鬼の軍人と稀血の花嫁二

 その後、深月はふたりに遠慮して先に執務室を出ていく。

 彼女が完全にいなくなったのを見計らい、秀慈郎は優しげな笑みを暁に向け、そして言い放った。

 「よく、稀血を手懐けた」

 深月の前で見せていた穏やかさは消え、怜悧な面持ちの秀慈郎に暁は苦言を呈した。

 「そのような言葉は控えてください」

 しかし、いまの言葉のどこで暁がむきになったのか気づいていない秀慈郎は、構わず言い連ねた。

 「所詮、稀血も女なのだな。おまえの気遣いを純粋な好意だと信じ、信頼しきっているようじゃないか。なによりも使命や責務を尊重するおまえに懐柔されているのにも気づかないとは」

 「……」

 「よいな、暁。引き続き稀血の手綱はしっかり握っておけ」

 暁は堪えるようにしばし黙り込む。

 こういう人だということは、わかっている。

 彼は禾月に憎悪の念を抱き、半分はその血が流れている深月のことも同じような対象として見ている。

 その理由を知る暁は、秀慈郎にも同情する余地はあると思いながらも、聞き捨てならなかった。

 「それは彼女に対する侮辱です。どうぞ取り消しください」

 暁は冷静な声音のなかに譲れない熱いものを秘めながら、秀慈郎を見据える。しかし秀慈郎には届いていなかった。

 「おまえは少々潔癖すぎるな。見た目は普通の人間とはいえ、中身は得たいのしれない化け物と変わらないだろう。おまえに限ってほだされることはないだろうが、いくら娘とはいえ油断するな」

 それだけを告げ、秀慈郎は早くも別邸を去っていった。

 深月へ謝罪を入れるのが一番の目的だと話した秀慈郎だが、実際のところは暁がしっかりやれているかの確認をしたかったのである。

 正直、我が息子は表情の起伏は乏しい。

 考えが読めないときもあるが、非情に禾月や悪鬼を討伐する姿勢は褒められたものだと常々評価している。

 ゆえに稀血が仇である暁が深月に惹かれており、まさか自分の言葉に怒りを露わにしていたとは、秀慈郎もまったく考えていなかった。
 ――低い靴音が遠ざかってゆき、深月はそっと息をついた。

 もっと長居するものだと思っていて、女中の手伝いも始めた影響なのか、気配りに敏感になっていた。

 お茶でもお持ちしますか、なんて余計なことを言うために引き返してしまったのが、いけなかったのだ。

 『――所詮、稀血も女なのだな。おまえの気遣いを純粋な好意だと信じ、信頼しきっているようじゃないか。なによりも使命や責務を尊重するおまえに懐柔されているのにも気づかないとは』

 『……』

 『よいな、暁。引き続き稀血の手綱はしっかり握っておけ』

 反論の声は聞こえてこなかった。

 深月は耳が良い。だから、聞き逃したということはない。

 気がついたら物陰に隠れて、別邸をあとにする秀慈郎の足音を耳にしていた。

 (璃莉さんの予想は、違ったわね)

 暁への恋を自覚して、優しい彼の仕草に、もしかして同じ気持ちなのだろうかと疑問を抱いてしまった。

 璃莉は、暁を絶対に深月を好いていると言っていたが、とんだ思い上がりだ。

 罰が当たったのかもしれない。

 ここにきてから楽しいこと、恵まれたことばかりで、欲深くなっていたのだ。この関係はやはり命令によるもので、監視するための気遣いによって懐柔されていた。

 ……そういう、ことだろうか。

 なによりも確かなのは、暁は自分に色恋感情があることは絶対にない。それだけは言える。むしろそれが当たり前だ。彼はとても親切で、誠実で、その人間性に偽りはなかったとして、彼は軍人だ。

 深月には言えない職務内容があるのは当然なんだ。

 そう、だから。

 (恋って、胸が苦しくなることばかりなのね)

 あの沈黙が、彼の答えだった。
 「あなたは姉さまを見殺しにした薄情者のくせに、ひとり幸せになるだなんて絶対に許さないんだから!」

 春荒は、なにも気候に限ったことではない。

 激情を吐き出す少女の姿を、彼はなにも言わずに見つめていた。

 その隠れた憂いをまざまざと目にした。

 すべての非難を受け入れるつもりでいる面差しに。忘れられない悲しい過去を静かに背負う姿に。深月は、自分の欲深さを思い知った。

 ああ、どうか。この人が――。
 深月の日々に本邸女中の手伝いが加わって十日ほど経過した。

 起床時間は変わらず日が昇る前。やるべき目的が明確にあって起きる夜明けは、より意識が冴えて動けている気がした。

 「おはよう、鈴」

 寝台を下り、深月は床に置かれた鈴の寝床に声をかける。

 器用に身体を丸くしている鈴は、まだすやすやと寝息を立てて起きる気配がなかった。

 (今日はお寝坊ね)

 だいたいこの時間から鈴は深月より先に置き、扉の前で外に出たいと催促してくる。深月が扉を開けて見送り、それから朝支度に取り掛かるというのが一日の始まりだった。

 だが、たまに鈴は日中遊びすぎて起床時刻が遅れることもある。どうやら今日がその日のようだ。

 深月は柔らかい鈴の毛並みをそっと撫で、いつも通り支度を始めた。

 近頃は炊事場に立つことが多く忙しなく動き回るので、華美になりすぎない無地の半襟や、控えめな柄の長着を選ぶように心がけた。

 髪もひと纏めにくくり、邪魔にならないようしっかり結んだ。

 この簡素な長着は、女中の手伝いをすることが決まった深月に、朋代があつらえてくれたものだ。朋代は暁からの指示で準備したと言っていたが、もともと衣食住のすべてを十分すぎるくらい与えられている深月には、この配慮が心苦しくもあった。

 深月の保護には、安全確保のほかに生活面の援助も含まれている。乃蒼が現れてからは、白夜家からも補助金が送られていると知り、立場上の扱いとわかっていても余計に居た堪れなくもなっていた。

 だから、こうして少しでも働いていたほうが気は楽だった。

 ……余計なことを考える暇も、少しは減るから。

 「あっ、いけない」

 姿見で格好を確かめていると、気を取られて文机に腕が当たる。脚の長い洋製の机には、数冊の本が積まれている。その一冊が、振動で崩れてしまった。

 (璃莉さんが渡してくれていた西洋の書物。まだすべて読み終えたわけではないけど、いろんな物語があるのね)

 それは白夜家本宅に訪れた日、母の部屋に保管されていた西洋の書物である。すべて色恋中心で、深月にとっては初めて触れる類のものだ。

 恋を自覚した深月に対し、璃莉は嬉々としてこれらを見繕ってくれた。

 二冊ほど読み終えてまだ次の物語には手を出せていないけれど、読み終えた話はどちらも男女が結ばれる幸せな結末で心がほっとするものだった。

 結ばれることが約束されている恋愛譚に、巷の女子の間で流行っている理由もわかると、深月は納得していた。

 それから深月は崩れた本を積み直し、鈴を起こさないように気をつけながら部屋を出た。

 すぐ目の前には吹き抜けの階段が現れる。それを間に挟んだ先にある扉を深月は目で追った。

 (暁さま、しっかり休めているといいけれど……)

 永桜祭当日まで約ひと月を切り、一般隊員を含め、暁はさらに忙しくしているようだった。昼間は報告書の確認や書類整理をこなし、夜間もよく帝都の各区画を巡回していることが多いと耳にしている。

 「……本当にお早いですね、深月さん」

 階段を下りたところで、書類の束を抱えた羽鳥と鉢合わせた。

 「羽鳥さん、おはようございます」

 「おはようございます。本邸女中の勤めにしては少し早くはありませんか?」

 羽鳥の問いに、深月は控えめに首を横にした。

 「いえ、先にお庭のほうを掃除してしまおうかと」

 手伝いにはまだ時間がある。それまでに別邸の庭を掃いておこうと思っていた深月だが、羽鳥の表情はあまりすぐれない。

 「手伝いとはいえ、業務内容は通常の女中と変わりないと聞いています。加えて早朝から別邸の庭掃除だなんて詰め込みすぎではありませんか?」

 「え……そう、でしょうか?」
 正直これまでが優しすぎたぐらいで、深月には今の状態でもまだ余裕があると思っている。なんならもっと仕事を与えてくれても、とぼんやり考えていれば。

 「……あなた方は揃いも揃って」

 無自覚な深月の様子に、羽鳥はうんざりとため息を落とす。

 深月がなんのことかと首をかしげれば、足音が近づいてきてふたりに声をかけた。

 「あれ、深月さま。おはよう〜」

 「なっ⁉」

 赤面する羽鳥の横で、深月も目を見開いた。

 「……璃莉さん?」

 見慣れない衣を着て現れたのは、ついこのあいだ深月の護衛に決まった白夜璃莉である。

 護衛とはいえ深月は頻繁に街に出向くことがないため、璃莉もそれに合わせて本拠地内に待機していることが多い。そんな彼女の主な仕事は夜半であり、敷地外に現れた悪鬼の一掃を請け負っていた。暴走から立ち直った深月の精神力と、暁の結界によって稀血の気配がほぼ消えているとはいえ、それでも無条件に引き寄せられる悪鬼を消す必要があるからだ。

 とくに本拠地が手薄になりがちな日には、必ず璃莉が見張り役としてやってきて深月の近辺を警戒し、あやかしものの活動が鈍くなる昼間のあいだに別邸の一室を借りて体を休めるという流れがいまのところ多かった。

 そして昨夜の見張り番を終え、すでに就寝に入っていたはずの彼女だが、その寝間着らしき衣服の過激さにふたりは揃って驚愕していた。

 「な、ななななな、なんなんですか、あなたのその格好は!」

 「え、なに? 副隊長さん、うるさい」

 通常時より覇気がないのは、眠くて仕方がないからだろうか。羽鳥がなぜ狼狽えているのかもまったく理解していないようである。
 「あの、璃莉さん。その格好はもしかして西洋のものですか?」

 いまだ口をぱくぱくとさせて冷静さに欠ける羽鳥の代わりに、深月が言葉を添える。

 少しだけ目が冴えた様子の璃莉は、くるりとその場で回ってみせた。

 「そうそう、寝間着(ネグリジェ)だよ。手触りがつるつるしていて寝心地がいいの。和製ともまた違って可愛いでしょ」

 璃莉は西欧諸国から帰ってきたばかりなので、持ち物や私物に向こうのものが多くあるのもうなずけるが。透けたような生地や、脚が丸出しの作りの寝間着は、さすがに同性の深月が見ても驚く代物であった。

 ほどかれた髪が妙にみだらで、躍然たる印象が強い璃莉がこの瞬間は艷やかに見えた。

 隣の羽鳥は、耳まで真っ赤に染まっている。

 「そのような破廉恥な真似はよしてください‼」

 「あ、羽鳥さんっ」

 羽鳥は言い残して逃げるように階段を駆け上がっていった。まだ話の途中だったのだが、それどころではなかったようである。

 「深月さま、はれんちってどういう意味だったっけ」

 「は、恥ずかしいこと、というか、なんというか」

 羽鳥を不憫に思いながらやんわりと説明すると、ようやく言葉の意味を思い出した璃莉は納得してうなずいた。

 「そうだ、乃蒼兄さんにも言われていたの忘れてた。こんな格好で平然と出歩くなって。あっちの屋敷では女の人しかいなかったから、このまま出てきちゃったよ」

 あっち、というのは英国で生活していたときのことなのだろう。すっかり頭から抜けていた様子の璃莉に、深月は苦笑した。

 「それにしても副隊長さんはさすがだね。疲れてはいるんだろうけど、ほかの隊員さんたちと違って見ただけじゃわからないよ」
 「……皆さん、日増しに忙しくなっていますよね」

 「本当に大変そうだよ。あたしが外で見張りしているときも、怪我して帰ってくる隊員さんたちが結構いてね。悪鬼と野良禾月が増えてきてるみたい。って、だからあたしが深月さまの護衛になるよう言われていたんだけど」

 永桜祭によって増えるのは、なにも人だけではない。あやかしものも例外ではなかった。

 帝都神宮に植えられた永桜が最も狂い咲く季節が春。また、永桜の妖気に触発されたあやかしものが、意気盛んに動き回る時期でもあった。

 「乃蒼兄さんから話は聞いていたけど、今年はとくに妖気が濃いらしいの。だから隊長さんもやることがたくさんだって」

 「そ、そうですよね」

 会話に暁の話題が出て、どきりとする。

 口ごもった深月をどのように解釈したのか、璃莉はにんまりとした。

 「隊長さん、自分が動きにくくなるってわかっていたから、白夜家のあたしを護衛にすることにもすんなり許可してくれたのかな。深月さまが心配だから。それってつまり、大切ってことっ⁉」

 璃莉は話を色恋に絡めると、こうして盛り上がってひとり暴走することがある。

 「暁さまは、きっとご自分の役割を果たされているだけです」

 きっと、ではなく。

 じつのところそうだとわかっているから、深月は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。

 「深月さま、なにかあったの?」

   どこか冷静な様子の深月にふと違和を感じ、璃莉はにやけ顔をやめて聞いてくる。

 「い、いえ。なにもないです。それより璃莉さん、ずっとその格好でいると、また羽鳥さんに怒られてしまいますよ」

 深月は悟られないようにしながら、話題を大胆な夜着に戻した。

 「そうだった。ちょっと喉が渇いたから水をもらいたくて。あ、いま血じゃないんだって思った?」

 「思ってはいなかったですけど。そういえば普通のお水でもいいんですね」

 「血は禾月にとって重要な糧だけど、体に必要な摂取量さえ計算していれば、あとは人と同じような食事も楽しめちゃうし」

 「そういえば璃莉さん、甘いものがお好きだと言っていましたよね」

 深月はそのような話をしながら、璃莉を連れて別邸の炊事場に向かった。喉が渇いた彼女に水を用意するためだ。

 一瞬、態度に出てしまったことにヒヤリとしながら、深月は胸を撫で下ろす。……さすがに、璃莉にあの話をすることはできなかった。
 「お嬢さま。少しお時間いただいてもよろしいですか?」

 「え? は、はい」

 午前の手伝いがおおかた終了し、別邸に引き返そうとしていた深月に声をかけたのは、女中の園子だった。

 そのまま彼女の後ろをついて歩いていくと、炊事場横の小上がりまで来る。

 ここは主に女中がお茶や菓子を持ち寄り、休憩時間を楽しく過ごしている場所であり、深月もちらっと見たことならあった。

 「足元にお気をつけください」

 「あ、あの……わたしが入ってもよろしいのですか?」

 園子は敷居扉を開けて入れるようにしてくれている。

 しかし自分が憩いの場に踏み入れても良いのか戸惑っていると、

 「どうぞお入りくださいお嬢さま! そして申し訳ございませんでした!」

 「……⁉」

 深月は小上がりのなかを覗いて驚いた。

 どういうわけか、女中たちが頭を畳に擦りつける勢いで深々と下げていたからである。

 「み、皆さん、一体どうされたんですか?」

 目の前の光景に思わず近寄ると、あとに続いて入ってきた園子が気まずそうに声をかけた。

 「わたしを含め、ここにいる者全員、お嬢さまに謝りたくお呼びしました」

 「あやま、る?」

 重々しく唇を開くと、女中たちは肩をびくりと震わせる。

 「あの、なにをでしょうか?」

 当惑顔を浮かべ、深月はまじまじと園子や女中らを見つめ返す。

 少し面食らいながらも、一同は各々口を動かした。

 「わたしたち、お嬢さまのいないところでずっと陰口を言っておりました!」

 「猫のことも本当は触りたいほど好きなのに邪険に言ったりもして、おそらく態度も悪く不快にさせていたのではと!」

 「まるでお嬢さまがいままでの奉公先で仕えてきた性悪金持ち娘と同じだと決めつけて勝手な罵詈雑言を……!」

 という懺悔が彼女たちからいくつも上がった。

 女中たちから邪険に思われていることなら、前に炊事場を立ち去る際に耳にしていたので把握済みである。

 しかし、あれは本人のいないところで口にしていた文句であって、直接なにか嫌がらせを受けたわけではない。

 深月に聞かれていたと知らない女中たちは、このまま黙っていれば自分たちの陰口を深月に知られることもなかったはずだというのに。

 (打ち明けてまで謝ってくれるだなんて)

 こなした仕事の手柄を奪われたわけでも、自分だけ食事を捨てられたわけでも、引っ叩かれたわけでもない。ただ、本人がいないところで言った文句だ。

 この女中たちの思い切りが深月には衝撃的だった。

 聞けば彼女らは、熱心に手伝いをしてくれる深月に後ろめたさを感じており、そのことを朋代に相談したのだそうだ。

 すると朋代は、謝罪を受け入れてもらえるかは別としても誠意を伝えることは間違いではない、と助言してくれたという。

 それと「深月さまはキャラメルがお好きよ」と教えたようで、皆で金を持ち寄ってわざわざ買ってきたらしい。

 「お許しくださいとはいいませんが、どうかこの詫びキャラメルを受け取ってくださいっ」
 女中のひとりが立ち上がり、キャラメルの包みが入った小袋を深月へと差し出した。その手は小さく震えており、余裕のなさと緊張がひしひしと伝わってくる。

 「詫びキャラメル……」

 なんだか語呂の良い響きで、つい声に出してしまう。

 小袋を受け取ると、思った以上に重量があった。

 「……こんなにたくさん用意してくださったのですし。もしよければ、皆さんもいかがですか」

 深月は思い切って伺い立ててみる。もともと腹を立てるどころか、関係を改善したいと思っていた深月にとって、これは喜ばしい出来事だった。
 そのあと、深月はお茶に誘われ、キャラメルやそのほかの菓子を囲みながら会話に参加していた。

 「わたしたち本当に誤解していました。てっきり包丁の扱いや水仕事にも触れたことがない生粋のお嬢さまだと思っていたのに」

 「生粋のお嬢さまというのは間違っていないわよ。でも本当に驚きました。朱凰家の分家ともなると家事はすべて使用人任せなのが普通だと思っていたのに。あんなにも素早く動き回れるなんて」

 「ひ、ひと通りの知識と経験は……ほかのお嬢さまはわかりませんが、それぞれだと思います」

 こうして輪に入ることができたのはよかったが、大勢の前で話すにも失言には注意を払わなければいけない。どちらかといえば聞き手に回るほうが得意な深月は、自分が喋るたび複数に注目される状況にはまだあまりなれていなかった。

 深月がそういう性格だというのは、この数日で女中たちも密かに察したようで、お喋り女中らを中心に和気あいあいと談話が続いていた。

 自分が中心にいるのはなるべく遠慮したい深月だが、賑々しい雰囲気はむしろ好きだということに最近気づいた。だから、女中たちの会話がころころと変わっていくのも楽しくて、自然と笑みがこぼれた。

 「あっ、そういえば。あなた、あの方とはどうなったのよ」

 ふいに深月の対角線上に座る女中が、隣の女中をにやつきながら小突く。話を振られたほうは、とたんにかっと赤くなった。

 「いきなり聞くなんてやめてよ、もう」

 「うまくいっていなそうなら聞かないわよ。でも、今日はずっと朝からご機嫌で聞いてほしそうな顔をしてたじゃない」

 話の雰囲気で深月はなんとなく悟った。

 たぶん、これは。

 「ふふふ、じつは……永桜祭を一緒に過ごそうと誘われて。黎明舞もふたりで鑑賞する予定よ」

 その告白に、場はわっと盛り上がりを見せる。

 「きゃあ、やったじゃない!」

 「羨ましいわぁ。気になる殿方と逢瀬だなんて。わたしの故郷は男女ふたりで歩いているとまだいろいろ言ってくる人が多いもの」

 「逢瀬ではなくて、いまどきはデェトって言うのよ。いいわねぇ気になる人とデェト」

 それぞれ視線を上向きにして思い馳せるようにうっとりしているので、深月は呆然とその様子を見つめるしかなかった。深月の隣に座る園子が気を利かせ、こほんと咳払いする。

 「あなたたち、お嬢さまが驚いているでしょ」

 「ああ、ごめんなさいっ。じつはこの子、ずっと気になっていた酒蔵の息子さんと文通する仲になりまして。いつデェトに漕ぎつけるのかと皆やきもきしていたんです」

 「……恋仲ということですか?」

 ごくりと空気を飲み込み、深月は興味津々に聞き返す。

 「ま、まだそこまでではないんですよ⁉ いえ、ゆくゆくはとも思っているという感じで、でもまだそんな」

 「とまあ、正式にお付き合いを申し込まれたわけではないので、恋仲です」

 早口語りが止まらない女中に代わり、隣の女中が呆れ気味に教えてくれた。

 その話題をきっかけに、女中たちは口々に色恋話に花を咲かせ始める。

 なんという間の悪い話……いや、そのようなことを思ってはいけないと深月は慌てて首を振る。

 「すみません、お嬢さま。永桜祭が近いからとはいえ皆揃って浮かれ頭で」

 「浮かれ頭だなんて言い方ひどい園子さん! そういう園子さんだって前に紳士風な方と」

 「きっぱり振られたけど聞きたい?」

 園子が腕を組んで堂々と言い張ると、これまで盛り上がっていたはずの場が一気に沈んだ。同情的な空気に、当の園子はとくに気にしてなさそうである。

 「ま、まあ、恋がすべて実るのはお伽噺のなかぐらいよね。むしろ現実はうまくいかないことのほうが多いというか、相思相愛はある意味奇跡だもの」

 「そうそう。失恋のひとつやふたつなによ。女は振られるたびに涙を流して強さと美しさを手に入れるんだから。園子さんの最後の相手は幸せものよ」

 「気を遣わなくて結構。失恋も得恋も好きに話しなさい」

 園子のさっぱりとした言い草に、わかりやすい慰めを言っていた女中たちは、では遠慮なくと好きに話し始める。

 彼女たちの会話はむしろうまくいかなかった場合のほうが多くて興味深かった。それから深月はそろりと園子を窺い、意を決して言葉にする。

 「恋とは、うまくいかないことのほうが多いのでしょうか」

 「え?」

 「相思相愛は奇跡なのですか」

 深月の素っ頓狂な質問で園子の目が大きく広がる。

 「お嬢さま、突然どうしたんです……って、ああ、お嬢さまは隊長さまと良好なご関係ですからね。わたしとはまったく違いますよ」

 暁との関係を指摘され、内心どきりとしながら平常を装う。

 便乗するように周りの女中もうなずいた。

 「ええ、本当に。隊員の方から聞きましたけど、女性にあれだけ気を許している隊長さまは初めてだと言っていましたよ」

 「……そのように言われていたんですね」

 偽りの関係がしっかり信じられているという証であり、暁の立ち回りもうまくいっているということなのだろう。でも、いま聞くにはなんだか複雑である。

 「お嬢さまは隊長さまとうまくいっていますし、失恋の話自体が珍しいんですよ。わたしも不思議ですもん。園子さん、昨日振られたとしても気持ちを引きずったりしないじゃないですか」

 うんうん、と女中たちは首を縦にした。

 こうした悩める女子の力強い同調が深月には学ぶことが多かった。

 「わたしなら相手のことを考えて、どうして、なんで……って、悶々としちゃいます。好きにならなければここまで辛い思いせずに済んだのにって」

 厭世的な思考に覚えのある彼女らは、またも肯定するよう何度もうなずいていた。

 しかし園子は考えが少し違うようで、早熟な顔で笑ってみせた。

 「結果はどうであれ、お慕いしていたことを後悔していないもの。たとえ相手との気持ちに大きな差があって好意を受け入れてもらえなくても、その人のすべてを嫌いになったわけではないし」

 はっと深月は息を呑んだ。

 世の女性というのは、皆似たような経験をして、園子のように達観するようになるのだろうか。許嫁や婚約者をあてがわれる華族の娘はまた違うのかもしれないが、話を聞く限り庶民間では自由恋愛の風潮も徐々に増えてきたという。でなければ、年頃の女子がいくつも恋に敗れた話で盛り上がりはしないだろう。

 なんにせよ、園子の言葉は目から鱗の答えだった。

 同時に、深月はひどく納得していた。

 実りある午前の休息を過ごした深月は、馳せる思いを感じながら午後の手伝いに全力で励むのだった。
 今日はいつもよりも達成感に包まれた一日だったと、食堂の間にひとり座っていた深月はぼんやりと考えた。

 警備体制の強化や計画、日が進むにつれて人とあやかしものの数が増える帝都の治安維持のため、特命部隊員は多忙に追われている。夕方食堂に顔を見せる隊員からは等しく疲弊の色がにじみでており、深月を含めた女中たちは食事の提供を少しでも早くしようと一致団結したのである。だからなのか、誰かと一緒に勤めることの楽しさを、深月はやっと知れたような気がした。

 無論、暁も警吏との連体でいくつもの決議会に出席し、一日別邸を空ける頻度が高くなっていた。

 それでも夕食時になると、彼は律儀に別邸に帰ってきて食堂の間に現れることが多かった。

 「すまない、遅くなった」

 この晩、暁は駆け込むように扉を押し開いた。

 先に席についていた深月は、椅子を引いて彼のもとに歩み寄る。

 「おかえりなさいませ、暁さま」

 「……ただいま」

 暁はほっと息を吐き、深月に言葉を返す。

 ふと、彼を見上げた深月は瞬いた。

 そこまで急いで走ってきたのか、呼吸は上がっていないものの髪が少し乱れ、額がいつもよりもだいぶ広く見えていたのだ。
 「暁さま、前髪が少し」

 「……?」

 そう教えられ、髪の乱れに気づいた暁は決まりが悪そうにする。

 どのような瞬間でも美々しく隙がない彼がほんの少し無防備に感じた。

 「見苦しいところを見せた」

 「いえ、そんなことは」

 暁にしてみればあまり見られたくない姿なのだろうが、即座に直された前髪に深月はもう少し見ていたかったと、口には出来ない感想を抱く。

 それから暁の帰宅を聞きつけた朋代がすぐに食事を配膳してくれたので、ふたりは定位置に座り、夕食をとり始めた。

 「食事、まだ手をつけていなかったのか?」

 暁は一足先に運ばれていた深月の食事を目にして尋ねた。

 今日の献立は和食中心。白飯、吸い物、鯖の味噌煮、切り干し大根と油揚げの煮物、漬物など…‥量を少なめにはしてもらっているが、やはり副菜の種類は一般に比べて尋常ではない。

 小鉢のひとつにも手をつけた痕跡がないのを見られては誤魔化しようもなく、深月は素直にうなずいた。

 「もう少ししましたらお先にいただくつもりでした」

 深月が取り繕うように笑ってみせると、暁が勘づいて言った。

 「待っていてくれたのか。今朝、夕食には帰ると朋代さんに伝えていたから」

 「……それは、その。そう、ではありますが」

 なにやら気まずそうに深月は視線を泳がせる。

 たしかに朋代から暁が珍しく帰宅時間を名言していたと聞いてはいた。

 ゆえに深月ももう少しだけ待ってみようと思い、箸には手を伸ばさないでいた。

 不規則な勤めのなかでも、彼は深月との時間を大切にしている。

 ……いや、大切とは少し違うのかもしれないけれど。

 どちらにせよ決めたことは守り通す暁が、こうして共に過ごす機会を作ろうと努力してくれているのは深月にも伝わっていた。

 (待っている時間がまったく苦ではないなんて、伝えるのはちょっと変よね)

 考えて、これは言わないでおこうと心に留める。

 以前は部屋の主より先に食べるわけにはいかないと、女中奉公で染みついた考えが常にあった深月だが、待つことの理由にもいままでにはない変化が表れていた。これは果たして良いことなのか判断が難しい。

 そしてべつの言葉を探しつつ、深月が若干冷めてきていた吸い物に目をやれば、暁が先に口を開いた。

 「心遣いはありがたいが、次からは遠慮せず自分の食事を優先させてほしい。君に夕食を遅らせてまで共に食事をするのは、こちらも申し訳ない」

 深月が食事を摂らず待っていた本当の意図までは汲み取れなかったようで、少しほっとする。

 「……はい。では、次からはなるべくそのように」

 「そうしてくれ。だが、待っていてくれてありがとう」

 自分を健気に待ち続けてくれた深月に対して、暁は口元に笑みを刻み、優しげに瞳を細めた。

 きゅう、と胸が締まるのを感じ、深月はほんのり眉を下げて笑みを返した。

 (今日、女中の皆さんや、園子さんのお話を聞けてよかった)

 深月は午前中にあった女中らとの会話を思い出す。

 とくに園子が言っていた最後の言葉。

 それは先日、朱凰秀慈郎と暁のやりとりの一部始終を耳にしてしまった深月に、園子の何気ない一言一句が肺腑を貫いて脳裏に焼きついていた。

 生まれて初めて恋を自覚したことに後悔はない。

 こうして一緒にいることが彼にとって義務感でしかなかったと知っても、本心が別のものだとしても、嫌いになんてなれない。

 (だって、暁さまはわたしに選べる道を与えてくれた。ここ以外にも居場所はあると。それでもわたしが選んだのは、この人の隣だから)

 特命部隊に留まることは、軍の監視下に置かれるということ。

 軍にとって都合が良いという話は暁からも直接聞いていたし、いま思うと警告してくれていたのだろう。

 彼の言葉には、いつも気づかされることが多くて、何度も救われた。

 その感謝は揺るぎない。深月を変えてくれたのは暁の存在だったから。

 だから、あの日の彼の沈黙に自分の心が動揺していたのは、身勝手に期待をしていた自分のおごりだと、そう言い聞かせる。

 (暁さまは真面目に責務を全うしているから、わたしに親切で優しくしてくれる。わたしのは恋だとしても、彼の気持ちは違う。そこだけはもう間違ってはいけないわ)

 契約花嫁がふたりの関係の名前。

 いつ解消されてもおかしくない、曖昧で不安定なものだ。

 これから先、もし暁の口からそばにいること自体を拒絶されたとしても、彼を疎まずに離れられるよう、心の準備だけはしておきたいと思う。

 そのためにも、いまは目の前の彼とできる限り向き合っていたい。

 それが、ふたりの会話を耳にしてしまった日から今日に至るまで、ようやく心の整理がついた深月の答えだった。

 「……深月?」

 かたん、と音がして、黙り込んでいた深月ははっと正面を向いた。

 暁が大きく瞳を開いていて、席を立とうと腰を浮かせているところだった。

 「どうかされましたか?」

 深月がぱちぱちと瞬くと、じんわり熱くなっていた目の奥が乾いていく。

 不思議そうに首をかしげた深月を、暁はしばらく動きを止めて見ていたが再度座り直した。

 「いや、すまない。見間違えたようだ」

 暁は瞼を伏せ、はあと息を吐く。

 やはり日頃の疲労が蓄積されているのだろう。さすがの暁もいつもに比べるとどこか余裕ない表情をしているように見えた。

 「……暁さまもお疲れですよね。わたしもなるべく早く食事を済ませますので」

 箸を取り、急いで食べ進めようとする深月を、暁はかすかに苦笑して諌める。

 「そう慌てなくてもいい。それより、君の話を聞きたい。最近は君も女中の勤めで忙しくしていただろう。疲れは出ていないか?」

 ふ、と微笑まれ、深月は平常心を保ち続ける。

 だがそのように言われてしまっては話を続けるほかない。

 「今日は、女中の方と一緒にお茶をしてすごしました。それから、今朝のことですけど璃莉さんの格好に羽鳥さんが――」

 嬉しかったこと、驚いたこと。可笑しかったこと。

 記憶を掘り起こしながら深月は話す。

 暁は相槌を繰り返し、ときおり質問を投げかけては、深月の声に耳を傾けていた。

 複雑な心境が絡んでいようと、結局のところ彼と過ごすひとときが、深月には特別で、代えがたい瞬間だった。