白い息が、空気にほわんと溶ける。
はあ、と一生懸命に吐いて、もっと濃い白にしようと努力してみる。ほわほわほわ。ちょっと長持ちした。

黒いロングコートに身を包んだ玉枝は、ゆっくりと公園に足を踏み入れた。
冬枯れで寂しい木々が、何本も静かに佇んでいる。空を見上げれば雲が、ふゆふゆと薄紫色に漂っていた。いつも通りの、公園の景色。

土曜日だった。
ここに来るのは人のできるだけ少ない平日にする、というのが鉄則だったのだが。しかし玉枝は、公園を訪れていた。

……雪子がいるかもしれない。

そんな思いが、あったから。

冬休みが終わって学校が始まれば、雪子は公園に来なくなった。
だからあれから一度も、雪子に会っていない。

二週間くらい経てばだんだんと、もう二度と会えないのかも、なんて奇妙に静かな思いも湧いてくる。

それでも。
いい加減懲りもせずにここへ来るのは、雪子とのおしゃべりが楽しかったからだろうか。いや、それだけじゃないような気がする……と思いつつも、案外それだけなのかもしれない。人間って複雑だけど、意外と単純でもあるのだから。

また会えないかな。
いや、会えないだろうな。
今日は会えるかもって、期待してもいいかな。
いや、期待しないほうがいい。当てにすればするほど、外れた時にもっと傷つくから……。

色々ごちゃごちゃと面倒くさいことを考えながら、玉枝はいつもの場所へ向かう。土がふかふかで、虫がたくさん住んでいる、薄暗い場所。

「あ。」
「あ。」

当たり前のように。そこで。

「雪子ちゃん。」
「玉枝さん。」

久しぶり、と言ったのは、どちらが先だっただろうか。

「また、会いましたね。」
「ああ。」

再会は、とてもあっけなく。さりげなく。
二人はお互いの安心したような顔を見て、そして静かに笑い合った。






「……で、学校で手袋は外したのか?」

玉枝が問うと、雪子は頷いた。

「外しました。」
「どうだった。」
「全然大丈夫でした。」

雪子は、ニコニコと笑って言った。全然大丈夫だった、結局何をあんなに心配していたのか、自分でもよくわからない、と。

「発明家志望の友だちがすごく心配してくれて、“蒸れない手袋を作ってあげる!”って。約束してくれました。あと、ついでに手荒れ・霜焼けに関する知識をすごい勢いで流し込まれました。その子、皮膚科の先生になりたかった時期があったそうで。」
「……すごい子がいるんだな。」
「はい。」

それから、と、雪子は言った。
ためらうように口を淀ませ、そして、思い切ったようにくるりと玉枝のほうを見つめる。

「私、」

こく、と唾を呑むような音がして。

「……『虫が好きになった』ってこと、みんなに言ってみました。」

静かな雪子の言葉に、玉枝は。

「……そっか。」

やはり、静かに返した。
二人はじっと見つめ合う。
そしてふっと、雪子が微笑む。彼女は再び口を開いて、それで、と言った。

「やっぱり、全然大丈夫でした。」
「……そっか。」

やっぱりそうだったか、と玉枝は思った。

いつの間にか虫が好きになっていたことを、雪子は隠していたのだろう。彼女は玉枝以外の誰にも、今までそれを喋ってはいなかった。ましてや、ゴキブリが綺麗だ、なんて。玉枝の前で初めて喋った言葉だった。
きっと雪子はずっと、“手袋を嵌めなければ虫に触れないお姫さま“を、演じていたのだ。虫が嫌いだけど、みなのために白い清い手袋を身につけ、さっと一番前で虫払いをしてくれる優しい姫を。

けれど。
そんな風に演技をすることを、雪子はもうやめた。
虫が好きなら好きで、そう素直に言ってしまおう。そう、決めた。

そしてその結果は、“全然大丈夫”。

よかったな、と思う。案外優しい結末になった。これから未来で何が起こるかは、まだわからないけれど。

「脱皮したんだな、雪子ちゃん。」
「脱皮、ですか?」
「うん。」
「……ふふ。」

なんか、言い得て妙ですね。そう呟くように言って、雪子は笑った。それに乗じて、玉枝も笑う。


知ってるか、雪子ちゃん?玉枝は言いたかった。

雪虫っていう俗称の虫がいて。白いふわふわがついてるせいで、空を舞ってると淡雪がちらついているように見えるのだけれど。その虫は、何回も脱皮するんだ。

それから、玉虫っていう虫もいる。その虫はキラキラしていて虹みたいに鮮やかな翅を持っているんだけれど。雪虫みたいに何度も何度も脱皮したりはしない。

……なあ。まるで、私たちそのものみたいじゃないか?

玉枝は、息をつく。
そして決意を固めると、ふいにポケットに手を突っ込んで、スマホを取り出した。
起動して、検索機能を表示させる。
そしてそれを、そのままひょいと雪子に手渡した。

いきなり玉枝のスマホを渡されてハテナを浮かべる雪子に、玉枝は言った。

「検索履歴のトップに、イラスト・漫画投稿サイトの名前があるだろ?」
「はい。」
「まずはそれを押して検索してみて。」
「はい……あ、出ました。えっと……サイトの表示が紫になってるのですよね。」

……これ、開きますか?と聞かれたので、肯定してそのまま開いてもらう。

「で、右上あたり探して、『作者名から検索』のバーを見つけて。赤枠のやつ。」
「はい。」
「見っけたら『タマムシ』って打ち込んで。できたら決定ボタンをタップ。」
「はい。」

ちょっとの間、静寂がその場を支配する。
しばらくして、「あっ。」と雪子が呟いた。よくわからないことをさせられている、という戸惑いの顔から、何かを察して引き締まった顔へ、雪子の表情が変化する。

「……これって、もしかして。」
「興味あったら読んでいいよ。当然、興味なかったから読まなくていいけど。」
「読みます。」

イラスト・漫画投稿サイト。
どんな素人でも、勝手に自分の作品をネットに晒すことができるサイト。もちろんそれでお金を稼ぐことはできないけれど、様々な人に目を通してもらうことは、貴重な経験になる。
そんなサイトに、玉枝は少しずつ漫画を投稿し始めていた。
つまり、『素人の自称漫画家デビュー』、くらいはしているのである。

「全然人気ないですね。」
「面白くないんだろうな。」
「面白い……と私は思いますが。」
「えっ、もう読んでんのか?」
「はい。」
「早くね?!」
「私は夏休みの宿題を最初の二週間で片付けるタイプです。」
「逆にすごい……毎日一行日記とかどうやってんだ……?」

今さら、学校に行く気は起きない。
玉枝は玉虫だから。そう何度も脱皮するような生き物ではないのだから。そんなにすぐに変われない。
でも。
何か一歩くらい、踏み出してみてもいいと思ったから。

「なんつーか、その……漫画家、目指してみようかと思ってな。」
「いいと思います。」

雪子の返事があまりにも爽やかだったから。玉枝は、まあ失敗するかもしれんが、と喉に出かかった一言を慌てて呑み込んだ。

失敗する。それがなんだ。別にいいじゃないか。まだ私たちは中学生だ。
そんな雪子の思いが、玉枝の心にまで伝播してくるようだった。

……そうだな。
玉枝は微笑む。

「別に、失敗したっていいしな。」
口に出して言ってみれば。

「はい。」
雪子が頷く。

ひらひら。どこかから飛んできた綿毛が地面に着地して、風に煽られながら転げてゆく。名もわからない小さな虫がひっくり返って、死骸を晒している。黒い土が、冷たく、けれどもふかふかと、大地を覆っている。
そんな光景を眺めながら、じっとその場に佇んでいる。

ふいに、雪子が口を開いた。

「……女優を目指そうかな。」

玉枝は、顔を上げた。
雪子の思いもよらない発言に、少し驚く。
雪子は少し照れたようではあったけれど、凛として涼しげな表情をしていた。まっすぐに、空を見上げている。

「みんなよってたかって『変わった変わった』って言いますけど、私、今も昔も全然変わったつもりないんですよ。ただちょっと、学級委員に手を挙げてみようかな、とか思ってみた自分がいただけで。別人になる演技とか、しようとしたわけでもないのに。いつだって私は同じ自分なのに。……それなのにいつの間にか『周囲から見える自分』が変わってて。」

おとなしい目立たない子。白手袋の姫。そして今はまた、雪子はもっと違う、別の何かになろうとしている。
けれどそれは、周囲の評価でしかない。
内面は何一つ、変わっている気がしない。
そう雪子は語った。

もちろんほんの少しは、変化しているかもしれない。いや、変化するのが当たり前。
けれど、それはあくまで樹木が葉っぱや花をつけるようなもので、根本の部分は年中同じ見た目をしている。劇的な衣装替えやお色直しのような変化は、全然内面では起こっていないのだ。と。

「……それで、意外とこういうの楽しいかもって思ったんです。で、そうしたら何か「女優いいかも」って。ふっと思い浮かんで。」

演技するって、意外と奥が深くて、面白いことなのかもしれない……なんて。ちょっと思ってしまったものだから。
雪子はそう言って、笑った。

玉枝はそんな雪子をまじまじ見つめながら、すごいな、と思った。すごい。かっこいい。

「いいんじゃないか?」

だから、素直にそう言った。思わず、笑みが漏れる。

「応援してやるぜ。ハッピー番長さんが。」
「響きだけで心強い味方ですね。」
「だろ?けっこう気に入ってたんだよ、あの呼び名。」

まあ、正直言って今はもう、それで呼ばれてもピンとこないんだが。そう冗談のように玉枝が言うと、雪子はちょっと考え込むような顔をした。

「玉枝さん……なんか、一皮剥けました?」
「……そうか?」
「あ、ここは『脱皮しました?』のほうがよかったですかね。」
「いや別に、そのへんはどっちでもいいんだが……」

戸惑いの表情を見せて雪子に応えながら、玉枝は内心、でも、そうか、と思っていた。
私も、脱皮したのかもしれない。と。

玉虫は、雪虫みたいに何度も脱皮しないけれど。それでも、一度もしない、というほど頑なな生き物ではないのだから。

……あとは。

「人間って、ある意味無限に脱皮できる生き物ですよね。」
「……かもな。」

もしかしたら、そういうこともあるかもしれない。
そうも思ったから。
哲学的すぎて、詳しい理屈はよくわからないけれど。


玉枝は、雪子の隣に肩を並べて空を見上げる。
雪子がさっそく、読んだばかりの漫画の感想を喋り始める。玉枝はちょっと照れて頬を染めながら、静かに耳を傾ける。
虫が主人公って、斬新で面白いですね。まあな。絵のタッチもやっぱり好きです。ありがとう。それから、あとは————


玉枝が描き始めた処女作の漫画。
その主人公は、カブトムシ。二人が公園で拾った幼虫をモデルにしているということ、雪子は気づいているだろうか。
まあ、気づいても気づかなくても、どちらでもいいのだけれど。

主人公はケージの中で飼われているカブトムシ。彼は中に迷い込んできたゼリーの魔法使いや風の子、パン屑の僧侶なんかの奇妙なキャラクターたちと交流していくのだが……実は彼は、自分を飼っている人間をよく観察している。まだそこまで物語の進んだ部分を描いていないが、これからその飼い主たちもばんばん登場する予定だ。
繊細なお姫様のような姉。パンを焼くのがやたら好きな弟。シャツの第一ボタンを絶対に閉めない父親と、貝殻蒐集家の母親。

そして————

ある日、飼い主の一人である“姉“が家に連れてきた“友だち“。
それは、かつて学校で不良を取りまとめる番長に君臨していた少女。彼女はふとしたことをきっかけで不登校になってしまい、今はもう、誰も昔の番長のことを思い出さない。

誰もいない寂しい公園でポツンと一人、空を見ていた少女。
しかし“姉“と一緒にカブトムシの世話をするうち、少女は自分にとって大切な何かを掴んでいく。

きっとそれを一つの言葉で言い表すのは難しいけれど。
それでも、きっと。
大事な何か。


二人は隣り合って、互いに互いを支え合う。

かつて誰もいない寂しい公園でポツンと一人、空を見ていた少女は。
今は二人で肩を並べて、あの日と同じ空を見上げていて……



……そんな風に、描こうと思っている。




漫画のタイトルは『虫が大好き』

それを決めてネットに投稿した時。ずっと言えなくなっていた一言とは、こんなにも簡単に出てくるようになるものなのかと、不思議に思った。



玉枝は静かに目を瞑る。
そして心の中で、静かに祈るように言葉を紡いだ。


ありがとう、雪子。
心から、思う。
あなたに会えて本当によかった。
願わくば、冬を乗り越えた先に、優しい春が待っていますように……。



青空が、広がっている。白い雲の塊が二つ、ぽわぽわとちぎれたわたあめのように、浮かんでいた。