ゆうやはあの一件以来、すっかり塞ぎ込み部屋に閉じこもってしまった。
母から学校で何かあったのかと訊かれたが答えなかったので、もしかしたら学校に文句の電話が入ったかもしれないけど、もうどうでもよかった。母を止める気にもなれない。このまま世間と切り離されたどこか知らない世界へ行きたい。真っ暗な部屋の片隅に蹲って、ゆうやはそんなことばかり考えていた。
ただ一つ、心残りがあるとすれば稲穂の景色。あれから一度も連絡を取っていない南央のことが脳裏を過る。
スマホに南央からの電話やメッセージが届いているけど、既読をつけるだけで返信していない。返信できなかった。南央にこんな自分の姿を見せたくなかったから。文面から何があったのか知らないようだけど、毎回送られてくるのは心配するメッセージ。
『次いつ会う?』
『おーい』
『どうした?』
『なにかあった?』
心が痛くなる。せめて何か送ろう。そうしてスマホを手に取って一時間が経った。本当は「助けて」と送りたいけど、南央にこんな自分の姿を見せたくない。なんて送ればいいかわからなかった。
さらに一時間が過ぎて、ようやく一通のメッセージを送った。
『連絡できなくてごめん。私は大丈夫。けど、しばらく連絡が取れなくなる』
ゆうやは仕事を終えたと言わんばかりに肩の力を抜き、そのまま床に寝転び、スマホを抱くように眠りについた。
一階から人の声がして目が覚める。母が来客の応対をしているようで、その声がここまで届くということは、相手と大きな声で話しているのだろう。近所の人と井戸端会議をするような人ではないので、営業に来た人を追い返しているのかもしれない。声がくぐもって聞こえて会話の内容まではわからなかった。
やがて声は止み、ドアの閉じる音がした。誰だったんだろうと、ゆうやは紺色の帳を少しだけ開ける。ちょうど玄関側に部屋があるので、窓からこちらを見上げ諦めて帰っていく人の姿が見えた。
ゆうやは部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
「お母さん!」
リビングに入ろうとする母を大声で呼び止める。
「……に大声なん……出して」
「今、逢坂くん来てた!?」
「逢……くん?」
ああ、と母がポケットからスマホを出して文字を打つ。
『来てたわよ』
「なんで私に一言いってくれなかったの?」
『閉じこもってたじゃない。誰にも会わないって伝えたら帰ったのよ』
ゆうやはその文を見て後悔の念に押しつぶされそうになった。わざわざ家まで心配しに来てくれたのに、自分が部屋に閉じこもっていたせいで無駄足にさせてしまった、と。しかし、続く母の言葉でゆうやはすべてを理解した。
「あんな金髪の不良、毒になるだけよ」
ゆうやに背を向けた母が、ぽろりと本音を漏らした。聞かれているとも知らずに。
南央は自らの意思で帰ったわけではない。母に追い返されたのだ。たぶん母は、先生たちを責め立てたように、南央も責めたのだろう。でなければ、二階の自室まで母の声だけがあのように通るわけない。その結論にたどり着いたとき、ゆうやは我を忘れた。
「なんで勝手なことするの! 毒はお母さんじゃん」
我を忘れて激昂する。母は身を翻し、目を見開いた。
「……うや、聞こえ……ようになったの?」
「そうだよ聞こえるよ。全部はまだ聞き取れないけど、逢坂くんのおかげで聞こえるようになったんだよ!」
「違う……よ」
すぐさま反論が返ってきて、ゆうやは「は?」と絶句する。
「ゆう……の努力の結果……しょ」
何を言っているんだ、この人は。何もわかってない。
「そんなわけないじゃん。一人で乗り越えられるなら最初からこんなことになってないよ! そもそも耳が聞こえなくなったのはお母さんのせいじゃん。あれやれ、こうしろっていつも口を挟んできて。生徒会長だって部長だって、お母さんが勝手に先生にお願いして推薦させたんだよ。なのに、学校の責任ってなに? 私、みんなが仕事を押しつけるなんて愚痴を零した覚えないよ。大変だったけど、家にいるほうがよっぽどストレスだった!」
蓋をしていた本音をすべて吐ききって、ようやく母の表情を見たゆうや。彼女の目には、顔から一切の感情を取り払った母が映った。
「人のせいにしないで。自分で決められないゆうやが悪いのよ」
母の言葉が途切れることなく耳に届いた。その瞬間、ゆうやは自分の熱くなった心が急転直下のごとく冷えていくのがわかった。ああ、この人には何を言っても無駄なのだ。この人は責任の所在を突き詰めたいわけではない。自分が責任を取らないで済むよう誰かになすりつけたいだけだ、と。
ゆうやは母に期待するのをやめた。
家を出て、南央を追う。南央が帰っていくのを目撃してからそこまで時間は経っていないはずだから、追いかければすぐに捕まえられるはず。
何日も部屋に引きこもっていたせいか、久しぶりに浴びた太陽の光が頭をくらっとさせてきた。さらに、比較的車通りのある住宅地には子どもを自転車に乗せた女性や学校帰りの中学生、赤ちゃん用のおむつを両手に持つ男性など多くの人が歩いていて、部屋着の自分を見てみんなが笑っているような気がして恥ずかしくなった。
それでもゆうやは走った。今さら謝ったところでもう手遅れかもしれないけど、母に追い返されて傷ついた南央を放っておきたくないから。そんなゆうやを突如、耳鳴りが襲う。
(え……。なに……?)
ゆうやは走る速度を緩め、歩き、そして、足を止めた。片耳を押さえて立ちすくむ。
耳の奥がキーンと鳴っていると、はじめはそう思ったが、勘違いだったようで耳鳴りはしていない。それどころか聞こえない。無の空間にいるみたいに何も聞こえない。車の音も人の足音も喋り声も――。
「あ、あ……」
自分の声すら聞こえない。
(なん、で……?)
「あー、あー」
意味を成さない言葉を何度も発するけど、喋っている感覚はあるのに音がしない。ゆうやは絶望に打ちひしがれてその場にへたり込んだ。耳に添えていた左手が、ぽとりと力なく落ちる。
激しい鼓動、荒い息。
激しいとわかっているのに。
荒いとわかっているのに。
聞こえない。
わからない。
呼吸ができないみたいに苦しくて、ゆうやは胸を押さえて蹲った。
右手で握りしめていたスマホの存在を思い出したのは、自分のものとは思えない動悸に殺されそうになったときだった。スマホにメールが届いた。なんてことない迷惑メール。バイブによってその通知に気づいたが、同じタイミングで鳴るはずの通知音がなぜか聞こえなかった。
(なんで? 私、マナーモードにしてないのに……)
通知音の音量は正常。試しに音楽アプリに入っている曲を大音量で流してみるけど、何も聞こえない。道行く人が迷惑そうな顔でチラチラ見てくるだけ。スマホが壊れたわけではない。自分の耳が壊れたのだと、ようやく理解した。
「うっ、ああああああああああああああああああああ」
そして、人目も憚らずに叫んだ。
道行く人はゆうやを不審がり、誰も声をかけようとしない。
たとえば広い世界があって、その世界の片隅に音を通さないガラスのドームがあるとする。そこは外から覗くことができるけど会話はできなくて、干渉もできない。ガラスの中のものは展示品として見世物にされる。見世物は外に出たいと必死に叫ぶが、外の人間はチラチラ見るだけで誰も助けようとはしない。
――ねえ。だれか、たすけてよ!
「青葉!」
不意に、誰かがガラスを割った。
「あい、さかくん? どうして……」
干渉できないはずの世界に押し入ってきたのは南央だった。南央はスマホから爆音で流れる音楽を止めると、膝をついて両肩を掴んできた。
「大丈夫か? 学校であったこと、後輩から聞いたんだ。それで心配になってさっき家に行った」
「そ、そうなんだ」
「いきなり行ってごめん。案の定、追い返されたんだけど。でも、なんか歌が聞こえてきて」
「そうなんだ」
「……青葉?」
「…………」
焦点の合わないゆうやの目を見て眉を顰める南央。
「青葉、もしかして、俺の声届いてない?」
「うん大丈夫」
南央の口の動きで何かを問われていると感じ取ったゆうやは、覚えたての言葉を披露するような拙い笑みで当たり障りなく答えた。彼女には精一杯の微笑みだったが見る人が見たらとても痛々しく、南央は抱きしめられずにはいられなかった。
いきなり南央に包まれて、ゆうやは驚きのあまり目を丸くしたが、やがて彼の温かさに心を取り戻し目頭を熱くした。彼女の瞳に涙の海が溜まる。
「逢坂くんどうしよう。私、声聞こえなくなっちゃった。音もわかんない何も聞こえないのどうしよう」
言葉にした瞬間に強がりな自分がさよならした。
声が震えている気がする。もっと大きな声で喋らないといけない気がする。そもそも自分はちゃんと喋れているのだろうか。南央に自分の声が届いているのかもわからない。今まで味わったことのない恐怖がゆうやを押しつぶす。下まぶたでせき止めていた涙が溢れるほどに。
「こんなことになると思わなかった。なんで全部聞こえなくなっちゃうの。私、嘘なんてついてないよ。本当に聞こえなかったんだ。どうして嘘ついたやつと同じ特徴があるからって、同じふうに思われなきゃいけないの。だったら、高校生が事件起こしたらクラスのやつらみんな犯罪者ってことじゃん。自分がいつも正しいと思ってそれを人に押しつけるのやめてよ。私はお母さんのペットじゃないんだよ。狭い世界で生きてるやつが人の人生に踏み込んでこないで!」
ゆうやは思いのままに泣き喚いた。クラスの人への文句と母への文句が混ざって言いたいことがゴチャゴチャになるが、気にせず吐き出した。
彼女が吐いたのは想いなんてきれいなものではない。長年、心の中に溜まり続けた鬱憤。謂わば、ゴミだ。誰にも見せてこなかった心のゴミを排出した。適度に吐き出すことをしてこなかったゆうやは抱えきれなくなって、爆発させた。
声がかすれて二の句が継げなくなったとき、今度は自分の無力さを痛感した。いくらここで文句を言ったところでクラスの人にも母にも届かない。意味のないことだったんだ、と。
急に悲しくなったゆうやは南央の胸に自分の顔を押しつけてむせび泣いた。
ゆうやが泣いている間、南央は彼女の言葉を反芻していた。
〝狭い世界で生きてるやつが人の人生に踏み込んでこないで〟
それはまるで自分に言われているようだった。
なぜならその言葉は、一度自分を絶望させた言葉だったから。
半年以上前のことだ。南央は、新しい友達とつるみだしてから生活が一変した妹を更生させようとしていた。ただ心配なだけだったのだが、妹はそうは捉えなかった。
〝あたしの人生に踏み込んでこないでよ〟
妹からしてみれば、南央の行動はひとりよがりでしかなかったのだ。そして、口論の末に交通事故に遭い、半年間の入院とリハビリ生活を送ることになった。
ゆうやには「今さらやめるのがもったいないから」と言ったけど、本当は、妹に偉そうなことを言っておいて自分が学校をやめるわけにはいかないから留年を決めた。ずるくて小心者だ。
けど、あの一週間は地獄のようだった。名前も知らないやつらが自分の噂をしている。あのときほど放っておいてくれと思ったことはなかった。直接何かを言われたわけではない自分がこんなに辛いのに、見舞いに一度も来ないほど自分に干渉してほしくなかった妹はもっと辛かっただろう。そんなこともわからずに妹の人生に踏み込んだ。もう他人の人生に関わるのはやめよう。
ゆうやと出会ったのは、南央が諦める決心を固めたときだった。
結局、なし崩しにゆうやと関わってしまったけど。
だからこそ、ゆうやの言葉が突き刺さった。
「ごめん青葉。俺、青葉に踏み込みすぎたかもしれない」
気がつけば謝っていた。ゆうやは顔を上げ、涙でぐちゃぐちゃになったその顔を傾ける。聞こえなくても、胸から伝わる振動で南央が喋ったのがわかった。
南央はメモアプリに今、口にしたことをそのまま文字に起こした。それを読んだゆうやが大げさに首を振る。
『おれもせまい世界で生きてるやつだ』
ゆうやは南央からスマホを奪い取って文字を打った。
『そんなことない。ノートとペンをわざわざ買ってくれる人が狭いわけないよ』
南央は微苦笑を零すだけだった。どう言えば伝わるだろうと、ゆうやは熟考する。その間に涙は乾き、心も落ち着きを取り戻していた。打っては消してを繰り返した後、スマホを見せる。画面にはこんな文が踊っていた。
『逢坂くんはもっと私の人生に関わって。私も逢坂くんを放っておかないから』
「ふっ」と南央から笑みが零れる。やっぱり彼女の言葉はいちいち刺さるな、と言うかのような笑みだった。
南央はゆうやからスマホを取り戻し、もともと尋ねるつもりだった質問をメッセージアプリに打って送った。読めと、彼女の足元に転がるスマホを指す。
『これからどうしたい?』
メッセージアプリにそんな質問が届いていた。
「?」
『なにしたい? 青葉がやりたいようにやろう』
(やりたいように……?)
ゆうやはほとんど考える間もなく――つまり、無意識に返信した。
『学校に行きたい』
さらに付け加える。
『だって、むかつく。私を嘘つき呼ばわりした人たちはふつうに学校に行ってるのに、私だけ休まなきゃいけないのは納得できない』
『そうだな』
『他人の人生のために私がいるんじゃない。私のために私の人生があるんだから』
ゆうやは力強くタップして送ると、一度動きを止めた。悔しさのままに発言したその言葉がなぜか心に突き刺さって、動けなくなった。
これまで自分のことを自分の人生として捉えたことがあっただろうか。「あなたの人生はあなたにしか歩めません」と道徳の授業で言われても、どこか教育的、哲学的で心に響かず蚊帳の外にして、誰かの生きる世界に自分を駒の一つとして置いていた気がする。
ゆうやが気づくのと同時に、南央もはっとした。長時間操作されずに暗くなったスマホの画面を点けて、迷いなく今の想いを文字にする。
『じゃあ一緒に行こう』
「……え?」
届いたメッセージを読んで、ゆうやは吃驚の声を漏らした。
『おれも学校行く。青葉がいれば怖くない』
『本当に?』
『まぁちょっと盛ったけど、青葉を守るって使命があればよゆー』
余裕と言って、腕を頭の後ろに組んで寝転ぶクマのスタンプが加えられた。あまりにふてぶてしいクマの態度にゆうやの顔が綻ぶ。こんな態度でいればいいよ。そうアドバイスされている気がした。
母から学校で何かあったのかと訊かれたが答えなかったので、もしかしたら学校に文句の電話が入ったかもしれないけど、もうどうでもよかった。母を止める気にもなれない。このまま世間と切り離されたどこか知らない世界へ行きたい。真っ暗な部屋の片隅に蹲って、ゆうやはそんなことばかり考えていた。
ただ一つ、心残りがあるとすれば稲穂の景色。あれから一度も連絡を取っていない南央のことが脳裏を過る。
スマホに南央からの電話やメッセージが届いているけど、既読をつけるだけで返信していない。返信できなかった。南央にこんな自分の姿を見せたくなかったから。文面から何があったのか知らないようだけど、毎回送られてくるのは心配するメッセージ。
『次いつ会う?』
『おーい』
『どうした?』
『なにかあった?』
心が痛くなる。せめて何か送ろう。そうしてスマホを手に取って一時間が経った。本当は「助けて」と送りたいけど、南央にこんな自分の姿を見せたくない。なんて送ればいいかわからなかった。
さらに一時間が過ぎて、ようやく一通のメッセージを送った。
『連絡できなくてごめん。私は大丈夫。けど、しばらく連絡が取れなくなる』
ゆうやは仕事を終えたと言わんばかりに肩の力を抜き、そのまま床に寝転び、スマホを抱くように眠りについた。
一階から人の声がして目が覚める。母が来客の応対をしているようで、その声がここまで届くということは、相手と大きな声で話しているのだろう。近所の人と井戸端会議をするような人ではないので、営業に来た人を追い返しているのかもしれない。声がくぐもって聞こえて会話の内容まではわからなかった。
やがて声は止み、ドアの閉じる音がした。誰だったんだろうと、ゆうやは紺色の帳を少しだけ開ける。ちょうど玄関側に部屋があるので、窓からこちらを見上げ諦めて帰っていく人の姿が見えた。
ゆうやは部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
「お母さん!」
リビングに入ろうとする母を大声で呼び止める。
「……に大声なん……出して」
「今、逢坂くん来てた!?」
「逢……くん?」
ああ、と母がポケットからスマホを出して文字を打つ。
『来てたわよ』
「なんで私に一言いってくれなかったの?」
『閉じこもってたじゃない。誰にも会わないって伝えたら帰ったのよ』
ゆうやはその文を見て後悔の念に押しつぶされそうになった。わざわざ家まで心配しに来てくれたのに、自分が部屋に閉じこもっていたせいで無駄足にさせてしまった、と。しかし、続く母の言葉でゆうやはすべてを理解した。
「あんな金髪の不良、毒になるだけよ」
ゆうやに背を向けた母が、ぽろりと本音を漏らした。聞かれているとも知らずに。
南央は自らの意思で帰ったわけではない。母に追い返されたのだ。たぶん母は、先生たちを責め立てたように、南央も責めたのだろう。でなければ、二階の自室まで母の声だけがあのように通るわけない。その結論にたどり着いたとき、ゆうやは我を忘れた。
「なんで勝手なことするの! 毒はお母さんじゃん」
我を忘れて激昂する。母は身を翻し、目を見開いた。
「……うや、聞こえ……ようになったの?」
「そうだよ聞こえるよ。全部はまだ聞き取れないけど、逢坂くんのおかげで聞こえるようになったんだよ!」
「違う……よ」
すぐさま反論が返ってきて、ゆうやは「は?」と絶句する。
「ゆう……の努力の結果……しょ」
何を言っているんだ、この人は。何もわかってない。
「そんなわけないじゃん。一人で乗り越えられるなら最初からこんなことになってないよ! そもそも耳が聞こえなくなったのはお母さんのせいじゃん。あれやれ、こうしろっていつも口を挟んできて。生徒会長だって部長だって、お母さんが勝手に先生にお願いして推薦させたんだよ。なのに、学校の責任ってなに? 私、みんなが仕事を押しつけるなんて愚痴を零した覚えないよ。大変だったけど、家にいるほうがよっぽどストレスだった!」
蓋をしていた本音をすべて吐ききって、ようやく母の表情を見たゆうや。彼女の目には、顔から一切の感情を取り払った母が映った。
「人のせいにしないで。自分で決められないゆうやが悪いのよ」
母の言葉が途切れることなく耳に届いた。その瞬間、ゆうやは自分の熱くなった心が急転直下のごとく冷えていくのがわかった。ああ、この人には何を言っても無駄なのだ。この人は責任の所在を突き詰めたいわけではない。自分が責任を取らないで済むよう誰かになすりつけたいだけだ、と。
ゆうやは母に期待するのをやめた。
家を出て、南央を追う。南央が帰っていくのを目撃してからそこまで時間は経っていないはずだから、追いかければすぐに捕まえられるはず。
何日も部屋に引きこもっていたせいか、久しぶりに浴びた太陽の光が頭をくらっとさせてきた。さらに、比較的車通りのある住宅地には子どもを自転車に乗せた女性や学校帰りの中学生、赤ちゃん用のおむつを両手に持つ男性など多くの人が歩いていて、部屋着の自分を見てみんなが笑っているような気がして恥ずかしくなった。
それでもゆうやは走った。今さら謝ったところでもう手遅れかもしれないけど、母に追い返されて傷ついた南央を放っておきたくないから。そんなゆうやを突如、耳鳴りが襲う。
(え……。なに……?)
ゆうやは走る速度を緩め、歩き、そして、足を止めた。片耳を押さえて立ちすくむ。
耳の奥がキーンと鳴っていると、はじめはそう思ったが、勘違いだったようで耳鳴りはしていない。それどころか聞こえない。無の空間にいるみたいに何も聞こえない。車の音も人の足音も喋り声も――。
「あ、あ……」
自分の声すら聞こえない。
(なん、で……?)
「あー、あー」
意味を成さない言葉を何度も発するけど、喋っている感覚はあるのに音がしない。ゆうやは絶望に打ちひしがれてその場にへたり込んだ。耳に添えていた左手が、ぽとりと力なく落ちる。
激しい鼓動、荒い息。
激しいとわかっているのに。
荒いとわかっているのに。
聞こえない。
わからない。
呼吸ができないみたいに苦しくて、ゆうやは胸を押さえて蹲った。
右手で握りしめていたスマホの存在を思い出したのは、自分のものとは思えない動悸に殺されそうになったときだった。スマホにメールが届いた。なんてことない迷惑メール。バイブによってその通知に気づいたが、同じタイミングで鳴るはずの通知音がなぜか聞こえなかった。
(なんで? 私、マナーモードにしてないのに……)
通知音の音量は正常。試しに音楽アプリに入っている曲を大音量で流してみるけど、何も聞こえない。道行く人が迷惑そうな顔でチラチラ見てくるだけ。スマホが壊れたわけではない。自分の耳が壊れたのだと、ようやく理解した。
「うっ、ああああああああああああああああああああ」
そして、人目も憚らずに叫んだ。
道行く人はゆうやを不審がり、誰も声をかけようとしない。
たとえば広い世界があって、その世界の片隅に音を通さないガラスのドームがあるとする。そこは外から覗くことができるけど会話はできなくて、干渉もできない。ガラスの中のものは展示品として見世物にされる。見世物は外に出たいと必死に叫ぶが、外の人間はチラチラ見るだけで誰も助けようとはしない。
――ねえ。だれか、たすけてよ!
「青葉!」
不意に、誰かがガラスを割った。
「あい、さかくん? どうして……」
干渉できないはずの世界に押し入ってきたのは南央だった。南央はスマホから爆音で流れる音楽を止めると、膝をついて両肩を掴んできた。
「大丈夫か? 学校であったこと、後輩から聞いたんだ。それで心配になってさっき家に行った」
「そ、そうなんだ」
「いきなり行ってごめん。案の定、追い返されたんだけど。でも、なんか歌が聞こえてきて」
「そうなんだ」
「……青葉?」
「…………」
焦点の合わないゆうやの目を見て眉を顰める南央。
「青葉、もしかして、俺の声届いてない?」
「うん大丈夫」
南央の口の動きで何かを問われていると感じ取ったゆうやは、覚えたての言葉を披露するような拙い笑みで当たり障りなく答えた。彼女には精一杯の微笑みだったが見る人が見たらとても痛々しく、南央は抱きしめられずにはいられなかった。
いきなり南央に包まれて、ゆうやは驚きのあまり目を丸くしたが、やがて彼の温かさに心を取り戻し目頭を熱くした。彼女の瞳に涙の海が溜まる。
「逢坂くんどうしよう。私、声聞こえなくなっちゃった。音もわかんない何も聞こえないのどうしよう」
言葉にした瞬間に強がりな自分がさよならした。
声が震えている気がする。もっと大きな声で喋らないといけない気がする。そもそも自分はちゃんと喋れているのだろうか。南央に自分の声が届いているのかもわからない。今まで味わったことのない恐怖がゆうやを押しつぶす。下まぶたでせき止めていた涙が溢れるほどに。
「こんなことになると思わなかった。なんで全部聞こえなくなっちゃうの。私、嘘なんてついてないよ。本当に聞こえなかったんだ。どうして嘘ついたやつと同じ特徴があるからって、同じふうに思われなきゃいけないの。だったら、高校生が事件起こしたらクラスのやつらみんな犯罪者ってことじゃん。自分がいつも正しいと思ってそれを人に押しつけるのやめてよ。私はお母さんのペットじゃないんだよ。狭い世界で生きてるやつが人の人生に踏み込んでこないで!」
ゆうやは思いのままに泣き喚いた。クラスの人への文句と母への文句が混ざって言いたいことがゴチャゴチャになるが、気にせず吐き出した。
彼女が吐いたのは想いなんてきれいなものではない。長年、心の中に溜まり続けた鬱憤。謂わば、ゴミだ。誰にも見せてこなかった心のゴミを排出した。適度に吐き出すことをしてこなかったゆうやは抱えきれなくなって、爆発させた。
声がかすれて二の句が継げなくなったとき、今度は自分の無力さを痛感した。いくらここで文句を言ったところでクラスの人にも母にも届かない。意味のないことだったんだ、と。
急に悲しくなったゆうやは南央の胸に自分の顔を押しつけてむせび泣いた。
ゆうやが泣いている間、南央は彼女の言葉を反芻していた。
〝狭い世界で生きてるやつが人の人生に踏み込んでこないで〟
それはまるで自分に言われているようだった。
なぜならその言葉は、一度自分を絶望させた言葉だったから。
半年以上前のことだ。南央は、新しい友達とつるみだしてから生活が一変した妹を更生させようとしていた。ただ心配なだけだったのだが、妹はそうは捉えなかった。
〝あたしの人生に踏み込んでこないでよ〟
妹からしてみれば、南央の行動はひとりよがりでしかなかったのだ。そして、口論の末に交通事故に遭い、半年間の入院とリハビリ生活を送ることになった。
ゆうやには「今さらやめるのがもったいないから」と言ったけど、本当は、妹に偉そうなことを言っておいて自分が学校をやめるわけにはいかないから留年を決めた。ずるくて小心者だ。
けど、あの一週間は地獄のようだった。名前も知らないやつらが自分の噂をしている。あのときほど放っておいてくれと思ったことはなかった。直接何かを言われたわけではない自分がこんなに辛いのに、見舞いに一度も来ないほど自分に干渉してほしくなかった妹はもっと辛かっただろう。そんなこともわからずに妹の人生に踏み込んだ。もう他人の人生に関わるのはやめよう。
ゆうやと出会ったのは、南央が諦める決心を固めたときだった。
結局、なし崩しにゆうやと関わってしまったけど。
だからこそ、ゆうやの言葉が突き刺さった。
「ごめん青葉。俺、青葉に踏み込みすぎたかもしれない」
気がつけば謝っていた。ゆうやは顔を上げ、涙でぐちゃぐちゃになったその顔を傾ける。聞こえなくても、胸から伝わる振動で南央が喋ったのがわかった。
南央はメモアプリに今、口にしたことをそのまま文字に起こした。それを読んだゆうやが大げさに首を振る。
『おれもせまい世界で生きてるやつだ』
ゆうやは南央からスマホを奪い取って文字を打った。
『そんなことない。ノートとペンをわざわざ買ってくれる人が狭いわけないよ』
南央は微苦笑を零すだけだった。どう言えば伝わるだろうと、ゆうやは熟考する。その間に涙は乾き、心も落ち着きを取り戻していた。打っては消してを繰り返した後、スマホを見せる。画面にはこんな文が踊っていた。
『逢坂くんはもっと私の人生に関わって。私も逢坂くんを放っておかないから』
「ふっ」と南央から笑みが零れる。やっぱり彼女の言葉はいちいち刺さるな、と言うかのような笑みだった。
南央はゆうやからスマホを取り戻し、もともと尋ねるつもりだった質問をメッセージアプリに打って送った。読めと、彼女の足元に転がるスマホを指す。
『これからどうしたい?』
メッセージアプリにそんな質問が届いていた。
「?」
『なにしたい? 青葉がやりたいようにやろう』
(やりたいように……?)
ゆうやはほとんど考える間もなく――つまり、無意識に返信した。
『学校に行きたい』
さらに付け加える。
『だって、むかつく。私を嘘つき呼ばわりした人たちはふつうに学校に行ってるのに、私だけ休まなきゃいけないのは納得できない』
『そうだな』
『他人の人生のために私がいるんじゃない。私のために私の人生があるんだから』
ゆうやは力強くタップして送ると、一度動きを止めた。悔しさのままに発言したその言葉がなぜか心に突き刺さって、動けなくなった。
これまで自分のことを自分の人生として捉えたことがあっただろうか。「あなたの人生はあなたにしか歩めません」と道徳の授業で言われても、どこか教育的、哲学的で心に響かず蚊帳の外にして、誰かの生きる世界に自分を駒の一つとして置いていた気がする。
ゆうやが気づくのと同時に、南央もはっとした。長時間操作されずに暗くなったスマホの画面を点けて、迷いなく今の想いを文字にする。
『じゃあ一緒に行こう』
「……え?」
届いたメッセージを読んで、ゆうやは吃驚の声を漏らした。
『おれも学校行く。青葉がいれば怖くない』
『本当に?』
『まぁちょっと盛ったけど、青葉を守るって使命があればよゆー』
余裕と言って、腕を頭の後ろに組んで寝転ぶクマのスタンプが加えられた。あまりにふてぶてしいクマの態度にゆうやの顔が綻ぶ。こんな態度でいればいいよ。そうアドバイスされている気がした。