私は素早くセットアップに掛かる。見渡せ! 誰を使う? どこに隙間がある? 長い長いラリー、ここがその極みだと感ずる。
さっきの私のトスが伸びてればストレート出せたかもしれない。思い出せ、2対2で疲れてきたとき何を学んだ?!
きっとお姉ちゃんは私のトスを読んでくる。さっきのトスを踏まえて……。低い位置でボールをキャッチして全身を使ってボールを押し出すように!
疲れてきたとき、この全身の力が弱くなる、これをここで見せつけることでトスを伸ばせば、睦美に選択肢を与えられるトスをセットできたのなら……。
お姉ちゃんがゲスブロックで来るのなら、必ずそこを読んでくる!
トンッ……。
私が託したトスはAクイック、センター唯一、ど真ん中真っ向勝負! もう一つ学んだ、疲れは速い攻撃を嫌う……。
『決まれ!』と念じた十色のスパイク、そして相手のコートに『落ちろ』と祈ったボールが拾われ、且つ早い対応を迫られることでストレスがおきる。
三咲は完全に振られてブロックが追い付かない。ボールは平安コートの床に沈む、かと思われた矢先!
十色のレシーブ!
これが柏手コート右角一杯、エンドラインを僅かに踏んで跳ねた……レシーブエース!
ジャッジが下された瞬間、ネットの向こうで竜巻く歓喜。……届かなった……勝利に指が掛かったとは言えないけれども、決してチームが弱くて負けたんじゃない。
そうは言っても悔しさが立ち上ってくる。ミスが無かったわけはない。勉強のように間違い直しを辿ってみても、次の模範解答には成り得ない。
負けて泣くな! バレーは『にらめっこ』だ……。自分にそう言い聞かせる。
今日の試合はこれで終わりである。勝ったチームも負けたチームも全部引き上げる。その出口でお姉ちゃんと出くわしてしまう。……バツが悪い……。
そそくさと目を逸らして離れようとするも、バレーの試合があるといつも厳しいこの姉は、いつも通り大上段から振り下ろしてきた。
「凡人が努力や根性で勝とうなんて考えるな。仲良しこよしの楽しいバレーで部活をエンジョイしてればいいのよ。半端な努力が取り付く島なんてない」
「バレーが勉強より難しいやら楽しいやらなんて言ってる時点で、たかが知れてる」
スポーツの世界は幾度となくこの問題に触れてきた。スポーツとは『勝ち』が全てなのか……。
バレーボールは老若男女誰でも楽しめるよう考案されたもの。本来相手から『点を奪う』より羽子板・蹴鞠・フレスコボールのように『落とさず、何回続けられるか』がテーマだったのかもしれない。楽しむための運動……。
しかしバレーボールがスポーツである以上、私たちが競技者である以上、『負け』を容認できないのは事実。『勝ち』に拘ることに異論はない。でも……
「スポーツが、勝利や記録更新が目的であることは否めない。身体の健康増進のための体育と線引きされて、身体を追い込むことだってある。しかし以ってそれが=『勝利至上主義』とも違う気がするの」
精一杯の反論? 反論になってるかも分からない。
バレーはお姉ちゃんたちのように『成果主義』ではない。これは『スポーツ』であり、競い合えどもルールがあって、環境、仲間、相手、審判、スタッフらへのリスペクトが無くてはならない。
部活動がリザルト評価でしかないなら、もはやプロと変わらない。スポーツは、少なくともスポーツの裾のは、下手な人を仲間外れにするような門戸であってはならない。
我慢と努力を学ぶのはこの若い世代の今しかない。
負けて尚、悔しさから立ち上がるのは向上心……それを支えるのは『バレーが好き』という気持ち。上手くなる、試合に勝つ、その達成感がまたバレーを好きにさせる……完全に矛盾しているのを頭で理解する。それでも認められないのはプライドなんだと思う。
そして承認欲求なのかもしれない。負けて『頑張った』と慰められるよりも、勝って『よくやった』と認められたいのが一番にあって、敗者が『まるでダメだった』と言われたくないし、『強い相手だった』と思われていたい。勝者になりたい敗者の無い物ねだりと言える。
今は自分を納得させることで必死だった。負けを受け入れる『落としどころ』を見いだせなければ、きっと心が濫れてしまう。
さっきの私のトスが伸びてればストレート出せたかもしれない。思い出せ、2対2で疲れてきたとき何を学んだ?!
きっとお姉ちゃんは私のトスを読んでくる。さっきのトスを踏まえて……。低い位置でボールをキャッチして全身を使ってボールを押し出すように!
疲れてきたとき、この全身の力が弱くなる、これをここで見せつけることでトスを伸ばせば、睦美に選択肢を与えられるトスをセットできたのなら……。
お姉ちゃんがゲスブロックで来るのなら、必ずそこを読んでくる!
トンッ……。
私が託したトスはAクイック、センター唯一、ど真ん中真っ向勝負! もう一つ学んだ、疲れは速い攻撃を嫌う……。
『決まれ!』と念じた十色のスパイク、そして相手のコートに『落ちろ』と祈ったボールが拾われ、且つ早い対応を迫られることでストレスがおきる。
三咲は完全に振られてブロックが追い付かない。ボールは平安コートの床に沈む、かと思われた矢先!
十色のレシーブ!
これが柏手コート右角一杯、エンドラインを僅かに踏んで跳ねた……レシーブエース!
ジャッジが下された瞬間、ネットの向こうで竜巻く歓喜。……届かなった……勝利に指が掛かったとは言えないけれども、決してチームが弱くて負けたんじゃない。
そうは言っても悔しさが立ち上ってくる。ミスが無かったわけはない。勉強のように間違い直しを辿ってみても、次の模範解答には成り得ない。
負けて泣くな! バレーは『にらめっこ』だ……。自分にそう言い聞かせる。
今日の試合はこれで終わりである。勝ったチームも負けたチームも全部引き上げる。その出口でお姉ちゃんと出くわしてしまう。……バツが悪い……。
そそくさと目を逸らして離れようとするも、バレーの試合があるといつも厳しいこの姉は、いつも通り大上段から振り下ろしてきた。
「凡人が努力や根性で勝とうなんて考えるな。仲良しこよしの楽しいバレーで部活をエンジョイしてればいいのよ。半端な努力が取り付く島なんてない」
「バレーが勉強より難しいやら楽しいやらなんて言ってる時点で、たかが知れてる」
スポーツの世界は幾度となくこの問題に触れてきた。スポーツとは『勝ち』が全てなのか……。
バレーボールは老若男女誰でも楽しめるよう考案されたもの。本来相手から『点を奪う』より羽子板・蹴鞠・フレスコボールのように『落とさず、何回続けられるか』がテーマだったのかもしれない。楽しむための運動……。
しかしバレーボールがスポーツである以上、私たちが競技者である以上、『負け』を容認できないのは事実。『勝ち』に拘ることに異論はない。でも……
「スポーツが、勝利や記録更新が目的であることは否めない。身体の健康増進のための体育と線引きされて、身体を追い込むことだってある。しかし以ってそれが=『勝利至上主義』とも違う気がするの」
精一杯の反論? 反論になってるかも分からない。
バレーはお姉ちゃんたちのように『成果主義』ではない。これは『スポーツ』であり、競い合えどもルールがあって、環境、仲間、相手、審判、スタッフらへのリスペクトが無くてはならない。
部活動がリザルト評価でしかないなら、もはやプロと変わらない。スポーツは、少なくともスポーツの裾のは、下手な人を仲間外れにするような門戸であってはならない。
我慢と努力を学ぶのはこの若い世代の今しかない。
負けて尚、悔しさから立ち上がるのは向上心……それを支えるのは『バレーが好き』という気持ち。上手くなる、試合に勝つ、その達成感がまたバレーを好きにさせる……完全に矛盾しているのを頭で理解する。それでも認められないのはプライドなんだと思う。
そして承認欲求なのかもしれない。負けて『頑張った』と慰められるよりも、勝って『よくやった』と認められたいのが一番にあって、敗者が『まるでダメだった』と言われたくないし、『強い相手だった』と思われていたい。勝者になりたい敗者の無い物ねだりと言える。
今は自分を納得させることで必死だった。負けを受け入れる『落としどころ』を見いだせなければ、きっと心が濫れてしまう。