そうして更に三日が経った。実家での生活は想像以上に天国で、睡眠と食事で十分な休息が取れた私はもれなく体重が増えた。
 私が本格的に家を出て行ったのだと気づいても、清玄(きよはる)は帰って来いとは言わなかった。たぶん例の“二十歳の新人”が大いに関係しているのだろう。それでも今は、煩わしい連絡がないだけ(かえ)って好都合だと納得することにする。
 浮気の証拠はいずれ掴む。私と汐紘(きよひろ)がこれから生きていくのに必要な費用は当然支払ってもらう。今まで受けてきた容姿に対する侮辱やモラハラ、外面だけは良いパパを演じる狡猾性。それらを明らかにするためには、まだまだ準備が必要だ。
 離婚の武器は、多ければ多いほどいい。
 
「なんか、不気味……」
 
 目の前の家を見上げて思わず声が漏れた。スマホで時計を確認すれば、時刻は午後一時二十五分。私は鞄から封筒を取り出すと、すでに破られた封蝋印を開いて中身を取り出す。
 住所は合っていた。やはり指定された場所はここで間違いない。だが目的地であるその家は、見るからに廃墟のように思えた。
 変に角張った不思議な形状の壁は満遍(まんべん)なくひび割れ、苔が()し、扉には(つた)が這っている。閑静な住宅街の一角で、この家はかなり浮いている存在だった。辺りには人の気配もない。
 
 私は封筒を握り締めてため息を吐くと、指で眉間を揉みながら後悔する。タクシーを降りなければ良かった。清玄の秘密——見ず知らずの女のそんな言葉につられて、こんな所まで間抜けにもやって来てしまうなんて。
 浅草駅からここまでは約二十分。歩いて大通りに出たとしても、行きしにバス停などは見当たらなかったし、おそらくタクシーも捕まらない。
 
「どうしよう……」
「もしかして、白鳥夕奈さん?」
 
 肩が跳ねた。背後からの突然の声に反射で振り返れば、そこには白のカッターシャツを着た男性。パーマ掛かった長めの前髪が目元を隠し、浅黒い肌と突き出た喉仏が目につく。
 
「あなたは?」
鳳蝶(アゲハ)さんからあんたを案内をするよう言われていて。片桐(かたぎり)っていいます」
 
 片桐と名乗った男性は仏頂面で名刺を一枚差し出して来た。そこに書かれた青紫の妖艶な蝶と叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の文字をみて、私は薄気味悪い印象を覚える。
 
「ああ……いや、違うんです。私は何にも関係なくて」
「じゃあその封筒は? その紫の封蝋印が目印だって、そう鳳蝶さんに聞いてたけど」
「こ、これは拾ったんです。ついさっき、そこで。じゃあ、私は帰るんで」
 
 両手を前に突き出して片桐の胸に封筒を押し付け、私がそのまま一歩下がって踵を返そうとすると、片桐がふと呟いた。

「分かりますよ。あんたの気持ち」
「え?」
 
 片桐は辺りを見回し、相変わらず人の気配がないことを確認すると小声になる。
 
「あんたが俺を奇妙に思う気持ちです。俺も最初はそうだった。そしてそれは今も変わらない。俺が今この叶韻蝶会(きょういんちょうかい)に所属しているのには理由があるんですよ」
「それって……」
「この組織には秘密がある。あんたもそれが知りたくてここまで来たんだろう?」
「私はそんなつもりじゃ」
前田清玄(まえだきよはる)。彼はここの幹部ですよ」
 
 一瞬、思考が停止した。
 
「幹部って……私、彼の妻なんですよ? 仕事は確かに忙しいけど、休日出勤だって家を出る日も彼は確かに大学病院に行っていたし、それは何回かこっそり病院に電話して確認も取れてます。ちゃんと出勤してるって。こんな、宗教活動をしている素振りなんて」
「してるでしょ、ちゃんと」
「だから! 彼はちゃんと病院に」
「活動場所はその大学病院だよ。前田清玄とその父前田丈晴(まえだたけはる)准教授は、病院を故意にする政治家や富裕層相手にあることを通して不正に金を献金させてるんだ。そのお金は叶韻蝶会(きょういんちょうかい)の活動費用及び前田親子の懐を温めることに大いに貢献している。もしかしたら奥様が今お召しになられているそのコートだって、そうして不正に巻き上げたお金で買われたものかも」
「はあ? このコートは私が自分で働いて買ったもので」
 
 奥様だのお召しだの、わざとらしく強調して言ってくることに苛立って反論しようとした、その時。片桐は瞬時に私の左腕を引くと、廃墟の裏手に引きずり連れていく。その力強さと大きな手に圧倒されて片桐を見上げれば、彼の耳の裏から首筋にかけて湾曲した蛇の刺青(いれずみ)が這うように刻まれていることに気がついた。