両親は私を受け入れてくれたと同時に、いつかこんな日が来る気がしてた、と悲しげに笑った。離婚にも賛成してくれて、私が職を見つけるまではいくらでも実家にいたら良いとも言ってくれた。
 それだけでずいぶん肩の荷が降りた。なぜもっと早くこうする決断をしなかったのだろう……そんなことを思いながら両親、そしてバウンサーに座ってご機嫌な汐紘と居間で落ち着いていると、スマホの通知が鳴る。
 
「メッセージ、清玄(きよはる)くんから?」
「うん」
「なんだって?」
「こんな時間に出かけて何してるんだ、って。車もないから買い物も行けない、腹減ったから出前頼んだ、だって」
 
 そう言って私が母に見せたスマホ画面には、桶からわざわざ一貫だけを箸で持ち上げ、寿司をアップに写した画像が添付されている。
 
「うに、いくら、トロ。……え、は? なにこれ上? 特上?」
「いや、お母さん気にするとこそこじゃないから」
「じゃあどこを気にするのよ」
「量だよ量、明らかにこれ一人前じゃん。私や汐紘のご飯のことなんて何にも気にしてないってこと」
 
 私の言葉に母は唇をへの字に曲げて目を見開くと、信じられない、と続ける。同時に気を悪くしたのか、父は無言で席を立ってしまった。
 
「そもそも、私の私物とか汐紘の食器やなんやがなくなっているのも多分、気づいてない。出て行ったと思ってないんだよ。今までにも何度か、汐紘寝かしつけるために車でドライブする日もあったから」
「夕奈、清玄くんに何にも伝えて来てないの?」
「実家に帰ること? 言うわけないじゃん。言ってたらお義母(かあ)さんに家(トツ)されて、今ここに居ないわ」
「家トツ?」
「なんかあると清玄はすぐ向こうのお義母さんをうちに寄越すの。その度に片付いてない部屋とか汐紘の教育にちくちく嫌味言われて、それも結構しんどかった」
「なんで今まで黙っていたの? そういうことはもっと早くお母さんに言いなさい、こうしていつでも帰ってきてくれていいのに」
「……はあ!?」
 
 私の抗議の声に、母は再び口をへの字に曲げて目を見開く。
 
「お母さんが言ったんでしょ、嫁いだら向こうの家の人間も同然なんだから、よほどのことがない限りは帰ってくるなって!」
「そ、それは言葉のあやっていうか、なんか威厳よく言ってみたかったっていうか」
「なにそれ」
「とにかく! 今のこの状況はよほどのことなんだから、いいの、これはこれで! ねえー? 汐紘ー?」
 
 母は誤魔化すようにバウンサーから汐紘を抱き抱える。そうして暫くリズミカルに揺れていたと思えば、突然母は私へと視線を向けた。
 
「夕奈はね、頭硬すぎ。そういう真面目なところ本当お父さんそっくりよね、もっと肩の力抜かないと」
「そうは言うけど。私、働いてないし。養ってもらってるのは事実だし」
「なにそれ。学生時代からおしゃれして何万円もする化粧品やら靴やら買い漁って、やっと理想の人に出会えたって喜んでたあんたの未来って、これが最終形なわけ? こうなるのが理想だったの?」
「そんなことない!」
「だったら。言いくるめられちゃダメ。自分を卑下するなんてもってのほかよ。大体、お父さんだって絶対イラついてる。可愛い娘を傷つけられてるんだから。もしかしたら今頃、こっそり清玄くんをここに呼び付けてるかも」
「……え!?」
 
 私が焦って声を出したと同時、玄関のチャイムが無情にも鳴り響く。
 
「嘘、どうしよう私絶対帰らないよ!」
「いいんじゃないの? 今みたくそうやって強気に伝えれば」
「いや、そうなんだけど、心の準備が」
 
 私はそっと立ち上がった。唇を舐めて、ひとつ唾を飲み込んでから瞬きを繰り返す。そうして、居間から玄関に繋がる引き戸に手を掛けた。
 そうだ。強気に行け……私はもう、汐紘の前では泣かないって決めたんだから。
 
「私は帰らない。絶対に離婚する!」
 
 そう口に出しながら勢いよく戸を引いたつもりが、戸は反対側からの力により手応えなくピシャリと開いた。
 
「うわっっ!」
 
 戸の向こうには、父がたった一人無表情で立っていて。
 
「え、あれ? お父さん、清玄は?」
「なんだ。清玄くん呼んだのか」
「いや、呼んでないけど。お父さんが呼んだんじゃないかって」
「なんで俺がそんなことするんだ。そんなことよりほら、これ」
 
 父の手には、重ねられた寿司桶が三つ。
 
「食うぞ。特上だ」
「え、なんで?」
「……別に」
 
 父は私の横をすり抜けると、居間のテーブルに桶を並べる。その様子に母は拍手して喜びつつ、私に向かって小さく舌を出してきた。
 
 
 ——騙された。母に。
 私は悔しいやら嬉しいやらムカつくやらありがたいやら。なんだか、いよいよ悩んでいることさえ馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 
「……ねえ。お母さん」
「なに? ほら夕奈もこっち早く座りなさい。うに、貰っちゃうわよ」
「三日後の二月二十九日さ、木曜日なんだけど。汐紘、一日みてもらってもいいかな。予定があって」
「木曜日? うん、全然いいわよ。行ってらっしゃい」
 
 こんなにもあっさり、自分の時間は作れるものなのだと知った。