が出なかった。胸の内に留まった膿のようなものがどろっと流れて、私は胸のつかえが取れたと同時に、自分自身に失望する。




「……私、清玄のこと愛してなかったんだ」
 
 そう呟くと、不思議と胸のざわめきが落ちついて涙も止まった。皮肉だ。
 
「今更だな。まあなんでもいいけど。っていうかあんた、小柄な割に力が強いな。口ん中切れた」
「え! 嘘、ごめん」
「いや。俺も言葉が強かったから。どうもダメなんだ。この手の口論で、よく妹にも叱られたよ。だから兄貴には恋人ができないんだって」
「へえ。妹さんがいるの」
「ああ、いたよ」
 
 空気が、ざらつく。
 
「腹違いの妹。お袋が死んで、親父が再婚した相手に娘がいたんだ。妹も今のあんたみたく口が悪くて。俺によく突っかかってきてた」
「なんか一言余計なんだけど」
 
 ふっ、と目を細めて片桐が笑った。
 薄い唇に、高い鼻筋。一五〇センチそこそこの私から見て二〇センチ以上は高い片桐を見上げながら、迂闊にも考える。
 その首筋に刺青さえなければ。歳がもう少し近かったら、今の私は片桐をどんなふうに見ただろう、と。
 
「なんだ、ぼうっとして。泣き疲れたか」
「え、は? いや、子供扱いやめてよ」
「俺から見たら子供だよ」
 
 私が叩いた頬を気にしながら、片桐は再び長椅子に腰を下ろした。それを見て、私もなんとなく元いた場所に座り直す。
 横目で片桐の様子を伺いつつ、私は遠慮がちに言葉を続けた。
 
「ねえ。その妹さんとは、さすがに今は仲がいいんでしょ?」
 
 数秒の沈黙。やはり、聞いてはいけなかった? でも先に妹の話題を出してきたのは片桐だ。あんな気になる言い回しをされたら、モヤモヤが残って仕方がない。だけど。
 
「ごめん。言いたくなかったら別に」
「殺された。六年前、前田清玄(まえだきよはる)に」
 
 私は唾を飲み込む。
 分かっていた。予測はしていた。それでもやっぱり、どうしても冷静さを欠いてしまう。
 
「ごめん」
「なんで謝るんだ」
「だって」
「言ったろ、あんたは被害者だ。妹も俺も、みんなあの男の被害者なんだ。だから謝るな。むしろあんたを巻き込んだのは俺だ」
 
 片桐は前方の壁、鳳蝶(アゲハ)さまとやらの肖像画に目を向けた。
 
「……聞きたきゃ喋る。約束だからな。だけど人が死ぬ話だし、別に聞きたくないっていうなら無理には」
「聞く。あなたと妹さんのこと」
 
 私が即答すれば、片桐は一瞬眉を上げて私を一瞥した。それから再び肖像画に向き直ると、まるで懺悔でも始めるようにゆっくりと語り始める。