「おっ、お邪魔します…!」
約束の土曜。
指定された家に向かっていた、アホな私は、目の前に現れた豪邸に絶句した。
何十もある部屋。
何百もある窓に、広い裏庭。
そして、家のお風呂の百倍ほど大きい玄関。
間違いない。ここはお城か何かだろう。
目をぱちくりさせる私を見て、笑いをこらえている雲。
「何してんだよ。早く上がれ」
「いやっ…なんか恐れ多くて」
私がそう答えると、彼は再度耳をピクピクと振るわせて笑いをこらえる。
「うちの親は今いねぇし、早く上がれ。掃除してもらうのは俺の部屋だけだから」
そう言われて、しぶしぶ家に上がらせてもらう私。
そして…雲の部屋を見て、絶句する。
いや、きっと広い空間が広がっているはずだ。
窓は何個もあって、個室の中に、また別の部屋がある。
広すぎて絶句する…という考えもあるだろう。
それでも私は、どうしても散らばった服や、転がったくしゃくしゃの紙きれ、鉛筆、消しゴムなどの文房具。
暑苦しそうな布団や、小さな枕などが、どうしても、どうしても気になってしまった。
「…なに、これ」
予想もしてなかった破壊力に、私は思わず、その場に立ちすくんでしまう。
「あー。そういやぁ、数学のテスト結果、どこやったかなぁ」
そう言って探し回る雲を別に、私は息をのんだ。
これだけ広い部屋を、足の踏み場もなくしてしまうとは。
雲…恐るべし。
「よ…よし」
私は決意を決め、袖をまくって腕まくり。
パンパンッとほほをたたいて、気合を入れた。
ほうきと掃除機を片手に、私は雲の部屋に、一歩踏み出した―。
「…はぁ。ほんと疲れた。何なのあの部屋」
出された高級そうなお菓子をほおばりながらぶつぶつと文句を言う私に、苦笑した雲。
「まあいいじゃねぇか。今日はうちのご飯食べれるぞ」
「うちのって言ったって、私が作るんでしょ…まったくもう」
何もできない天才め。
心の中でそうぐちった後、私はお菓子を諦め、キッチンへ向かう。
時計の時刻は、午後五時四十八分をさしていた。
今まで、四時間も掃除をしていたんだと思うと、ほんとうに気が重い。
結果から言うと…雲の部屋はきれいになったと思う。
途中で、出てきた服に埋もれていた大きなテレビを倒しかけた以外は、何事もなく、スムーズに終わらせることができたと思う。
けれど、さすがに体力的にも、これが月に三回もあると思うとキツイ。
プラステスト勉強と、受験勉強。
塾の宿題まであるとなると、さすがの私でも一苦労。
そして…なんと雲の家で食事を取ることになった。
途中で雲のスマホにかかってきた電話の相手は、どうやら雲のお母さんだったらしく、「部屋が綺麗になった」と雲が報告すると、見せてほしいと頼まれたそうだ。
雲は画面を共有して自分の部屋を見せ、片付けている私の写真も撮って、お母さんに送ったらしい。
するとお母さんは、みるみる私にほれ込んで、食事でもてなしてあげなさいと言われたそうだ。
そして…この結果である。
「ええと、今日のメニューは…海鮮丼かな。魚ばかり冷蔵庫にあるし」
「おお。あまり食べない献立だな」
ウキウキしている雲をよそに、私は準備に取り掛かった。
途中で雲が、「手伝うぞ」と手を貸してくれたけれども、包丁で指をかすって絆創膏を貼るはめに。
最悪の事態を想像してしまった私は、雲に「部屋を汚さない程度に、部屋で遊んでて」と命令してから約三十分。
魚のおいしそうな香りと共に出来上がった海鮮丼は、見た目から見るに、なかなかの出来だ。
「いただきます」
雲も呼んで、いざ食事…!
緊張しながら「食べて」と雲を促すと、雲はスプーンをゆっくりとご飯と刺身の間に入れ、パクッと一口。
「…美味い」
雲の最初の一言目が…それだった。
「ほんと…?よかったぁ。雲の口に合って何よりです」
私がそう言ってお辞儀をすると、「わざわざサンキューな」と次の口を進める雲。
そんなにおいしいの、と苦笑しながら、私も一口食べてみる。
「…確かにおいしいね」
私がそう言って笑うと、「おまえ、絶対料理のことに関してはナルシストだろ」と言われたため、雲のお替りはなしということになりかけたけれど、雲の必殺技、くすぐり攻撃を受けて、あきらめることにした。
「ありがとうね。ご飯まで食べさせては…もらってないね」
ふふ、と笑うと、雲も「確かにそうだな」と笑った。
「美味かった。ありがとう」
「いーえ。口に合ってよかった」
もうすっかりあたりは暗くなってきた。
時計の針は、七時十二分を指していた。
「一人で帰るからいいよ」というと、雲が「ついていく」と言ってくれてから、もう三分経過。
結構私と雲の家は、距離が遠い。
「……聞いちゃいけない話、聞いてもいい?」
沈黙を破ったのは、私。
いつもなら、絶対こんなことしない。
だけど、今は、一緒に居たい。
聞きたい。ずっと気になっていたこと。
「…雲の好きな人ってさ、もしかして、如月さん、だったりする?」
聞いちゃった。
夜でもわかるくらい、今私のほほは熱を持っている。
“笑止千万”
それが本当のはず。
それが約束のはず。
だけど私は、無理だった。
だって、雲が好きだ。
好きなら何でもしていい。そんなことは許されないけれど。
思いを残してなんて、死にたくない。
「…俺の、すきなひと?」
真っ暗な夜にひびく、ハスキーボイス。
「俺の、すきなひとは…」
ドキドキする。
心臓が飛び跳ねる。
今この瞬間、死んでしまいそう。
顔が赤いのを悟られたくなくて、下を向いてうつむいていると、雲の細く、長い手が、私の顎を上に向けさせた。
真っ黒な目と、目が合う。
ドキドキする。
恋ってこんなに、胸が痛いんだ。
雲の顔が、だんだん拡大されていく。
そして気づけば…柔らかい感触が、私のほほと、唇に走った。
頬には大きな手が添えられていて、これは…、初めてだった。
「えっ…」
息が吸えるようになって、一番先にポロリと出た言葉は、それだけだった。
「…これ、俺の気持ちだから」
耳元でささやかれた声に、胸が痛いほど脈を打つ。
どうしよう。倒れてしまうほど、熱い。
すごく、ドキドキする…!!
「それって、どういう…」
私が声をかける前に、彼はくるりと私に背を向け、夜の道をそのまま戻っていった。
ひとりになって、なんだか夜が長く感じてしまった。
「…すきって、こと?」
家に帰って、ベットの毛布に顔を押し付けてから、ひとりで考え続けた結果。
「キス」を反対から読めば、「スキ」という言葉になる。
だから、もしかしたら…。
…私は、うぬぼれているんだろうか。
キスをされたくらいで、まだ好きとは言われてない。
本人から、直接聞かないと、まだわからない。
…でも、もし。もし、好きだと、そう言われたら…。
“私は、どうするんだろう”
手もとにあったスマホの電源をいれて、LINEアプリをタップする。
一番上に出てきた、【彼方くん】の文字。
するりと指がそこに触れて、画面は会話画面に切り替わる。
メッセージを打つ場所を、何も考えずにタップしたところで、意識を取り戻す。
…どうして私、彼方くんに連絡しようとしていたんだろう。
急いで電源を落とそうとして…やめた。
私はもう一度、メッセージを打つ空欄に指を伸ばして、画面に文字が現れると、ぽつりぽつりと吐き出すように、文字を入力していった。
【いま、はなせる?】
気づけば、一番下に表示されているメッセージには、そう書かれていた。
既読は、つかない。
分かってる。彼方くんも、暇じゃない。
親戚の高校生に付き合っている暇は、ない。
それなのに。
メッセージのすぐ横に、「既読」の文字。
そして、私のメッセージは、下から二番目になった。
【どうしたの?悩みがあるなら聞くよ。俺でよかったら】
なんで、彼方くんは全部受け止めてくれるんだろう。
なんで、彼方くんは私のことを認めてくれるんだろう。
【電話していい?】
ダメだってわかっているのに、私の頭は回らなくて。
気づけば表示されている画面は、通話画面にかわっていた。
「もし、もし…」
〈あ、もしもし、舞桜ちゃん?〉
「うん…ごめんね、きゅうに」
〈いやいや、大丈夫だよ。そろそろ仕事も終わるころだったし。それで?どうしたの。何か悩みごと?〉
「…あの、ね」
口がうまく開かない。
しゃべれない。
話したい。
彼方くんに、私の思いを、話したい…!
「私、雲にどんな思いで、どんな感情で接せばいいか、わからなくなっちゃって……」
〈……〉
少しの間が空く。
やっぱり、迷惑だったのかな…。
「ご…ごめんなさ」
〈…何だよ、負け犬の遠吠えをしろっていうのか〉
「え?」
ぼそっと聞こえた声に、私の鼓動は、早まるのをやめた。
〈…なんでもないよ。…舞桜ちゃんは、雲くんが好きなんだよね〉
「…うん。すき。だいすき」
ちょっと恥ずかしいけど、雲への気持ちは隠さないって決めたんだ。
どうどうと、言おう。
〈なら、そのままでいいと思うよ。雲くんが好きなら、好きでいいと思う。接し方を変にしなくても、舞桜ちゃんは、舞桜ちゃんのままで頑張ればいいよ〉
ハッ…と口を開けようとして、閉じた。
唇をかみしめる。
声を押し殺す。
なんで私、迷っているんだろう。
「…でも、私は……人とは、違う。雲とは、違う」
思っていないことが、口からするする出てくる。
違う。思っていないこと、じゃない。
ずっと隠してきた、自分自身にうそをついて、守ってきたものなんだ。
この言葉は、私の“想い”なんだ。
「私は、もう死ぬ。死んじゃう…。生きられない。このままじゃ、雲が悲しんじゃう…!両想いになったとしても、私は……」
〈舞桜ちゃん、なにか勘違いしてない?〉
声を荒げそうになった私を、彼方くんの声が止める。
〈舞桜ちゃんの人生は、舞桜ちゃんのものだよ〉
人生。
それは誰もが持っているものだ。
ひとりひとつずつあって、全部平等で。
それでも、理不尽な言い訳やウソで、人生の電池が、切れてしまうことがある。
「…」
何も、言えなかった。
私の人生は、全部病気に流されたままで、病気が中心で動いていた。
私の人生なんて、自分で決めない。
決められないと思っていた。
〈舞桜ちゃんの人生は、病気のものじゃない。君の人生は病気で終わるわけにはいかないでしょ?〉
「…彼方くん」
私のことを、考えてくれているんだとういうことが、よくわかる。
でも、どうしてそこまでしてくれるんだろう。
どうして私に、付き合ってくれるんだろう…。
「…どうして彼方くんはそんなに私のことについて考えてくれるの…?」
〈…舞桜ちゃん、気づいてない?〉
「え…?」
気づいていないって、どういう意味…?
〈好きなんだ。舞桜ちゃんのこと〉
「…えっ?」
すき…?
彼方くんが…私のことを好き…?
「それって…友達として…親戚としてって意味で」
〈違う。恋愛感情っていう意味で、好き〉
ストレートの、告白だった。
「え…。なおさらどうしてかわからない。なら、どうして私の話を、雲との話を聞いてくれてたの…?」
わたしなら、きっと胸が破裂しそうなほど、嫌だと思ってしまう。
雲が、ほかの女の子の相談なんかしてきたら、私はもう死んでしまうほど胸が苦しくなる。
いやだと思ってしまう。
それなのに、どうして、彼方くんは私に付き合ってくれているんだろう。
〈俺は、舞桜ちゃんが幸せなら、それでいいと思っているんだ〉
「私が…幸せなら…??」
頬が濡れる。
熱いしずくが、私のほほを濡らした。
〈え…?もしかして、泣いてる?〉
「ち、ちがっ…泣いてなんて、ない」
嘘をついても、今回は本当にウソがつけない。
〈嘘だ〉と笑われてしまった私のほほには、さらにほほが濡れてしまった。
「…最近、私、泣いてばかりだなぁ」
〈泣いていいよ。泣けば泣くほど、人間って成長していくからね〉
…彼方くんは、何回泣いたんだろう。
私が、思わず言った言葉で、彼方くんを傷つけて、泣かせてしまったことがあるかもしれない。
「…ありがとう。彼方くん、ほんとうに、ありがとう…!」
泣きながらそういうと、彼はふふっと笑って、〈どういたしまして〉と優しく答えてくれた。
画面が切り替わって、メッセージ画面に戻る。
「…私の人生は、私のもの、かぁ」
なんだか明日、雲に言えるような気がする。
「ありがとう」と、「大好き」を。
言える気がする。
私は安心した気持ちで、そっと眠りに落ちた。
「おはよう。舞桜。昨日はぐっすり眠れたみたいねぇ」
「っ、え…?」
「昨日、少しだけ覗いたの。そしたら、もう幸せそうにぐっすりだったわよ」
幸せそうに、ぐっすり。
「そっか。ならよかった!」
私は笑顔でそういって、横にあったカバンをつかんだ。
「えっ?あ、朝ごはんは??」
「今日はいいの!お弁当ありがとう。行ってきます!」
私はすぐさま家を飛び出て、鍵をガチャリと閉めた。
「えぇ、ちょっと舞桜!」
ドアの奥からそんな声が聞こえてきたけれど、私は振り返ることはなかった。
ごめんね、お母さん。
ごめんね、彼方くん。
ごめんね、くも。
私、今日まできっと、焦っていたんだと思う。
でも、もう怖くない。
私は、生きたい。
私は思い切り走って、学校を目指した。
お腹痛くなるだろうとわかっているけれど、私は走らなきゃいけなかった。
校門は、まだ空いていなくて私ひとり、立ち尽くしているだけだった。
時計に目を落とすと、針は七時三十分をさしている。
そろそろ校門が開く時間だ。
そう思っていると、ひとりの体育教師の先生が、校門を開けに来てくれているのが見え、とっさに私は花壇に身を隠してしまった。
ギギギと、古そうな音を立てて動く門。
先生は、校門を開けたあと、「あ、ホイッスル…」と言って、学校の中に走り去っていってしまった。
私はそっと立ち上がり、校門を駆け抜けた。
靴箱につくと、すぐに履き替えて、いそいで教室に入る。
そして、バックの中に入っていた小さな紙を取り出して、そこに文字を書いていく。…と、そこで、私の突進は終わった。
さっきとは違い、まったく言葉が出て来ない。
ペンが進まない。
…ほかの女の子たちなら、こういう言葉がすんなり出てくるんだろうか。
なぜか、急に、暗い気持ちになる。
私が、もし病気持ちの女の子じゃなかったら、こういうことをするのは、すごくドキドキして、でも頑張るっていう、青春を楽しめたんだろうか。
………違う。
こうなったのは、私が、わたしだからだ。
私は再度、緩んだ手をぎゅうっと持ちかえ、一字一字、書いていく。
〔ごめんね。君の前で泣いてごめんね。たくさんひどいことを言ってごめんね。すきだって言ってごめんね。病気を持っていてごめんね〕
そこまで書いて、違う。と思った。最後の二つは、私がずっと思っていることではあるけれども、そう言ってしまえば、あの夜の告白も、謝罪する文章になってしまう。
私は、消しゴムをつかんで、「すきだって言ってごめんね」と、
「病気を持っていてごめんね」を消した。
そしてそこの部分を、「たくさん、たくさん、ごめんね」にした。
〔ありがとう。世界の綺麗な部分を見せてくれて、ありがとう。見せるって言ってくれて、ありがとう。好きだって言ってくれてありがとう。〕
ありがとうはすんなりと出て、その下にまた文字を書く。
〔私は、君が好き。大好き。けど、私はもう生きられない。だから、私の一生分のありがとうと、ごめんを伝えたい〕
怖くないと言ったら、嘘になる。
それでも私は書いた。
この手紙を、最後まで。
〔ごめんね。君の前で泣いてごめんね。たくさんひどいことを言ってごめんね。たくさん、たくさん、ごめんね。
ありがとう。世界の綺麗な部分を見せてくれて、ありがとう。見せるって言ってくれて、ありがとう。好きだって言ってくれてありがとう。
私は、君が好き。大好き。けど、私はもう生きられない。だから、私の一生分のありがとうと、ごめんを伝えたい―。
今日の放課後、シャボン玉を飛ばしたところ待ってくれないかな。
会いたい。君に、会いたい。〕
ようやくそこまで書いた時、一息つこうと紙を折り曲げようとして、ハッとした。
私はもう一度ペンを握って、一番上に、〔雲へ〕と書いて、一番下に、〔舞桜より〕と書いた。
「ふぅ…」
手紙を書き終えると、なんだか心が軽くなったように思えて、嬉しかった。
一息ついたつかの間、歩いてくる生徒たちの足音と、しゃべり声が聞こえ、私はとっさに紙を雲の机の引き出しに入れて、自分の机を片付けた。
「あれっ?もう来てたんだねぇ、水瀬さん」
「…あ、えっと。日直の、お手伝いしようと思って」
「えぇ、優しい!!さすが水瀬さん」
数人ほどの男女グループだった。
私は笑顔で「任せて」とだけ笑いながら、日直が書いてある方に目を向ける。
するとそこに、「夕凪雲」という漢字が並べてあって、思わずドキッと胸が高鳴る。
…あの手紙を見た後、雲はどんな顔をするだろう。
「…そう言えば……水瀬さん!」
ぎゃははと笑っていたグループの一人が、立ち上がって私に声をかける。
「うん。どうしたの?」
私がそう答えると、彼女は不満そうに話し始めた。
「…私、昨日見ちゃったんだ。夕凪くんと水瀬さんが、このまえ道路で会ってたでしょ。ただならぬ恋愛感を感じたから、私はすぐに逃げ帰ったんだけど…その後、どうだった?」
…昨日、ということは、キスされた日だ。
「えっ…あ…いや、偶然会っただけだよ」
このまま質問攻めにされると、ぼろを出してしまいそうなので、慌ててごまかす。
「えー、でもさぁ、あれ。絶対夕凪くん、水瀬さんのこと好きじゃん?」
「えっ」
「だっていつも声をかける時、ほかの人より優しい目になるし、しかも水瀬さんが大変な時はいつも助けてあげてたでしょ。あれ、もう恋しているほかないよ」
……。
言われてみれば、どうして助けてくれるんだろうと疑問に思ったところもある。
けど、昔の私は、そんなこと思ってもみなかった。
「ね、水瀬さん。どうするの?もし夕凪くんが告ってきたら」
「えっ…。いや、普通だよ。私とく…夕凪はあんまり接点もないし、まずは友達って感じじゃないかな」
あは、と愛想笑いを浮かべると、彼女はもっと好奇心に聞いてくる。
「いや、でももし、ガチのガチガチだったら!?」
ガチのガチガチでその質問困るんですけど!!
心の中でそう突っ込みながら、私は「えーと」と笑いながら答える。
瞬間、心に残った傷が、開いたような気がした。
「……だよ」
「え?」
「……むり、だよ。私が付き合うとか、結婚するとか、そういうのはもう、むりなんだ」
「え?どういうこと?」
もう、言いたい。
吐き出してしまいたい。
私は、死ぬんだよ…。って。
もう、いいかな。
「私ね、もう死…」
「はよ。舞桜」
ポンッと頭に手がのせられる。
思わず反射的に振り向くと、頬に何か柔らかいものがあたった。
瞬間、目の前にニカッと笑った顔が目の前に現れる。
「え…雲?」
思わずそう言ってしまうと、話していたグループの子たちが「きゃー!」と声を上げた。
え、今のって、頬にキスしたって、こと?
頭がパニック状態になる。
そんな、人前でどうどうとしていいものではない…はず。
「どういうことだよ、夕凪!!俺らの水瀬ちゃんに…キスなんて!!」
堂々とその単語を言う男子たち。
「や、やめてよ」と女子が食ってかかるけれども、男子たちは雲に張り付く。
「どういうことだよ。なあ?おい!」
どうしてそこまでムキになるのかがまずわからないけれど、ひとまず、雲が嫌な顔をしているから、私も止めなくてはと思って、私は雲の前に立った。
「や、やめて…。夕凪も嫌がってるでしょう。それに、喧嘩はよくないよ」
「……だって、コイツ。彼氏でもないのに、カレシ面…」
「彼氏だよ」
男子にかぶせるように、そう言ってきた雲。
一瞬、クラスにいた全員の目が、点になる。
「…え」
私がこぼした声を合図に、教室のひとたちのこえは重なり合って、大きく響いた。
「ったく…。注意してくださいね。他の先生たちにも、迷惑ですよ」
「すみませんでした」
ホールルームで、先生に説教された私たち。
ざわざわとどよめきあうクラスメイト達の横で、私はそっと雲を見た。
手紙…読んだのかな。
それに、私たちってもうカップルなのだろうか。
どんどん胸に不安が積もっていく。
「…先生。少しおなかが痛いので、お手洗いに行ってもいいですか」
「水瀬さん、今は先生が話しているでしょう。どうしてもの時だけにしなさい」
ほんとなのに、と思いながら、わかりました。と答える私。
「はぁ」
ため息が出る。
なんだか雲と出会う前のような、居づらい空間。
「…あ。すいませーん」
瞬間、ひょっこり顔を出した見慣れた顔。
「舞桜ちゃんっていますか」
「え…?舞桜ちゃん?」
「あー…えーと。水瀬さんっていますか?」
「えっ…彼方くん!?」
私が思わずそういうと、「よっ」と軽く手を振ってくれた。
「話って?」
「あぁ…。さっき舞桜ちゃんのお母さんから連絡届いた。正式に、入院が決まったそうだ。明日からは学校には来れない」
「え…」
なんだか、急だ。
発作を起こしてからとか、ぎりぎりまで学校に居られるとか、そういう風をイメージしていたのに、急に連絡が着て、急に呼び出されて、急に人生が終わる。
「…そっ、そっか。もう今日で、学校とも、雲ともお別れかぁ」
ふふ、と笑うと、気まずそうに目をそらした彼方くん。
「一応、手術するんだろう。頑張れよ」
「うん。ありがと」
私がそういうと、くしゃっと笑顔を作る彼方くん。
…もう多分、彼方くんも心の中でわかっているだろう。
私は、助からない。
それでも、笑顔で「手術後」を考えなければいけない。
それが社会のルールで、それが一番、ひとを傷つけない方法だから。
「…そっかぁ。もうこの学校とも、お別れか」
ぽつりとつぶやくと、「また来るのは手術後だね」と笑って答える彼方くん。
違う。そんな笑わなくていいよ、彼方くん。
ほんとうはわかってる。
私も、彼方くんも、お母さんも。
きっと、もうみんなわかってる。
私は、もう……。
「ごめんね、授業中に」
「ううん。大丈夫だよ。また連絡するね」
教室の前まで送ってくれた彼方くんに、そうお礼を言ったあと、私は教室のドアを開け、「遅くなりました」と言いながら机に座った。
「何の話だったんだ?」
先生は少し興味を持ったようにそう聞いてきた。
「あ…えっと」
聞いていないのかな…。
でも、彼方くんの口から、できれば言ってほしい。
「…か、カウンセラーについての、相談っていうか」
「カウンセラー?なにか悩みがあるのか。先生が聞いてやるぞ?」
あぁ、面倒くさいな。
そう思ってしまったことは、絶対に内緒。
秘密にしなくちゃいけない言葉。
「……大丈夫です。進路のことについてなので」
私が笑ってそう答えると、あぁ、と頷いた先生。
「おまえ、進路表まだ提出してなかっただろう。もうそろそろ冬なんだし、もう出せよ」
「…はい。わかりました」
笑ってそう答えると、「それじゃあ、授業を進めるぞ」とまた私たちに背を向ける先生。
私は息を殺しながら、じっと授業が終わるのを待った。
「…もう、お別れかぁ」
放課後、夕陽も出てきたころ、ぽつりとしみつく私の言葉。
一日がこんなにも、あっという間という日は、これまでの人生で一度もなかったと思う。
あぁ、死ぬんだ。私。
いたいほど自覚した、人生の重み。
恋をしなくたって、私は今、こう思っただろう。
この世界が嫌いで、大嫌いでも、それは私の、わたしだけの想いでいい。
きれいごとなんて言いたくも、聞きたくもない。
それでも、世界が大嫌いでも、きっといつか、自分が大好きだなって思うひとが現れるんだということを。
ちゃんとわかってほしいな…。
「あっ…」
校門の前で立ち尽くしている私の後ろで、大きなプリントの山を抱えていた一年生が、石につまずいて転んだのが見えた私は、すぐにそちらに駆け寄る。
「え…」
彼女は少し驚いたように手を止め、私をじっと見つめた。
「これ、重いでしょう。どこに運べばいいの?」
「…だいじょうぶ、です。自分で運びます」
「でも重いでしょう。また転んだら次はケガするかもしれないよ?」
「……でも、これは私の役目で」
「年下を助けるのが、年上の役目なんだよ」
私はそう言って笑って、彼女の抱えていたプリントを半分持った。
「それで、どうすればいい?」
私が顔を覗き込むと、その子の前髪で、目は見れなかったけれども、少しほほを赤くして、「一年四組に、届けてください…」と小さくつぶやいた。
「わかった。任せて」
私がそう言って笑うと、歩き出す彼女。
あぁ…私も、こんなふうにみんなに見えていたんだろうか。
ずっと、ずっと自分を隠して、みんなに笑顔を振りまいて。
でも心はどんどん重くなるばかりで。
人間関係って、本当に難しいよね。
心の中で、隣で歩いている彼女にそう声をかけた私は、再度前に向き直った。
「ほんとうに、ありがとうございました」
「えっ?」
プリントを運び終わったあと、近くにあった自動販売機で飲み物を購入したとき、頭を下げてきた女の子。
「い、いいよ、いいよ!私ももうちょっと学校に居られる時間が欲しかったから」
私が首を振って笑うと、彼女は頭を上げて、おかしそうに首を傾けた。
「どうして学校に居たいと思うんですか…?もしかして…家が居づらいとか」
そう言って慌てたように私に近寄る彼女が、少し可愛くって、「違うよ」と彼女の頭を撫でた。
「私ね、明日から…この学校に来れなくなっちゃうの」
「…え」
「だから、名残惜しいっていうか」
私が笑って言うと、彼女は何かを察したように、「…そうなんですか」と答えた。
「それじゃ、私はもうそろそろ行くね。最後に約束してることがあって…」
そこまで言ったとき、急に雲の顔をおもいだした。
前までの私は、怖くて震えていたかもしれない。
こんなふうに、自信満々に笑えなかったかもしれない。
でも、今は違う。
「約束…?」
首をかしげる彼女に、私は思いっきり笑いかけた。
たったっと足を踏み出すたびに、重い鎖のようなものが、私の足に絡みついていくような気がする。
それでも、私は走る。
彼がいる場所へ。
私が彼に、恋した場所へ。
その時、前の方から歩いてくるお母さんの姿が見えた。
「あっ、舞桜!」
お母さんは予想通り、私の腕をつかんで、私の動きを止めた。
「何してるの。走ったら肺が圧迫されて危ないでしょう。もう帰るわよ」
そう言って腕を引っ張っていくお母さん。
「やっ…私、行かなきゃ!」
私はお母さんの手を振り払って、また走り出そうとしたけれど、お母さんの「舞桜!!」という大声に、動きを止める。
「どうして?どこに行くのよ。荷物もまとめなきゃいけないでしょう。帰りましょうよ。それとも…誰かに会いに行くの?」
顔は見なくても、心配しているということはわかる。
それでも、私は行かなきゃいけない。
「…ごめん。お母さん。ちゃんと戻るから!」
私は笑って、また走り出す。
続けて後ろから、「どこへ行くの!?」というお母さんの声。
私は、もう一度動きを止めて、振り返った。
「……好きなひとのところ!」
公園のすみっこの小さいベンチに、彼はいた。
イヤホンを耳につけて、なんでもない顔で座っていた。
胸が痛いほど高鳴る。
諦めてしまおうかというほど、ドキドキする。
でも、言いたい。
私は、君に伝えたい。
「くも」
私がそう声をかけると、ゆっくりと顔を上げた彼。
イヤホンを外しながら彼は、「舞桜」と小さくこぼした。
「ごめんね、遅くなって」
私がそう笑うと、「ほんとだよ」と突っ込む雲。
「…で?急に改まって、どうしたんだよ」
立ち上がった雲の横に並んだ私は、笑顔で伝えた。
「…明日から、入院するの。もう学校、行けなくなっちゃうんだ」
とたん、体を硬くして硬直する雲。
「たぶん、もう一生外には出られないと思う。手術も始まるみたい。緊張するー!」
話は、一方通行になった。
雲が何もしゃべらないからだ。
でも、ちゃんと聞いてくれているということはわかる。
「…もう、雲にも会えないんだ」
ぽつりとこぼすと、途端に涙があふれ出た。
それでも、私は続けた。
「雲には感謝することがいっぱいあるよ。ありがとう」
「…ん」
絞り出した声、というように答えた雲に、私はまた笑いかけた。
「…そんな顔、しないでよ。こっちまで悲しくなっちゃうじゃん」
私がそういうと、雲の目から、一筋、涙がこぼれた。
まさか泣くなんて思っていなかったけれども、二人して泣いた。
そして、笑った。
もう最後だね、なんて、もう言わない。
だから今だけ、ずっと一緒に居よう。
二人で笑った空は、星が輝いていた。
もう、肌寒い季節になったみたいです。
「またね、雲」
時計の針が七時を回ったとき、私はそう口にした。
「…おう」
雲はなんだか寂しそうに、そう言った。
きっとこれが、最後になることがわかっていた。
けど、どうしても「ばいばい」は言いたくない。言わない。
だから雲も、「またね」って言って。
二人すれ違う最後。
後ろを歩く私と、前を歩く雲。
二人の体がすれ違ったとき、さっきさんざん泣いて枯れたと思った涙があふれた。
ねぇ、雲。
家に帰って、食事を済ませたあと、ベットに倒れこんだ私は、心の中でそう呟いた。
世界で一番、大好きだよ。
「この家ももう最後かぁ」
ふふ、とつぶやきながら、私は手当たり次第に部屋の中にあるものを触りまくる。
まだ読み終わっていない推理小説から、もう速攻で読み終わった恋愛小説まで、全部。
これが私の、一緒に生きてきたものたち。
大好きなものたち。
あぁ、好きだ。
私はこんなにも、世界が好きなんだ。
この世界を、愛していたんだ。
そう気づかせてくれたのは、雲だ。
私は、眠った。
明日死ぬわけじゃないのに、眠るのが怖くて、あまりよい眠りというわけではなかった。
それでも、私には次の日がやってきた。
次の日がくるのは、こんなにも幸せで、幸福なことなんだと、人生で一番思った日だった――。
〈どう?そっちの気分は。痛いところとか、嫌なこととかある?〉
久しぶりに聞いた、お母さんの声に、「ううん。ないよ、大丈夫」と答える私。
「強いて言うなら、日当たりが強いところかなぁ。カーテンしたいんだけど、修理してもらってなくて」
〈へえ、大変ねぇ。手術はいつだって?〉
「うん、来週の日曜」
私はカレンダーに視線を向けながら、そう答える。
入院してから、二週間。
ちょうど学校のみんなは、冬休みの時期だ。
急に学校をやめるなんて、みんなは驚いただろうか。
あの先生を、見返すことはできたのかな。
彼方くんも、元気かな。
雲も……学校を楽しめたのかなぁ。
そんなことを思いながら、窓から見える雪を眺める私。
〈そう。じゃあその日までにまたお見舞い行くね〉
「えぇーまたあの腐ったみかんなんて持ってこないでよ」
そうおどけて見せると、〈持ってこないわよ〉と笑うお母さん。
〈じゃあ、また連絡するね〉
「うん。ありがと」
私がそう言ったのと同時に、画面はメッセージ画面に切り替わった。
正直、寂しくないと言えばうそになるけれど、私はそう口にすることはない。
どうせ最後はきっと、寂しいと思うんだから。
今味わって、それが普通だと思うほうが、幸せに死ぬよりずっといい。
私の部屋は、一人部屋で、一番奥の窓がわの席に居座っているのが、私だ。
たまに彼方くんから、【大丈夫?無理しないで、話したいときはいつでも言って】というメールが届いたりするけれど、雲からの連絡は一切ない。
もう他に好きな人ができたんだろうかと心配になるほどの悲しみだった。
「…送って、みようかな」
今まで雲に送るのは拒んできたけれど、勇気を出して送ってみてもいいんだろうか。
私は震える指で、そっと“雲”の名前をタップした。
そして、ゆっくりと画面をタップして、文字をうちこむ。
やっとのことで、送信ボタンを押した私は、ハッと我に返って、今送ったメッセージを読み返す。
【会いたい】
私が送ったメッセージには、ただそれだけ、書かれていた。
…私はなんて、バカなんだろう。
思っていることを素直に伝えるなんて、本当に馬鹿だ。
…けど、これが私の想いなんだろうか。
これが私の、本当の気持ちなんだろうか。
そう思うと、なんだか気楽になってくる。
そう。私は彼に会いたい。
また一緒に、花火を見たい。
笑いたい。
話したい。
馬鹿みたいに喧嘩したい。
また、シャボン玉をしたい。
私はスマホをぎゅっと握りしめて、返信を待った。
ちなみに雲には、あらかじめ病院の場所は伝えている。
何号室になったかも、すべて。
でも、既読がつくだけで、返信は、来なかった。
もしかしたら、今回もそうなんじゃないか。
私は、また無視されて、悲しい人間のまま死んでいくんじゃないだろうか。
不安が募った矢先、スマホが振動した。
私は急いで電源を入れ、送られたメールをタップした。
そこの一番上には、【雲】と表示されていて、胸が高鳴ったのと同時に、すごく怖くなった。
【そうか】とだけ返されたら、どうしよう。
【俺は会いに行かねえよ】なんて言われてしまったら、どうしよう。
【我慢しろ】と、そう言われたら、どうしよう。
それでも。
私はゆっくりと、目を開いた。
すると、そこには【すぐいく】という文字。
何度も何度も読み返した、死ぬほど嬉しい言葉。
とたん、画面が通話画面に切り替わった。
私は震える指で、通話ボタンをタップして、スマホを耳に押し付けた。
「もし、もし…雲?」
〈そうだけど〉
そこからは、待ち望んだあの愛おしい声が聞こえてきた。
「…えっと。すぐ行くって、どういう意味…?」
〈そのまんま。あと十分程度でつく〉
「え…?う、うそっ…。来なくていいよ!雲も忙しいでしょう。受験するんでしょう?勉強したほうが…」
〈うるせぇ。俺の勝手だ。それに俺に会いたいって言ったのはおまえだろ〉
うっ、と言いたかった言葉が喉につかえる。
確かに、会いたいと言ったのは、私の方だ。
それでも、私は無理にとは言っていないし、できれば雲の用事を優先してほしいと思っている。
それに、手術前に会うならば、今日じゃなくてもいいはず。
それなのに、どうして…。
〈俺はおまえが病室にいったら嫌がるだろうと思ってずっと我慢してたんだぞ。いまさら来るなって言われても、もうおせぇから〉
「…」
どうして。
どうして雲は、こんな私にそんな言葉をかけてくれるの。
〈で?何号室?〉
声が震える。
それでも、伝えなきゃいけない。
私も、雲に会いたいから。
「ご、五百六号室」
〈わかった。すぐ行く〉
その言葉が聞こえたあと、プツリと切れた通話。
ようやく静かな時間がもどってきて、ふと考える。
…本当に、雲は来るんだろうか。
もしかしたら、ネタかもしれない。
ドッキリかもしれない。
もし本当に来たとして、そこで話す内容は、別れの挨拶かもしれない。
他に好きな人ができたということを、報告しに来るのかもしれない。
それでも。
『俺はおまえが病室にいったら嫌がるだろうと思ってずっと我慢してたんだぞ。いまさら来るなって言われても、もうおせぇから』
あの言葉は…嘘じゃない気がするのは、どうしてだろう。
ベッドの上で、ちょこんと座り込んだ私。
目を閉じて、秒数だけを数えていく。
いつくるんだろう。
そんな期待を胸に、私は秒数を数える。
ちょうど十分になろうというとき、ガラガラッと病室のドアが開く音が聞こえた。
だから私は、そっと目を開けた。
すると、そこにはやっぱり、息を切らした雲が立っていた。
服装は長袖パーカーで、心配するような、なんだか雲らしくない表情をしていた。
「…舞桜」
低く、深くつぶやかれたその言葉に、私は思わず泣きそうになるのを、必死でこらえて、「雲」と呼びかけた。
「…泣くなよ」
そんなことを言われ、私も負けじと「泣いてないよ」と答える。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
そんなやりとりが数回繰り返されたあと、雲はあらあらしく私の顎を自分と目線が合わさるように引き上げた。
ばっちりと目と目が合う。
「やっぱり、泣いてる」
あぁ、ダメだなぁ、私。
気づくと私は、雲の腕の中にいた。
すっぽりとおさまった私の顔は、涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。
―会いたかった。ずっと会いたかった。
そう言いたいのに、嗚咽が邪魔して言えない。
それでも、私はあきらめなかった。
嗚咽を我慢しようと、下唇を噛んでいると、雲がポンポンッと私の背中を優しく撫でた。
だから私の顔は、もっと涙があふれて、嗚咽が止まらなくなってしまった。
雲の体温は、冬なんじゃないかと想うほど、冷たかった。
それでも、雲は必死に私を温めようとしてくれた。
雲にあえて嬉しい。
…この涙が止まったら、きっと君に“ありがとう”を伝えるからね。
心の中でそう呟いて、私は再度、嗚咽を零した。
これほど人生で、生きたいと思ったことはあるだろうか。
これほど人生で、ひとを愛おしいと思うことはあるだろうか。
私はきっと、もう死んでしまう。
いきたいと思っても、死にたくないと思っても、死んでしまう。
私はそうなんだ。そういう人間なんだ。
生まれてきてからずっと、そういう運命なんだ。
それなのに、なぜか私は辛いと思う。
それなのに、なぜか私は苦しいと思う。
不思議だ。
私はもう死ぬと、決まっているというのに。
それを知っているというのに。
私は、もう死んでしまうというのに。
私は辛いという感情を知った。
私は悲しいという感情を知った。
私は恋という感情を知った。
私は好きだという感情を知った。
私は、生きたいという感情を知った。
このままだと、消えたくない。死にたくない。生きたい。
そう思ってしまう。
あぁ、ほんとう、馬鹿だなぁ、私。
叶わぬ恋。
もう一生、貫かなきゃいけない一方通行の恋。
「…ありがと」
黒色のハンカチで涙を拭きながら、私はそういう。
「病院で洗って、返すよ。ナースさんにお願いしたら、多分洗えると思うから」
「別にいいけど。それやるよ」
「もったいないよ、上等な布なのに」
「別にいいじゃん。持っててよ」
「無理だよ。どうせ行き場を失うんだから」
私がそういうと、雲はハッと動きを止めた。
「…じゃあ、その代わり。洗って返すから、もう一回来てよ」
「…は?」
「返すから、もう一回来て。もう一回、私に会いに来て」
私は笑ってそう言った。
すると、雲も鼻で笑って、「わかった」と素直に答えてくれた。
「…久しぶりだね、こうやって話すの」
「え?あぁ…まぁ、そうかもな」
「雪、ひどくなってきてるでしょう。窓からのぞいたら、もう木にすごく積もってて。細い枝はおれてたよ」
「あー…まあ、そうかもな。俺はあんま最近外でねぇから知らねぇけど」
「そと、出てないの?勉強してるとか?」
「あー…いや。そういうわけじゃない。バイトしてんだよ。コンビニで」
「えっ?バイト?」
あまり雲からは聞かないワードが飛び出て、私は思わず聞きかえしてしまった。
「結構うちから近いとこでさ。あんまり雪とか見れてないっていうか、見てる暇ないっていうか」
「そう、なんだ。じゃあ…ごめんね。会いたいなんて送っちゃって」
「いいよ。もう帰りだったし」
ふん、とそっぽを向いた雲。
これは照れ隠しだと、私はちゃんと知っている。
「で、何してほしいんだよ」
「え?」
「俺を呼ぶってことは、なにかしてほしいんだろ。言ってみろ。やりたいこと」
やりたい、こと。
私の、やりたいこと…。
「……び」
「え?」
雲が聞き返してきた。
小さく来て聞こえずらかったと思う。
もう、私は一生見れないもの。
それでも、世界で一番きれいだと思ったもの。
それは…
「花火、見たい」
すぅ、と大きく息を吸って、息のようにそれを吐く。
「はぁ?」
「花火みたい。それ見れば、もうこの世に悔いはない」
「なにいってんだよ、おまえ。冬に花火なんて見られるわけねぇだろう」
「…」
そうだよね。
冬に見れるわけない。
私は、もう一生見ることはできない。
わかってるよ、そんなこと…。
「そうだよね、ごめ…」
謝ろうとしたとき、彼は「あ」と声を上げた。
「見れるぞ、花火。世界で一番、綺麗なもん」
「え…?」
「見せてやる。俺がお前に、世界の一番きれいなものを」
「…自分で、あるけるよ。そこまでしてもらわなくても」
冬の花火大会、当日。
車椅子を用意しくてくれたお母さんに向かって、そう吐き捨てる私。
「転んだらどうするの。結構肺、悪くなってるらしいじゃない。走ったりしたらダメですからね」
「わかってるよ。第一、花火で走ることはないでしょ」
私がそう答えると、「確かに、それもそうね」と笑うお母さん。の、すぐ横にはパーカー姿の雲。
「娘を、よろしくお願いします」
お母さんは雲に向き直って、そう深々と頭を下げる。
そこに雲は、「舞桜は、責任をもって俺が守ります」と答える雲。
あの日は、冬に花火が見られるなんて思ってもみなかったけれど、まさか本当に見ることができるなんて。
「…じゃあ、行ってきます」
病院を出る時、たくさんの看護師さんと、心配そうに手を振るお母さんを見て、私の胸は、チクリと痛んだ。
手術まで、残り五日。
もしかしたら、今日が雲と話せる最後の日になるかもしれない。
不安を募らせていると、雲が「リラックスしろ」と言われ、一気に現実に引き戻される。
「転んだらいけないから、俺の腕つかんどけ。離すなよ」
雲はさっと私に腕を寄せ、つかみやすいようにすそも垂らしてくれた。
「ありがと」
私がそう答えると、「おう」と小さく答えた雲。
あぁ、好きだなぁと、改めて思った…。
会場につくと、複数あるベンチには、もうたくさんのひとが座っていた。
私は車椅子だから、優先席にすんなりと座ることができて、雲もその横に座ってくれた。
「楽しみだね、花火!」
私がわくわくしながらそう答えると、「まぁ、そうだな」と雲からも弾んだ声が聞こえてくる。
「冬の花火なんて見たことない」
「俺も」
何度かそういう会話を交わしたあと、いきなり花火の一発目が打ちあがった。
ドーンと大きい音を鳴らしながら打ちあがった赤色の花火は、夏の時よりも、くっきりと鮮やかに見ることができた。
「…綺麗」
私がそう呟くと、横からも「綺麗だ…」という声が聞こえてきた。
ちらりと横を見ると、食い入るように花火を見る子供っぽい顔があって。
思わず笑ってしまった。
けれど、何秒か見ているうちに、だんだん子供っぽいが、格好いいに代わっていく。
頭の中にリピートされた、雲の言葉の数々が雲に重なって、どうしても格好よく見えてしまう。
「おまえ、ほかのやつに大丈夫とか言われても、笑顔で大丈夫とかしかいわねえじゃねえか。なら、嫌われてる俺が、おまえを救いに行く。それだけだよ」
「このちっせえあわの一つ一つに、世界の全部が映ってんだよ。俺も、舞桜も、公園も、空も。全部映ってる」
「おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」
「当たり前だろ。忘れたことなんてねぇよ。今までも。この先も」
雲の言葉の数々が、何度も何度も頭にリピートされる。
あぁ、私、死ぬんだな。
この花火が咲く世界で、私は散っていくんだ。
大好きな人を、残して。
「……ねぇ雲」
嗚咽と共に漏らしたその言葉は、彼に聞こえるはずもない。
私の声は、花火と嗚咽で隠された。
それでも私は、何度も言う。叫ぶ。
「雲…。ねぇ雲」
返事して、というように、私は何度も彼の名前を呼んだ。
「大好き、だよ…」
一生伝わることのない、告白。
もしかしたら明日、私は目を開けることができないかもしれない。
手術の日を迎えるまでに、私は息を吸うことができなくなってしまうかもしれない。
…もう、雲の顔も、見れなくなるかもしれない。
それが怖くて、怖くてたまらない。
どうしようもなく、彼と過ごした日々は、彼と過ごした日常が頭から離れない。
ねぇ雲。
この夜が、ずっと明けなければいいのにね。
「綺麗だったね、花火」
「そうだな。夏の時より鮮やかに、くっきりと見えるっていうか」
雲がなんだか熱心にそういうので、ふふ、と私もつられて笑ってしまう。
「本当、雲って無邪気な子供っぽいところあるよね」
「あぁ?うるせぇよ。おまえだって嘘つきの子供のように思えるぜ」
「そ、それは身長が低いせいでしょ!私はちゃんと雲に尽くしてるもん」
私が言い返すと、「ほぉ?」と雲がうなる。
こうやって言い争いをするのも、こうやって笑いあうのも、あと何回できるんだろう。
病院近くまで来たとき、私は何かに引っ張られるように動きを止めた。
少し前を歩く雲が、振り向いて「どうした?」と声をかけてくる。
「…帰りたく、ない」
ぽろっと出た言葉は、涙と一緒に零れ落ちたように思えた私は、涙が落ちるたびに、ぽつりと言葉をこぼしてゆく。
「…死にたくない」
雲の表情は、真剣だった。
「…生きたい」
ついにとうとう、泣きじゃくった声をあげる私に、黙って近づいた雲。
「ねぇ…雲。逃げようよ…二人で居よう」
「…」
雲はゆっくりと私を抱きかかえたあと、まっすぐ病院の方向へ歩いていく。
「もどりたく、ない…!!生きたい…!!もっとたくさんのものを見て見たい、触れたい!」
それでも雲は、黙って歩いていく。
「ねぇ、雲…」
私がそう呼び掛けても、雲は黙って歩くだけ。
「……二人で居たいって思ったのは、私だけなの?」
私がそうこぼした瞬間、雲は私を立たせ、そしてものすごく強い力で抱き寄せた。
「…そんなわけねぇだろ!!!」
雲らしくもない、大きな声だった。
「俺だって、俺だってできることならそうしてやりたい!けど、おまえはそれじゃあ黙って死んでいくだけなんだよ!!」
ハッと目を見開くと、雲の瞳からは涙が零れ落ちていた。
「頼むから…これ以上俺を誘わないでくれ。病院に…帰ってくれ」
泣きそうな、子供の声だった。
…辛いのは、ずっと自分だけだと思っていた。
お母さんの声も、電話のときも、したくをしているときも明るかったし、きっとこれでいいと思っているんだろうと思った。
雲だって、いつも通りに接してくれて、私が死ぬという現実を、ちゃんと見ているように思えた。
けれど、違う。
みんな我慢していただけ。
私が表を見せすぎただけ…。
辛いと思ったのは、私だけじゃない…。
私は雲の涙が枯れるまで、雲をぎゅっと抱きしめた。
離れたくないこのぬくもりが、雲から剥がれ落ちないように。
やっとのことで雲の涙が枯れたとき、私は笑った。
「…もの…だよ」
「え…?」
上手く聞こえていなかったんだろうか。雲は顔が見えない私でも、首を傾げたことはわかる。
「…雲のせいだよ」
私は今度は、はっきりといった。
「雲のせいだよ。こう思ったのは、全部雲のせい。雲が…雲が世界の美しいところなんか見せるから。優しくするから…抱きしめるから、話を聞いてくれるから…!!」
ぽつりぽつりと話し始めた。
それでも私は、泣かない。
さっきたくさん泣いた分、今回は笑顔で話を続ける。
「…生きたいって、思うようになった。死にたくないって、もっと生きられたらって、死ぬのが、怖くなったの」
雲は黙って話を聞くだけ。
それでも私は、話を続ける。
「…好きだよ、雲。だいすき。だから…連れてってよ、病院」
私の声を合図に、むくりと体を起こした雲は、そのまま私を抱きかかえて、病院へ歩き出した。
きっとこれが、正しい選択。
このまま私は死んだとしても、最後はきっと幸せなはず。
怖くないといったら、きっとうそになるけれど。
それでも私の幸せは、丸ごと全部雲に上げたい。
そんな思いを胸に、私は、雲のたくましい腕を、そっと握った。
気が付くと、ベッドで運ばれていたはずの私は、元の部屋のベッドで眠っていたようだった。
そして横には、メッセージカードが添えられていて、〔ごめんね〕とだけ書かれていた。
…あぁ、私は死ぬんだな。
直感でそう思った。
今日は十二月二十四日。
ちょうどクリスマスの日。
もう夕方だから、手術をしたあとということはわかった。
そして、カードに書かれた文字を読んで、もう大体予想はついてしまった。
…手術は、失敗したんだ。
私はもう、一日もたたないうちに死ぬ。
なんだか肩の荷が、すぅっと降りたような気がした。
私は受話器を手に取って、ナースさんを呼ぶための番号を入力した。
〈はい。こちらナースの村田です〉
「あ…五百六号室の水瀬舞桜です」
私がそう名乗ると、〈あ、舞桜ちゃんね。どうしたの?〉という、柔らかい声が返ってきた。
「…えっと、面会通さないでほしいんです」
〈…え〉
奥から息をのむ声が聞こえた。
「お母さんも、雲も。通さないでほしいです。絶対」
〈で…でも。もう昨日ちらっと見た程度でしょう。あったらどう?〉
「いえ、いいんです。どうせ仏壇で顔見ますから」
私はそう言ったあと、受話器をもとの位置に戻した。
ガチャンと音がして、リセットされる電話機。
あぁ、ほんとうに、私は死ぬんだ。
…ひとり、きりで。
するとどこからか視線がきたような気がして、私は思わず振り返った。
そこには、茶色のクマの人形が置かれていた。
私はそれに見覚えなんてなかった。
私はもう一度受話器を取り、「すみません、机に置いてあったくまのぬいぐるみに見覚えがないんですが」と看護師さんに言った。
〈え、あぁ、それはね。えーと…夕凪さんが持ってきてくれたみたいよ〉
「えっ…?雲が?」
〈えぇ。名簿に彼の名前が載ってあるし、彼女にあげるぬいぐるみなんですが、持って行ってもいいですか?って言っていたわ〉
…彼女…。
「…あの、お礼を言ってもらうことって、できますか?」
〈んー…こっちも色々と今大変でね。あなたと同じくらいの年齢の子がね、もういつ死んでもおかしくない状態になってしまったから…。それに、舞桜ちゃんから言ったほうがいいと思うわ〉
きっと、これは看護師さんなりのウソだ。
なんとなくわかった私は、話をつづけた。
「…でも」
“でも、といや、を言う人は、逃げているだけ”
そよ風に乗ってきた言葉のように、ふんわりと耳に届いたその言葉。
誰も声かも、誰の言葉かも知らないけれど、私はとっさに口をつぐんだ。
「…そう、ですね。無茶言ってごめんなさい」
私はそう口にして、受話器を元に戻した。
…私が、直接伝えるんだ。
スマホを手に取って、通話アプリをタップする。
そして、名前欄から雲を見つけて、アイコンをタップした。
一コール、二コール。
もう一度コールが鳴った時に、ブツリと音がしたあと、〈…舞桜?〉と、私の大好きな、世界で一番好きな人の声が聞こえてきた。
「くも…」
てんぱっているわけではないけれど、言葉が出て来ない。
どうしようもなく、怖いと思ってしまうんだ。
〈どうした?なんかあった?肺いたくなったとか?〉
「ち、違うのっ。ごめん、忙しかったでしょう?き、切るね」
どうして。
伝えたいのに。ありがとうって。
伝えたいのに。大好きだって。
あと一言、付け加えられればいいのに。
言えない。
〈別に忙しくないよ〉
雲は平気な声でそう言った。
「…い、いいの。ただ…ただ」
ありがとうって、伝えたかっただけ。
雲は私がしゃべろうとしていることを察したように、じっと何も言わずに待ってくれた。
「…その…。えっと」
頭の中に浮かんだ言葉の数々が、一気に消えて。
「く、くまのぬいぐるみ…!ありがとう」
一生懸命に、そう伝えた。
すると、スマホの奥で、くすっと笑う声が聞こえたつかのま、
〈よかった。喜ぶかなと思って、UFキャッチャーで取ってきたんだ〉と返事してくれた。
「ほんとに…ありがとう。元気出た」
〈…うん〉
「それじゃ、切るね」
私はそう言って、雲の返事も聞かずに、電話を終了した。
そして再度、受話器を手に取って、「やっぱりさっきのお願い、取り消しで」とだけ伝えて、戻した。
…私はひとりなんかじゃない。
雲がいる。お母さんがいる。
応援してくれる人が、たくさんいる。
私の人生は、光っていた。
幸せだった…。
もう、悔いはない。
きっと、これでいい。
―12月25日。午後7時17分。水瀬舞桜、肺がんで死亡。
…舞桜が死んでから、五日が経過した。
けれど俺は、まだその現実を受け入れられてはいない。
薄暗い部屋に引きこもったままの俺は、頭もこれでもかってほどぼさぼさだし、服もだらしないパーカー。
たまに部屋をのぞきにくる父さんに、死んだ目をしていると言われてしまった。
けれどもう、俺は死んでもいいと思っている。
それほど、舞桜が好きだった。
恋しかった。
「雲」と優しく呼んでくれるその声も。
ウソの笑顔じゃない、柔らかな笑みも。
怒りっぽいけど、優しい性格も。
泣きじゃくる姿も。
全部がすきで、好きで、たまらなかった。
もっと生きたいという舞桜を、拒んだのは俺なのに。
…舞桜が涙を流して死んでいったのは、俺のせいなのに。
冬休みはもうすぐ明ける。
舞桜が死んだことがみんなに知れ渡る。
そのとき俺は、どんな顔で居ればいいんだろう。
ああ、もう全部どうでもいい。
「…舞桜」
光を拒むカーテンが、ふわりと一瞬揺れた。
舞桜が愛した世界で、俺は生きられない。
舞桜なしでは…生きられない。
俺が舞桜を好きになったのは、シャボン玉を飛ばしたときだった。
あの無邪気な笑顔を、あの弾むような表情を、心の底から守りたいと思ったのが、きっときっかけだった。
…今でも思う。
家のチャイムが鳴って、舞桜が来てくれるんじゃないかと。
インターホンから、「雲ってば、どうせまた仮病でしょう?お片付けしにきたよ」と笑って言ってくれるんじゃないかと。
ドッキリ成功!とまたその無邪気な笑顔を向けてくれるんじゃないかと。
そんなことを、思ってしまうんだ。
ありえないことだと知りながらも、そうであってほしいと願わずにいられない。
何時間経過しただろう。
窓の外は夕陽が落ちていく寸前で、カラスがバカでかい声でぎゃあぎゃあ鳴いていた。
次の瞬間、ぶるっと何度かスマホが振動した。
…舞桜が死んでから、初めてスマホを手に取った瞬間だった。
瞬間、息をのんだ。
送られてきた相手の名前欄には、確かに、確かに舞桜という文字が書かれていたんだ。
「っ…」
俺は急いでスマホのパスワードを入力して、メッセージを開いた。
花火のアイコン。
まさしく、舞桜のアカウントだった。
震える指先で、【メッセージを読む】をタップしてみた。
【一月一日。二人でシャボン玉を飛ばした公園に行ってみて】
午後六時。
あたりはもうすっかり暗くなっているころ、俺はひとり、公園に足を踏み入れていた。
ザクッザクッと音が鳴る足音だけが、あたりに響いていた。
「…え」
一番はしっこのベンチの上。
確かにあの日、俺らが座ったベンチの上に、サイズがデカい封筒が、ぽつんと一つ置かれていた。
俺は急いで封筒を手にして、【雲へ。 水瀬舞桜より】と書かれてあることを読んでから、封筒を開いた。
中には、手紙が何通かと、舞桜が取った俺の写真や、花火の写真がたくさん入っていた。
俺は先に手紙を取り出して、震える手を押さえながら、下唇をかみしめてそっと開いた。
【雲へ。
これを読んでいるということは、きっと私はもうこの世にはいないんだろうね。なんて、よくありがちな内容になっちゃうな。
でも大切な話だから、そのまま読んでいてほしい。
先に言っておくと、これは雲と最後に通話したあとに書いたものだよ。
どうせ私はもういなくなってしまうのに、わざわざありがとう。
お金と努力、無駄にしちゃってごめんね】
しっとりとほほが濡れるのがわかる。
けれど俺はそれを拭いてから、もう一度その文を読んで、下へ下へと目線を移動させた。
【あのね!聞いて!クリスマスの日、窓からツリーのイルミネーションが見えたの!すごく、すっごく綺麗だった。
冬の花火、すごく綺麗だったよね。
あの日の最後は、わがまま言ってごめん。でもそれくらい、私は雲のことを愛してるってことだから、拗ねないでよね】
拗ねてなんか、ない。
ただ、あの時俺の理性は爆発しそうだったけどな。
【雲、意外と寂しがり屋だから、どうせ私がいなくなったあとは、家に引きこもったりしてるんでしょう。学校はちゃんと行ってよね。
あと、いろいろと迷惑かけちゃうかもだけど、みんなに言い訳は考えておいてね】
そこまで読んで、俺は次の紙に目を向けた。
【いままでありがとうなんて、言いたくない。ばいばいって、言うのも辛い。できることなら、また会おうとか、またねって言いたい。でも、もう私達には、またはないんだろうね。
雲はこれから、もっと成長して、もっと格好良くなっていく。
もしかしたら、結婚もするかもしれない。
そのとき、私のことが原因で、ダメになってほしくないの。
だから私のことは、これを読み終わった後は、忘れてほしい】
「そんなのできるわけねえだろ…」
俺は思わず吹き出しながら、涙を拭いてつぶやいた。
【私ね、雲の結婚式で、花嫁に、雲をよろしくねって伝えたいっていうのが、入院してからの夢だったの。
その前は、その花嫁が自分だったらなぁなんて思ったこともあったけど、そんな話照れくさくて、雲にはしてなかったね】
【手紙越しになっちゃうけど、実は私、雲が思ってるよりもずっと雲のこと、大好きだったよ。
暗い話になっちゃうけど、もっと生きられればって何度も思った。
もっと雲と一緒に居たいって、何度もつぶやいた。
一人は孤独だって、人生ではじめて思った。
…雲と結婚したかった。
子供も、生みたかった。
お母さんって呼ばれてみたかった。
仕事をしてみたかった。
雲がおじさんに、おじいさんになっても、ずっとそばで支えたかった】
俺も。俺だって、そうだよ。
舞桜がおばさんって呼ばれて怒ってるところとか、ばあちゃんみたいにしわしわになっても、俺が支えてあげたかった。
…あいつの心の救いになりたかった。
【私にはもう、明日はないけど。
今言える「ありがとう」と、「大好き」はここで全部言っておくね。
後悔しないように。
あー…でも、キスが一回だったっていうのも残念だったなぁ。
初キス奪われたの、ぜったい忘れないからね。
まあ、とにかく、ありがとう。大好き‼‼】
そこで途切れた文字。
最後には、【あなたの大好きな舞桜より】と書かれていた。
「…変な終わり方」
思わずつぶやいた言葉に、思わず笑ってしまった。
夜空が俺の目に映る。
「…愛してる……」
精一杯の言葉だった。
頬はまだ濡れていたけど。
確かに俺には、生きる希望ができた。
これもまるごと全部、舞桜のおかげだ。
だから、今だけ。
今だけ許してくれ。
【今だけは、泣いていい時間にしよう】
俺は声をあげて泣いた。
子供みたいに泣きじゃくった。
…空には花火が咲いていた。
【というか、今思い出したんだけど、私いっかい「絶対私を忘れないでね」って言ってたね(笑)
忘れないでくれてありがとう。でも私は笑顔で居てほしいな。
幸せになってね。絶対だよ??
そろそろ時間かな。
―私のために、泣いてくれてありがとう。】
END