「ちょ、ちょっと待ってよ。まさか。流石にそれは」
「信用できないか?」
「そうじゃなくて。清玄の性格は確かに捻くれているとは思う。でも清玄は自分の人生に不利益になるような、まして殺人なんて悪手は絶対に選ばない。彼は何よりも自分が可愛いの。それに、非力な清玄に人を殺すことなんて……私にも暴力だけは振るったことない」
「そうだな。あの男は何よりも自分が可愛い、それには俺も同意見だよ。だから他人を利用した。自分に都合の良い男を見繕い、その狡猾な舌先で丸め込んで、全ての罪をそいつになすり付けた」
 
 私は片桐の話をうまく飲み込めなかった。
 いくらなんでも無理やり過ぎる、清玄が殺人犯だなんて。それに、仮に清玄が殺人を犯していたとしても、その罪を被ってくれる都合の良い人間なんてものがどこにいるというのか。
 
「罪を被ってくれる奴なんかいるはずない、あんた今そう思ったろ? それが存在するんだよ。前田清玄が犯した二つの殺人の罪を被り、裁判になって死刑を宣告されても尚、満足する人間ってのが」
「死刑って……」
 
 寝耳に滝のような水を浴びせられた思いのまま、今度は私が片桐をじっと見つめる。
 片桐は左腕の時計を確認してから更に続けた。
 
「そもそもあんた、前田清玄が殺人罪で起訴されたことがあるの知らなかっただろう」
「それは清玄に前科があるってこと?」
「いや、前科はない。検察が起訴して裁判にはなったが、後からその罪被り野郎が名乗り出たことで前田清玄は逆転無罪になったんだ。検察は間違いなく前田清玄の犯行だと踏んでいただけに世間からの風当たりは酷く、逆に訴えられる羽目になったりとかなりの苦汁を飲まされた。まあ、事実は前田清玄が犯人で間違いんだがな」
「そんな無茶苦茶な。清玄が犯人だって証拠があるのに、別の犯人が名乗り出ただけでそれがひっくり返るものなの? 最初からその名乗り出た人が犯人だったとか……じゃ、ないんですか。あ、ごめんなさい私、敬語」
 
 私は無意識に冷たくなった手先を擦り合わせた。頭の中がめちゃくちゃで、それでも冷静さを装おうと、どうでも良い言葉が口をつく。血の気が引き、信じられない気持ちと恐ろしい気持ちとがせめぎ合って、
 ——呼吸が、苦しく感じた。そんな私をみて、片桐はバツが悪そうにおでこを掻く。
 
「別に、もういい。それより悪かった、少し一気に喋りすぎたな。でも、隠し事はしないと約束したから。これ以上聞きたくなければもうこの話はしない。ただ、ここまで聞いたからには残り二時間四十分、あんたを家に帰すわけにもいかないんだ。わかるよな」
 
 残り、二時間四十分?
 妙な言葉と共に片桐が立ち上がったので、私は少し身構えた。でもそんな私をよそに、片桐は自分の座っていた場所から少し離れたところの長椅子の埃を適当にはらう。
 
「とりあえず座って。何か飲む物でも持ってくるから」
「要らない」
 
 浅くなる呼吸をなんとか整えながら、私は片桐の提案を食い気味に否定した。
 
「清玄は最低な男よ。でも、殺人犯だなんて私は信じない。ありえない……そんなことが世間に知れたら、私と汐紘(きよひろ)の将来はどうなるの? 大体、あなた何者? 私にこの場所に来るよう封筒を持って来た女はだれ?」
「全部説明するって。だから落ち着けよ」
「無理! もうとっくにキャパオーバーなの! 悪いけど私、今すぐ清玄に連絡して真実を確かめる。あなたの言っていることが本当なのかどうか」
「勝手にしろよ。でも多分、今電話しても前田清玄は電話には出ない」
「馬鹿にしないでよ!」
 
 私が鞄からスマホを取り出せば、片桐は即座に立ち上がって私の右手を掴んだ。
 
「離して!」
 
 力なく振り払ったのに、片桐の手は私の手首からあっけなく離れた。どうせ呆れているんだろう。その顔を睨みつけるべく、私は目一杯力を込めて視線を上げる。
 だが私の意に反して、片桐の表情は悲しげだった。
 
「馬鹿になんてしていない。生き方も否定しない。あんたにとって結婚は、その人生の全てを捧げるほどに最重要事項だったんだろう。それが失敗(・・)した。ショックは当然だ」
「……は?」
「要は騙されたんだ。罪を犯したのは前田清玄であってあんたじゃない。あんたは被害者、気に病むことはないと言っている」
 
 ——こいつ、なんなの?
 
「失敗? 失敗じゃ済まされない! 清玄が殺人犯だなんてこと、事実だろうが事実じゃなかろうが世間に知られたら一発で終わる! 有る事無い事SNS上で騒ぎ立てられて、清玄どころか私や汐紘の顔もネットに晒されて叩かれて……居場所が、なくなる。デジタルタトゥーは死ぬまで残る。そんなことになったら、まだ生まれて間もない汐紘の将来は潰れたも同然じゃない。両親にだって、なんて説明したら」
 
 考えれば考えるほどに頭に血が溜まって、クラクラして、目の前に虫だか埃だかがチカチカ点滅して景色が霞んだ。
 私はフラフラになりながら不覚にも、片桐が埃をはらった長椅子へと流れ着くようにして腰を下ろす。
 
 やっと清玄から離れる決断をして、これから越えなければならない壁がすでに山ほどあるというのに。こんなの、あんまりだ。
 私は項垂れた。左手で顔を押さえ、右手に持ったスマートフォンを無気力に操作し、電話帳に表示された清玄の名を力なくタップして耳に当てる。
 
『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない為かかりません——』