茶色のローファーに紺色のソックス。見慣れたはずの光景が今日はなんだか緊張する。おかげで、インフルエンザでダウンして学校を一週間休んだときのことを思い出した。小学五年のときだったか、どこでもらってきたかわからないインフルエンザに罹って一週間ほど寝込み、いざ学校へ行くぞという日の朝、こうして玄関で靴を履いたはいいものの緊張でなかなか立ち上がれなかった。
後にも先にもこんな経験はしないだろうと思っていたけど、あのときよりも長い休暇を取った現在、あのとき以上に足が強ばって動かない。制服を着ただけではまだ引き返せるような気がしたけど、靴を履いてしまうともう後戻りが許されない、そんな束縛感がある。
(はあ……いつまでこうしていてもしょうがない)
ゆうやは意を決して立ち上がり、「いってきます」と小声で別れを告げて家を出た。
あれから母とは最低限の会話しかしていない。会話とも呼べないような会話だ。
『また耳が聞こえなくなった』
『ちゃんと病院に行きなさい』
『明日学校に行く』
『そう』
たったそれだけ。目も合わない。喧嘩というより、考えを改めるつもりのない母の矜持とそんな母に期待するのをやめた娘の諦めが拮抗している状態だった。
とても良い状態とは言えないけど、これまでああしろこうしろ、部活は運動部に入れ、内申点のために生徒会長になれ、付き合う友達は選べと、母から言われた通りにやってきたゆうやにとって今は、空気でいるほうがマシと言ってしまうくらい息苦しかった日々よりずっと呼吸がしやすかった。
壊すことが必要だったのかもしれない。
レールを敷く者とレールの上を歩く者、という関係性を。
家を出て小さな歩幅でゆっくり歩いていたゆうやの足が、曲がり角を折れた先で止まった。
「よっ」
と、挨拶してきたのは、制服姿の南央だった。
どうして、とゆうやの口が動く。
『いっしょに行こうかと思って。やっぱひとりはちょっと勇気なくて』
「ふっ」
メッセージアプリを通して送られてきた文字を読んで、思わず吹き出してしまった。勇気がないと素直に言ってしまう弱気な発言もそうだが、一週間だけ見たことがあるとはいえ、金髪に制服は違和感があるなと思ったから。笑う自分を見て不満そうにする南央の顔もまたゆうやにはツボを刺激するものでしかなく、緊張のせいか笑い上戸になっていた。
『笑うなら帰るぞ』
「あっ」
帰ろうとする南央の腕を掴んで『ごめん』と謝る。ついでに、
『逢坂くんのおかげで緊張が解けた。ありがとう』
『べつに緊張を解きにきたわけじゃないんだけどな』
と言いつつも、南央も最初に挨拶してきたときより表情がほぐれている。
学校のそばまでやってきて、信号で足止めをくらったところで再び緊張に見舞われた。波打ち際に立っているような足もとがおぼつかない感覚。隣の南央も心なしか顔が強張っている。
『緊張してる?』
尋ねると、南央は強張った表情のまま無理やり口角を上げた。
『おれ、自分を強く見せるのだけは得意なんだよ』
『留年してなめられないよう金髪にしたくらいだから』
連続で送られてきて、そうだったんだと口パクで反応する。今思うと、曲がりなりにも生徒会長をしてきてこれだけ派手やかな金髪の男子を覚えていないのはおかしい。この金髪ならきっと他学年にも伝わるほど有名だろうから。金髪でなかったのなら見逃していてもおかしくない。
もしかしたら、これまで廊下ですれ違ったりしていたのだろうか。どちらかが物を落として拾うなんてやりとりがあったかもしれない。すでに出会っていたのにまるで視界に留めていなかった人と今こうして関わっているのが、ゆうやには不思議でならなかった。
『私も今度、金髪にしてみようかな』
『してみれば』
信号が青になった。スマホに集中していて反応が遅れたゆうやの肩を南央が叩く。
「行こうか」
南央の優しい声が聞こえた気がした。
後にも先にもこんな経験はしないだろうと思っていたけど、あのときよりも長い休暇を取った現在、あのとき以上に足が強ばって動かない。制服を着ただけではまだ引き返せるような気がしたけど、靴を履いてしまうともう後戻りが許されない、そんな束縛感がある。
(はあ……いつまでこうしていてもしょうがない)
ゆうやは意を決して立ち上がり、「いってきます」と小声で別れを告げて家を出た。
あれから母とは最低限の会話しかしていない。会話とも呼べないような会話だ。
『また耳が聞こえなくなった』
『ちゃんと病院に行きなさい』
『明日学校に行く』
『そう』
たったそれだけ。目も合わない。喧嘩というより、考えを改めるつもりのない母の矜持とそんな母に期待するのをやめた娘の諦めが拮抗している状態だった。
とても良い状態とは言えないけど、これまでああしろこうしろ、部活は運動部に入れ、内申点のために生徒会長になれ、付き合う友達は選べと、母から言われた通りにやってきたゆうやにとって今は、空気でいるほうがマシと言ってしまうくらい息苦しかった日々よりずっと呼吸がしやすかった。
壊すことが必要だったのかもしれない。
レールを敷く者とレールの上を歩く者、という関係性を。
家を出て小さな歩幅でゆっくり歩いていたゆうやの足が、曲がり角を折れた先で止まった。
「よっ」
と、挨拶してきたのは、制服姿の南央だった。
どうして、とゆうやの口が動く。
『いっしょに行こうかと思って。やっぱひとりはちょっと勇気なくて』
「ふっ」
メッセージアプリを通して送られてきた文字を読んで、思わず吹き出してしまった。勇気がないと素直に言ってしまう弱気な発言もそうだが、一週間だけ見たことがあるとはいえ、金髪に制服は違和感があるなと思ったから。笑う自分を見て不満そうにする南央の顔もまたゆうやにはツボを刺激するものでしかなく、緊張のせいか笑い上戸になっていた。
『笑うなら帰るぞ』
「あっ」
帰ろうとする南央の腕を掴んで『ごめん』と謝る。ついでに、
『逢坂くんのおかげで緊張が解けた。ありがとう』
『べつに緊張を解きにきたわけじゃないんだけどな』
と言いつつも、南央も最初に挨拶してきたときより表情がほぐれている。
学校のそばまでやってきて、信号で足止めをくらったところで再び緊張に見舞われた。波打ち際に立っているような足もとがおぼつかない感覚。隣の南央も心なしか顔が強張っている。
『緊張してる?』
尋ねると、南央は強張った表情のまま無理やり口角を上げた。
『おれ、自分を強く見せるのだけは得意なんだよ』
『留年してなめられないよう金髪にしたくらいだから』
連続で送られてきて、そうだったんだと口パクで反応する。今思うと、曲がりなりにも生徒会長をしてきてこれだけ派手やかな金髪の男子を覚えていないのはおかしい。この金髪ならきっと他学年にも伝わるほど有名だろうから。金髪でなかったのなら見逃していてもおかしくない。
もしかしたら、これまで廊下ですれ違ったりしていたのだろうか。どちらかが物を落として拾うなんてやりとりがあったかもしれない。すでに出会っていたのにまるで視界に留めていなかった人と今こうして関わっているのが、ゆうやには不思議でならなかった。
『私も今度、金髪にしてみようかな』
『してみれば』
信号が青になった。スマホに集中していて反応が遅れたゆうやの肩を南央が叩く。
「行こうか」
南央の優しい声が聞こえた気がした。