わたしは寺の事務所に女性を案内すると、布地でなるべく足触りの良さそうなスリッパを選別して女性の足元に差し出しました。奥に引っ込み、急ぎタオルとすっかり色落ちしてくたびれた毛布を手に事務所に戻れば、女性は自らの爪先を眺めて気まずそうに俯いたまま立ち尽くしています。
 
『お気になさらず使ってください。足が冷えていると、身体もなかなか温まりません。今お茶を淹れてきますから』
 
 女性はわたしが手渡したタオルで汚れを拭いスリッパに足を通すと、近くのパイプ椅子へと遠慮がちに腰を下ろしました。
 根元の黒くなった茶髪をひとつに縛ったその女性は、疲弊と絶望で満たされた目元を気怠そうに抑えながら背を丸めます。その姿は、まるで老婆のように萎れてしまっていました。
 
『お腹のお子様は、今何ヶ月なんでしょうか』
 
 淹れたお茶を差し出したあと、わたしは女性の対面の椅子に腰を落ち着けます。
 
『……もう臨月なんです。予定日は、来週で』
『そうですか。でしたら尚のこと、逆打ちはもうこれきりにしてください。お子様のためにもお願いします』
『そう、ですよね。お寺の近くで倒れられても、困っちゃいますもんね』
 
 この時、涙痕(るいこん)の顔で微笑み愛おしそうにお腹を撫でる女性を見てわたしは思いました。彼女は決して異常性を備えた人間などではなく、先ほどの取り乱しようは必然なのだと。
 
『失礼ですが、お名前とお歳を訊いても?』
『あ、はい。私、木村有里乃(きむらゆりの)といいます。歳は二十九です』
『木村さん。わたしの名は宗胤(しゅういん)です。この寺で僧を務めています。……あの。もし宜しければで結構なのですが、この宗胤にほんの少しだけ、お話を聞かせては貰えませんでしょうか』
 
 事務所の窓には大粒の雨が打ちつけていました。木村さんが驚いた顔をされたので、わたしは出来るだけ穏やかに、彼女の心を乱さぬようにゆっくり喋ることを心がけます。
 
『いいんですか?』
『外の雨が、落ち着くまでです』
『私の話なんて、誰もまともに聞いてくれないのに』
『説法をするばかりで人の話も聞けぬ僧など、本末転倒だとは思いませんか』
 
 わたしが笑えば、木村さんはようやく愛想を返してくださいました。
 
『……私と主人は一昨年の夏に結婚して、そのタイミングで私は四国から主人の地元のこの場所に引っ越してきました。知り合いも誰もいない環境で暮らす不安はあったけど、この教琳寺院(きょうりんじいん)のご住職が元は四国の方だと知って、なんとなく親近感を持つことができたんです。去年の春に妊娠が分かると、不安なことがある度にここで鈴を鳴らして……随分とお世話になりました』
 
 わたしは木村さんの邪魔にならぬよう、それでいて話もちゃんと聞いている意思を伝えるように相槌を打ちます。
 
『主人——礼人(れいと)は、私の一つ歳下で幼馴染でした。彼の家は代々医者の家系で、彼が医大を卒業すると同時に私たちは結婚を叶えます。実のところ、わたしの両親も医療関係者で……学生時代から親公認で付き合っていたんです』
 
 純愛ですね、とわたしが言えば、木村さんはその言葉を待っていたかのように表情を綻ばせました。
 
『わたしは看護師の職について四年、礼人は研修医として父親が教授をしている大学病院に勤務することになって、生活は明るかった。礼人は将来教授の席を約束されたようなものだし、本当、絵に描いたように順風満帆な人生計画でした』
『人生計画?』
『ええ。私たち夫婦は互いの両親が地位のある立場だったからこそ、こうして自分たちの思いを貫くことができたんです。礼人の顔は正直好みではなかったけれど、そんなものは許容範囲内でした』

 わたしはこのとき、木村さんに小さな違和感を覚えました。そしてその小さな違和感というものは大抵、後から確信に変わるもの。
 
『だから……最後の、ほんの火遊びのつもりだったんです。籍を入れる前にちょっぴり、礼人以外の男の人ともお話ししてみようって、それだけで。それがいつの間にか、大変なことになっちゃって』
『あの、話がよく見えなくなってきたのですが。ご主人がいなくなった原因に、木村さんは心当たりがあるのですか?』
『……はい。オフ会です』
『オフ会?』
『SNSなどオンライン上で知り合った人たちが、親睦を深める目的で実際に集まることをオフ会というんです。一昨年、主人との結婚で地元を離れることが決まった私は独身最後の思い出として、SNS上で通称を名乗り独身を装って何人かの男性と会いました。でも、決して不貞を犯したわけじゃない。会うことを決めた人も、なるべく勤め先や身元の明らかになっている人を選んだし、向こうも私のような若い女と食事やカラオケをしたことをSNSに掲載してステータスを満たす、それだけの健全な関係だったんです……一人を、除いて』