本当は今にも泣き出したかった。こんなに必死な私をみて尚、正論をぶつけてこようとする人に、今の私の気持ちなんて理解できっこない。
 
「わかった。もういい」
「もういいってなに。僕にこれだけヘイト向けといて不貞腐れるとか、気分悪いんだけど」
「疲れたの。汐紘(きよひろ)も寝ているし、私もこのままリビングで眠るから。電気消してくれる」
「こんな汚い部屋でよく眠れるね」
「明日片付けるから。さっさと行ってよ」
「……感じ悪っ」
 
 電気を消すこともなく、バタンと強めに閉まる扉をみて、最後の最後まで自分本位な男なのだと思い知った。その扉の開閉に神経をすり減らして、我が子の為に無音を作り出す夫婦が世の中にどれほどいることか。
 私は汐紘へと顔を近づける。細い血管の浮き出た薄い瞼から伸びるまつ毛がくるんとカールして、鼻先はツンと尖ってて。もちもちなほっぺに固まる涙痕にそっと触れれば、富士山のような唇が一瞬、ムッと突き出た。
 
 離婚しよう。今、そう決めた。
 
 私はそっと立ち上がると、リビングの明かりを常夜灯に切り替えてからキッチンに向かう。冷蔵庫の扉を開けて、チルド室の最奥に忍ばせた一枚の茶封筒を取り出すと、そそくさ冷蔵庫を閉めた。
 冷たくなったその茶封筒には丁寧に紫の封蝋印(ふうろういん)が押してあって、宛名に“白鳥夕奈(しらとりゆうな)さま”と書いてある。白鳥とは、私が前田姓になる前の旧姓だった。
 
 “秘密を教えます”
 
 それは三日前、我が家を訪ねてきた女性が私に告げた言葉だった。
 十三時過ぎ、汐紘がやっと昼寝をしてくれたその直後だというのにインターホンを鳴らされ、最初は居留守を使おうと思った。でもふとモニターに映る女性の姿を確認した時、その胸に光る蝶のブローチが目に入って思わず玄関先へと出てしまったのだ。
 焦茶色のドレスコート。そのくびれが細すぎて、私は思わず見惚れてしまう。出産するまでは私だって彼女くらい痩せていたのに……そう嫉妬を覚えて、気づけば私は女性を凝視していた。
 
『あの。今、少しお時間ってございますか』
『すみません。今子供が昼寝したばかりなんです。あなたもしかして、主人の知り合いの方ですか』
『え?』
『やっぱり。その胸のブローチ、同じものが主人の鞄に入っているのを見たことがあるんです。訊いたら貰い物だって。なんなんですかあなた、これ見よがしに自分も同じものをつけてきて。主人のストーカーなら警察を呼びますよ』

 そう私が捲し立てれば、女性は慌てて帰ると思った。でも私の予想とは裏腹に、女性は何故だか悲しげに眉を下げる。
 
叶韻蝶会(きょういんちょうかい)のことは、ご存知ですか』
『はい? きょういん?』
『叶韻蝶会。私は昔、その小さな団体に所属していたことがあります。このブローチはその名残です』
『団体? それって、主人もその団体に入っているってことですか』
『今も所属しているかどうかはわかりません、私は随分前にそこを離れてしまったので。でもその昔、前田清玄(まえだきよはる)さんが叶韻蝶会に所属していたことは事実です』
 
 理解の追いつかない私に、女性は続ける。
 
『あなたのご主人には秘密がある。そしてその秘密は、あなたとあなたのお子様の将来を左右するとても重要なものです』
 
 そう言って、女性は例の封筒を私に差し出したのだ。
 
『なんですか、これ』
『招待状です。一週間後の二月二十九日、とある催し物があるのです。場所と時間は封筒の中に。来てくだされば、秘密を教えます』
『わけわかんない。そんなこと、急に言われても』
 
 その時、家の中から汐紘の泣く声がした。
 
『では、お待ちしていますよ』
『あ、ちょっと!』
 
 立ち去る女性の背中と、家の中の汐紘の様子を交互に気にしながら、私は仕方なく家の中へと戻ったのだった。