息子の割れるような叫び泣きで夢から覚めた私は、スマートフォンの明かりに目をそばめながら頭を掻きむしった。
 
 時刻は夜中二時。
 吐く息が震える。落ち窪んだ瞼の下にできた陰を揉みながら、鼻の奥がツンとする感覚を必死に堪えた。
 
 四十分。布団も敷かれていないリビングの床に横になってから、たったの四十分しか経っていない。その前は一時間。その前は三十分。ローソファに横たわる息子の壁になるように身を沿わせ、自身の腰の(だる)さに耐えながら息子のお腹や背中をさする。
 
 今日は寝かしつけフルコースだった。横抱き、縦抱き、抱っこ紐。チャイルドシートに乗せ、闇夜のドライブ。車中で眠りについた息子が起きないよう、そっとリビングのソファに寝かせたのが二十二時半。閉じる息子の瞼と一定間隔で上下する胸の膨らみを見極めながら、ありとあらゆる手で睡眠導入を試みた。
 
「ミルクをあげたら?」夫が言う。
「最後にミルクをあげてから、まだ一時間半しか経っていないの。次あげるには三時間以上間隔を空けないと」わたしが言えば、夫は呆れた顔をして自室に引っ込んでいく。
 
 未だ泣き止まない息子を抱きながら、夫の後頭部を見送ることにも、もう慣れた。
 抱っこ紐で五十分。車に乗せれば三十分。いくら赤子でも、起き続ける人間を腕の中で揺らし続けるのはせいぜい二十分が限界だった。
 
 私が座ると目を開ける。
 布団に降ろせば泣き叫ぶ。
 リスタートの寝かしつけが、また始まる。
 
 脳をつんざく悲痛な泣き声。唇が潤いをなくして青くなるまで息を詰まらせ泣く息子をソファに降ろし、見つめるだけの時間が数秒。
 ダンっ、と二階で勢いよく開かれた扉の開閉音と同時に、階段を降りる怒りの足音が私を責めにやって来た。
 
「子守り、変わるよ」
「いいよ。明日も仕事でしょう」
「だったら!」
 
 不貞腐れた私の態度に、夫は怪訝に眉を顰める。
 
「わかっているなら泣かせないように努力してくれないかな。今だって、ソファに置いて見ているだけ。それじゃあ泣き止まないに決まっているでしょ」
 
 赤ん坊を見つめたままギチギチに固まっていた眼球が、油を差したみたいにぬるっと滑った。あっちゃこっちゃと収まりどころを探す瞳は、呼吸をしなければならないことを私に思い出させてはくれない。
 
「そんなに眠らないなら、諦めて好きに遊ばせとけば良い。無理に寝かしつけようとするから嫌がるんじゃないの? 機嫌良く遊ばせて、体力の限界が来れば勝手に寝る。ミルクだって飲ませれば寝るのに、こだわって勝手なルール作って自分で自分の首を絞めているんでしょ」
 
 夫はダイニングテーブルに置かれた飲みかけのワイングラスを手に取って、ゆらゆら揺らしながら眉毛を上げた。
 
「部屋も汚い。食器も片付けられない。夕食のオードブルだって惣菜だ。昼間はいくらか子供と眠れるだろうに、料理もまともに作れない。もう少し要領良くできないのかなあ」
 
 夫が今手にしているワイングラスは当然、夫の飲みかけだ。オードブルだって私は口にしていない。精神力も体力もギリギリの状態で時が過ぎることだけを願い、帰宅する夫に合わせてお風呂を沸かして、靴をそろえて。
 ……私は、精一杯やっている。絶対に。
 
 ソファで泣く息子を目の前にしてしゃがみ込んでいた私の眼球が、遂に()を捉える。
 
「あーあ。なまじ子供が出来たとき、こうなるんじゃないかなって予感はしてたんだよ。まあ、僕が外食ばかり連れて行って甘やかしたのがいけないんだけどさ。それでも、もう汐紘(きよひろ)が生まれて半年経つんだ。それなのに」
 
 夫は顎を引き私の身体をじっとり眺める。
 
「夕奈まだ二十三だろ? もう少し痩せてくれないと。これじゃ、二人目作れないよ?」
 
 気づけば息子の汐紘(きよひろ)は頬に涙の跡を付けたまま、ソファで健やかに寝息を立てていた。