離婚を決めた翌日、清玄(きよはる)が大学病院へ出勤したのを確認すると私は荷造りを始めた。クローゼットに収められた服を見て、もうずっと袖を通していなかったことに気づく。家ではもっぱら、汚れても良いくたびれたトレーナーを二着、洗濯して乾いては物干しピンチから引っ張って着回す日々だった。
 久しぶりにコートを手に取る。薄いブルーの、腰回りの締まったドレスコート。結婚前に初任給でご褒美に買った思い出のコートだった。ちょっとキツい。それでも、そばにあった姿見に映る自分を眺めてなんだか嬉しくなった。自分を取り戻した気がした。
 
「……私だって、負けてないじゃん」
 
 自然と荷造りは捗った。なぜならこの家にあるものの九割は清玄の私物で、汐紘の服や離乳食用の食器、抱っこ紐やベビーカーを車に積んでしまえば、それだけでもうこの家に未練がなかった。
 清玄に買ってもらったバッグやアクセサリーも置いていく。思えばそれらは結婚前に買ってもらったものばかりで、結婚してからもらったプレゼントなんて思い出せなかった。
 
「いい子ね。もう少しでばあばの家だからね」
 
 チャイルドシートに寝そべる汐紘をバックミラー越しに確認しながら、私は車を走らせる。いつもなら耳を(つんざ)くほどの泣き声をあげてもおかしくないのに、今日はおもちゃを片手にご機嫌だ。
 いつだか助産師さんが言っていた。子供は親の心がわかってる。親がイライラしていたら不安になるし、親が悲しかったら悲しくなる、そういうものだと。だからお母さんが幸せなら子供も幸せなんだよ、と。
 少し、忘れてしまっていた。汐紘が生まれた時、私はこの世で一番幸せ者だと思った。それは今でも変わらないはずなのに。
 
「ごめんね。ママ、頑張るからね。これからはいっぱい笑うからね、汐紘」
 
 涙で視界が歪んではいけないと、私は心を奮い立たせる。泣いている暇なんてない。これから乗り越えなければならない壁がいくつもある。仕事を見つけて経済的に自立し、離婚の手続きや子育て支援申請。それになにより、両親への報告。これが一番億劫だ。
 朝から動きっぱなしだったが、思ったより疲れはない。なんだかんだでもう夕陽が沈んでしまう。
 
 
「おかえり夕奈。寒かったでしょ、早く入りなさい」
「あのさ、お母さん。私」
「いいから。話は後でゆっくり聞くから、お風呂入ってらっしゃい。汐紘見てるから」
 
 母は汐紘を私から受け取ると、荷物を手に奥へと行ってしまった。質問攻めに合うと思った私は拍子抜けで、そのまま風呂場へと向かう。
 服を脱いで、適当に籠に放った。普段はいつ洗面所に入ってくるかわからない清玄に気を遣って、脱いだ服も綺麗に畳んで置いておくのだが、今日はそれもしない。
 真新しいシャンプーとボディソープ。たぶん、今朝私が帰ると伝えて、慌てて用意してくれたものだと思う。普段は母も父も、石鹸で身体を洗うタイプだ。
 私はあえて石鹸を手に取った。身体を洗うタオルに擦り付けて、全然泡立たないまま腕を撫でているうちに、涙が溢れる。一気に鼻が詰まって、目の奥が熱くなって、しゃくりあげそうになるのを誤魔化すようにシャワーを出した。
 ああ、お風呂ってこんなに安心したっけ。最近は業務みたいに淡々と汐紘を入浴させるだけの時間になっていて、それもまた、反省した。
 疲れと一緒に胸の内のモヤモヤした感情が全部溶け出て、今ならちゃんと両親に自分の気持ちを伝えられる、そう思った。
 
「ありがとう……」
 
 汐紘の笑い声がする。きゃっきゃと嬉しそうに我が子をあやす、母と父の声がする。