花火の音が鳴りやむまで 私はきれいなウソをつく。

「…あのなぁ。俺だって意地悪で言ってるわけじゃないんだよ。わかるだろう。おまえなら」
「はい」
私はにっこり笑ってそう答えた。
「……話にならない。次の間に、また進路表出してなかったらこうやってまた呼び出すからな」
「…わかりました」
私は失礼しました、と伝え、教務員室を出た。
はあ、と思わずため息が出てしまう。
私の名前は水瀬舞桜。
舞う桜と書いて、舞桜だ。
「あっ、水瀬さん!ここ教えてくれない?」
教室に一歩足を踏み入れると、水瀬さん、水瀬さん、とクラスメイトに囲まれた。
けれど、思いとは裏腹に、「うん、いいよ」と言葉が漏れる。
今日も私はウソをつく。
それが私の演じ方。
それが私のやりかただから。
クラスメイトはほとんど、私のことを信用しきっている。
けれど、たったひとり、私のことを嫌いだと言うひとがいる。
「うっせぇな」
こちらをにらんで、低くつぶやいた彼…夕凪雲くん。
「もう!ほんとう、雲は舞桜のこと好きだよね」
「はあ?ちげぇし」
そう、コイツが、私の一番大嫌いなひと。
「俺は水瀬のこと嫌いだって言ってんだろ。優等生気取りしてる奴なんて大嫌いだ」
夕凪は…もう名前も思い出したくもないけれど。
こうやってひとのことをバカにして、嫌いな人は嫌い、嫌なことは嫌、というのだ。
正直者というか、バカ正直というか。
そんなひとである。
けれど、絶対顔にも、声にも出さない。
私は、“優等生”だから。
彼とは違って。
「ふふ、今日も夕凪は辛辣だ~。正常そうで何よりです」
そう言って微笑むと、彼はうげえ、と顔をしかめ、大きな声で叫んだ。
「はいはい、また始まった。優等生気取りかってんだよ」
その言葉に、私の顔も、多分一瞬ひきつってしまったと思う。
“優等生気取り”。
そんな言葉は、さすがにひどい言葉だと思う。
けれど、絶対言わない。
彼を傷つければ、彼のファンクラブに殺されてしまう。
夕凪は、真っ黒な黒髪に、大きな瞳、薄い桃色の唇、すらりと伸びた高身長。
まるでアイドルのような容姿に、女子生徒が黙っているはずもない。
そして、一年もたってしまえば、もうファンクラブまでできてしまった。
ギラリと光る瞳が、私のことを凝視している。
その視線がつらくて、私は思わず彼から目をそらした。
その次の瞬間、「席つけ―」と言いながら教室に入ってきた先生と遭遇した。
そのおかげで、彼の視線から逃れることができた。
放課後、私は塾へ向かうために急ぎ足で教室を出た。
早く帰らなきゃ、早く、という言葉が、頭の中でずっと回転していて、止まらなかった。
なのに。
「…っ」
廊下を急ぎ足で進んでいると、スマホゲームで遊んでいたのか、イヤホンを耳につけ、スマホを片手に歩いていた、夕凪にぶつかった。
「あ?」
彼は私がぶつかったのに気づいて、イヤホンを外し、低身長の私を見下ろす。
「…ごめん。今急いでて、通してくれない?」
私がそう言ってパンッと柏手を打つと、彼は「チッ」と舌打ちして、再度イヤホンを耳につけ、去っていった。
今回ばかりは彼につかまることがなくてよかった、と少しほっとしながら、私は靴箱へと足を運んだ。
「え…うそでしょ」
靴箱について、靴に履き替え、外に目を向けたとき、はじめて、ザアーと音を鳴らしながら、雨が降っていることに気づいてしまった。
今日は天気予報でも晴れだと予想していたため、傘なんて持ってきていない。
「最悪…」
誰もいない靴箱でそう呟いたあと、教務員室で傘を貸出しているか確かめに、再度元来た道を戻る。
廊下を歩きながらも、塾のことが頭でぐるぐる回る。
早くしなきゃ、という焦りが私の額を濡らす。
体温が上がってくるのが分かる。
ドクドクと心臓が嫌な音を立てている。
それくらい、私は焦っていた。
窓に目を向けると、やっぱり雨は止まない。止む気がしない。
「…どうしよう」
気持ちが悪くなって、思わずそこにうずくまる。
うっ、と思わず口に手を当てて、悟られないように立ち上がる。
壁に体重を預けながら、廊下を進んでいく。
幸い、通り過ぎていく人たちは私には気づいていないようで、ほっとした。
もうすぐ教務員室につく、と思ったとき、にゅと効果音でも出そうな勢いで、夕凪が私の視界の全面を体で隠す。
「え…夕凪?」
思わず声を漏らすと、「黙れ」と低い声が上から降ってくる。
次の瞬間、ぎゅっと腕をつかまれ、薄暗い教室に引っ張られた。
びちゃびちゃと雨の音が聞こえる薄暗い教室は、どんよりとした雲で、さらに暗くなっていた。
鍵が置かれていないことから、ここは空き教室なんだということが分かった。
「…どうしたの、急に」
まるで告白する直前のようなシチュエーションなはずなのに、相手が夕凪ということと、頭の痛みと気持ち悪さが押し寄せ、集中できない。
思わず再度口を覆うと、彼は顔をしかめ、「はあ」とため息をついた。
「ほんと、おまえって頑固だよなあ」
「…な、んのはなし。帰りたいんだけど…」
私がそう言って教室のドアの方をちらりと見ると、夕凪は「チッ」と舌打ちをしたあと、「ほんとう、おまえ不器用だよな」と低い声でつぶやく。
「気分悪いんだろ。おまえがいくべきとこは教務員室じゃなくて保健室じゃねえのか」
どうして。と声に出そうになって、思わず止めた。
なぜ、彼にはわかったんだろう。
笑顔も作った。
隠し通したつもりだった。
口元を抑えて、ちょっと会話したくらいなのに。
どうして彼には、私のウソが見抜けるんだろう。
「…早く帰りたいの。今日塾で模試があってね。早くいかなきゃいけないの。だから…通してくれない?」
もう一度お願いしてみると、「無理」と即答されてしまった。
どうやら、当分私を返す気はないようだ。
「はあ。ほんと、おまえは俺の気遣いがわかんねぇんだな」
「気遣い?」
思わず低い声で呟いてしまった。
どこが気遣いなんだ、と思ってしまったから。
「そうだ。俺がなんでわざわざ空き教室なんかに来たと思う?おまえが人に見られたくないんだろうなと思ったからだよ。なんでこうやっておまえに付き合うと思う?俺がおまえのこと嫌いだからだよ。だから俺がいうしかねぇだろうが」
「…」
あまりにもはっきりした口調に、私の方が驚いてしまった。
「…嫌いなら、どうして私と関わるの。嫌いなんでしょう?わたしのこと。なら放っておけばいいと思うけど」
私が理屈をいうと、彼はあきれたようにつぶやいた。
「おまえ、バカなの。嫌いだから、俺が言うしかないんじゃねえか。おまえは俺にしか本性みせねぇだろ。おまえは俺のこと嫌いだろ」
「え」と思わず声がこぼれた。
知られていた。
嫌いだということが。
苦手意識をしているということが。
「おまえ、ほかのやつに大丈夫とか言われても、笑顔で大丈夫とかしかいわねえじゃねえか。なら、嫌われてる俺が、おまえを救いに行く。それだけだよ」
「…それだけ?ほんとうに、それだけなの?」
思わず食いついてしまった私は、ハッとして一歩下がる。
彼は目をまんまるにさせ、次の瞬間、ぷっと噴出した。
「ふっ。ははは」
笑う彼に、私は再度気分が悪くなったけれど、どうしても彼が離れてくれないから、もう諦めた。
スマホを取り出して、「ごめん、今日塾いけない。カサ忘れて遅れちゃう」とお母さんに連絡した。
「連絡し終わったなら、もう安心だろ。保健室行くぞ」
そう言って再度私の腕をつかんだ彼に、「ちょ、ちょっと待って!」とさけぶ。
「あ?なんだよ。触らないで、とか言われてもしょうがねえよ。女子だから嫌だとか、そういうのは受け付けてねえぞ」
彼は淡々とした口調でいい、教室を出ようとした。
けれど、私は再度、「待ってってば」と叫び、彼の前に立ちふさがる。
「…私、帰る。もう結局塾には遅れちゃうけど…帰らなきゃ」
私がそういうと、彼は面倒くさそうに「はあ?俺が返すわけねえだろ」と適当に答えた。
「……」
「なんだよ。めんどくせぇなあ」
確かに、面倒くさいと思う。
それくらい、私は面倒くさい女だ。
けれど、違う。
帰りたいのも、違う理由だ。
もう結局塾はお見送りとなってしまった今、もう保健室に行くしか選択肢はないだろう。
けれど、ダメ。どうしても、無理なんだ。
「…無理、だよ。クラスメイト達に見られるの、恥ずかしい…。弱い自分を見せたくない」
私がそういうと、彼は口角をニヤッと上げて、高々と宣言した。
「そうかよ。なら早く言えよな」
彼は制服の上から来ていたパーカーを、いきなり脱ぎだした。
パーカーの下から、真っ赤なネクタイが顔を出す。
白色の半袖制服に黒いズボンは、生き生きとしているようだった。
彼は「ん」と私の前にパーカーを突き出した。
「え…?」
私が困惑していると、彼は「着ろって」と声を荒げる。
私は言われた通り、突き出された紺色のパーカーを着た。
ダランと袖が落ちて、私の膝のちょっとうえまで堕ちてきたパーカーのポケット。
「じゃあフードもかぶれよ。それならバレねえだろ」
「…でも、これじゃあ夕凪と一緒に居るからバレちゃうよ」
「妹だって言っておけばいいだろ。まあ、いいじゃん。でよう」
彼はそう言って、再度私の長い袖をぎゅうと握り、教室を出た。
廊下を歩いているうちに、数々の視線が私に突き刺さる。
ひそひそと、「あの子は誰だろう」「夕凪に彼女できたのか!?」という声が聞こえてくる。
「……夕凪」
私が思わず不安になって彼に問いかけると、彼は私を見下ろして、ゆっくりと頭を撫でた。
「大丈夫。俺がいる」
ゆっくりとつぶやいた彼の言葉は、痛いほど私に染みた。
―「大丈夫」という言葉が欲しかった。
急にそんな思いが生まれ、全部真っ暗に変わったような気がした。
―舞桜ならできるよ
―舞桜が居れば安心だよね
そんな期待を裏切ったときの目線が怖くて、私はなるべく目立たないように生きてきたつもりだった。
けれど、中学三年の時、うっかり私は、テストで満点を取って、クラスで表彰されてしまった。
みんなの注目を浴びた私は、あのとき、こういってしまったんだ。
『簡単な問題だった』と。
自慢したわけじゃない。
けれど、その言葉は瞬く間に学校中に広まって、気づけば私の学校での立ち位置は、「天才」「優等生」というありきたりな言葉が並べられていた。
だから、求めていた。

「大丈夫」「頑張ったよ」「もう休んでいいよ」「完璧じゃなくていい」「舞桜は舞桜だから。他の誰でもない。舞桜は舞桜自身だから」
「舞桜のせいじゃないよ」

―そんな言葉を求めていた。
けれど、誰も言ってくれなかった。
だから私は、自分で自分に言い聞かせたんだ。
綺麗ごとを並べて。

みんなつらいと思う。
けれど、“みんなつらいんだから”とひとまとめにされることが、みんなと一緒にされることが、何より嫌だ。
私はきっと、誰かを求めていた。
私の前にたって、守ってくれるような、おうじさまを求めていた。
勝手な想像を押し付けたひとたちを、私は「好きな人」って呼んでいた。
――辛いって言えないことが、なによりつらかった。

「…せ。なせ」
遠くから、暗闇から、夕凪の声が聞こえる。
多分水瀬、と呼んでいると思う。
けど、返事ができない。
言葉が詰まって、動かない。
その、次の瞬間。
「舞桜!!」
ハッと、現実世界に戻ってきたような気がした。
「…え」
「保健室のせんせー、外出中らしい」
「あ、そう、なんだ」
「まだお前、帰れねぇな」
夕凪はすました顔でそう言った。
夕凪はもう帰るの、なんて言えない。
「……そう。じゃあ夕凪は帰っていいよ。ひとりで待ってるから」
「はあ?帰るわけねぇだろ」
「…えっ?」
正直、「ああ、そうするわ」とか、そういうあっさりとした言葉をもらうと思っていた。
「俺が帰ったらおまえを見張るやつが居ねぇだろう」
「見張るって…」
「おまえいつ帰るかわからねぇからな」
「…そっか」
思いとは裏腹にそっけない言葉を発してしまう。
いつもそうだ。私は、頭で考えていることと裏腹な言葉をずっと言ってしまっている。
「…おまえさ。いつからそうなったんだよ」
「え?」
急に夕凪は低い声でそう言った。
「いつから、そんなんになったんだよ」
どうして…彼は、私の気持ちをいつも見抜くんだろう。
「…中学生のころ、かな」
他愛もない会話のように聞こえる私たちの会話は、思うより重たく、決して軽々とする言葉なんかじゃない。
「…へえ」
「夕凪はいつも私のことののしるよね。そんなに私のこと嫌い?」
「…俺はつらいって思うやつが必死に笑顔作る理由、知ってんだよ。だからかも知れねぇな。辛い、苦しいって思うやつほど、それを隠そうとするんだよ」
彼は淡々とした口調だった。
いつもそう。彼の言葉には、迷いもない言葉ばかり。
「…」
「おまえは全部当てはまってるだろ」
「…そうかな」
「そうだよ」
そのとき、ガラガラと保健室の扉が開き、白衣を着た先生が現れた。
「あら。夕凪くんじゃない!」
「ああ。こんちは」
夕凪が低い声でそう言ったあと、先生の視線は私の方に来た。
「あら。夕凪くんの彼女さん?」
「あ?そんなわけねぇだろ」
「もう高校生なのよ~?恋なんていくつもするものよ」
彼女たちは楽しそうに会話をしている。
そんな中、私は二人の間でぽつんと立ち尽くすだけだった。
「ああ、ごめんなさいね。どこか悪いの?」
「こいつ気持ちわるいんだってさ」
「あら。大丈夫?どこか痛いところは??もう、教務員室にいたんだから呼んでくれればよかったのに。気持ち悪いんでしょう。熱は…ないみたいねえ」
私の額を触りながら、先生はそう言った。
「あ…えっと」
「ごめんなさいねぇ。早く来ればよかったわよね」
「い、いえっ…大丈夫です」
私がそう答えると、夕凪にギロりと睨まれた。
「…えっと、どうすればいいですか?」
「とりあえず、ベットで寝ましょうか。気持ちが悪いなら、休むのが一番よ」
「ありがとうございます」
私はカーテンを開け、ベットに寝そべった。
「休んどけよ、そこで」
カーテン越しに夕凪が言う。
「…うん。ありがとう、夕凪」
私がそういうと、夕凪はびっくりしたように後ずさったあと、
「雲って呼べよ」
ボソッとつぶやいた。
「えっ?」
「くも。他のやつらにそう呼ばれてるから」
カーテンの光が反射して、彼の影が見える。
「わかった。じゃあ、私のことも舞桜って呼んでね」
「はあ?なんで」
「仕返し」
私はにぃ、と笑って、「おやすみ」と毛布に顔をうずめた。

次の日、私の体調は回復していて、いつものように学校に通うことができた。
「あっ。おっはよ!舞桜」
「おはよ、静歌」
親友の静歌に声をかけられ、私も笑顔で返す。
「…あ」
そして、後ろにいる夕凪…雲の姿も見えた。
「雲…」
「おはよ、舞桜」
彼は眠そうに顔をしかめながら挨拶してくる。
「おっ、おはよう」
思わず返事をすると、彼はおう。と答えて自分の席に移動する。
「え、え。どういうこと!?」
静歌が驚いたように顔を上げた。
「…あー。なんやかんやあって、ちょっとだけ仲良く、なったかも」
私がそうつぶやくと、「へえ…そうなんだ」と答えた静歌は、ゆっくりと自分の席へと戻っていく。
ひとり取り残された私は、そのあとも何人かに声をかけられたけれど、普通の顔で通り過ぎることができた。

「…」
「だからさあ。おまえだけ進路表出てないんだよ。やりたいことないのか?」
「…」
放課後、再度進路について教務員室に呼ばれた私は、先生に詰め寄られていた。
「例えば、好きなものとか」
「私は、あまり…」
「じゃあ趣味とか」
「…ない、です」
私がそういうと、はあ、と盛大なため息をついた先生。
「おまえさあ。ほんとう無能だな」
「すみません」
笑顔は作ってる。
けれど、本心は無能、と言われて傷ついていた。
「おまえは勉強も運動もほかのやつより上手くできてるからさ、わかるだろう?先生、おまえのこと嫌いってわけでも、イジメたいってわけでもないんだよ」
「…わかってます」
「なら、いいだろう。来週まだ提出してなかったら、もう一回呼び出すからな」
「わかりました」
私がそう言って、失礼します。と言って教務員室を出ると、目の前には雲の姿があった。
「わっ…」
「おまえ、まだ進路表出てねえの?」
「…うん。何したいとか、よくわかんなくて」
私がそう言って笑うと、彼は顔をしかめた。
「へえ」
「…雲はどうしてここにいるの?」
私がそういうと、雲は思い出したように、ポン、と手をたたいた。
「そうだそうだ。おまえ探してたんだよ」
「…え?私?」
人違いじゃないかな、と一瞬疑うほど、彼の言葉はまっすぐで、ウソがない。
「おう。今日の五時、桜木公園で待ち合わせしよう」
彼には似合わない、“待ち合わせ”という単語に、私は思わず目を丸くさせた。
「どういうこと…?」
「まあ、行けばわかるよ」
そう言って教えてくれなかった雲は、じゃあな、とこぼして廊下を歩いていく。
五時、桜木公園。
なんだか妙に嬉しくて、私は思わず笑みを作っていた。

薄暗い空は、決していい天気とは言えない。
けれど、私の気分は上がっていた。
ふわり、とスカートが揺れ、弾むように動く足。
風に揺られて、私の薄茶色の髪がなびく。
「雲、お待たせ」
桜木公園に足を踏み入れると、少し開けたところの一番端っこのベンチで、雲はなにか作業をしていた。
「おう。もう五分近く待ってんだけどな」
そう言って笑った雲に、「そんなに遅れてないし」と唇を尖らせる。
「それで、どうしたの。何か緊急?」
「いいや。おまえが喜びそうなもん持ってきた」
彼はニヤリと笑ってそう言った。
「え?雲が?」
思わずそういうと、彼は「うっせえ」と笑って私の頭を撫でた。
「じゃ、行くぞ!」
彼の声は弾んで、空へと飛んでいく。
そのとたん、雲が動いて、桜木公園に太陽の光が差した。
ふぅーと音でも出そうな勢いで、彼はストローを吹いた。
ゆっくり作られる“あわ”は、そのまま空へと飛んでいく。
「え」
思わず漏らした声に、「ドッキリ成功」といたずらっ子のような笑みを浮かべる雲。
再度彼がストローを吹くと、小さいあわや大きいあわ、そのあわが空へ飛んでいく。
「シャボン玉…?」
私がそう言って彼を見ると、彼は「おう」と低い声で答えた。
「やってみるか?」
彼はポケットからもう一本ストローとビンを取り出して、私に渡した。
「…ありがとう」
私はそのストローに口を近づけ、ビンにストローを押し付ける。
ふぅ、と息を流し込むと、ストローから小さいあわが飛び出た。
「おお、上手いじゃねえか」
「ありがと」
私がそう言って、再度ストローを吹くと、今度は大きいあわが飛び出る。
「…すごいよな」
シャボン玉で数分遊んでいると、雲が一人そう言った。
「このちっせえあわの一つ一つに、世界の全部が映ってんだよ。俺も、舞桜も、公園も、空も。全部映ってる」
彼はしみじみとつぶやいた。
だから、私もすごいと、綺麗だと、そんな気がしてきてしまう。
だって、彼の言葉はいつも正しい。
彼の言葉は、いつも重たい。
「…すごいね」
気づけば、私もそう呟いていた。
「ねえ、どうして雲は私にシャボン玉なんて見せてくれるの?」
そう尋ねると、雲は当たり前のように、答えた。
「おまえが今にも死にそうな顔してるからだよ」
「…え?」
「おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
淡々とした口調で、彼は言う。
…私の、ために。
「ふう。そろそろ帰るか」
雲と一通り遊びまくった後、帰りのチャイムが鳴ったとき、雲がぼそりとつぶやいた。
「そうだね」
私がそう言って立ち上がると、彼も立ち上がった。
「最後に、LINE交換しようぜ」
「え?」
公園を出ようとした矢先、彼が後ろからそう語りかけた。
「次また呼び出すとき探すの面倒くせぇからな」
「そっか…。それもそうだね」
私はスマホを取り出して、彼と連絡先を交換した。
ラインの欄に、【夕凪雲】と書かれているのがくすぐったくて、私はふふ、と声を漏らしてしまった。
「なんだよ」
「なんでも」
私がそういうと、彼はチッと舌打ちをした。
「ふふ」
私が再度微笑むと、舌打ちの音は大きくなった。
面白いと思った。きっと、人生で一番……

―彼と一緒に居ることが、一番面白いと思った。

「おはよ、くも」
朝、彼が校門に歩いてくるのを確認した私は、先に校門についていても、立ち止まって、彼が来てから歩き出す。
「おはよ」
別に何か約束をしているわけではないけれど、どうせなら、と考えた私は、次の瞬間立ち止まった。
…いや、よくよく考えて、この状況はおかしいだろう。
私は、彼が嫌いだ。
そして、彼も私のことが嫌い。
ということは、私たちは遠回りしているだけ、なのでは…?
「…あ、えっと。くも。今日の小テストの勉強ちゃんとしてきた?」
「いーや。別に。っていうか、いつもゼロで受けてるから」
どや顔でそう言い放った彼は、あきらかに滑っている。
「…もう。そんなだからいつも十点とか0点なんでしょう!」
「うっせ」
彼は微笑んで、ポンポン、と私の髪を触って、触れては離す、触れては離すを数回繰り返したあと、彼はにっこり笑って私を見下ろし、靴箱へと入っていった。
それを私も追いかけて、靴箱から上靴を取り出して履き替える。
「ああ。そうだ。忘れるところだったよ」
彼は私が履き替えるのを見届けたあと、カバンをごそごそと探り、二枚のチケットを取り出した。
それは、夏祭りの遊びまくりチケット。
五店は無料で遊べるという、限定チケット。
商店街で売っていたくじ引きの一等賞だったような気がする。
「これ、一緒に行こうぜ。せっかく二枚分だし、夏休みが始まって三日目だろ?ちょうどいいんじゃないかと思ってさあ」
彼はふ、と笑ってそう言った。
「…ありがとう。行きたい」
夏祭りなんて、人生初かもしれない。
私は一枚チケットを受け取って、それをしばし眺めようと手もとへ引き寄せる。
「ありがとう」
再度お礼を言って、なくさないように、大切にカバンへチケットを入れた。
「おう」
彼も笑って、二人で教室へと歩いていった。

「…え?」
「ねっ。お願い!舞桜ちゃんと夕凪くん、すっごく仲いいでしょう?私、夕凪くん狙いだから、好きな人聞いてきてほしいの!!」
昼休み、トイレに呼び出された私は、同じクラスの如月優芽さんにそう恋愛相談をされた。
「…えっと、私、恋とかよくわからないの。雲もきっと、そういう話題嫌いだろうし…」
「そこを何とかっ。お願い!」
如月さんは、学年一と言っても過言ではない、可愛くて、おしゃれな女の子だ。
薄桃色の髪の毛は緩くカーブしていて、それをハーフツインテールしている髪型なんて、通り過ぎただけでも恋をしてしまうほど。
可愛いだけじゃ表せない。
彼女から香ってくるラベンダーの香りも、すごく心地がよい。
「…聞いてみるけれど、あんまり期待はしないでね」
私はそう言ってトイレを出た。
「ありがとう!」と後ろから声が聞こえてきたけれど、聞かなかったことにしようと決意した。
というか…如月さん、雲のこと好きなんだ。
廊下を歩いているとき、ふとそう頭に浮かんだ。
そのとたん、胸が締め付けられたみたいに苦しくなる。
「…っ」
如月さんみたいな可愛い女の子に告白されれば、きっと雲もokしちゃうよね。うん、そうに違いない。
もう高校生だもん。雲も恋していて当たり前の年齢。
…そのはずなのに。
ポロ、と目から流れ落ちたしずくは、私の水色の上靴へと落ちていく。
ポロポロと流れる涙を止めることはできなかったけれど、その涙は小さいもので、誰も気づかない。
良かった、と安心した直後、ふわりと体が宙に浮いた。
背中には、大きな温かい手が回されている。
「…えっ」
私が顔を上げると、そこに雲がいた。
雲が、私を見つけてくれた。
「…く、雲っ?どうしたの、急に…」
「おまえ、泣いてんだろ。腹いてぇのか」
私がふるふると首を振ると、「じゃ、頭いてぇのか」と聞かれ、また頭を振る。
「…どっか悪いのか」
そう聞かれて、私は一瞬迷ってコクりと頷く。
病気というほどではないけれど、なぜか涙が出て止まらない。
きっとどこか悪い。そう思いたい。
「…そうか。保健室行くけど、いい?」
私はさっきと同じように首を振る。
「そこまでしなくても、」と言葉を漏らしながら。
「そうか」
彼は少し黙ったあと、「…見られたくないか」と再度聞いてきた。
私は、周りを少し見て、こく、と頷く。
「わかった」
彼は、やっとのことで歩き出した。
半袖の制服を着た少女を抱えながら。
ゆらりと揺れる私の髪の毛は、歩くたびまたゆらゆらと揺れる。
まるで海藻みたいだ。
気づくと、誰もいない体育館に来ていた。
今は昼休み中だけれども、バスケ部は練習はしていないようだ。
彼は迷うこともなく、体育館の二階へと向かう。
そして、二階へとたどりつくと、私を下ろしてくれた。
「…ありがとう」
涙が止まった私は、そう言って笑いかけると、「おう」と低い声で頷いた彼に、不思議に思う。
なんだか、元気がないように思えるから。
「…どうしたの」
気づけば私はそう言っていた。
「おまえさあ。ほんとう、誰かに言う癖付けた方がいいぜ」
どうしたの、と聞けば、彼は打ち明けるように小さい声でそう言った。
いや、どうして私の話になるの、と突っ込もうとしたけれど、やめた。
「…怖いの。頼ること」
私も小さい声でそういうと、彼は私をじっと見つめてから、
「そうかよ」とつぶやいた。
「…怖い。どうしようもなく、頼ることが…」
私が再度そういうと、彼は少し黙ったあと、そっと私を抱きしめた。
少女漫画だと、これは愛情表現のような感じだと思うけれど、私はちゃんと知ってる。
彼は、私を安心させようと、大丈夫だよ。と、そういうためにこうしてくれる。
全部、全部私のために。
「…私ね、小学生のころから、ずっと“できる子”としてみんなに見られていたんだと思う」
「できる子?」
「小学三年生の時、それを自覚したんだよね。きっと」
ふふ、と笑った私は、ゆっくりと話し出した。
私の過去を。

私は、きっと先生から見ても、生徒の方から見ても、優秀な生徒だったと思う。
テストはいつも百点ばかりだったし、運動も苦手ではなかった。
成績表はいつもオールAで、先生からもよく褒められた。
だから、私はできる子ということがみんなに知られていた。
なんでもできる、完璧な人。それが私の、クラスでの立ち位置だった。
けれど、三年生に上がって、難しい問題も増えてきた。
…それで、初めて、テストで九十四点を取ってしまった。
百点以外の数字なんて、誰も予想していなかった。
テストの百点のひとの名簿欄にも、私はいつの間にか消えていた。
そのとき、わかった。
周りから差された、あの驚いた目線。
あの、羨んだ視線が、一気にあざ笑う視線に変わったことを。
どれだけ頑張っても、百点を摂ることができなくなって、みんなからの信頼も、友情も消えていた。
あの頃の私は、塾に通いたいと必死で、百点を取らなきゃと必死で、ほかのことなんて何も考えていなかった。
必死な思いで作り上げた勉強能力を、みんなに披露したときは覚えている。
返されたテストは百点だった。
頬が緩むのを覚えた私は、先生に呼ばれて立ち上がった。
そして、先生はにっこり笑ったまま、私をひっぱたいた。
へこんだほほは、もう笑みなんて作れる余裕はなかった。
先生の笑みは消えて、クラスメイトもクスクスと笑っていた。
次の瞬間、先生は私に追い打ちをかけるように、こういった。
「水瀬さん。藤野さんのテスト用紙をカンニングしたでしょう?藤野さんから教えてもらいましたよ」
その瞬間、私はもう、誰も頼りたくなくなった。
塾だってサボり気味になって、必死にひとりで勉強した。
お母さんも、お父さんも頼らず、ひとりで頑張った。
勉強にプライドすべてをのせ、一筋で。
誰かを信じたって、誰かを頼ったって、相手が裏切る。相手が、私を見捨てる。それは、もうわかっていることだから。

すべてを話し終わったあと、私は笑ってみた。
いつもの笑顔を。
「あはは…笑えるでしょ。みんなに裏切られた、ただそれだけ。だから私は、誰も頼りたくなくなったの」
私は下を向いて、うつむいた。
笑うのが、つらくなったから。
ばかばかしくなったから。
「いじめをされたわけでもないし、家族がひどいっていうわけでもない。ほんとう、恵まれた家庭で、恵まれた人生のはずなのに、辛いって思う自分が、嫌い」
すう、と雲が息をのむ音が聞こえた。
「大嫌い」
私が再度つぶやくと、雲は私を離して、私の瞳を覗き込んで、そっと言った。
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
…決して、彼の言葉は明るい言葉じゃない。
かといって、暗い言葉でもない。
彼の言葉は、行動は、全部私のためにしてくれる言葉であり、きっと私の言葉も、私のすることだって、彼のためにすることだ。
「…雲」
「舞桜は人に認めてもらいたいんだろ?」
急な質問に、私はちょっと考えてから、頷く。
「でも、誰も信じられないよ…。それに、認めてもらうなんて、無理で…」
私がさっきより小さな声でそういうと、雲は少し優しい瞳で、私の頭を撫でた。
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」
目を見張った。
彼の言葉はいつもまっすぐで、正しくて。力強くて、正確。
「…頼って、いいの」
気づけば、そんな声が漏れていた。
「…信じて、いいの」
情けない。ほんとう、情けない声。
「…認めてくれるの」
私の目からは、また涙がこぼれていた。
くちびるから忍び込んでくるその涙はちょっぴり甘くて。
「雲…」
―ねえ、ちょっとだけ甘えてもいいかな。
その日、私は時間も忘れ、彼に甘えた。
泣いて、泣いて、泣いて。
今までの思いを全部打ち明けた。
隠してきた思いの扉を開けて、彼に全部見せた。
彼は何も言わず、私の頭を撫でて、優しく慰めてくれるだけだったけれど、私はそれが心地よくて。
チャイムが鳴っても、私たちを探す声が聞こえても。
名残惜しくて、放課後まで残り、先生に説教されたけれど。
雲は最悪、ということもなく、笑ってくれた。
一緒に帰ろうと言ってくれた。
ねえ、雲。雲はわかっているかなあ。
『おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる』
この言葉が、すごく嬉しかったこと。
この言葉で、私は救われたこと。
「そう言えば、明日から夏休みか」
「そうだね」
私が相槌を打つと、「短いような長いような新学期のスタートだったなあ」とつぶやく雲。
「何それ。私とあってから長かったってこと?」
「ちげえよ」
彼は苦笑して答え、ぐしゃっぐしゃっと私の頭を撫でた。
案の定ぼさぼさになった私の髪の毛を見て、彼は今度は苦笑ではなく、大笑いをした。
あはは、と大きな声で笑う彼に、私もつられて笑ってしまった。
「ふふ。あはは」
私も笑って帰り道を歩く。
ほんとう、どうしてだろう。
雲と居ると、毎日が輝いてて。
雲と居ると、毎日が楽しくて。
雲と居ると、ちょっとだけ、生きててよかったって思える。

「ねえ、お母さん。この浴衣で大丈夫かな」
本日四回目のこのセリフに、さすがにお母さんもあきれ気味で、
「もう…大丈夫だって言ってるでしょ。お母さんを信じなさいよ」
といった。
「で、でもっ」
「もう時間よ。ほら行きなさい」
夏祭り当日。
私は初めて夏祭りへ行くため、あまり自信がないけれど、浴衣をお母さんに着付けてもらい、一歩踏み出すことを決意した。
家から追い出された私は、少し恥ずかしいけれど、胸を張っていくことにした。
カランカランと、下駄の足音が聞こえる。
六時五十六分。
夏祭り会場が開く四分前、私は会場についてしまった。
ゆらりとあたりを見渡すと、スマホをいじってる雲を発見。
「…雲、お待たせ」
彼に近づいてそういうと、彼は私を見て、一瞬で目を見開いた。
その表情がなんだかおもしろくて、ドッキリ成功、というように笑ってやると、雲は「…おまえなあ」と顔を赤くしてそっぽを向いた。
「ふふ、雲も浴衣、似合ってるよ」
青磁色の浴衣を着ている雲は、どこからどう見てもアイドルのように恰好いい。
「サンキュ。まあこれ、自分で着たわけじゃないんだけどな」
私も、と漏らして、二人で笑う。
―こんな毎日が、ずっと続けばいいのにな。
そう思いながら、私たちは二人で会場が開くのを待った。
ちなみに、私の服は空色のアサガオと白いアサガオがのせられている、薄紫色の生地に、髪型は横髪は残し、お団子で結んでいる。
「この祭り、花火上がるらしいぞ。十時ごろ」
「えっ。花火?」
思いもよらなかった単語に、目を輝かせた私は、雲にずいっと寄る。
「すごいっ。海の方でしょう。会場から近いもんね」
「まあ、そうだろうな」
私の勢いに圧倒されながら雲が答えると、私の瞳はますます光が強まる。
「綺麗なんだろうなあ。私、花火なんて見たことないんだよね。ねえ、花火ってどんな感じ?綺麗なんでしょう。音もすごく大きいって聞いたことある!」
私がそう聞くと、雲は楽しそうに答えてくれた。
「確かに空に咲く火の花っていうのが一番わかりやすいと思うけど」
「空に咲く、花?」
「そう。花だよ。青とか水色とかオレンジとか赤色とか。いろんな色の」
彼は心底楽しそうだった。
きっと、雲も花火を見るのが楽しみなんだろうと、そう思った。

「うわあ」
始めてみた夏祭りの景色は、色づいていた。
色んな屋台が並んでいて、いろんなひとがいて。
すごくにぎやかで、商店街のようだった。
「どっから行きたい?」
雲が楽しそうにそう言って、私の背中を押した。
震える足取りで最初向かった屋台は、「焼きそば」と書かれた屋台。
「…おまえさぁ、ほんとに女子なの」
「しっ、失礼な。私だって焼きそば好きだもん」
私がそう言い張って、焼きそば小ください、と注文すると、雲も、「じゃあこいつと同じ奴で」と頼んだ。
数分後、中から出てきたお兄さんが、「ほらよ」と焼きそばを手渡ししてくれた。
「んっー!おいしい!」
一口口に入れただけで、そんな感想が飛び出る。
「だろ?ここの焼きそば、いつもめちゃくちゃうめえんだよ」
雲は得意げにそう言ったあと自分も焼きそばにかぶりつく。

次向かった屋台は、金魚すくいの屋台だ。
「せっかくだから、勝負しようよ。雲」
「おう。いいぜ。じゃあ負けたやつが好きなやつおごってもらうってことで」
雲も珍しく乗ってきたので、がぜんとやる気がわいてきた。
私はおじいさんの、「スタート!」という掛け声とともに、自分のポイを水へと一直線へ。

「…なんだ、同点か」
結果を見てがっかりしたのは私だけではないようだ。
向こうもだいぶ自信があったのか、はあ、と盛大なため息をついている。
「じゃあお互いおごろうよ。それでいいでしょう」
「…気に食わねえが。まあいいだろ」
了承してくれた雲は、ふ、と笑っていて。
私はなんだかうれしくなって、「じゃ、あれにする」と赤い屋台を指さした。
「りんご飴?」
「ずっと食べて見たかったの。ねえ、いいでしょう?」
そう言って彼を見上げれば、「しょうがねえな」と笑う彼の横顔があった。
「おっちゃん。りんご飴ひとつ」
「おう」
彼はおじいさんにそう呼びかけ、「じゃあ俺はあれな」と指さした。
彼の指の先にあったのは、「ペアキーホルダー」のお店。
「お母さんと交換するの?」
私がそう聞くと、「いいや」と首を振る雲。
「おまえと俺で交換するんだよ」
「えっ?」
思わず間抜けな声を出した私は、一瞬何を言われたか理解できなかった。
「わっ、私と?」
「そうだよ。夏祭り記念」
そう言って笑った彼は、「ほら」とりんご飴の棒を差し出してきた。
「あ…ありがとう」
りんご飴の袋を開けながら、私はそうお礼を言う。
りんご飴を口に入れると、りんごの甘みが広がった。
「んっ…おいしい」
「だろ?」
はは、と笑いながらキーホルダー屋さんへかけていく雲を追いかけながら、私はりんご飴の味を味わう。
「どれがいい?」
そこを営業しているお姉さんがそういうと、もう彼は目当てが決まっていたかのように、「これで」と、クローバーの半分部分のキーホールダ―を手に取り、もう片方の方を私に渡した。
私は代金の三百円をお姉さんに私、二人でそこを去る。
「…ありがとう。すごく、嬉しい」
想ったことを口にすると、「馬鹿野郎」と苦笑する雲。

「そろそろなんじゃねぇか?花火」
そのあと、射的やイチゴ飴の屋台なども回っていくと、もう十時手前の時間になっていた。
「ほんとだ…!でも、多分もうよく見えるほうはひと多いよね。どこ行く?」
「近くに砂浜あるんだよ。そこから綺麗に見えると思う」
彼はこっちだったような、とあやふやに進んでいく。
人も多くなってきた時間帯なため、人込みを分け進んでいくしかない。
「すみません、すみません」と謝りながら進んでいくと、急にひとがいなくなった。
「きゃっ」
砂に足を取られ、転びそうになると、「おっと」と雲が支えてくれる。
「あ、ありがと」
お礼を言うと、「おう」と彼は笑って、砂浜の方へと走り出した。
私も必死に後を追う。
砂浜に二人で座り込んだとき、ひゅるる、と音が鳴った。
「もう始まりそうだな」
少しわくわくした声で彼が言う。
そんな言葉を聞いて、私もなんだか想像以上に、楽しみになってきた。
「うんっ…!」
私が頷いたとき、空に大きな音と共に、赤色の花が咲いた。
ひらりと開いては消え、そしてまた新しいのが生まれて消えていく。
暗い夜空に、たくさんの光る花が咲いていく。
―目が、離せなかった。
綺麗だ、と隣にいる雲が声を漏らした。
私も声を出そうとして…出せなかった。
勿体ないと思ったんだ。
私の声なんて、この花火にはもったいない。
今しゃべらなくたって、きっとあとで感想を告げることができる。
そう信じて、私は瞬きもせず、花火を見た。
色とりどりの、大きな円を描くそれは、何度も何度も、咲いては散って、咲いては散って、を繰り返していた。
「…雲」
しゃべらないと決めたのに、思わず声がこぼれてしまう。
今、言いたくなったんだ。
もし後でいう機会があったとしても。
もし後で、彼に聞かれたとしても。
私は、今言いたくなった。
「綺麗だね…!!」
はしゃぎたくなるような、遊びたくなるような、そんな目で、私は彼の目を、淡い瞳を覗き込んだ。
「これが、花火なんだ…」
止まろうとしても、もう止まれない。
私は、言いたい。
雲に、私の気持ちを。
「いろんな色があって、いろんな大きさもある。本当、花みたい」
私の声は、花火の音と共にかき消されるけれど、きっと彼には聞こえてる。
返事はしてくれないけれど、私はそう確信する。
「…綺麗…だね」
ポロッと、涙があふれ落ちた。
優等生で居なきゃなんだって、都合のいい女でいなきゃいけないって必死で、自分のことなんてどうでもよくて。
想ってることも全部隠して、笑顔を作ってきた。
…でも。
今、私は生きてる。
私は今、彼と同じ世界を、この美しい花火が打ちあがる世界で、生きてる。
なんだかそれがくすぐったくて、それと同時に、たまらなく嬉しくて。
雲と同じ世界を見てる。
雲と同じ世界を生きてる。
「…口を閉じれば何も言えないように、心を閉じれば、何も伝わらない」
ふと、雲は自慢の低い声でそう言った。
「おまえは今、死にたいって。辛いって思うか」
そんなの、決まってる。
「生きたいよ。雲がいるこの世界で、花火が打ちあがる、この世界で」
私はにっこり笑って、彼に想いをぶつけた。
このときはじめて私は、“生きててよかった”って、“生まれてきて、よかった”って思った。
雲は知らないだろうなあ。
私が雲の言葉で、どれだけ救われたか。

「ほんと、おまえって頑固だよなあ」
「大丈夫。俺がいる」
「なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」

全部、全部。私の大切な思い出…。
あふれてくる涙は止まらない。
けど、今だけはいいと思った。
花火が咲いてる、この時間だけは、
“泣いていい時間”にしよう。


夏祭り終了のアナウンスが鳴ったあとも、私は浜辺でじっとうずくまっていた。
雲はひとりで海辺をいったりきたりして、私が買ってあげたキーホルダーを眺めている。
あのときの感動と思い出を忘れないように、大切に心にしまえるように、私は目を閉じて願った。
どうか明日になっても、明後日になっても、一年先になっても、この日のことを忘れないように。

ねえ、雲。
届かない声で、私は彼に呼びかけた。
…好きだよ。
にこりと笑った目元からは、涙が一滴、鼻筋を通って落ちてきた。
私は泣いてばかりだなぁ。
「…俺はさ」
私が涙のあとを消していると、雲が低い声でぽつりといった。
「伝えたかったんだよ。舞桜に、世界の美しさを」
ぽつ、ぽつと吐かれたその言葉は、雨のようにじっと私の想いにしみ込んでいく。
「世界が、どんだけ綺麗なもので、世界が、どんだけ儚い者かっていうのを、伝えたかった。どうしても」
ゆらりと揺れる彼の黒髪は、月明かりに照らされて輝いた。
私と雲の目が合う一秒。
体と体が触れ合った瞬間、すべてが夢のようにも思えた。
今私は生きている。
今私は彼の胸の中にいる。
彼のたくましい腕が私の背中に回され、ぎゅうぎゅうと締め付ける。
「…ねえ雲」
「あ?なんだよ」
いつもの暴言を吐く彼は、やっぱりいつもの雲で。
…ちょっとだけ、嬉しい私は馬鹿野郎より馬鹿かもしれない。
「…もうちょっとだけ、こうしてていい?」
彼の答えは、帰っては来なかった。
その代わり、回された腕の力が、さっきよりも強くなった気がした。
片方の手が私の頭に伸びて、優しくなでてくれた。
「ねえ雲」
「なんだよ」
さっきと同じような会話に笑いながら、私は言葉を紡いだ。
「シャボン玉、またしようね」
「おう」
今度は、低く、太い声が、ちゃんと私の耳にも届いた。
ねえ、雲。
私は心の中で、もう一回、彼の名前を呼んだ。
静かな砂浜で、誰にもばれないように流した涙の味は、体育館と同じ味。
けど、あの時の感情とは違う意味だということが、私にもちゃんとわかった。
―ごめんね、雲。
心の中で、もう一回だけ、彼の名前を呼んだ。
―雲と出会えて、ほんとうに幸せだったよ。
「ありがとう」
つい零した声に、雲は不思議そうにうなずくだけだったけれど、反応をもらえたことが嬉しくて、嗚咽を漏らしそうになって慌ててこらえる。
やっぱり、世界はきれいだ。
残酷なほど、綺麗だって思う世界は、やっぱり綺麗だ。
雲がいるこの世界で、“今”、私は生きてる。
その喜びをかみしめながら、私は今日をやり切った。
涙は止まらぬままだったけれど、でもきっといつかは止まる。
私はそう確信できた。
「雲…」
ひとりきりの部屋で、彼の名前を呼んで眠りに落ちた私は、これからどうなることも知らずに、のうのうと生きてる。
けれども、ただ一つ言えることは…
この日、私は人生で一番、幸せな日だったと言えるということだ。




【おはよう】
夏祭りの次の日、朝十時三十分。
いつもより早めに起きることができた私は、何もすることもないので、雲に連絡することにした。
何がおはよう何だろう…。と思いつつも連絡をしてみる。
何もやり取りをしていないLINEの部屋に、私のメッセージだけが表示されている。
と、思いきや。
いま、この瞬間、彼から返信が届いて、メッセージが二つに増えている。
【おはよ】
そっけない雰囲気を持つそのメッセージは、やっぱり雲らしくて笑ってしまう。
【何してる?】
そう再度連絡を入れると、彼からは【何も】と返ってきた。
【私も。暇だよね。何もすることないや】
送信ボタンを押して、桃色のうさぎスタンプもついでに送ると、彼はたぬきの笑ったスタンプを返してくれた。
【じゃ、どっか行く?】
ベットから飛び起きた。
スマホを持つ手も、文字を打とうとした手も震えてくる。
自分の指が震えるのを笑いながら、そんな手を必死に動かして、
いいの?と打って送信。
【おう。神社の近くに遊園地あるだろ。そこ行こう】
遊園地という予想もしてなかった単語に驚きつつも、【いいよ】と返し、【一時桜木公園集合な】と送られてきたものをスクショして保存。
私はベットから跳ね起きて、パジャマから普段着へ着替えた。
歯磨きと顔洗いを済ませ、髪の毛をセットし始める。
いつものハーフアップを結んでから、少しだけ化粧で目と口を整える。
気合いれすぎかな、とも思いつつ、鏡の前でゆらりと体を回して、おかしいところがないか確認!
気合は入れすぎだけど、まあまあのできになった。
「あら、どうしたの?舞桜。出かけるの?」
階段を上ってきたお母さんが驚いたようにそう口にした。
「…う、うん」
私が頷くと、「へえ。どこに行くの?」と興味津々になるお母さん。
「…遊園地」
「あらぁいいじゃない。お友達でしょう。女の子?男の子?」
「…く、クラスメイトの男の子!」
ドンッと自分の部屋のドアを勢いよく閉め、カギまでかける。
ドアをはさんで向こうから、お母さんのぶつくさいう声が聞こえてくるけれど、私はもう気にしないことにした。
時計に目を向けると、時計の針は十二時三分をさしていた。
「あと一時間…」
ひとりでぽつりとつぶやいた声はひとりきりの部屋に、低く広がっていった。

「…お待たせ。雲」
「遅かったな。三十分遅刻だぞ」
「ごめん。お母さんにつかまって」
ふふ、と笑みをこぼすと、「ったくしょうがねえなあ」と雲が笑う。
「ね、遊園地ってジェットコースターとかあるとこでしょ。私、行ったことないだよね」
「奇遇だな。俺もだよ」
雲が得意げにそう言ったあと、二人で顔を見合わせて一緒に噴出した。
たどり着いた遊園地は、思ったより輝いていて。
たくさんの人がいた。
私たちは沢山の乗り物に乗った。
ジェットコースターやお化け屋敷、メリーゴーランドに観覧車。
水鉄砲広場では、雲のことをコテンパンに水をかけてあげたっけ。
また一つ。また一つと、思い出が増えていく。
そのたびに、私の想いは強くなっていく。
アイスクリームやさんに寄ったところで、六時を告げるチャイムが鳴った。
「おっと。もう帰る時間だな」
―帰りたくない。
「そうだね。足も疲れたし。ふふっ」
―まだ一緒に居たい。
「おまえと遊園地行くなんて思ってもみなかったわ」
―嫌だ。嫌だ。
「何それ。私も思ってなかったし」
「なんだよそれ」
二人で一斉に吹き出す。
ねぇ雲。
…行っちゃ、やだよ…!
「雲」
静かな道路の裏道に、私の声だけが静かに響く。
ごめんね。ごめんね。
そんな思いを何度も何度も繰り返しながら。
「ごめん。もう今日で最後にしない?」
「…は?」
ねえ、雲。
雲は世界で一番大好きな人で…
私に幸せをくれた人だよ。
「正直ちょっと面倒くさくてさあ。裏の私がバレちゃうの怖くて付き合ってきただけだし」
くるりと体を一歩引いてまわる。
そして、どんどん進んでいく。
後ろの道へ。
後ろの未来へ。
「おい!舞桜!!」
雲はただそうぶつけるだけで、追いかけて来ない。
ほんとうは、声をかけてくれることも嬉しいはずなのに。
言えない。
今、嬉しいよ、楽しいよって言えない。
もう決めたんだ。
これで“最後”だって。
目から涙があふれる。
髪の毛が吹いた冷たい風にさらわれて、四八方に散っていく。
涙も一緒に、髪と飛んでいく。
ねえ。雲。
ほんとに大好きだけど、ごめん。
これ以上は、私が壊れちゃうんだ。
雲。雲。雲。
頭の中はずっと君の顔だらけ。
けど言えない。
「大好き」って、もう言えない…!

「舞桜?ちょ…どうしたの!その顔…」
涙で濡れた私の顔を見て、お母さんは青ざめた。
「もしかして…あんた」
「ごめん、お母さん。気分悪いからもうねるね」
にっこり笑顔を作ったつもりでも、お母さんの目では、笑顔になってない私が映ってるだろう。
けれど、もういい。
今は、もういいんだ。
笑わなくていい。
泣け、わたし。
泣いて忘れよう。雲のことなんて。
ベットに寝そべった私は、熱も出ちゃうんじゃないかくらいの勢いで号泣した。
好き…好き。
雲が好き。
なのに言えない。
「好きだよ」っていうことができない。
ねえ雲。
ほんとうにごめんね。
ふとスマホに手をかざすと、雲からのラインが数件と、電話ボックスに一つ、電話の不在着信が入っていた。
全部、全部雲からだった。
【おい、どういうことだよ】
【夏休み中、俺そんなにウザかった?】
そんな謝罪のものが入っているところと、
【マジで意味わかんねえし】と暴言が入っているLINEもあった。
気づいたら、私はそれらに返信をしていた。
【ごめん。夏休み中は忙しくなるから】
震える手で送信ボタンを押した私は、既読がつくのを待つ。
数分後、既読という文字がついた直後、【わかった】とそっけないメッセージが送られてきた。
ああ、絶対嫌われた。
確信を持った私は、スマホの電源を落とし、ベットのお布団にくるまる。
世界で一番大好きな君に、取り返しのつかないウソをついた。
もし夏休みが明けて、また話せるようになったら…
絶対最初に、君に会いに行く。
絶対私は、あなたに会いに行くから。
だからそれまで、もうちょっとだけ待っててほしい。
拝啓、愛する君へ。
もう少しだけ、時間をくれないかな?
そうしたらきっと、もう一回、君に会いに行く。
たとえ、それが最後になろうとも。
私は君に会いに行く。
それが私の、“限られた時間”内の、一番大事なことだから。
頭の中で思い描いた文章を消しながら、私は机に置いてある資料を覗き込んだ。
『手遅れです』
医者の低く、生ぬるい声が私の胸に響き渡る。
ねえ、私はほんとうに…。
死ぬしか、ないのかな。
『肺がんの可能性あり、です』
そんな医者の声は、頭の中で何度もリピートした。
けど、何度だって私はそれを受け入れることができない。
ごめんね、雲…
『肺がんです。まず、手遅れですね。早期発見ではありませんし、しかも結構進んでいます。もう助かる見込みはないでしょう』
胸の痛みと動いた時の息苦しさを感じ、私はお母さんと一緒に、よく知る先生に尋ねた。
それでもう、全部おしまい。
助かる見込みはない、とまで言われたわたしは、自分の生きる未来をうまく想像することができない。
もう私の未来はない。
だから進路表なんてもちろん出すこともできないし、出す必要もない。
私は大学生になる前に、この世を去ってしまう。
それはもう決まってる。
ということは、私はもう、一年も生きることができない。
冬、私が生きているかもわからない。
春にはもう、確実に死んでいる身の私は、死ぬ運命を受け入れているように見えるかもしれない。
「まえは、そうだったんだけどなあ」
ふふ、と嗚咽と共に漏らした声は、ぼやけて消えていくだろう。
けれど、これは本心だ。
私は前、もう受け入れようとしていた。
自分が死ぬ未来を。
自分が死ぬ世界で、みんながのうのうと暮らすのを。
受け入れようと。受け入れるしかないと、そう考えていたんだ。
なのに。なのに。
「…雲のせいだよ。全部、全部。雲のせいだよ!!」
大声はたぶん、リビングにも聞こえているだろう。
「舞桜…」
心配そうなお母さんの声が聞こえてきた。
それでも私は、止められない。
涙と声も。枯れるまで鳴くしかない。

「…あ」
新学期が始まった次の日。
…目と目があった瞬間に、彼はすべてを悟ったように想えた。
「…おはよ、雲」
いつも通り、挨拶できただろうか。
あまりにも不自然だったなら、彼にきっと気まずいことがばれてしまうだろう。
「…おはよ」
どうしよう、と焦っている私を置いて、雲はいつも通り返事をしてくれた。
「暑いね」
何でもない会話のように聞こえるこれは、緊張がゆえに作り出した、意味不明の会話でもある。
「そうだな」
「…雲。あの、あのときはほんとうにごめん。無責任、だった」
「…別にいいよ」
言えた。言えたよ、舞桜。
「ごめん」って、言えた。
「…でも、この前言ったことは、本心、だから。もう無理にかかわらないで」
…強めの口調になったこと。
…最低な言葉をぶつけていること。
そんなことは本当はわかってる。
けれど、どうしても言うことができない。
「ごめん」ともう一度言うことができるのならば、そうしたい。
けれど、できない。
これ以上雲と一緒に居ると、私が危ない。
…死にたくない。
…消えたくない。
…まだ生きたい。
そう、思ってしまいそうになってしまうから。
「…雲は一回、言ったよね。私に世界の美しいところを見せてくれるって」
私が小さく言うと、「おう」と図太い声が返ってくる。
「…もう、見せなくていいよ」
ああ、私はなんでこんなに不器用人になったんだろう。
私はいつの間にこんなに汚い人になっていたんだろう。
「…わかった」
雲の顔は、無表情。
わたしと関わらなくなることが、そんなにダメージに来ていないようだ。
「…今日だけは、一緒に居ようよ」
それがすごく悲しくて、わたしの口からはそんな声が漏れていた。
雲は同じ無表情で、頷くだけだった。
そういうことが得意ではない私は、学校の門をくぐりぬけると、「ねえ」と声をかける。
「あ?なんだよ」
彼はさっそくお得意の暴言を吐き、私を鋭い目つきで見る。
「……私ね、ほんとうはずっと、雲のこと嫌いだったんだよね」
誰にも言ったことのない悪口を、今本人に言う。
「無責任だし、暴言吐いてくるし、性格最悪だし。だから嫌いだった。ずっと」
私がそういうと、彼はにっこり笑って、「知ってた」と答える。
「…けどね、最近はすごく、雲のこといい人だなって思うこと、増えてきてるよ」
「そりゃそうだろ。俺ほどおまえにつきっきりのやついねえぞ」
彼は威張ったようにそう言ったあと、私を待たずに校舎の中へ入る。
私も靴を履き替え、彼の後を追った。
「…雲はさ、運命の人って信じる?」
「運命のひと?」
「そう。私たちは誰かに恋をすることが、もう決まってる。例えば、私の運命の人が雲だったとしたら、私たちは絶対に恋に落ちる。そう決まってるんだよ」
「ああ…でもまあ、そういうもんじゃね?」
雲からは予想通りの発言が飛び出た。
だよね、と笑いながら、私は首を振る。
「…でも、それって無責任だよね。全部決められてるんだよ。恋をする人も、しない人も。よくドラマや漫画とかで、あなたは私の運命の人っていうフレーズ出てくることあるでしょう。けど、この先もしかしたら違う人を好きになるかもしれない。違う人を愛すると決めるかもしれない」
私がそう言葉を並べると、彼は一度口を開き…閉じた。
「…生まれて初めての恋が叶わない人もいるように、高校になって恋をして、かなわない人がいるように。運命の人って、きっといないって私は思う。運命なんて、信じない」
私がそう言い切ると、「なんで」と低い声で彼は言う。
私は微笑んで、「それは、」と言葉を紡ぐ。
「その方が、都合がいいの。運命じゃないって思った方が。言い逃れもできるし、自分のせいだった想うこともできるでしょう?」
私がそういうと、彼は、あははと笑って、「まあ、そうだな」と頷いてくれた。
「だからね、くも。もし好きな人ができたら、その人は運命の人なんかじゃないよ。“自分の今一番救いたいって思う人”は、雲の好きな人なんだよ」
私がそう笑いかけると、雲はちょっと考えて、「そうか」と答える。
「えーなに?その反応、もしかしてもういるとか?」
冗談半分で言ってくせに、彼は少し顔を赤らめ、そっぽを向いた。
「だったら何だよ」
低い声で発した彼の声に、私は思わず硬直する。
「…ぇ」
私が放った言葉は、その何倍も小さくて、何倍もか細い声だった。
雲の好きな人。
その言葉が頭の中でぐるぐる回って、苦しい。
自分から聞いたくせに。自分から話し始めたくせに。
「…そ、そうなんだ。驚いたなあ。こんな雲にも好きな人いたんだ…」
「なんだよ。悪いか」
ううん、と首を振った私は再度歩き出す。
「…じゃ、じゃあ私、今日委員会の仕事たくさんあるから、もう行くねっ」
私は真横にある階段を上り、教室とは反対側の方向へ駆け出す。
「は?ちょっ…待てって!」
雲の声が聞こえたけれど、もう止まることはできない。
スピードがついてきた足で、私は一気に階段を上る。
そして違う学年の階についたとき、へにょり…と座り込む。
なんで、逃げ出したんだろう。
思い出すだけで目頭が熱くなる。
…好きだから。
頭の中に浮かんだ文章を、何度も何度もリピートする。
雲が好きだから、逃げたんだ。きっと。
―好きな人には、好きな人がいた。
たったそれだけのことなのに。
生まれて初めて恋をして、失恋をしてって考えると、すごくみじめだな。
滑稽だなぁ、わたし。
最初で最後の恋を、失恋で終わらせた。
涙はとどめなくあふれてくるけれど、私はそれをもう、止めることはなかった。
「…え。あれっ?舞桜ちゃん…?」
あまり聞きなれない声に、私は思わず拍子抜けする。
今、目の前に誰かがいる。
泣いているところを、誰かに見られた。
そう考えただけで、自然と涙は止まり、顔は青ざめる。
恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは……幼馴染の三つ上のお兄さん、藤堂彼方くんだ。
「え…彼方くん…??」
「うわあ、ほんとに舞桜ちゃんだ。まさか会えるとは思ってなかったから、嬉しいなあ」
そう言って笑う彼方くんに、私は足を必死に動かして立ち上がる。
「えっ…どうして、ここに。今は大学にいるはずじゃ」
「そうそう。大学進んで、カウンセラーの免許取ったんだ。で、今この高校で、頑張ってるって感じ」
「カウンセラー…?すごいね。ちゃんと夢に向かって、頑張ったんだね」
私が素直にほめると、彼は「そんなすごいことじゃないよ」と笑った。
「俺、ほんとは心理学じゃなくて、物理の方に行きたかったんだよね。けど、先生に見込みはないって言われちゃって。あきらめて、心理学に通うことにしたんだ」
「へえ…それでも、すごいよ。何かに進むって、すごく怖いと思う。けど、それを乗り越えるっていうのは、すごいことだと思うよ。たとえそれが、第一志望じゃなくても」
私がそうやって励まして見せると、彼は驚いたように私を凝視した。
「…あはは。なんかカウンセラーの俺が悩み相談しちゃった」
そう言って「俺も頑張らなきゃな」と私の頭をぐしゃぐしゃにした。
「…ありがとう。元気出たよ」
彼方くんは優しい目で私を見つめ、そう笑ってくれた。
茶色の短い髪が、日に当たってまぶしく光る。
優しく私を見る瞳は、まるで愛らしい小動物を見るようで。
…少しだけ、格好いいと思ってしまった。
「あ、そうだ。連絡先、交換しない?ようやく会えたし。いつでも連絡していいよ」
そう言ってスマホを取り出した彼方くんに、私も頷いて連絡先を交換する。
ラインの欄に、「藤堂彼方」と現れ、嬉しいと思ってしまう自分は、ほんとうに気分屋だ。
さっきまで、失恋で泣いていたくせに。
「ありがとう。嬉しい」
素直な感想を口にすると、「俺のほうこそ、どうもありがとう」と返してくれる彼方くん。
そのとき、だだだっとものすごいスピードで階段を駆け上がってきた雲と、ばっちり目が合ってしまった。
瞬間、目を見開く彼。
「雲…」
「舞桜」
彼は少し怒ったような口調でそう言った。
「なんだよ、ソイツ」
まるで、恋の強敵にでもあったかのようなショックそうな顔と、怒り気味の顔。両方を持った雲は、私の指先に少しだけ触れて、離れた。
「…幼馴染のひと。カウンセラーなんだ」
少し自慢してやろうと思って、そう口にする。
すると彼は、ますます怒ったような顔で、キッと彼方くんをにらんだ。
「…」
何も言わない男同士の睨み合いが始まった、かと思いきや。
彼方くんはにっこりした表情を崩さず、雲に一言、「…を泣かせるようじゃダメだよ。…は俺のだから」とつぶやいた。
「…」
雲はその声をじっと聴いたあと、チッと舌打ちをして、私たちの横を通っていった。
「何だったんだろう…?」
思わず口にした言葉に、「さあ」と平常心を保つ彼方くん。
さっぱり意味も分からない私は、ただただ、そこに立ち尽くすことしかできなかった……。

【今日はなんだか大変だったね。体調の方は大丈夫?お母さんに聞いたよ】
ああ、知られてしまった。
夜、八時四十五分。
彼方くんから、少し大人びた返信をもらったときは、どう返信するかさえも迷った。
【大丈夫だよ!メッセージありがとう】
しょうがないなと思いつつ、そんなありきたりな返信を送った。
「…ふぅ」
メッセージ一つでこんなに緊張するなんて。
そう思ってベットに寝そべったとき、スマホが振動した。
彼方くんかな、と思いながらすぐ電源をつけると、雲からだった。
【あの彼方とかいうやつ、おまえの何なんだよ】
なぜか怒り気味のメッセージに、私は首をかしげながら普通に返信する。
【幼馴染だけど、ほんとのお兄ちゃんって感じのポジションかな。彼方くん、恋愛には疎いみたいだし、そういうのを気にせず話せる仲…?】
私がそう送ると、彼からまた返信が来た。
【ふぅん。っていうか、俺と話したくないってどういうこと?】
なんだか彼と話すのは気が楽だなと思いつつ、そのメッセージを見た途端、私の思考は停止した。
どうする。どうする…。
いや、ウソはつかないほうがいいだろう。
けれど、どういえばいい…?
あと一年も生きられるかわからないからもう関わらないでほしい?
いや、そんなことまで言ってしまえば、きっと「はあ?そんなの知らねえよ」と言われるに決まってる。
雲はそういうひとだから。
私の思いなんて無視して、自分が正しいと思うものを貫く。
それが雲なんだ…。
私は震える指でスマホの画面をタップした。
一文字ずつ、丁寧に打ち込んでいく。
【今はまだ言えない。そのときになっても後悔しないように。まだ嫌だと思わないように】
これは私の本心だ。
彼とこれから関わっていけば、私はもっと彼のことを好きになってしまう。
好きです。そう伝える日が来るかもしれない。
もし思いが通じ合い、付き合ってしまえば、私の死に悲しまないわけがない。
あの雲であっても。雲はそういうひとだから。
きっとそうだ…。
ピロン♪とスマホが再度振動した。
私は食いつくようにスマホの画面を開いて…絶句した。
相手は彼方くんだったから。
【何かあったら絶対言ってね。力になりたい。】
まっすぐなその文章に、思わず息をのむ。
「力になりたい」そんな言葉を、生涯言われたことすらなかった。
あの雲でさえ、そんな格好いい言葉は口にしない。
でも彼方くんは、言ってくれた。
LINEであったとしても、そんなことを言ってくれるひとは、この世界に極端に少ないから。
【ありがとうございます。信用してますよ、彼方先輩】
少しおどけて見せた私の返信は、やっぱり心とは裏腹なものであった。
けれど、私はほんとうに嬉しかったんだ。
雲の言葉が私の救いになったように、彼方くんの言葉が、私の勇気になるんだ。
彼方くんとのやり取りをスクロールして眺めていると、雲からLINEが一件届いた。
開いて読むと、そこには、【俺にも話せないようなことなのか】というもの。
どうしてだろう。
どうして私は、つらいって思ってしまうんだろう。
言えないことが、ほんとに、ほんとにつらい。
そのとき、私の部屋のドアから、トントンと音が鳴る。
そして、ガチャとドアが開き…そこからはお母さんが出てきた。
「…え」
「舞桜…大丈夫?最近はずっと浮かない顔してるでしょう。何かあったの?もしかして、病気のことで悩んでるんじゃ…」
「…ちがう、よ」
私が声を振り絞ってこたえると、お母さんはぐしゃっと顔をゆがめ、
「ねえ舞桜」と私の名前を呼んだ。
「あなたが病気なのは、舞桜のせいじゃないのよ…。わたしのせい。全部お母さんのせいよ」
「それは違う…。誰も悪くないよっ!それにわたし、辛くない。病気になんて負けないよ」
そういって笑って見せるけれど、心ではもう疲れ切っている。
「…嘘よね。舞桜はいつもそうよ…!自分のことは考えず、周りの人のことだけ考える優しい子」
違うよ。違う。私はそんな優しいひとじゃない。
自分の立場が有利になるように仕向けるひと。
私は優しくもなんともないんだ。
優しいひとのフリをしているだけ。
「優しいひと…じゃないよ。そんなひとになるように仕向けてるだけ」
「…ねえ舞桜。あなた、病気ってわかってからつらいと思ったことはある?」
「…」
そんなのいくらでもある。
病気なんでしょって笑われたり、早く死ねよって急かされたり。
そんな辛さは私しかきっとわからないし、わからなくていい。
「…舞桜。私はあなたが生まれてきてくれて、ほんとうによかったと、そう思ってるのよ」
ああほんと。私の涙腺は最近おかしい。
こんな些細な言葉を投げかけられただけで、涙腺なんて簡単に崩れてしまう。
「お母さんっ…!!」
だから私は、思いっきり甘えることにした。
お母さんの優しさとぬくもりに。
思いっきり。
いつか、雲にも言えたらいいなと思いながら。
「好きだよ」って…「ごめんね。私もう死ぬんだ」って。
伝えられたらどんなにいいことかわからない。
けれど私はきっと、そのときは、一番幸せな時だろう。
「…あのね、お母さん」
思い切り泣いて、泣いて、泣いて。
泣き止んだとき、私はお母さんに話をしようと手を握る。
「…私、わたしね、恋したの」
「え」
「初恋なの」
「…相手はどんな子?」
お母さんは優しい声でそう言った。
「優しいよ。優しいけど、すごく不器用。ひどい言葉ばっかり言ってくるし…ひどい奴だよ…ほんと」
「あら。じゃあどうして好きになったの?」
お母さんの言葉に、私は笑みをこぼした。
好きですと言ったらどうなるかわからない。
それでもあのひとはきっと…。
「救ってくれたんだ。病気になってから、何もかも捨てた私を、救ってくれた。それがあのひとなんだ」
今ならもう言える。
「私、あのひとのこと大好きなんだ」
言っちゃった。言っちゃった…!
そろそろと顔を上げると、そこには満面の笑みのお母さんがいた。
「…よかった…舞桜。よかった。あなたが幸せを知ってくれて…生きる意味を見つけてくれて…本当に」
最後は少し涙目になったお母さんに、私までまた涙があふれそうになった。
わたし、ほんとう恵まれてるなあ。
こんなに優しいひとがお母さんで。
こんなに優しいひとの娘に生まれて。
ほんとうに…よかった。

「彼方くんっ!」
次の日の朝早く、私は一番に彼方くんに会いに行った。
「おう、舞桜!おばさんと仲深められたって?よかったなあ」
まるで自分のことのように笑顔になる彼方くんに、私は思わずまた泣きそうになってしまった。
「…ありがとう。彼方くんは優しいね」
ふふ、と声を漏らしながら笑うと、彼方くんは「そうかな」と嬉しそうに笑った。
「ねぇ、雲と仲悪いんでしょう。カウンセラーならみんなと仲良くなきゃだよ。よぼうか、雲」
私がそう申し出ると、「いや、いいよ!」と否定する彼方くん。
「アイツとはもういいんだよ。言いたいことは言ったから」
「…なら、いいんだけど」
そう呟くと、「うん」と笑顔で私の頭をくしゃくしゃと撫でる彼方くん。
「そっ…そろそろ授業始まっちゃうから、行くね」
雲からされているとはいえ、慣れていない行動に、私は思わずそう口にして、速足で廊下をかけていく。
階段を駆け下りたそのとき、目が合ったのは…
雲、ではなく、如月さんだった。
「…あっ、如月さん」
「…」
彼女はぎろりと私をにらんだあと、後ろにいた女子生徒たちに何か言う仕草をして、階段を昇っていった。
どうして無視されたんだろうと考えながら、彼女たちの横を通り過ぎようとしたとき。
ドンッと肩を押され、視界がぐらついた。
「え…」
思わずこぼした声に、女子ら全員があざ笑う。
「如月さんの恋心知ってたくせに!!」
ギリギリで体制を保つと、今度は違う女子生徒に肩を軽く押された。
「そうよ!雲くんのこと好きって相談されたでしょ!?なのに急に頼ったりして見せつけて…。ほんとう、水瀬さんがこんなことやるなんて知らなかった」
あ…そうだ。私。
如月さんに、恋愛相談されたんだ。
雲のことが好きなんだって相談を受けて、わたし…どう答えたっけ。
「…く、雲は好きな子、いるみたいだよ。ハッキリ言ってた。きっと如月さんのことだよ…!」
ぐさり、と私の言葉が、私の胸に刺さる。
私が好きな子いる、といった瞬間、足を運んでいた如月さんの身体が反応して止まった。
「…それ、ほんと?」
低い声でそう言った如月さん。
それくらい、雲のことは本気なんだとわかる。
「…ほんとうなら、どうして一歩引かなかったの」
聞かれてる。答えを求めてる。
けれど私は言えない。
数学の式みたいに、いろんな考えが私の頭を遮ってくる。
「…」
私が黙っていると、「はあ」と盛大なため息をついた彼女。
「ほんとさぁ。ひどいと思うんだよねぇ。私が応援して、って言ったのに…そう思って泣いた夜もあるけど、しょうがない」
如月さんはニヤリと笑って、ずいっと顔を寄せてきた。
「あの彼方くんとかいう男…頂戴よ」
「…え」
頂戴、という言葉がよくわからない。
彼方くんはものじゃない。
私のものでもないし、頂戴、という言葉の選び方はあまりにも不自然だ。
「格好良かったよね、結構。アンタの友達なんでしょう?なら私の紹介くらいできるよね。アンタが雲くん狙うなら、私はあっち狙うから。ね?いい条件だと思うのよね。ウィンウィンってやつ?」
ふふ、と笑う如月さんに、私は立ち尽くすことしかできない。
…目の前にいる彼女はただ、幸せという恋愛を求めているただの女の子だ。
きっと、一週間後も、一か月後も、一年後だって、如月さんは輝き続ける。恋をし続ける。
それなら…初恋をかなえてやってもいいんじゃないか。
「…ごめん。如月さん。今まで、ずっと」
私は正直に頭を下げた。
周囲の子たちが、ぐっと息をのむのが分かる。
私が謝るなんて考えもしなかったみたいだ。
「…」
「如月さんが雲のこと好きって知ってて、わたしずっと仲良くしてた。如月さんの恋、応援することできなかった…」
私が本心を告げると、「ふん」と顔を背ける彼女。
「…けど、彼方くんは物でも、私のものでもない。彼方くんは人間で、私の大事なお兄ちゃんだから…如月さんのものにはならない」
「それって、雲くんのこと、あきらめてくれるってこと?私の初恋を実らせてくれるっていうことでいい?」
うっ、と息をのむ私。
雲のことは大好きだ。
生まれて初めての恋だ。
それでも。
この恋は叶わない。
叶ったとしても、途方もない未来だ。
…今はきっと、幼馴染っていう関係である彼方くんの方が、もっと重要かもしれない。
「…く、雲は私の大切な人で…私を救ってくれ」
「そんなの私も一緒!!あんたとわたしの間に、雲くんの愛おしいと思う気持ちに差はないのよ。思い上がらないで!!」
ずばずばと本当のことを言われ、私の心はもうズタズタ。
言い返す気力もない。
さて、どうしようかと頭をひねらせたとき。
「これって修羅場ってことでもいいの?雲くん」
「…何が何だろうと、舞桜が傷つけられてる時点で被害者が生まれてるだろう」
いつもの低音トーンの声と、なんだか苦しそうな聞きなれた声。
どっちも、私の大好きな人だ。
「雲くん!?」
「彼方くんっ…」
わたしと如月さんの声が階段にこだまする。
「…お前らさあ。ほんと面倒くさいよな。恋がどうだの、誰が誰を選ぶだの、俺らが選ぶ権利があるんじゃねぇのか。おまえ、よっぽど自分に自信持ってんだなぁ?」
「…ち、違うんだよっ雲くんっ。あたしは、雲くんを傷つけるやつをやっつけようって思ったんだよぉ」
いつもの可愛い声にもどった如月さんは、精一杯雲のご機嫌を取ろうとしている。
「うぜえ。きもいんだよ急に声かえてさぁ。おい、彼方とかいうやつもなんか言ってやれよ」
「あー…俺は別にこの件にはあんまり関係ないと思うけど、いち先生として注意します。恋愛とは戦というものだけれども、自分の価値観を人に押し付けるのは違うと思うよ」
イケメンスマイルをやってのけた彼方くんは、「行こうか、舞桜ちゃん」と私の腕を引っ張った。
「…舞桜は俺が連れて帰る。同じクラスだし」
そのとき、雲が彼方くんの手を払いのけ、自分の方へとわたしを引き寄せる。
どうしてそこで喧嘩をしているのかが何もつかめないけれど。

「…それで、決まったのか。進路は」
「…決まっていません。進路は…親にも無理に決めなくていいって言われてます」
私がそう答えると、先生はあきれ半分でため息をつく。
「うそだろう…。親も認めているだなんて。とりあえず、なんでもいいから出してくれ。じゃないと俺が叩かれるんだよ」
「…どうしても、適当には書きたくないんです。自分の未来は、自分で、ちゃんと定めて決めたくて…」
「なら早く書きなさい。興味のある仕事くらい、いくらでもあるだろう!」
「…」
先生は知らない。
私が、あと一年も持たず死ぬことは。
先生は知らない。
この学校の誰も知らない。
私が知らないところで死んでいくのを、誰も知らない。
雲さえ、知らない。
だから、彼方くんという存在は嬉しかった。
雲にも言えない言葉を、言える存在だから…。
「…先生。私、実は」
これだけ言われるなら、言ってやってもいいんじゃないかと本心が言う。
別に誰かに言われるわけでもない。
良いだろう。もう、この際…言えばすっきりするのだから。
「私」
そのときだ。
「せんせー。俺も進路表出してねぇんですけど。そんなにボコスカ言われなかったですよ」
いつものハスキーボイスと共に、教務員室に、彼が姿を現した…。
「雲…?」
「ゆっ、夕凪はこれから叱りつけようとしていたところだ!!」
先生は少し焦ったように声を荒げた。
「…でもこの前も舞桜に強く接してましたよね?俺、見たんすけど」
「…ち、違うんだ。別に差別とかではなくてね」
先生はたじたじになってそう答える。
「…先生?」
最後にわたしがくぎを刺すようにそう言えば、先生の背中は震えあがった。
「…す、すまん…。卒業までに出してくれれば、それでいいから!!じゃあな」
そう言って逃げるように去っていく先生の背中は、とても小さく見えた。
「あ…ありがとう。雲」
「別に。差別が大っ嫌いなだけだよ」
雲はそう言って、「じゃあ」とわたしに背を向けた。
それがなんだか無性に寂しくて、「ねっ、雲」とわたしは声をかけた。
「今日、スーパーの特売日で、たくさん買いものするの。荷物運び手伝ってよ」
「はあ?」
「いいでしょう。雲が私を連れまわしたみたいに、私も一回くらい連れまわす」
「…」
雲は黙ったまま、一分、二分と立ち尽くした。
私はごくりと飲み込んだ息を、すぅ、と吐く。
三分が経過したとき、「ったく、しょうがねえなあ」と声が聞こえ、ハッと我に戻る。
「…いいの?」
「おう。それくらいしてやるよ」
雲は手をふらりと手を振って、廊下を歩いていく。
そんな姿を眺めながら、私は再度、「ありがとう」と口にして、その想いを胸に残すんだ……。
「ありがとうね。お米が一番重かったんだよ」
「これくらい普通に持てるし。簡単な仕事だよ。で?給料はいくらなんですか」
「えー。じゃあ百円のたかい飴三つプレゼント!」
「よっしゃ」
嬉しそうに笑った雲が可愛くて、どうしても甘やかしてしまいたくなる。
でも、私は思うんだ。
きっと雲にだって、「闇」はある。
きっと雲だって、「悩み」くらいあると。
「…ねえ、雲」
言いたい。
私と一緒にかんがえようって。
雲がしてくれたみたいに、今度は私が、雲を救ってあげたいって。
言いたいんだ。ほんとうは。
「あ?なんだよ」
ねえ…雲。
言っても、いいかな。
「…わたしさ、雲に救われたんだよね」
薄暗い帰り道、ぽつりとこぼした声は、きっと雲にだって聞こえにくかったと思う。
けれども私は続けた。
「最初はずっとなんだコイツ!みたいな感じだっけど、雲と話すうちに、楽しいとか、嬉しいとか、そんな感情が増えていって…」
「…」
「気づいたら私、雲のこと大好きになっちゃってた」
笑顔の告白。
照れたり、涙を流したり。
そんなこともなく、伝えられた。
「すきだよ」って。
ずっと秘めていた思いを、今、彼に打ち明けた。
「…私ね。ガンなの」
急な二つの告白に、雲は目を見開いて立ちすくむ。
そうだよね。普通、仲がいい女子が、ガンだって言われたら驚くよね、と思いながら、私は続きを話した。
「見つかった時にはね、もう手遅れって言われたの。将来の夢だって定まってなかったけれど、ショックだった。私、もう一年生きれるか、わからないんだって」
ふふ、と笑うと、雲はギロりとわたしをにらむ。
けれどその目も、いつもの覇気はなくなっていた。
「…死ぬんだ、わたし」
ポロッとこぼれた涙は、夕陽を写して、地面に消えた。
それが何度も続いて流れ落ちていく。
「…そんな私を救ってくれたのは、いつも雲だった。雲が、私の太陽なの」
こんなキザなセリフ、私が言うとは思ってもみなかった。
でも、今はわかる。
言いたい。この思いを、伝えたい。
「…付き合いたいとか、思いを一緒にさせたいとか、そういうつもりは全くなくて」
涙声でそう言っても、何にも説得力がないのはわかってる。
けれど、言いたい。
最後だけど…言いたい。
「…死ぬ前に、伝えたかったって、だけだから。ほんとに、それだけ」
すぅ、と雲の息をのむ音が聞こえる。
そうだよ、雲は好きな人がいる。
わたしじゃ到底、雲には釣り合わない。
それでも、言いたい。
好きですって…愛してたって。
「ありがと、運んでくれて。私の家、もうここらへんだし、いいよ」
私は彼の手からビニール袋を奪い取った。
「ありがとうね。ばいばい」
あえて、またね、と言わなかったのは…「もう話さないよ」っていう意味を込めて。
「…ごめんね」
思わずつぶやいた声に、雲が動きを止めた。
「ばいばい」
私は再度そう言い残し、雲から離れた。
これも全部、全部雲のため。
…いや、違うかもしれない。
あふれてくる涙を拳で受け止めながら、私は歩く。
…全部、全部自分のためかもしれない。
私の思いを打ち明けたのは、雲にわたしを知ってもらうため。
私が死ぬと打ち明けたのは、雲と居るのが怖いというため。
…考えてみれば、全部自分のためかもしれない。
あふれる涙をぬぐった私は、決めた。
もう一生恋をすることはない。
もう一生…雲と話すことはない。
心に決めながら、私はそっと、未来への階段を上った。

「おはよ、舞桜」
次の日から、雲が定期的に、私の机に来るようになった。
話したくないとわかっていながら、ウソの笑顔で「おはよう」と返してしまう私は、ほんとうに馬鹿だ。
「なあ、次の授業のテスト、勉強ちゃんとしてきたか」
「…ノート見せてって言われても見せてあげないから」
「チッ。使えねぇな」
そんな他愛もない会話も、わたしと雲は会話するようにまでなってしまった。
頭ではだめだとわかっているのにしてしまうのはきっと、雲のことが好きだから。
無視なんてしたくない。
まるで恋愛ゲームの様だ。
ほんとうはダメだとわかっていながら会いに行くような、そんな感じ。
「でさ…」
「ねぇねぇ雲くんっ!次のテストのことなんだけどぉ、わたし、ノート忘れちゃってさぁ。見せてくれないかなっ?」
すると救世主、如月さんが現れ、私と雲の間に壁を作ってくれた。
「あ?ノートぉ?俺も持ってねぇし」
「えーそっかぁ。じゃあ、補習一緒になっちゃうかもねっ。それはそれで嬉しいなー二人きりだったらもっといいのに!」
そしてみるみるうちに、二人の世界が出来上がってしまった。
複雑な気持ちを隠したまま、私は机をなるべく二人から遠ざけ、手元にある文庫本に目を落とす。
すごく悔しいけれど、これが現実。
ダメだと思って告白した、女の末路だ。
「あっ、舞桜ちゃん。次のテストのことなんだけど、どうしてもわかんない問題あってさ。教えてくれない?」
すると、クラスメイトの女子生徒たちがそろそろとわたしの机にノート片手に集まってきた。
またか…と思いつつも、「うん。いいよ」と笑顔で答える。
まるで、雲が大嫌いだったころの私の様だ。
世界が醜く見えて、自分の思い通りにならない世界が大嫌い。
明日が来なければいいのにと何度思ったことか。
そんな毎日が、またへそを曲げず、戻ってきたような、そんな気がする。
「秋も近づいてきたよねぇ。そろそろイチョウとか落ちてそう!」
「確かに…もう秋だね」
うんうん、と返事をするけれど、私はそれが怖くてたまらない。
秋まで生きれるだろうか。
冬を、ちゃんと越せるだろうか。
今年は年越しそばなんて食べられないかもしれない。
それが怖くて、怖くて、怖くてたまらない。
「…そろそろ受験勉強、ちゃんとしとかなきゃだなぁ」
ひとりの女子がそう、ポロッとこぼす。
そうだ…みんなには未来があるんだ。
わたしだけ、ない。
ホロリと一筋しずくが頬に通る。
…あれ。
どうしてだろう…。
涙が、止まらないよ…。
「…えっ!?えっ…み、水瀬さん!?どうしたの…?受験、そんなにいや?」
違う、違うと私は首を振る。
「違うでしょ、こういうのは。えーと…お腹空いた!?それとも、どっか痛い…?」
女の子たちがあわあわしている。
大丈夫だよって笑わなきゃいけなのに、笑えない。
涙だけが出てくる。
どうしよう。誰にも、見られたくないよ…!
次第に人も集まって来たみたいだ。
みんなの視線が、私に突き刺さる。
それでも涙は止まらない。
ここにいるひとたちはみんな未来があって。
進むべき道があって。
いつかは結婚したりもしちゃって。
みんな平等なハズなのに。
わたしだけ、ない…。
未来がない。
私だけ、死んでしまう。
わたしだけ、結婚もできず、夢もかなえられず、進むべき道を大きく外れて、みんなに置いて行かれる。
そう思うと、涙が止まらない。
どうしようもなく、辛いと思ってしまうんだ…。
「…も」
「え?なんて?何か欲しい?」
一番前に立っている女子が、耳を傾けてそう言った。
ねぇ…助けてよ。
いつもならそうしてくれるでしょ。
私を救ってくれたひと。
私に恋を与えてくれたひと。
私に…希望を教えてくれたひと。
ねえ…ねえ。
「…けて」
「え?」
まえに立つ女の子は、どうしたの、どうしたのと、難しそうに言うだけ。
みんなに言わなきゃ。
伝わるように。
彼に…この声が届くように。
すぅ、と大きく息を吸った私は、全力でそれを吐き出した。
「くも…助けて…」
最後の言葉は、小さくなって、みんなに埋もれてしまったけれど。
きっと彼には届いてる。
私の思いが、きっと届いてる。
ね…そうでしょ。
「…行くぞ」
彼の低い声に思いを隠しきれないまま、私たちは教室を出た。
誰もいない体育館。
まるで私の過去を話した、あのときみたく、私たちは二階に上がった。
そして、私は声にならない声で、嗚咽を漏らした。
どうして君はいつも助けてくれるの。
どうしていつも君は私の傍にいてくれるの。
辛いとき、どうして君は私を救ってくれるの。
そんな言葉はどうでもいい。
まず私がしたことは、ただ彼の胸の中で泣くこと。
「死にたくない」「生きたい」と叫ぶこと。
生まれて初めて恋をして、あっけなく終わってしまった。
はずなのに、私は雲が好きだ。
きっと死ぬまでずっとそうだろう。
それでも、許される気がした。
夢がかなわない私でも、最初で最後の初恋だけは、自分の胸にため込んでいていいと思った。
そう思わせてくれたのは、雲だった。
雲が私を救ってくれた。
雲が私の太陽だった。
ねえ…雲。
「死にたくっ…ないっ…」
思わず口にした声は、体育館中に響き渡った。
ねえ…雲。
雲は今、どんな顔をしているのかな。
どんな顔で、私を見ているのかな。
悔しい?それとも、頼ってくれたことを嬉しいと思ってる?
どっちだって私はかまわないけれど、でも一つ約束してほしいのは、
「絶対私を忘れないでね…?」
私のか細い声に、ピクリと反応した雲は、私を離して、じっと目を見てこういった。
「当たり前だろ。忘れたことなんてねぇよ。今までも。この先も」
一気に嬉しさでいっぱいになった胸は、どうしようもないほど嬉しくて。
それでいて、悲しくて。悔しくて。
ずっと一緒に居たいと、そう思ってしまいそうで。
ねぇ、雲。
それ、告白の返事ってことで受け取っても、いいかな。
一年だけ、私の命が尽きるまで。
そうやって勘違いしてもいいかな。
いいよね。
いいよね?
うん、きっと君はいいよって言ってくれる。
君はそういうひとだって、私は知ってる。
不器用で、でも素直で優しくて。
あぁ、私が恋したひとが……、生まれて初めてで、最後の恋が、雲でよかった。
直感で思った言葉全部、彼に伝えたいけれど、今はやめておこう。
今はつらかった思いを全部彼にぶつけてやる。
それだけが、私の今やるべきことだから。

「送ってくれてありがとね。もう遅いから、早く帰ってよ?」
「わかってるって。今日の飯カレーだから余計足取り軽いわ」
そう言って帰り道を歩く私と雲。
こんな毎日が、ずっと続けばいいのに…なんて、少女漫画の読みすぎかな。
「カレーかぁ。じゃあうちもカレーにしちゃおうかな」
「え、なに。おまえが作ってんの?」
「そりゃあね。お母さんもお父さんも仕事大変だろうし、私が手伝えることは手伝ってるよ。雲は…何にもしてなさそうだね」
「ふっ。バレバレか」
そう言って二人で笑いあう夕暮れた道。
「…雲」
「あ?どうした」
珍しく足を止めた私を、気遣うように横に並ぶ雲。
心配してくれているのだろうか。
「ありがとう。こんな私を救ってくれて…。否定しないでくれて、ありがとう」
私は笑顔でそう伝えた。
「ほんと、そういうところ大好きだよ」と愛の言葉でも付け加えればいいものの、私はそんなことも許されない。
これ以上好きになることは言語道断。
笑止千万とでもいえるほど、馬鹿野郎がすることである。
出来れば、普通の恋がしたいと思ってしまう。
限りがない世界で、大学生になった雲を見れる時間帯まで生きていたい。
人生ではじめて、「生きていたい」と願うときは来るんだ。と改めて自分が可笑しくなって苦笑する。
…きっとそうさせてくれたのは、雲だろうけれども。
「もうこの辺でいいよ。雲、反対方向でしょ。私はもうこの辺だし、あとは自分で帰れる」
「そうか。まあ、最近の女子はこえーからな。大丈夫だろ」
そういってうなずく雲に、私は笑顔を浮かべる。
「もう!そんなだからクールって言われるんだよ、雲は」
「うっせ」
前、LINEで雑談をしていたときのことを思い出すなぁ。
あの時、確かなりたいタイプみたいな話になって、雲は「明るい陽キャ」とか言っていたような気がする。
…考えただけで、爆笑してしまうほど面白い話だ。
薄暗い帰り道、私たちは立ち止まる。
何秒も、何分も時間が過ぎていく。
離れるのが嫌で、時間を惜しんでいる証拠。
「…雲」
―夕暮れどきだ。
いつものハスキーボイスが、いつも以上にわたしに突き刺さる。
どうしたことか、私は笑顔になっていた。
たった一言のその声が、私を明るく照らし、私をほめてくれるよう名感覚に陥った。
「…ほんとにそろそろ帰らなきゃだね。親も心配するでしょ」
「俺の親はパートだから。安心しろよ」
「…そっか」
か細い声は、日に飲み込まれて消えていく。
それでも雲は、ちゃんと声を拾ってくれた。
「…いつか雲の家に行きたいなー」
そんなありきたりな言葉で笑いを取る私は、どれだけ雲に好かれたいんだろう。
「俺の家?汚ねぇぞ」
「予想してるよ。雲の部屋、散らかってそうだなーって。家政婦さん雇う?時給二十円でいいよ。一か月に三回とかどう?」
「乗った」
ニヤリと笑った雲は、私に向かって拳を突きつけてきた。
握手替わりなのだろうか。
私もニイと笑顔を作り、彼の拳に向かって、自分の拳を突きつけた。
「じゃ、土曜から頼むわ。家政婦さん」
「うん。任せといて…って。え!?土曜!?明日じゃんっ…!」
彼は私の声なんて無視して、夕陽に照らされた道を進んでいく。
「…やっぱり意地悪」
ひとりきりの帰り道が、なぜか弾んで楽しくなる。
雲と居る時と一緒だ。
違うところと言えば…。
「ちょっとだけ、明日が楽しみ」だということだ。
「おっ、お邪魔します…!」
約束の土曜。
指定された家に向かっていた、アホな私は、目の前に現れた豪邸に絶句した。
何十もある部屋。
何百もある窓に、広い裏庭。
そして、家のお風呂の百倍ほど大きい玄関。
間違いない。ここはお城か何かだろう。
目をぱちくりさせる私を見て、笑いをこらえている雲。
「何してんだよ。早く上がれ」
「いやっ…なんか恐れ多くて」
私がそう答えると、彼は再度耳をピクピクと振るわせて笑いをこらえる。
「うちの親は今いねぇし、早く上がれ。掃除してもらうのは俺の部屋だけだから」
そう言われて、しぶしぶ家に上がらせてもらう私。
そして…雲の部屋を見て、絶句する。
いや、きっと広い空間が広がっているはずだ。
窓は何個もあって、個室の中に、また別の部屋がある。
広すぎて絶句する…という考えもあるだろう。
それでも私は、どうしても散らばった服や、転がったくしゃくしゃの紙きれ、鉛筆、消しゴムなどの文房具。
暑苦しそうな布団や、小さな枕などが、どうしても、どうしても気になってしまった。
「…なに、これ」
予想もしてなかった破壊力に、私は思わず、その場に立ちすくんでしまう。
「あー。そういやぁ、数学のテスト結果、どこやったかなぁ」
そう言って探し回る雲を別に、私は息をのんだ。
これだけ広い部屋を、足の踏み場もなくしてしまうとは。
雲…恐るべし。
「よ…よし」
私は決意を決め、袖をまくって腕まくり。
パンパンッとほほをたたいて、気合を入れた。
ほうきと掃除機を片手に、私は雲の部屋に、一歩踏み出した―。

「…はぁ。ほんと疲れた。何なのあの部屋」
出された高級そうなお菓子をほおばりながらぶつぶつと文句を言う私に、苦笑した雲。
「まあいいじゃねぇか。今日はうちのご飯食べれるぞ」
「うちのって言ったって、私が作るんでしょ…まったくもう」
何もできない天才め。
心の中でそうぐちった後、私はお菓子を諦め、キッチンへ向かう。
時計の時刻は、午後五時四十八分をさしていた。
今まで、四時間も掃除をしていたんだと思うと、ほんとうに気が重い。
結果から言うと…雲の部屋はきれいになったと思う。
途中で、出てきた服に埋もれていた大きなテレビを倒しかけた以外は、何事もなく、スムーズに終わらせることができたと思う。
けれど、さすがに体力的にも、これが月に三回もあると思うとキツイ。
プラステスト勉強と、受験勉強。
塾の宿題まであるとなると、さすがの私でも一苦労。
そして…なんと雲の家で食事を取ることになった。
途中で雲のスマホにかかってきた電話の相手は、どうやら雲のお母さんだったらしく、「部屋が綺麗になった」と雲が報告すると、見せてほしいと頼まれたそうだ。
雲は画面を共有して自分の部屋を見せ、片付けている私の写真も撮って、お母さんに送ったらしい。
するとお母さんは、みるみる私にほれ込んで、食事でもてなしてあげなさいと言われたそうだ。
そして…この結果である。
「ええと、今日のメニューは…海鮮丼かな。魚ばかり冷蔵庫にあるし」
「おお。あまり食べない献立だな」
ウキウキしている雲をよそに、私は準備に取り掛かった。
途中で雲が、「手伝うぞ」と手を貸してくれたけれども、包丁で指をかすって絆創膏を貼るはめに。
最悪の事態を想像してしまった私は、雲に「部屋を汚さない程度に、部屋で遊んでて」と命令してから約三十分。
魚のおいしそうな香りと共に出来上がった海鮮丼は、見た目から見るに、なかなかの出来だ。
「いただきます」
雲も呼んで、いざ食事…!
緊張しながら「食べて」と雲を促すと、雲はスプーンをゆっくりとご飯と刺身の間に入れ、パクッと一口。
「…美味い」
雲の最初の一言目が…それだった。
「ほんと…?よかったぁ。雲の口に合って何よりです」
私がそう言ってお辞儀をすると、「わざわざサンキューな」と次の口を進める雲。
そんなにおいしいの、と苦笑しながら、私も一口食べてみる。
「…確かにおいしいね」
私がそう言って笑うと、「おまえ、絶対料理のことに関してはナルシストだろ」と言われたため、雲のお替りはなしということになりかけたけれど、雲の必殺技、くすぐり攻撃を受けて、あきらめることにした。

「ありがとうね。ご飯まで食べさせては…もらってないね」
ふふ、と笑うと、雲も「確かにそうだな」と笑った。
「美味かった。ありがとう」
「いーえ。口に合ってよかった」
もうすっかりあたりは暗くなってきた。
時計の針は、七時十二分を指していた。
「一人で帰るからいいよ」というと、雲が「ついていく」と言ってくれてから、もう三分経過。
結構私と雲の家は、距離が遠い。
「……聞いちゃいけない話、聞いてもいい?」
沈黙を破ったのは、私。
いつもなら、絶対こんなことしない。
だけど、今は、一緒に居たい。
聞きたい。ずっと気になっていたこと。
「…雲の好きな人ってさ、もしかして、如月さん、だったりする?」
聞いちゃった。
夜でもわかるくらい、今私のほほは熱を持っている。
“笑止千万”
それが本当のはず。
それが約束のはず。
だけど私は、無理だった。
だって、雲が好きだ。
好きなら何でもしていい。そんなことは許されないけれど。
思いを残してなんて、死にたくない。
「…俺の、すきなひと?」
真っ暗な夜にひびく、ハスキーボイス。
「俺の、すきなひとは…」
ドキドキする。
心臓が飛び跳ねる。
今この瞬間、死んでしまいそう。
顔が赤いのを悟られたくなくて、下を向いてうつむいていると、雲の細く、長い手が、私の顎を上に向けさせた。
真っ黒な目と、目が合う。
ドキドキする。
恋ってこんなに、胸が痛いんだ。
雲の顔が、だんだん拡大されていく。
そして気づけば…柔らかい感触が、私のほほと、唇に走った。
頬には大きな手が添えられていて、これは…、初めてだった。
「えっ…」
息が吸えるようになって、一番先にポロリと出た言葉は、それだけだった。
「…これ、俺の気持ちだから」
耳元でささやかれた声に、胸が痛いほど脈を打つ。
どうしよう。倒れてしまうほど、熱い。
すごく、ドキドキする…!!
「それって、どういう…」
私が声をかける前に、彼はくるりと私に背を向け、夜の道をそのまま戻っていった。
ひとりになって、なんだか夜が長く感じてしまった。
「…すきって、こと?」
家に帰って、ベットの毛布に顔を押し付けてから、ひとりで考え続けた結果。
「キス」を反対から読めば、「スキ」という言葉になる。
だから、もしかしたら…。
…私は、うぬぼれているんだろうか。
キスをされたくらいで、まだ好きとは言われてない。
本人から、直接聞かないと、まだわからない。
…でも、もし。もし、好きだと、そう言われたら…。
“私は、どうするんだろう”

手もとにあったスマホの電源をいれて、LINEアプリをタップする。
一番上に出てきた、【彼方くん】の文字。
するりと指がそこに触れて、画面は会話画面に切り替わる。
メッセージを打つ場所を、何も考えずにタップしたところで、意識を取り戻す。
…どうして私、彼方くんに連絡しようとしていたんだろう。
急いで電源を落とそうとして…やめた。
私はもう一度、メッセージを打つ空欄に指を伸ばして、画面に文字が現れると、ぽつりぽつりと吐き出すように、文字を入力していった。
【いま、はなせる?】
気づけば、一番下に表示されているメッセージには、そう書かれていた。
既読は、つかない。
分かってる。彼方くんも、暇じゃない。
親戚の高校生に付き合っている暇は、ない。
それなのに。
メッセージのすぐ横に、「既読」の文字。
そして、私のメッセージは、下から二番目になった。
【どうしたの?悩みがあるなら聞くよ。俺でよかったら】
なんで、彼方くんは全部受け止めてくれるんだろう。
なんで、彼方くんは私のことを認めてくれるんだろう。
【電話していい?】
ダメだってわかっているのに、私の頭は回らなくて。
気づけば表示されている画面は、通話画面にかわっていた。
「もし、もし…」
〈あ、もしもし、舞桜ちゃん?〉
「うん…ごめんね、きゅうに」
〈いやいや、大丈夫だよ。そろそろ仕事も終わるころだったし。それで?どうしたの。何か悩みごと?〉
「…あの、ね」
口がうまく開かない。
しゃべれない。
話したい。
彼方くんに、私の思いを、話したい…!
「私、雲にどんな思いで、どんな感情で接せばいいか、わからなくなっちゃって……」
〈……〉
少しの間が空く。
やっぱり、迷惑だったのかな…。
「ご…ごめんなさ」
〈…何だよ、負け犬の遠吠えをしろっていうのか〉
「え?」
ぼそっと聞こえた声に、私の鼓動は、早まるのをやめた。
〈…なんでもないよ。…舞桜ちゃんは、雲くんが好きなんだよね〉
「…うん。すき。だいすき」
ちょっと恥ずかしいけど、雲への気持ちは隠さないって決めたんだ。
どうどうと、言おう。
〈なら、そのままでいいと思うよ。雲くんが好きなら、好きでいいと思う。接し方を変にしなくても、舞桜ちゃんは、舞桜ちゃんのままで頑張ればいいよ〉
ハッ…と口を開けようとして、閉じた。
唇をかみしめる。
声を押し殺す。
なんで私、迷っているんだろう。
「…でも、私は……人とは、違う。雲とは、違う」
思っていないことが、口からするする出てくる。
違う。思っていないこと、じゃない。
ずっと隠してきた、自分自身にうそをついて、守ってきたものなんだ。
この言葉は、私の“想い”なんだ。
「私は、もう死ぬ。死んじゃう…。生きられない。このままじゃ、雲が悲しんじゃう…!両想いになったとしても、私は……」
〈舞桜ちゃん、なにか勘違いしてない?〉
声を荒げそうになった私を、彼方くんの声が止める。
〈舞桜ちゃんの人生は、舞桜ちゃんのものだよ〉
人生。
それは誰もが持っているものだ。
ひとりひとつずつあって、全部平等で。
それでも、理不尽な言い訳やウソで、人生の電池が、切れてしまうことがある。
「…」
何も、言えなかった。
私の人生は、全部病気に流されたままで、病気が中心で動いていた。
私の人生なんて、自分で決めない。
決められないと思っていた。
〈舞桜ちゃんの人生は、病気のものじゃない。君の人生は病気で終わるわけにはいかないでしょ?〉
「…彼方くん」
私のことを、考えてくれているんだとういうことが、よくわかる。
でも、どうしてそこまでしてくれるんだろう。
どうして私に、付き合ってくれるんだろう…。
「…どうして彼方くんはそんなに私のことについて考えてくれるの…?」
〈…舞桜ちゃん、気づいてない?〉
「え…?」
気づいていないって、どういう意味…?
〈好きなんだ。舞桜ちゃんのこと〉
「…えっ?」
すき…?
彼方くんが…私のことを好き…?
「それって…友達として…親戚としてって意味で」
〈違う。恋愛感情っていう意味で、好き〉
ストレートの、告白だった。
「え…。なおさらどうしてかわからない。なら、どうして私の話を、雲との話を聞いてくれてたの…?」
わたしなら、きっと胸が破裂しそうなほど、嫌だと思ってしまう。
雲が、ほかの女の子の相談なんかしてきたら、私はもう死んでしまうほど胸が苦しくなる。
いやだと思ってしまう。
それなのに、どうして、彼方くんは私に付き合ってくれているんだろう。
〈俺は、舞桜ちゃんが幸せなら、それでいいと思っているんだ〉
「私が…幸せなら…??」
頬が濡れる。
熱いしずくが、私のほほを濡らした。
〈え…?もしかして、泣いてる?〉
「ち、ちがっ…泣いてなんて、ない」
嘘をついても、今回は本当にウソがつけない。
〈嘘だ〉と笑われてしまった私のほほには、さらにほほが濡れてしまった。
「…最近、私、泣いてばかりだなぁ」
〈泣いていいよ。泣けば泣くほど、人間って成長していくからね〉
…彼方くんは、何回泣いたんだろう。
私が、思わず言った言葉で、彼方くんを傷つけて、泣かせてしまったことがあるかもしれない。
「…ありがとう。彼方くん、ほんとうに、ありがとう…!」
泣きながらそういうと、彼はふふっと笑って、〈どういたしまして〉と優しく答えてくれた。
画面が切り替わって、メッセージ画面に戻る。
「…私の人生は、私のもの、かぁ」
なんだか明日、雲に言えるような気がする。
「ありがとう」と、「大好き」を。
言える気がする。
私は安心した気持ちで、そっと眠りに落ちた。

「おはよう。舞桜。昨日はぐっすり眠れたみたいねぇ」
「っ、え…?」
「昨日、少しだけ覗いたの。そしたら、もう幸せそうにぐっすりだったわよ」
幸せそうに、ぐっすり。
「そっか。ならよかった!」
私は笑顔でそういって、横にあったカバンをつかんだ。
「えっ?あ、朝ごはんは??」
「今日はいいの!お弁当ありがとう。行ってきます!」
私はすぐさま家を飛び出て、鍵をガチャリと閉めた。
「えぇ、ちょっと舞桜!」
ドアの奥からそんな声が聞こえてきたけれど、私は振り返ることはなかった。
ごめんね、お母さん。
ごめんね、彼方くん。
ごめんね、くも。
私、今日まできっと、焦っていたんだと思う。
でも、もう怖くない。
私は、生きたい。
私は思い切り走って、学校を目指した。
お腹痛くなるだろうとわかっているけれど、私は走らなきゃいけなかった。
校門は、まだ空いていなくて私ひとり、立ち尽くしているだけだった。
時計に目を落とすと、針は七時三十分をさしている。
そろそろ校門が開く時間だ。
そう思っていると、ひとりの体育教師の先生が、校門を開けに来てくれているのが見え、とっさに私は花壇に身を隠してしまった。
ギギギと、古そうな音を立てて動く門。
先生は、校門を開けたあと、「あ、ホイッスル…」と言って、学校の中に走り去っていってしまった。
私はそっと立ち上がり、校門を駆け抜けた。
靴箱につくと、すぐに履き替えて、いそいで教室に入る。
そして、バックの中に入っていた小さな紙を取り出して、そこに文字を書いていく。…と、そこで、私の突進は終わった。
さっきとは違い、まったく言葉が出て来ない。
ペンが進まない。
…ほかの女の子たちなら、こういう言葉がすんなり出てくるんだろうか。
なぜか、急に、暗い気持ちになる。
私が、もし病気持ちの女の子じゃなかったら、こういうことをするのは、すごくドキドキして、でも頑張るっていう、青春を楽しめたんだろうか。
………違う。
こうなったのは、私が、わたしだからだ。
私は再度、緩んだ手をぎゅうっと持ちかえ、一字一字、書いていく。
〔ごめんね。君の前で泣いてごめんね。たくさんひどいことを言ってごめんね。すきだって言ってごめんね。病気を持っていてごめんね〕
そこまで書いて、違う。と思った。最後の二つは、私がずっと思っていることではあるけれども、そう言ってしまえば、あの夜の告白も、謝罪する文章になってしまう。
私は、消しゴムをつかんで、「すきだって言ってごめんね」と、
「病気を持っていてごめんね」を消した。
そしてそこの部分を、「たくさん、たくさん、ごめんね」にした。
〔ありがとう。世界の綺麗な部分を見せてくれて、ありがとう。見せるって言ってくれて、ありがとう。好きだって言ってくれてありがとう。〕
ありがとうはすんなりと出て、その下にまた文字を書く。
〔私は、君が好き。大好き。けど、私はもう生きられない。だから、私の一生分のありがとうと、ごめんを伝えたい〕
怖くないと言ったら、嘘になる。
それでも私は書いた。
この手紙を、最後まで。
〔ごめんね。君の前で泣いてごめんね。たくさんひどいことを言ってごめんね。たくさん、たくさん、ごめんね。
ありがとう。世界の綺麗な部分を見せてくれて、ありがとう。見せるって言ってくれて、ありがとう。好きだって言ってくれてありがとう。
私は、君が好き。大好き。けど、私はもう生きられない。だから、私の一生分のありがとうと、ごめんを伝えたい―。
今日の放課後、シャボン玉を飛ばしたところ待ってくれないかな。
会いたい。君に、会いたい。〕
ようやくそこまで書いた時、一息つこうと紙を折り曲げようとして、ハッとした。
私はもう一度ペンを握って、一番上に、〔雲へ〕と書いて、一番下に、〔舞桜より〕と書いた。
「ふぅ…」
手紙を書き終えると、なんだか心が軽くなったように思えて、嬉しかった。
一息ついたつかの間、歩いてくる生徒たちの足音と、しゃべり声が聞こえ、私はとっさに紙を雲の机の引き出しに入れて、自分の机を片付けた。
「あれっ?もう来てたんだねぇ、水瀬さん」
「…あ、えっと。日直の、お手伝いしようと思って」
「えぇ、優しい!!さすが水瀬さん」
数人ほどの男女グループだった。
私は笑顔で「任せて」とだけ笑いながら、日直が書いてある方に目を向ける。
するとそこに、「夕凪雲」という漢字が並べてあって、思わずドキッと胸が高鳴る。
…あの手紙を見た後、雲はどんな顔をするだろう。
「…そう言えば……水瀬さん!」
ぎゃははと笑っていたグループの一人が、立ち上がって私に声をかける。
「うん。どうしたの?」
私がそう答えると、彼女は不満そうに話し始めた。
「…私、昨日見ちゃったんだ。夕凪くんと水瀬さんが、このまえ道路で会ってたでしょ。ただならぬ恋愛感を感じたから、私はすぐに逃げ帰ったんだけど…その後、どうだった?」
…昨日、ということは、キスされた日だ。
「えっ…あ…いや、偶然会っただけだよ」
このまま質問攻めにされると、ぼろを出してしまいそうなので、慌ててごまかす。
「えー、でもさぁ、あれ。絶対夕凪くん、水瀬さんのこと好きじゃん?」
「えっ」
「だっていつも声をかける時、ほかの人より優しい目になるし、しかも水瀬さんが大変な時はいつも助けてあげてたでしょ。あれ、もう恋しているほかないよ」
……。
言われてみれば、どうして助けてくれるんだろうと疑問に思ったところもある。
けど、昔の私は、そんなこと思ってもみなかった。
「ね、水瀬さん。どうするの?もし夕凪くんが告ってきたら」
「えっ…。いや、普通だよ。私とく…夕凪はあんまり接点もないし、まずは友達って感じじゃないかな」
あは、と愛想笑いを浮かべると、彼女はもっと好奇心に聞いてくる。
「いや、でももし、ガチのガチガチだったら!?」
ガチのガチガチでその質問困るんですけど!!
心の中でそう突っ込みながら、私は「えーと」と笑いながら答える。
瞬間、心に残った傷が、開いたような気がした。
「……だよ」
「え?」
「……むり、だよ。私が付き合うとか、結婚するとか、そういうのはもう、むりなんだ」
「え?どういうこと?」
もう、言いたい。
吐き出してしまいたい。
私は、死ぬんだよ…。って。
もう、いいかな。
「私ね、もう死…」
「はよ。舞桜」
ポンッと頭に手がのせられる。
思わず反射的に振り向くと、頬に何か柔らかいものがあたった。
瞬間、目の前にニカッと笑った顔が目の前に現れる。
「え…雲?」
思わずそう言ってしまうと、話していたグループの子たちが「きゃー!」と声を上げた。
え、今のって、頬にキスしたって、こと?
頭がパニック状態になる。
そんな、人前でどうどうとしていいものではない…はず。
「どういうことだよ、夕凪!!俺らの水瀬ちゃんに…キスなんて!!」
堂々とその単語を言う男子たち。
「や、やめてよ」と女子が食ってかかるけれども、男子たちは雲に張り付く。
「どういうことだよ。なあ?おい!」
どうしてそこまでムキになるのかがまずわからないけれど、ひとまず、雲が嫌な顔をしているから、私も止めなくてはと思って、私は雲の前に立った。
「や、やめて…。夕凪も嫌がってるでしょう。それに、喧嘩はよくないよ」
「……だって、コイツ。彼氏でもないのに、カレシ面…」
「彼氏だよ」
男子にかぶせるように、そう言ってきた雲。
一瞬、クラスにいた全員の目が、点になる。
「…え」
私がこぼした声を合図に、教室のひとたちのこえは重なり合って、大きく響いた。

「ったく…。注意してくださいね。他の先生たちにも、迷惑ですよ」
「すみませんでした」
ホールルームで、先生に説教された私たち。
ざわざわとどよめきあうクラスメイト達の横で、私はそっと雲を見た。
手紙…読んだのかな。
それに、私たちってもうカップルなのだろうか。
どんどん胸に不安が積もっていく。
「…先生。少しおなかが痛いので、お手洗いに行ってもいいですか」
「水瀬さん、今は先生が話しているでしょう。どうしてもの時だけにしなさい」
ほんとなのに、と思いながら、わかりました。と答える私。
「はぁ」
ため息が出る。
なんだか雲と出会う前のような、居づらい空間。
「…あ。すいませーん」
瞬間、ひょっこり顔を出した見慣れた顔。
「舞桜ちゃんっていますか」
「え…?舞桜ちゃん?」
「あー…えーと。水瀬さんっていますか?」
「えっ…彼方くん!?」
私が思わずそういうと、「よっ」と軽く手を振ってくれた。

「話って?」
「あぁ…。さっき舞桜ちゃんのお母さんから連絡届いた。正式に、入院が決まったそうだ。明日からは学校には来れない」
「え…」
なんだか、急だ。
発作を起こしてからとか、ぎりぎりまで学校に居られるとか、そういう風をイメージしていたのに、急に連絡が着て、急に呼び出されて、急に人生が終わる。
「…そっ、そっか。もう今日で、学校とも、雲ともお別れかぁ」
ふふ、と笑うと、気まずそうに目をそらした彼方くん。
「一応、手術するんだろう。頑張れよ」
「うん。ありがと」
私がそういうと、くしゃっと笑顔を作る彼方くん。
…もう多分、彼方くんも心の中でわかっているだろう。
私は、助からない。
それでも、笑顔で「手術後」を考えなければいけない。
それが社会のルールで、それが一番、ひとを傷つけない方法だから。
「…そっかぁ。もうこの学校とも、お別れか」
ぽつりとつぶやくと、「また来るのは手術後だね」と笑って答える彼方くん。
違う。そんな笑わなくていいよ、彼方くん。
ほんとうはわかってる。
私も、彼方くんも、お母さんも。
きっと、もうみんなわかってる。
私は、もう……。

「ごめんね、授業中に」
「ううん。大丈夫だよ。また連絡するね」
教室の前まで送ってくれた彼方くんに、そうお礼を言ったあと、私は教室のドアを開け、「遅くなりました」と言いながら机に座った。
「何の話だったんだ?」
先生は少し興味を持ったようにそう聞いてきた。
「あ…えっと」
聞いていないのかな…。
でも、彼方くんの口から、できれば言ってほしい。
「…か、カウンセラーについての、相談っていうか」
「カウンセラー?なにか悩みがあるのか。先生が聞いてやるぞ?」
あぁ、面倒くさいな。
そう思ってしまったことは、絶対に内緒。
秘密にしなくちゃいけない言葉。
「……大丈夫です。進路のことについてなので」
私が笑ってそう答えると、あぁ、と頷いた先生。
「おまえ、進路表まだ提出してなかっただろう。もうそろそろ冬なんだし、もう出せよ」
「…はい。わかりました」
笑ってそう答えると、「それじゃあ、授業を進めるぞ」とまた私たちに背を向ける先生。
私は息を殺しながら、じっと授業が終わるのを待った。

「…もう、お別れかぁ」
放課後、夕陽も出てきたころ、ぽつりとしみつく私の言葉。
一日がこんなにも、あっという間という日は、これまでの人生で一度もなかったと思う。
あぁ、死ぬんだ。私。
いたいほど自覚した、人生の重み。
恋をしなくたって、私は今、こう思っただろう。
この世界が嫌いで、大嫌いでも、それは私の、わたしだけの想いでいい。
きれいごとなんて言いたくも、聞きたくもない。
それでも、世界が大嫌いでも、きっといつか、自分が大好きだなって思うひとが現れるんだということを。
ちゃんとわかってほしいな…。
「あっ…」
校門の前で立ち尽くしている私の後ろで、大きなプリントの山を抱えていた一年生が、石につまずいて転んだのが見えた私は、すぐにそちらに駆け寄る。
「え…」
彼女は少し驚いたように手を止め、私をじっと見つめた。
「これ、重いでしょう。どこに運べばいいの?」
「…だいじょうぶ、です。自分で運びます」
「でも重いでしょう。また転んだら次はケガするかもしれないよ?」
「……でも、これは私の役目で」
「年下を助けるのが、年上の役目なんだよ」
私はそう言って笑って、彼女の抱えていたプリントを半分持った。
「それで、どうすればいい?」
私が顔を覗き込むと、その子の前髪で、目は見れなかったけれども、少しほほを赤くして、「一年四組に、届けてください…」と小さくつぶやいた。
「わかった。任せて」
私がそう言って笑うと、歩き出す彼女。
あぁ…私も、こんなふうにみんなに見えていたんだろうか。
ずっと、ずっと自分を隠して、みんなに笑顔を振りまいて。
でも心はどんどん重くなるばかりで。
人間関係って、本当に難しいよね。
心の中で、隣で歩いている彼女にそう声をかけた私は、再度前に向き直った。

「ほんとうに、ありがとうございました」
「えっ?」
プリントを運び終わったあと、近くにあった自動販売機で飲み物を購入したとき、頭を下げてきた女の子。
「い、いいよ、いいよ!私ももうちょっと学校に居られる時間が欲しかったから」
私が首を振って笑うと、彼女は頭を上げて、おかしそうに首を傾けた。
「どうして学校に居たいと思うんですか…?もしかして…家が居づらいとか」
そう言って慌てたように私に近寄る彼女が、少し可愛くって、「違うよ」と彼女の頭を撫でた。
「私ね、明日から…この学校に来れなくなっちゃうの」
「…え」
「だから、名残惜しいっていうか」
私が笑って言うと、彼女は何かを察したように、「…そうなんですか」と答えた。
「それじゃ、私はもうそろそろ行くね。最後に約束してることがあって…」
そこまで言ったとき、急に雲の顔をおもいだした。
前までの私は、怖くて震えていたかもしれない。
こんなふうに、自信満々に笑えなかったかもしれない。
でも、今は違う。
「約束…?」
首をかしげる彼女に、私は思いっきり笑いかけた。

たったっと足を踏み出すたびに、重い鎖のようなものが、私の足に絡みついていくような気がする。
それでも、私は走る。
彼がいる場所へ。
私が彼に、恋した場所へ。
その時、前の方から歩いてくるお母さんの姿が見えた。
「あっ、舞桜!」
お母さんは予想通り、私の腕をつかんで、私の動きを止めた。
「何してるの。走ったら肺が圧迫されて危ないでしょう。もう帰るわよ」
そう言って腕を引っ張っていくお母さん。
「やっ…私、行かなきゃ!」
私はお母さんの手を振り払って、また走り出そうとしたけれど、お母さんの「舞桜!!」という大声に、動きを止める。
「どうして?どこに行くのよ。荷物もまとめなきゃいけないでしょう。帰りましょうよ。それとも…誰かに会いに行くの?」
顔は見なくても、心配しているということはわかる。
それでも、私は行かなきゃいけない。
「…ごめん。お母さん。ちゃんと戻るから!」
私は笑って、また走り出す。
続けて後ろから、「どこへ行くの!?」というお母さんの声。
私は、もう一度動きを止めて、振り返った。
「……好きなひとのところ!」

公園のすみっこの小さいベンチに、彼はいた。
イヤホンを耳につけて、なんでもない顔で座っていた。
胸が痛いほど高鳴る。
諦めてしまおうかというほど、ドキドキする。
でも、言いたい。
私は、君に伝えたい。
「くも」
私がそう声をかけると、ゆっくりと顔を上げた彼。
イヤホンを外しながら彼は、「舞桜」と小さくこぼした。
「ごめんね、遅くなって」
私がそう笑うと、「ほんとだよ」と突っ込む雲。
「…で?急に改まって、どうしたんだよ」
立ち上がった雲の横に並んだ私は、笑顔で伝えた。
「…明日から、入院するの。もう学校、行けなくなっちゃうんだ」
とたん、体を硬くして硬直する雲。
「たぶん、もう一生外には出られないと思う。手術も始まるみたい。緊張するー!」
話は、一方通行になった。
雲が何もしゃべらないからだ。
でも、ちゃんと聞いてくれているということはわかる。
「…もう、雲にも会えないんだ」
ぽつりとこぼすと、途端に涙があふれ出た。
それでも、私は続けた。
「雲には感謝することがいっぱいあるよ。ありがとう」
「…ん」
絞り出した声、というように答えた雲に、私はまた笑いかけた。
「…そんな顔、しないでよ。こっちまで悲しくなっちゃうじゃん」
私がそういうと、雲の目から、一筋、涙がこぼれた。
まさか泣くなんて思っていなかったけれども、二人して泣いた。
そして、笑った。
もう最後だね、なんて、もう言わない。
だから今だけ、ずっと一緒に居よう。
二人で笑った空は、星が輝いていた。
もう、肌寒い季節になったみたいです。
「またね、雲」
時計の針が七時を回ったとき、私はそう口にした。
「…おう」
雲はなんだか寂しそうに、そう言った。
きっとこれが、最後になることがわかっていた。
けど、どうしても「ばいばい」は言いたくない。言わない。
だから雲も、「またね」って言って。
二人すれ違う最後。
後ろを歩く私と、前を歩く雲。
二人の体がすれ違ったとき、さっきさんざん泣いて枯れたと思った涙があふれた。

ねぇ、雲。
家に帰って、食事を済ませたあと、ベットに倒れこんだ私は、心の中でそう呟いた。
世界で一番、大好きだよ。
「この家ももう最後かぁ」
ふふ、とつぶやきながら、私は手当たり次第に部屋の中にあるものを触りまくる。
まだ読み終わっていない推理小説から、もう速攻で読み終わった恋愛小説まで、全部。
これが私の、一緒に生きてきたものたち。
大好きなものたち。
あぁ、好きだ。
私はこんなにも、世界が好きなんだ。
この世界を、愛していたんだ。
そう気づかせてくれたのは、雲だ。
私は、眠った。
明日死ぬわけじゃないのに、眠るのが怖くて、あまりよい眠りというわけではなかった。
それでも、私には次の日がやってきた。
次の日がくるのは、こんなにも幸せで、幸福なことなんだと、人生で一番思った日だった――。

〈どう?そっちの気分は。痛いところとか、嫌なこととかある?〉
久しぶりに聞いた、お母さんの声に、「ううん。ないよ、大丈夫」と答える私。
「強いて言うなら、日当たりが強いところかなぁ。カーテンしたいんだけど、修理してもらってなくて」
〈へえ、大変ねぇ。手術はいつだって?〉
「うん、来週の日曜」
私はカレンダーに視線を向けながら、そう答える。
入院してから、二週間。
ちょうど学校のみんなは、冬休みの時期だ。
急に学校をやめるなんて、みんなは驚いただろうか。
あの先生を、見返すことはできたのかな。
彼方くんも、元気かな。
雲も……学校を楽しめたのかなぁ。
そんなことを思いながら、窓から見える雪を眺める私。
〈そう。じゃあその日までにまたお見舞い行くね〉
「えぇーまたあの腐ったみかんなんて持ってこないでよ」
そうおどけて見せると、〈持ってこないわよ〉と笑うお母さん。
〈じゃあ、また連絡するね〉
「うん。ありがと」
私がそう言ったのと同時に、画面はメッセージ画面に切り替わった。
正直、寂しくないと言えばうそになるけれど、私はそう口にすることはない。
どうせ最後はきっと、寂しいと思うんだから。
今味わって、それが普通だと思うほうが、幸せに死ぬよりずっといい。
私の部屋は、一人部屋で、一番奥の窓がわの席に居座っているのが、私だ。
たまに彼方くんから、【大丈夫?無理しないで、話したいときはいつでも言って】というメールが届いたりするけれど、雲からの連絡は一切ない。
もう他に好きな人ができたんだろうかと心配になるほどの悲しみだった。
「…送って、みようかな」
今まで雲に送るのは拒んできたけれど、勇気を出して送ってみてもいいんだろうか。
私は震える指で、そっと“雲”の名前をタップした。
そして、ゆっくりと画面をタップして、文字をうちこむ。
やっとのことで、送信ボタンを押した私は、ハッと我に返って、今送ったメッセージを読み返す。
【会いたい】
私が送ったメッセージには、ただそれだけ、書かれていた。
…私はなんて、バカなんだろう。
思っていることを素直に伝えるなんて、本当に馬鹿だ。
…けど、これが私の想いなんだろうか。
これが私の、本当の気持ちなんだろうか。
そう思うと、なんだか気楽になってくる。
そう。私は彼に会いたい。
また一緒に、花火を見たい。
笑いたい。
話したい。
馬鹿みたいに喧嘩したい。
また、シャボン玉をしたい。
私はスマホをぎゅっと握りしめて、返信を待った。
ちなみに雲には、あらかじめ病院の場所は伝えている。
何号室になったかも、すべて。
でも、既読がつくだけで、返信は、来なかった。
もしかしたら、今回もそうなんじゃないか。
私は、また無視されて、悲しい人間のまま死んでいくんじゃないだろうか。
不安が募った矢先、スマホが振動した。
私は急いで電源を入れ、送られたメールをタップした。
そこの一番上には、【雲】と表示されていて、胸が高鳴ったのと同時に、すごく怖くなった。
【そうか】とだけ返されたら、どうしよう。
【俺は会いに行かねえよ】なんて言われてしまったら、どうしよう。
【我慢しろ】と、そう言われたら、どうしよう。
それでも。
私はゆっくりと、目を開いた。
すると、そこには【すぐいく】という文字。
何度も何度も読み返した、死ぬほど嬉しい言葉。
とたん、画面が通話画面に切り替わった。
私は震える指で、通話ボタンをタップして、スマホを耳に押し付けた。
「もし、もし…雲?」
〈そうだけど〉
そこからは、待ち望んだあの愛おしい声が聞こえてきた。
「…えっと。すぐ行くって、どういう意味…?」
〈そのまんま。あと十分程度でつく〉
「え…?う、うそっ…。来なくていいよ!雲も忙しいでしょう。受験するんでしょう?勉強したほうが…」
〈うるせぇ。俺の勝手だ。それに俺に会いたいって言ったのはおまえだろ〉
うっ、と言いたかった言葉が喉につかえる。
確かに、会いたいと言ったのは、私の方だ。
それでも、私は無理にとは言っていないし、できれば雲の用事を優先してほしいと思っている。
それに、手術前に会うならば、今日じゃなくてもいいはず。
それなのに、どうして…。
〈俺はおまえが病室にいったら嫌がるだろうと思ってずっと我慢してたんだぞ。いまさら来るなって言われても、もうおせぇから〉
「…」
どうして。
どうして雲は、こんな私にそんな言葉をかけてくれるの。
〈で?何号室?〉
声が震える。
それでも、伝えなきゃいけない。
私も、雲に会いたいから。
「ご、五百六号室」
〈わかった。すぐ行く〉
その言葉が聞こえたあと、プツリと切れた通話。
ようやく静かな時間がもどってきて、ふと考える。
…本当に、雲は来るんだろうか。
もしかしたら、ネタかもしれない。
ドッキリかもしれない。
もし本当に来たとして、そこで話す内容は、別れの挨拶かもしれない。
他に好きな人ができたということを、報告しに来るのかもしれない。
それでも。
『俺はおまえが病室にいったら嫌がるだろうと思ってずっと我慢してたんだぞ。いまさら来るなって言われても、もうおせぇから』
あの言葉は…嘘じゃない気がするのは、どうしてだろう。
ベッドの上で、ちょこんと座り込んだ私。
目を閉じて、秒数だけを数えていく。
いつくるんだろう。
そんな期待を胸に、私は秒数を数える。
ちょうど十分になろうというとき、ガラガラッと病室のドアが開く音が聞こえた。
だから私は、そっと目を開けた。
すると、そこにはやっぱり、息を切らした雲が立っていた。
服装は長袖パーカーで、心配するような、なんだか雲らしくない表情をしていた。
「…舞桜」
低く、深くつぶやかれたその言葉に、私は思わず泣きそうになるのを、必死でこらえて、「雲」と呼びかけた。
「…泣くなよ」
そんなことを言われ、私も負けじと「泣いてないよ」と答える。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
そんなやりとりが数回繰り返されたあと、雲はあらあらしく私の顎を自分と目線が合わさるように引き上げた。
ばっちりと目と目が合う。
「やっぱり、泣いてる」
あぁ、ダメだなぁ、私。
気づくと私は、雲の腕の中にいた。
すっぽりとおさまった私の顔は、涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。
―会いたかった。ずっと会いたかった。
そう言いたいのに、嗚咽が邪魔して言えない。
それでも、私はあきらめなかった。
嗚咽を我慢しようと、下唇を噛んでいると、雲がポンポンッと私の背中を優しく撫でた。
だから私の顔は、もっと涙があふれて、嗚咽が止まらなくなってしまった。
雲の体温は、冬なんじゃないかと想うほど、冷たかった。
それでも、雲は必死に私を温めようとしてくれた。
雲にあえて嬉しい。
…この涙が止まったら、きっと君に“ありがとう”を伝えるからね。
心の中でそう呟いて、私は再度、嗚咽を零した。
これほど人生で、生きたいと思ったことはあるだろうか。
これほど人生で、ひとを愛おしいと思うことはあるだろうか。
私はきっと、もう死んでしまう。
いきたいと思っても、死にたくないと思っても、死んでしまう。
私はそうなんだ。そういう人間なんだ。
生まれてきてからずっと、そういう運命なんだ。
それなのに、なぜか私は辛いと思う。
それなのに、なぜか私は苦しいと思う。
不思議だ。
私はもう死ぬと、決まっているというのに。
それを知っているというのに。
私は、もう死んでしまうというのに。
私は辛いという感情を知った。
私は悲しいという感情を知った。
私は恋という感情を知った。
私は好きだという感情を知った。
私は、生きたいという感情を知った。
このままだと、消えたくない。死にたくない。生きたい。
そう思ってしまう。
あぁ、ほんとう、馬鹿だなぁ、私。
叶わぬ恋。
もう一生、貫かなきゃいけない一方通行の恋。
「…ありがと」
黒色のハンカチで涙を拭きながら、私はそういう。
「病院で洗って、返すよ。ナースさんにお願いしたら、多分洗えると思うから」
「別にいいけど。それやるよ」
「もったいないよ、上等な布なのに」
「別にいいじゃん。持っててよ」
「無理だよ。どうせ行き場を失うんだから」
私がそういうと、雲はハッと動きを止めた。
「…じゃあ、その代わり。洗って返すから、もう一回来てよ」
「…は?」
「返すから、もう一回来て。もう一回、私に会いに来て」
私は笑ってそう言った。
すると、雲も鼻で笑って、「わかった」と素直に答えてくれた。
「…久しぶりだね、こうやって話すの」
「え?あぁ…まぁ、そうかもな」
「雪、ひどくなってきてるでしょう。窓からのぞいたら、もう木にすごく積もってて。細い枝はおれてたよ」
「あー…まあ、そうかもな。俺はあんま最近外でねぇから知らねぇけど」
「そと、出てないの?勉強してるとか?」
「あー…いや。そういうわけじゃない。バイトしてんだよ。コンビニで」
「えっ?バイト?」
あまり雲からは聞かないワードが飛び出て、私は思わず聞きかえしてしまった。
「結構うちから近いとこでさ。あんまり雪とか見れてないっていうか、見てる暇ないっていうか」
「そう、なんだ。じゃあ…ごめんね。会いたいなんて送っちゃって」
「いいよ。もう帰りだったし」
ふん、とそっぽを向いた雲。
これは照れ隠しだと、私はちゃんと知っている。
「で、何してほしいんだよ」
「え?」
「俺を呼ぶってことは、なにかしてほしいんだろ。言ってみろ。やりたいこと」
やりたい、こと。
私の、やりたいこと…。
「……び」
「え?」
雲が聞き返してきた。
小さく来て聞こえずらかったと思う。
もう、私は一生見れないもの。
それでも、世界で一番きれいだと思ったもの。
それは…
「花火、見たい」
すぅ、と大きく息を吸って、息のようにそれを吐く。
「はぁ?」
「花火みたい。それ見れば、もうこの世に悔いはない」
「なにいってんだよ、おまえ。冬に花火なんて見られるわけねぇだろう」
「…」
そうだよね。
冬に見れるわけない。
私は、もう一生見ることはできない。
わかってるよ、そんなこと…。
「そうだよね、ごめ…」
謝ろうとしたとき、彼は「あ」と声を上げた。
「見れるぞ、花火。世界で一番、綺麗なもん」
「え…?」
「見せてやる。俺がお前に、世界の一番きれいなものを」


「…自分で、あるけるよ。そこまでしてもらわなくても」
冬の花火大会、当日。
車椅子を用意しくてくれたお母さんに向かって、そう吐き捨てる私。
「転んだらどうするの。結構肺、悪くなってるらしいじゃない。走ったりしたらダメですからね」
「わかってるよ。第一、花火で走ることはないでしょ」
私がそう答えると、「確かに、それもそうね」と笑うお母さん。の、すぐ横にはパーカー姿の雲。
「娘を、よろしくお願いします」
お母さんは雲に向き直って、そう深々と頭を下げる。
そこに雲は、「舞桜は、責任をもって俺が守ります」と答える雲。
あの日は、冬に花火が見られるなんて思ってもみなかったけれど、まさか本当に見ることができるなんて。
「…じゃあ、行ってきます」
病院を出る時、たくさんの看護師さんと、心配そうに手を振るお母さんを見て、私の胸は、チクリと痛んだ。
手術まで、残り五日。
もしかしたら、今日が雲と話せる最後の日になるかもしれない。
不安を募らせていると、雲が「リラックスしろ」と言われ、一気に現実に引き戻される。
「転んだらいけないから、俺の腕つかんどけ。離すなよ」
雲はさっと私に腕を寄せ、つかみやすいようにすそも垂らしてくれた。
「ありがと」
私がそう答えると、「おう」と小さく答えた雲。
あぁ、好きだなぁと、改めて思った…。

会場につくと、複数あるベンチには、もうたくさんのひとが座っていた。
私は車椅子だから、優先席にすんなりと座ることができて、雲もその横に座ってくれた。
「楽しみだね、花火!」
私がわくわくしながらそう答えると、「まぁ、そうだな」と雲からも弾んだ声が聞こえてくる。
「冬の花火なんて見たことない」
「俺も」
何度かそういう会話を交わしたあと、いきなり花火の一発目が打ちあがった。
ドーンと大きい音を鳴らしながら打ちあがった赤色の花火は、夏の時よりも、くっきりと鮮やかに見ることができた。
「…綺麗」
私がそう呟くと、横からも「綺麗だ…」という声が聞こえてきた。
ちらりと横を見ると、食い入るように花火を見る子供っぽい顔があって。
思わず笑ってしまった。
けれど、何秒か見ているうちに、だんだん子供っぽいが、格好いいに代わっていく。
頭の中にリピートされた、雲の言葉の数々が雲に重なって、どうしても格好よく見えてしまう。

「おまえ、ほかのやつに大丈夫とか言われても、笑顔で大丈夫とかしかいわねえじゃねえか。なら、嫌われてる俺が、おまえを救いに行く。それだけだよ」
「このちっせえあわの一つ一つに、世界の全部が映ってんだよ。俺も、舞桜も、公園も、空も。全部映ってる」
「おまえ、つらいって…死にたいって思うんだろ?なら俺が、世界の綺麗な部分をおまえにみせる」
「…舞桜は頑張ったよ。少なくとも、俺はそう思うけど」
「俺が認めてやる。おまえは俺を信じればいい。おまえは、俺を頼ればいいんだよ」
「当たり前だろ。忘れたことなんてねぇよ。今までも。この先も」

雲の言葉の数々が、何度も何度も頭にリピートされる。
あぁ、私、死ぬんだな。
この花火が咲く世界で、私は散っていくんだ。
大好きな人を、残して。
「……ねぇ雲」
嗚咽と共に漏らしたその言葉は、彼に聞こえるはずもない。
私の声は、花火と嗚咽で隠された。
それでも私は、何度も言う。叫ぶ。
「雲…。ねぇ雲」
返事して、というように、私は何度も彼の名前を呼んだ。
「大好き、だよ…」
一生伝わることのない、告白。
もしかしたら明日、私は目を開けることができないかもしれない。
手術の日を迎えるまでに、私は息を吸うことができなくなってしまうかもしれない。
…もう、雲の顔も、見れなくなるかもしれない。
それが怖くて、怖くてたまらない。
どうしようもなく、彼と過ごした日々は、彼と過ごした日常が頭から離れない。
ねぇ雲。
この夜が、ずっと明けなければいいのにね。

「綺麗だったね、花火」
「そうだな。夏の時より鮮やかに、くっきりと見えるっていうか」
雲がなんだか熱心にそういうので、ふふ、と私もつられて笑ってしまう。
「本当、雲って無邪気な子供っぽいところあるよね」
「あぁ?うるせぇよ。おまえだって嘘つきの子供のように思えるぜ」
「そ、それは身長が低いせいでしょ!私はちゃんと雲に尽くしてるもん」
私が言い返すと、「ほぉ?」と雲がうなる。
こうやって言い争いをするのも、こうやって笑いあうのも、あと何回できるんだろう。

病院近くまで来たとき、私は何かに引っ張られるように動きを止めた。
少し前を歩く雲が、振り向いて「どうした?」と声をかけてくる。
「…帰りたく、ない」
ぽろっと出た言葉は、涙と一緒に零れ落ちたように思えた私は、涙が落ちるたびに、ぽつりと言葉をこぼしてゆく。
「…死にたくない」
雲の表情は、真剣だった。
「…生きたい」
ついにとうとう、泣きじゃくった声をあげる私に、黙って近づいた雲。
「ねぇ…雲。逃げようよ…二人で居よう」
「…」
雲はゆっくりと私を抱きかかえたあと、まっすぐ病院の方向へ歩いていく。
「もどりたく、ない…!!生きたい…!!もっとたくさんのものを見て見たい、触れたい!」
それでも雲は、黙って歩いていく。
「ねぇ、雲…」
私がそう呼び掛けても、雲は黙って歩くだけ。
「……二人で居たいって思ったのは、私だけなの?」
私がそうこぼした瞬間、雲は私を立たせ、そしてものすごく強い力で抱き寄せた。
「…そんなわけねぇだろ!!!」
雲らしくもない、大きな声だった。
「俺だって、俺だってできることならそうしてやりたい!けど、おまえはそれじゃあ黙って死んでいくだけなんだよ!!」
ハッと目を見開くと、雲の瞳からは涙が零れ落ちていた。
「頼むから…これ以上俺を誘わないでくれ。病院に…帰ってくれ」
泣きそうな、子供の声だった。
…辛いのは、ずっと自分だけだと思っていた。
お母さんの声も、電話のときも、したくをしているときも明るかったし、きっとこれでいいと思っているんだろうと思った。
雲だって、いつも通りに接してくれて、私が死ぬという現実を、ちゃんと見ているように思えた。
けれど、違う。
みんな我慢していただけ。
私が表を見せすぎただけ…。
辛いと思ったのは、私だけじゃない…。

私は雲の涙が枯れるまで、雲をぎゅっと抱きしめた。
離れたくないこのぬくもりが、雲から剥がれ落ちないように。
やっとのことで雲の涙が枯れたとき、私は笑った。
「…もの…だよ」
「え…?」
上手く聞こえていなかったんだろうか。雲は顔が見えない私でも、首を傾げたことはわかる。
「…雲のせいだよ」
私は今度は、はっきりといった。
「雲のせいだよ。こう思ったのは、全部雲のせい。雲が…雲が世界の美しいところなんか見せるから。優しくするから…抱きしめるから、話を聞いてくれるから…!!」
ぽつりぽつりと話し始めた。
それでも私は、泣かない。
さっきたくさん泣いた分、今回は笑顔で話を続ける。
「…生きたいって、思うようになった。死にたくないって、もっと生きられたらって、死ぬのが、怖くなったの」
雲は黙って話を聞くだけ。
それでも私は、話を続ける。
「…好きだよ、雲。だいすき。だから…連れてってよ、病院」
私の声を合図に、むくりと体を起こした雲は、そのまま私を抱きかかえて、病院へ歩き出した。
きっとこれが、正しい選択。
このまま私は死んだとしても、最後はきっと幸せなはず。
怖くないといったら、きっとうそになるけれど。
それでも私の幸せは、丸ごと全部雲に上げたい。
そんな思いを胸に、私は、雲のたくましい腕を、そっと握った。


気が付くと、ベッドで運ばれていたはずの私は、元の部屋のベッドで眠っていたようだった。
そして横には、メッセージカードが添えられていて、〔ごめんね〕とだけ書かれていた。
…あぁ、私は死ぬんだな。
直感でそう思った。
今日は十二月二十四日。
ちょうどクリスマスの日。
もう夕方だから、手術をしたあとということはわかった。
そして、カードに書かれた文字を読んで、もう大体予想はついてしまった。
…手術は、失敗したんだ。
私はもう、一日もたたないうちに死ぬ。
なんだか肩の荷が、すぅっと降りたような気がした。
私は受話器を手に取って、ナースさんを呼ぶための番号を入力した。
〈はい。こちらナースの村田です〉
「あ…五百六号室の水瀬舞桜です」
私がそう名乗ると、〈あ、舞桜ちゃんね。どうしたの?〉という、柔らかい声が返ってきた。
「…えっと、面会通さないでほしいんです」
〈…え〉
奥から息をのむ声が聞こえた。
「お母さんも、雲も。通さないでほしいです。絶対」
〈で…でも。もう昨日ちらっと見た程度でしょう。あったらどう?〉
「いえ、いいんです。どうせ仏壇で顔見ますから」
私はそう言ったあと、受話器をもとの位置に戻した。
ガチャンと音がして、リセットされる電話機。
あぁ、ほんとうに、私は死ぬんだ。
…ひとり、きりで。
するとどこからか視線がきたような気がして、私は思わず振り返った。
そこには、茶色のクマの人形が置かれていた。
私はそれに見覚えなんてなかった。
私はもう一度受話器を取り、「すみません、机に置いてあったくまのぬいぐるみに見覚えがないんですが」と看護師さんに言った。
〈え、あぁ、それはね。えーと…夕凪さんが持ってきてくれたみたいよ〉
「えっ…?雲が?」
〈えぇ。名簿に彼の名前が載ってあるし、彼女にあげるぬいぐるみなんですが、持って行ってもいいですか?って言っていたわ〉
…彼女…。
「…あの、お礼を言ってもらうことって、できますか?」
〈んー…こっちも色々と今大変でね。あなたと同じくらいの年齢の子がね、もういつ死んでもおかしくない状態になってしまったから…。それに、舞桜ちゃんから言ったほうがいいと思うわ〉
きっと、これは看護師さんなりのウソだ。
なんとなくわかった私は、話をつづけた。
「…でも」
“でも、といや、を言う人は、逃げているだけ”
そよ風に乗ってきた言葉のように、ふんわりと耳に届いたその言葉。
誰も声かも、誰の言葉かも知らないけれど、私はとっさに口をつぐんだ。
「…そう、ですね。無茶言ってごめんなさい」
私はそう口にして、受話器を元に戻した。
…私が、直接伝えるんだ。
スマホを手に取って、通話アプリをタップする。
そして、名前欄から雲を見つけて、アイコンをタップした。
一コール、二コール。
もう一度コールが鳴った時に、ブツリと音がしたあと、〈…舞桜?〉と、私の大好きな、世界で一番好きな人の声が聞こえてきた。
「くも…」
てんぱっているわけではないけれど、言葉が出て来ない。
どうしようもなく、怖いと思ってしまうんだ。
〈どうした?なんかあった?肺いたくなったとか?〉
「ち、違うのっ。ごめん、忙しかったでしょう?き、切るね」
どうして。
伝えたいのに。ありがとうって。
伝えたいのに。大好きだって。
あと一言、付け加えられればいいのに。
言えない。
〈別に忙しくないよ〉
雲は平気な声でそう言った。
「…い、いいの。ただ…ただ」
ありがとうって、伝えたかっただけ。
雲は私がしゃべろうとしていることを察したように、じっと何も言わずに待ってくれた。
「…その…。えっと」
頭の中に浮かんだ言葉の数々が、一気に消えて。
「く、くまのぬいぐるみ…!ありがとう」
一生懸命に、そう伝えた。
すると、スマホの奥で、くすっと笑う声が聞こえたつかのま、
〈よかった。喜ぶかなと思って、UFキャッチャーで取ってきたんだ〉と返事してくれた。
「ほんとに…ありがとう。元気出た」
〈…うん〉
「それじゃ、切るね」
私はそう言って、雲の返事も聞かずに、電話を終了した。
そして再度、受話器を手に取って、「やっぱりさっきのお願い、取り消しで」とだけ伝えて、戻した。

…私はひとりなんかじゃない。
雲がいる。お母さんがいる。
応援してくれる人が、たくさんいる。
私の人生は、光っていた。
幸せだった…。
もう、悔いはない。
きっと、これでいい。

―12月25日。午後7時17分。水瀬舞桜、肺がんで死亡。
…舞桜が死んでから、五日が経過した。
けれど俺は、まだその現実を受け入れられてはいない。

薄暗い部屋に引きこもったままの俺は、頭もこれでもかってほどぼさぼさだし、服もだらしないパーカー。
たまに部屋をのぞきにくる父さんに、死んだ目をしていると言われてしまった。
けれどもう、俺は死んでもいいと思っている。
それほど、舞桜が好きだった。
恋しかった。
「雲」と優しく呼んでくれるその声も。
ウソの笑顔じゃない、柔らかな笑みも。
怒りっぽいけど、優しい性格も。
泣きじゃくる姿も。
全部がすきで、好きで、たまらなかった。
もっと生きたいという舞桜を、拒んだのは俺なのに。
…舞桜が涙を流して死んでいったのは、俺のせいなのに。
冬休みはもうすぐ明ける。
舞桜が死んだことがみんなに知れ渡る。
そのとき俺は、どんな顔で居ればいいんだろう。
ああ、もう全部どうでもいい。
「…舞桜」
光を拒むカーテンが、ふわりと一瞬揺れた。
舞桜が愛した世界で、俺は生きられない。
舞桜なしでは…生きられない。

俺が舞桜を好きになったのは、シャボン玉を飛ばしたときだった。
あの無邪気な笑顔を、あの弾むような表情を、心の底から守りたいと思ったのが、きっときっかけだった。
…今でも思う。
家のチャイムが鳴って、舞桜が来てくれるんじゃないかと。
インターホンから、「雲ってば、どうせまた仮病でしょう?お片付けしにきたよ」と笑って言ってくれるんじゃないかと。
ドッキリ成功!とまたその無邪気な笑顔を向けてくれるんじゃないかと。
そんなことを、思ってしまうんだ。
ありえないことだと知りながらも、そうであってほしいと願わずにいられない。

何時間経過しただろう。
窓の外は夕陽が落ちていく寸前で、カラスがバカでかい声でぎゃあぎゃあ鳴いていた。
次の瞬間、ぶるっと何度かスマホが振動した。
…舞桜が死んでから、初めてスマホを手に取った瞬間だった。
瞬間、息をのんだ。
送られてきた相手の名前欄には、確かに、確かに舞桜という文字が書かれていたんだ。
「っ…」
俺は急いでスマホのパスワードを入力して、メッセージを開いた。
花火のアイコン。
まさしく、舞桜のアカウントだった。
震える指先で、【メッセージを読む】をタップしてみた。
【一月一日。二人でシャボン玉を飛ばした公園に行ってみて】

午後六時。
あたりはもうすっかり暗くなっているころ、俺はひとり、公園に足を踏み入れていた。
ザクッザクッと音が鳴る足音だけが、あたりに響いていた。
「…え」
一番はしっこのベンチの上。
確かにあの日、俺らが座ったベンチの上に、サイズがデカい封筒が、ぽつんと一つ置かれていた。
俺は急いで封筒を手にして、【雲へ。 水瀬舞桜より】と書かれてあることを読んでから、封筒を開いた。
中には、手紙が何通かと、舞桜が取った俺の写真や、花火の写真がたくさん入っていた。
俺は先に手紙を取り出して、震える手を押さえながら、下唇をかみしめてそっと開いた。



【雲へ。
これを読んでいるということは、きっと私はもうこの世にはいないんだろうね。なんて、よくありがちな内容になっちゃうな。
でも大切な話だから、そのまま読んでいてほしい。
先に言っておくと、これは雲と最後に通話したあとに書いたものだよ。
どうせ私はもういなくなってしまうのに、わざわざありがとう。
お金と努力、無駄にしちゃってごめんね】
しっとりとほほが濡れるのがわかる。
けれど俺はそれを拭いてから、もう一度その文を読んで、下へ下へと目線を移動させた。
【あのね!聞いて!クリスマスの日、窓からツリーのイルミネーションが見えたの!すごく、すっごく綺麗だった。
冬の花火、すごく綺麗だったよね。
あの日の最後は、わがまま言ってごめん。でもそれくらい、私は雲のことを愛してるってことだから、拗ねないでよね】
拗ねてなんか、ない。
ただ、あの時俺の理性は爆発しそうだったけどな。
【雲、意外と寂しがり屋だから、どうせ私がいなくなったあとは、家に引きこもったりしてるんでしょう。学校はちゃんと行ってよね。
あと、いろいろと迷惑かけちゃうかもだけど、みんなに言い訳は考えておいてね】
そこまで読んで、俺は次の紙に目を向けた。
【いままでありがとうなんて、言いたくない。ばいばいって、言うのも辛い。できることなら、また会おうとか、またねって言いたい。でも、もう私達には、またはないんだろうね。
雲はこれから、もっと成長して、もっと格好良くなっていく。
もしかしたら、結婚もするかもしれない。
そのとき、私のことが原因で、ダメになってほしくないの。
だから私のことは、これを読み終わった後は、忘れてほしい】
「そんなのできるわけねえだろ…」
俺は思わず吹き出しながら、涙を拭いてつぶやいた。
【私ね、雲の結婚式で、花嫁に、雲をよろしくねって伝えたいっていうのが、入院してからの夢だったの。
その前は、その花嫁が自分だったらなぁなんて思ったこともあったけど、そんな話照れくさくて、雲にはしてなかったね】
【手紙越しになっちゃうけど、実は私、雲が思ってるよりもずっと雲のこと、大好きだったよ。
暗い話になっちゃうけど、もっと生きられればって何度も思った。
もっと雲と一緒に居たいって、何度もつぶやいた。
一人は孤独だって、人生ではじめて思った。
…雲と結婚したかった。
子供も、生みたかった。
お母さんって呼ばれてみたかった。
仕事をしてみたかった。
雲がおじさんに、おじいさんになっても、ずっとそばで支えたかった】
俺も。俺だって、そうだよ。
舞桜がおばさんって呼ばれて怒ってるところとか、ばあちゃんみたいにしわしわになっても、俺が支えてあげたかった。
…あいつの心の救いになりたかった。
【私にはもう、明日はないけど。
今言える「ありがとう」と、「大好き」はここで全部言っておくね。
後悔しないように。
あー…でも、キスが一回だったっていうのも残念だったなぁ。
初キス奪われたの、ぜったい忘れないからね。
まあ、とにかく、ありがとう。大好き‼‼】
そこで途切れた文字。
最後には、【あなたの大好きな舞桜より】と書かれていた。
「…変な終わり方」
思わずつぶやいた言葉に、思わず笑ってしまった。
夜空が俺の目に映る。
「…愛してる……」
精一杯の言葉だった。
頬はまだ濡れていたけど。
確かに俺には、生きる希望ができた。
これもまるごと全部、舞桜のおかげだ。
だから、今だけ。
今だけ許してくれ。
【今だけは、泣いていい時間にしよう】
俺は声をあげて泣いた。
子供みたいに泣きじゃくった。
…空には花火が咲いていた。

【というか、今思い出したんだけど、私いっかい「絶対私を忘れないでね」って言ってたね(笑)
忘れないでくれてありがとう。でも私は笑顔で居てほしいな。
幸せになってね。絶対だよ??
そろそろ時間かな。
―私のために、泣いてくれてありがとう。】
END

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