翌日の朝、永も蕾生も鈴心も疲れがとれない気怠さのまま起き出した。
「おはようございます」
三人揃って居間に行くと、優杞が朝食を並べていた。
「おはよう。疲れはとれた?」
「まあ、だいたい」
強がって少し嘘をつく蕾生に、優杞はいつものサバサバした調子で笑って言った。
「そ。じゃあ朝ご飯しっかり食べて回復しなさいね!」
食卓にはいつもとはまるで違うメニューが並べられていた。肉の割合が凄すぎる。
「すごいご馳走です」
鈴心が目を丸くしていると、蕾生は素直にテンションを上げて喜んだ。
「うまそうだ!」
「たまにはね。昨日はあんた達も頑張ったからね!」
優杞が昨日負った怪我も軽傷ではないはずだが、そんな素振りを全く見せずに笑っていた。雨都家の女は強い。
「おはようございます」
「あら!」
三人に遅れて皓矢が顔を出す。その姿を見るなり、優杞は声の調子を半音上げた。
「昨夜は僕まで泊めていただいて、すみませんでした」
皓矢は柊達と橙子に深々と礼をする。二人は少し居心地悪そうにしながら威厳を保ちつつ応えた。
「む……まあ、仕方なかろう」
「昨日の騒ぎを収めていただいたんです、当然ですよ」
「ありがとうございます」
どこまでも堅苦しい両親に代わって、優杞は明るく皓矢に着席を促す。
「さあさあ、お座りになって!沢山召し上がってくださいね!」
「これはまた、豪勢な朝食ですね。有り難くいただきます」
「おらまあ、おほほほ!」
有頂天な優杞の様子から、永と蕾生は朝食が豪華な真の意味を悟った。
「梢賢は……起きて来ないのでしょうか?」
座りながら鈴心が心配そうに聞くと、楠俊も困ったような顔をしていた。
「うん、呼んだんだけど返事がなくてね」
「そうですか……」
永と蕾生も続いて梢賢を思いやる。
「少し、そっとしておいてあげたほうがいいだろうね」
「そうだな……」
「珪くんのことは本当のお兄さんみたいに慕っていたからねえ……」
楠俊の溜息が重たい空気の居間に落ちる。最後まで信じたかった眞瀬木珪の末路を考えると梢賢の心の傷は察するに余りある。
一同は沈んだまま豪華な朝食をとった。
食事が済むと、皓矢が柊達にあらたまって尋ねる。
「あの、藤生家を訪問したいのですがよろしいでしょうか?」
「ああ……雨辺の子のことかね?」
葵は結局目を覚さないまま、昨夜は藤生康乃に預けられた。
「ええ。鵺化後の容体が気になりますので」
「そうね。目覚めたという知らせもまだありませんから」
橙子がそう承知したのを受けて、柊達は楠俊に命令する。
「楠俊、案内して差し上げなさい」
「わかりました」
「僕らも行ってもいいですか?」
永がそう申し出ると、柊達はまた橙子の反応を気にする。
「……」
「構わないと思いますよ。あの子のことは今は貴方方が一番良く知ってるでしょうから」
「──では、皆で行ってきなさい」
お墨付きをもらった皓矢と永達は楠俊に連れられて藤生家へと向かった。
五人が出かけた後、橙子は片付けながら優杞に聞いた。
「梢賢はまだ寝てるの?」
「多分……」
「仕方のない子ね」
肩で息を吐いた後、橙子は息子の部屋に向かった。
「梢賢」
橙子はいつものようにノックもしないで襖を開けた。梢賢はベッドの上で布団を頭から引っ被って返事もしない。
「……」
「この暑い時期にますます暑苦しい。起きなさい」
「……」
もぞもぞと動きはするものの一向に顔を見せない息子に、母は溜息を吐いた後厳しい声で言い放った。
「起きないとちょん切りますよ」
「ご、ごめんなさい!」
ほぼ条件反射で起き上がった梢賢の顔も髪もくしゃくしゃで、目も赤く充血していた。
「全く情けない顔だこと。私は本当に息子を産んだのかしら」
「……」
口をへの字に曲げて黙ったままの梢賢に、橙子はさらに厳しい言葉を浴びせる。
「男だからメソメソするなとは言わないけれど、お客様が大勢いらしているのに情けない姿を晒すことは許しませんよ」
「……ごめんなさい」
「お前はなんのために似合いもしない関西弁を使っているの?」
「え……?」
橙子はゆっくり近づいてベッドに腰掛けた。
「この里から脱却するため、でしょう?威勢を張って自ら鼓舞するためではないの?」
「……」
「お前の大好きなお笑い芸人は、たとえ親が死んでも舞台に立って笑ってますよ」
「!」
母の言葉に梢賢は驚いた。いつも馬鹿馬鹿しいと言っていた梢賢の好みに初めて母が理解を示してくれた。
橙子は厳しい口調のままだったが、表情は少し優しかった。
「そうやって生きると決めたなら貫き通しなさい。雨都梢賢は、飄々としたお調子者で器用に立ち回る──そういうキャラクターなんでしょう?」
「母ちゃん……」
だが優しくされて泣きべそをかきかけた梢賢に、橙子はすぐ苛ついて声を荒げる。
「立ち上がるか、ちょん切るか!3、2……」
「立ち上がります!!」
それで梢賢は慌ててベッドから飛び降りる。橙子は満足げにしていた。
「それでこそ私の息子。そして楓が託した子です」
「オス!」
「駄洒落にしては面白くないわね」
「厳しいッ!」
母の偉大さ、そしてありがたさを梢賢は噛み締めながら前を向いた。
楠俊に連れられて藤生邸に着いた一同を迎えたのは剛太だった。
「おはようございます」
皓矢が挨拶すると、剛太は人見知りを発揮して所在なさげに戸惑った。
「あ──えっと……」
「銀騎皓矢です。早い時間に申し訳ありません」
「剛太さん、おはようございます」
皓矢の後ろから鈴心が顔を出すと、剛太はたちまち顔を明るくさせて元気よく返した。
「あ!おはようございます!」
「……」
その様子に、皓矢は笑顔のまま苛ついた。鈴心を狙う輩認定をしたようだった。
永も皓矢の様子を見て、こいつと同じだとは、と複雑な気持ちになった。
「剛太、葵のやつはどうだ?」
そういう激しい心の攻防があったことなど全くわかっていない蕾生が剛太に聞く。
「あ……あの子ならまだ目を覚ましてません」
「剛太様、こちらの銀騎殿は鵺化に関しては専門家です。診ていただいたらいかがでしょうか?」
「そ、そうですね!お祖母様に伺ってきます!」
横から楠俊が付け足すと、剛太は弾かれたように中へ戻っていった。
一同は玄関に取り残された形になったが、楠俊の計らいで奥の間へと進んだ。
「どうぞ、お入りになって」
奥の間の襖を開けた康乃は剛太に支えられていた。表情にはまだ疲れが滲んでいる。
「大丈夫ですか?相当お疲れなのでは?」
永が気遣うと、康乃は力無く笑った。
「嫌ねえ、もう年なのかしら。情けないわね」
「いえ、昨日のご活躍を思えば当然だと思います」
「確かに。昨日は凄かったもんな」
続けて鈴心と蕾生も口々に褒めると康乃は少し元気を取り戻したようだった。
「まあ、光栄だわ」
康乃に促されて奥の間に入った一同は、そこで布団に寝かされて眠る葵に対面する。
「失礼します」
入るなり皓矢が葵の側まで行き、その額に手を当てた。
「……」
「どうご覧になります?」
康乃も元から座っていたのだろう、葵の枕元に敷いてあった座布団に座り直して皓矢に尋ねた。
「彼はずっとこの状態ですか?」
「そうね。昨夜は墨砥が寝ずの番で見張ってくれていたのだけれど、特に変わったことはなかったそうよ」
「あ、眞瀬木の人が来てたんですね」
永が言うと、康乃は穏やかに頷いた。
「ええ。一晩何もなかったから、帰って自主的に謹慎しているわ」
「それは殊勝なことで」
息子があんな事になったのに役目を忘れない墨砥の律儀さに、永は舌を巻いた。
「お兄様、どうですか?」
「……うん。キクレー因子は落ち着いているようだ。星弥の状態と比べても変わらないように思える」
集中して葵の様子を探っていた皓矢は、一旦手を離してから鈴心の問いに答えた。
すると康乃が首を傾げて自身が耳慣れない言葉を反芻する。
「キクレー因子?」
「私の祖父が名付けたDNAで、鵺由来のものです。こちらでは単に鵺の妖気と呼ばれているものに相当します」
「まあ、そうなんですか。それがどなたのと変わらないって?」
「私の妹です。彼と同じくキクレー因子を保有していますが、永くんや蕾生くんのものと違って普段は因子が眠っている状態です。彼──葵くんの状態もそれに似ています」
皓矢は躊躇なく説明した。
星弥のことはぼかす事もできたのにそうしなかったのは、こうなった原因が少なからず銀騎にもあることを皓矢が償いたいと思っているからだ。
「そうですか……では未だに目覚めないのは、精神的な?」
「かもしれません。聞けば母親が目の前で石化したとか。それが原因で鵺化したようですから、彼が心の整理をつけるまでは……」
「そう……時間が解決してくれるとよいのですけど」
康乃は沈んだ面持ちで俯いた。
鈴心は気になっていたことを康乃に聞いた。
「あの、葵くんはどうなるんですか?」
「もちろん目覚めるまではここで看病しますよ。その後は藤生で暮らしてもらえたらと思っているけれど、彼の気持ちを尊重します」
「そうですか」
鈴心が安心していると、今度は永が康乃に話しかける。
「あの、康乃さんはあの時藍ちゃんと話しましたよね?」
「ああ、あの子……」
鵺化した葵を元に戻して消えていった少女の姿を康乃は思い出していた。
「僕らは彼女は葵くんの双子の姉だと思っていましたが、本当はイマジナリーフレンドだったのでは?」
「……かもしれないわね」
「なんだ、それ?」
蕾生が聞くと、永は手短に説明した。
「小さい子が、理由はそれぞれなんだけど、自分だけに見える友達を妄想して、あたかも本当に存在しているように振る舞うことだよ」
「それは、他人にも見えるもんなのか?」
「いや、普通は自分にしか見えない」
「じゃあなんで藍は俺達にも見えたんだ?」
蕾生の疑問に皓矢が自身の見解を述べた。
「もしかすると彼の中のキクレー因子が作用したのかもしれない。眞瀬木珪によってその潜在能力を高められていたんだろうからね」
「キクレー因子はそんなこともできるんですか?」
鈴心が驚いて聞くと、皓矢は眉を顰めて首を捻る。
「さあ……僕も初めて聞く症例だよ」
すると康乃もまた自身の見解を述べた。
「私の想像なんだけれど、葵くんは本当に双子だったのかも。けれど片方は生まれる前に消滅してしまった。でもその魂は常に側にいたのかもしれない」
「そのお考えの方が合理的ではあります。雨辺菫氏がいない今では確かめる術はありませんが」
軽く頷きながら言う皓矢の後に続いて、鈴心が寂しそうに結んだ。
「菫さんは藍ちゃんのことは常に無視していました。彼女が実は存在しないことを知っていたんですね」
「そうだね……」
永もしんみりと頷く。蕾生は鵺に変化していたけれど、あの場で藍が頑張ったことはちゃんと覚えていた。
藍は確かに存在したのだ。真相はどうあれ蕾生達は覚えているし、何より葵の心の中に必ずいるだろう。
「その枕元にあるのは──?」
皓矢が注目したのは、紫色の水晶のような石だった。無機物とは思えないほどの存在感を放つそれに皓矢は警戒せざるを得ない。
「ああ、それが石になった菫さんです。姿は変わっても我が子の側にいたいでしょうから」
「……」
皓矢がしばしその石を見つめていると、部屋の外でバタバタと喧しい足音がした。
「すんません!すんませーん!」
「あの声は──」
永はその声の持ち主をすぐに理解し、弾んだ声を出す。
「お邪魔しまああす!」
大声で襖を開けたのは梢賢だった。
康乃は少し驚いたがやはり声を弾ませる。
「まあ」
「梢賢!静かに!」
「す、すまん!」
怒鳴った鈴心もその顔は明るかった。
「梢賢くん」
「随分と寝坊だな」
永も蕾生もニヤニヤ笑いながら揶揄った。
梢賢は頭を掻きながら一礼する。
「いやあ、申し訳ない!──とと、葵くんは?まだ起きひんの?」
「ああ。彼の中のキクレー因子は落ち着いているから、後は心の問題だね」
皓矢にそう言われて少し安心した梢賢は、実にふっきれた顔で宣言する。
「ほうか……でもちょうどええわ!葵くんにも聞いてもらわな!」
「?」
蕾生達が首を傾げていると、梢賢は康乃に向かって土下座した。
「康乃様!」
「なんです?」
「この度は本当に申し訳ありませんでした!雨辺が暴走したのはオレのせいです!」
「まあ」
康乃は少し目を丸くして梢賢の話を聞いていた。
「ここまでのことしといて、何言うてんねん思わはるかもしれませんけど、昨日の件で墨砥のおっちゃんと瑠深には何の落ち度もありません!」
「そうねえ」
「ですから眞瀬木の責を負うのはオレにお願いします!」
「……具体的にはどう責任を取ると?」
少し厳しい声で康乃が尋ねると、梢賢は伏せていた顔をガバと上げてハッキリ言った。
「眞瀬木珪は、オレが首根っこ掴んで連れ戻し、必ず康乃様の前に土下座させます!」
それは、梢賢が新たに立てた誓いだった。
「梢賢……」
蕾生はそれを聞いて安心し、永は変わらずニヤニヤ笑い、鈴心は安堵の溜息をもらす。
「ですからどうか!眞瀬木墨砥、瑠深、並びに八雲を放免してください!」
真っ直ぐに康乃を見て訴える梢賢の瞳には揺るぎない光が宿っていた。
「いいでしょう」
康乃は満足げにニコニコ笑って頷いた。永は相変わらずこのおばちゃんは軽いなあ、と苦笑する。
「ありがとうございまっす!」
「おい、梢賢」
「何や?」
蕾生もその晴れた顔を讃えた。
「見直したぜ」
「──おう!」
戯けるでもなく、含みがあるわけでもない、心から笑う梢賢の顔を蕾生達は初めて見た気がした。
梢賢の態度が康乃の心を動かした訳ではないのだろうが、眞瀬木を放免するきっかけになったことは確かだった。
分家扱いの眞瀬木の嫡男が行ったことは許されざる事である。康乃には里人への体面があり、独断で放免することは出来なかった。そこへ中立の雨都からの申し出は渡りに舟だったのだ。
雨都は客人とは言え里の宗教面で深い所まで食い込んでいる。そこの嫡男が責を負うと言えば里人も納得せざるを得ない。梢賢は気づいていないが、麓紫村における彼の地位は本人が思っているよりも遥かに高い。
その日のうちに康乃による大号令が敷かれ、眞瀬木家当主墨砥、長女瑠深、分家の大柿鋼一──とは八雲の本名だが、その三人は無罪放免とされた。
そして眞瀬木家嫡男の珪は大罪人として指名手配となり、その追討を雨都梢賢に任ずるということも発布された。
これで今回の件は一応の決着をつけたのだが、真面目が服を着て歩く墨砥は自主謹慎を続けている。瑠深も体調不良として自宅からは出て来ず、八雲のみが通常通り作業場にて里人のために生活雑貨などを作成している。
一連の堅苦しいやり取りを側から眺めていた永は「ほんと時代劇みたい」と毒付いていた。
蕾生は梢賢が立ち直ったことを喜んでおり、村のしきたり云々はどうでも良かった。ただ、珪以外の眞瀬木の者達もすぐに許されたのでそこは安心した。
鈴心と皓矢は銀騎と麓紫村の相違点を見出しては「興味深い」と事あるごとに言い合っていた。
葵はまだ目覚めない。
それで皓矢も麓紫村にもう一泊することになった。優杞が熱心に引き留めたからではあるが。
そして翌日の朝、雨都家に藤生剛太が息を切らせて駆け込んできた。
「銀騎様!銀騎様はいらっしゃいますか!?」
「まあ、剛太様。そんなに慌ててどうしたんです?」
玄関で彼を迎えた橙子は驚きで目を丸くしていた。こんなに活発に動く剛太を初めて見たからだ。
「あの、あの、すぐに銀騎様に来ていただきたくて!あの子が目を覚ましたんです!」
「何やてえ!?ほんまか、剛太くん!」
騒ぎを聞きつけた梢賢が興奮して言うと、橙子の鋭い視線が飛んでくる。
「梢賢!!」
「……様、えろうすんまへん」
わざとらしく寸劇のように体をすぼめる梢賢に、剛太は焦れていつにない大声を出す。
「そんなことはどうでもいいです!早く来てください!」
次いでやってきた皓矢は直ぐに玄関を降りて靴を履き始めた。
「わかりました、行きましょう」
皓矢と剛太の後に続いて、永、蕾生、鈴心も当然のように玄関を飛び出した。梢賢もそれを追おうとした所で姉に引き止められる。
「待って、梢賢!」
「僕らも行っていいかい?」
「へ?」
優杞だけでなく、楠俊もやって来てそう言うので、梢賢はつい首を傾げてしまった。だが考えている時間も惜しいのでそのまま三人で藤生家と向かった。
「失礼します」
藤生家の奥の間。皓矢がまず襖を開けて静かに入り、永達三人と梢賢が続けて入った。楠俊と優杞は遠慮がちに廊下で様子を窺っている。
「ああ、どうぞ」
こんな大人数にも気にすることなく、康乃はいつもののんびりとした調子で一同を迎え入れた。
剛太は機敏に動いて、布団で寝ていたのであろう葵を優しく抱き起こしてその背を支えてやった。
「……」
「葵くん!」
確かに目を開けている葵を見て、梢賢は嬉しそうに近寄った。が、葵の瞳は定まらずに何も言葉を発さない。
「……」
「葵、くん?」
「まだね、意識がはっきりしないみたいなの。一言も喋らないし……」
康乃が梢賢に向けて優しく答えると、皓矢は葵のそばにしゃがんだ。
「失礼。葵くん?」
「……」
呼ばれても、葵はただ呆然としていて何も答えなかった。
「少し触るよ?いいかな?」
「……」
皓矢は葵の額に手を置いた後、頬、首元のあたりを触診してから頷いた。
「──うん。気の流れは正常だね」
そうして少し身を引いた皓矢に代わって、梢賢が近づいてその手を取った。
「葵くん……ごめんなあ」
するとその小さな指がピクリと動いた後、葵はようやく口を開く。
「おかあさんは?」
「……」
梢賢は何も言えなかった。
雨辺菫はもういない。直接手を下したのは珪でも、梢賢はその責任の一端を背負っている。
どう謝ればいいのか、その前にどう真実を伝えるべきなのか、梢賢は情けないほどに考えが浮かばなかった。
「おねえちゃんは?」
「あ……」
藍もまた、葵が自ら生み出した幻想であったなどとは少なくとも今の状態の葵にはとても言えなかった。
梢賢が己の無力さに打ちひしがれていると、康乃が優しく助け舟を出した。
「藍ちゃんはね、ここですよ」
康乃は温かな手で葵の胸元に触れて答えてやった。
「そう……」
葵は何の感情も見せずにただ康乃の手に視線を落として頷いた。
「お母さんはね、ここよ」
続けて康乃は枕元に置いておいた菫石を取って葵の掌に乗せた。
「……おかあさん」
「葵くんとずっと一緒よ」
「うん……」
康乃の言葉がどれだけ届いているかはわからない。葵はただ手の中の菫石を眺めて呆然としたままだった。
「葵くん……」
「大丈夫、ゆっくり良くなるさ」
「……」
皓矢が梢賢の肩を叩いて励ましたが、梢賢は葵の現状を憂いて沈んだ顔のままであった。
「康乃様、折言ってお願いがございます」
ふと廊下で控えていた優杞が手をついて切り出した。
「姉ちゃん?」
「何かしら?」
梢賢も康乃も首を傾げてそちらを注視すると、楠俊も妻に続いて頭を下げて言う。
「そちらの雨辺葵くんを私共夫婦の養子に迎えたく存じます」
「ええええ!」
梢賢は大袈裟に驚いたし、永達もその展開に驚いていた。そして康乃も少し目を開いて声を上げる。
「まあまあ」
すると夫妻は頭を下げたまま続けた。
「夫婦で二晩考えました結果にございます」
「何卒お聞き入れいただきたく……」
「そうねえ。雨辺さんはそちらの親戚ですもんね、自然な形だとは思うけど──」
康乃はすでにいつも通りに深刻ぶらない口調で考えながら梢賢の方を振り向いた。
「梢賢ちゃんはどう思う?」
「そ、そ、そんなん……」
梢賢は驚きのあまり口をパクパクさせながらも、終いには大粒の涙を零した。
「大賛成に決まってますやん!」
それを見ていた永も蕾生も鈴心も、心から良かったと思った。当初の梢賢の願いは叶わなかったけれど、葵だけでも迎え入れることができたことは梢賢にとっても喜ばしい結果になった。
「じゃあ、後は葵くん次第ね」
康乃が満足そうににっこり笑って少し身を引くと、梢賢は涙をぐいと拭って殊更に明るい声で葵に呼びかける。
「葵くん!あんな、葵くん、これからはオレのうちで暮らさへん?」
「お兄ちゃんの?」
葵はキョトンとして梢賢を見上げた。少し瞳に光が差した。
「そう!オレは大学とかあるから出かける事が多いけど、オレの兄ちゃんと姉ちゃんが君とずっと一緒におるから!」
「ずっと、一緒……?」
「ずうっと一緒やで!」
梢賢が胸を叩いているのを見ながら、葵は菫石を握りながらただ純朴に尋ねる。
「おかあさんも?」
「……当たり前やで!」
梢賢の望みは叶わなかった。
菫はいない。
その罪の意識は永劫に消えないだろう。
けれど梢賢の家族は、その罪を共に抱える選択をしてくれた。
後悔はある。けれど過去は変えられない。
だからせめて未来だけは笑って過ごせるように守っていきたい。
葵と菫石はその誓いの象徴である。
梢賢はその未来ごと、葵を抱き締めて泣いた。
「ずうっと……一緒……」
梢賢の温もりに包まれて、葵の瞳からもすうっと涙が一筋流れ落ちた。
「銀騎さんと、鵺人のお三方、ちょっとよろしいかしら?」
楠俊と優杞が葵と話しながら打ち解けていく姿を見届けてから、康乃は皓矢と永達に向き直って言った。
「は?」
「ご覧にいれたいものがあるの」
康乃と剛太に連れられて、永、蕾生、鈴心、皓矢は藤生邸の裏山に来ていた。
一同の後を追いかけて梢賢もすぐにやってくる。
裏山には、藤生家の神木たる藤の木が静かに佇んでいる。祭の後の静けさも手伝って、一際清廉さを皆感じていた。
「康乃様、一体どうしたんです?」
後から追いついた梢賢が問うと、康乃は藤の木を振り返った後、改まって皆に言った。
「この藤の木が、資実姫の宿る藤生家の御神木です」
「なるほど。先日は舞台が建てられてましたから、きちんと拝見するのは初めてですが──見事なものですね」
皓矢は藤の木を見上げながら、その神気に当てられて息を飲んだ。
「この木に、私が祈ると絹糸が生えてきます。それは資実姫の髪の毛だと伝えられています」
「なんと──」
「ご覧に入れましょう」
そうして康乃は両手を合わせて意識を集中させ目を閉じた。
まさか実際に藤の木と康乃の超常な力を見せてもらえるとは。永達は緊張で思わず息を止めて見守った。
「……」
だが、藤の木は何も反応せず、ただそこで静かに枝を揺らしている。
「ああ、やはり……」
康乃は目を開けた後、肩を落として溜息を吐いた。
「どうかなさったんですか?」
永が聞くと、康乃はこちらを向いて力無く笑った。
「どうやら私は力を使い果たしてしまったようね」
「ええっ!?」
いの一番に驚いたのは梢賢だった。
「では、もう絹糸は出現しないんですか?」
「そうねえ。来年からのお祭りはどうしたらいいのかしら……」
鈴心が聞くと、康乃はのんびりとした口調で、それでも少し困っていた。
だが、更に困って取り乱したのは梢賢の方だった。
「えええ、えらいこっちゃ!墨砥のおっちゃんが知ったら卒倒すんで!」
「仕方ないんじゃないかしら?」
「そんな軽いっ!」
康乃の様子に、分不相応でもつっこまざるを得ない梢賢。そんな二人の横から、剛太が少し思いつめた表情で一歩前に出た。
「……」
「剛太、どうした?」
蕾生が声をかけると、剛太は一瞬だけ振り返って力強く頷いた後、康乃に申し出た。
「お祖母様、僕が祈ってみてもいいですか?」
「剛太様が?」
目を丸くした梢賢を他所に、康乃は孫を優しく見つめて促した。
「やって見る?」
「はい」
そして今度は剛太が藤の木に相対して、手を合わせて祈る。すると、木の枝が騒めき始めた。
枝垂れた枝は隣り合い絡み合うものと擦れて、ザワザワと音を立てる。
その音がピタリと止んだ次の瞬間、白く柔らかい閃光が舞った。
光かと見紛うそれは、頼りないけれど確かに糸の形を成しており、数本がそのまま地面にパサリと落ちた。
「見事だ……」
一部始終を見届けた皓矢は感嘆の声を漏らす。
「すげ……」
蕾生もまた、剛太の成した成果に驚愕していた。
「ご、剛太様ーッ!!」
神がかった雰囲気をぶち壊すように、梢賢の歓喜の大声が響く。
康乃も満足そうににっこりと笑っていた。
「はあ、はあ……お祖母様……やりました」
消耗し、肩で呼吸している孫を康乃は惜しみなく讃えた。
「初めてにしては上手でしたよ、剛太」
「ありがとうございます!」
次に、康乃は少し呆けてしまっている皓矢に向き直った。
「銀騎の方には、どうお見えになったかしら?」
すると皓矢は意識を取り直して、けれどまだ整理がつかない頭でようやく答えた。
「あ、ああ……そうですね。見事としか言いようがない、私などでは検討もつかない不思議なお力です」
「まあ、お上手ね」
「いえ、本当に。世間は広いですね、感服いたしました」
「あらあら」
孫を褒められて喜ばない者などいない。康乃は本当に嬉しそうに笑っていた。
「とにかく里は安泰や!バンザーイ!バンザーイ!」
しかしすぐに梢賢の場を読まない軽快な声が響く。康乃はそれに苦笑しつつ頷いた。
「そうね。まだ終わらせる訳にはいかないわ」
「あ……」
祭の日、「里は終わる」と言ってしまった梢賢は少し罰が悪そうに押し黙った。
康乃は梢賢を──未来の後継を勇気づけるように笑う。
「楓姉さんが案じてくれた、この里の未来を守らなくては」
「はい」
康乃もまた、梢賢に託そうとしている。楓から預かった希望を。
「ところで、鵺人の方達は元々慧心弓を探していたのよね?」
「え!?あ、はい!」
急に康乃から話題を振られた永は慌てて頷くのが精一杯だった。
「あれは戻ってこなかったようだけど、うちの藤の木の弦を使って新しくお作りになったらどうかしら?」
「えええ!?」
驚きでのけぞる永の代わりに、鈴心が冷静に答える。
「お話は嬉しいのですが、慧心弓でなければ鵺に対しての特効がないと言いますか……」
「ですからね、これをお持ちになって」
その反応は想定内だと言うように、康乃は永に硬鞭を差し出した。珪が使った犀髪の結である。
「それ……」
蕾生は間近で初めてそれを見たが、あの時のような禍々しさはすでに感じられず、綺麗な紋様が施された鉄棒に見えた。
「これを持って八雲の所へお行きなさい。話は通してあるから」
「はあ……」
永はその硬鞭を受け取ったものの、なぜこれが必要なのかわからずに首を傾げた。
その日の午後、昼食をとってから永、蕾生、鈴心、梢賢は康乃から預かった硬鞭を持って八雲の作業場を訪れた。
眞瀬木の技術に興味津々の皓矢もついて来た。
「こんちはー……」
固い木戸を梢賢が遠慮がちに開けると、中には八雲が待ち構えていた。
「む、来たか」
「あのう、康乃様に言われて来たンスけどー……」
「その前に礼を言わせてくれ。墨砥兄さんと瑠深の赦免を康乃様にとりなしてくれたとか。ありがとう」
寡黙な大男の八雲が頭を下げる様は、ある意味異様な圧がある。けれど梢賢は特に怯んだりもせずに少し笑った。
「いやあ、元はオレが蒔いた種ですから。その割に墨砥のおっちゃんも瑠深も家から出てきまへんけど」
「まあ、しばらくは仕方なかろう」
墨砥の生真面目な性格も、瑠深の純粋ゆえの意固地さも知り尽くしている八雲は当然のように頷いていた。
それで梢賢も時間が解決してくれるのを待つべきなのだと悟る。
「お邪魔しまーす」
「こんにちは」
続いて永と鈴心も入って来た。蕾生は初めて入るので物珍しそうにキョロキョロと中を見回している。
「む、鵺人と──銀騎も一緒か」
「すみません、大勢で押しかけて」
皓矢も内心は蕾生と変わらず、心なしか表情が浮ついている。しかし八雲は特に気にせず一人で何かを納得しながら言った。
「いや、ちょうどいい。康乃様からの頼まれ物について助言して欲しかった」
「と言いますと?」
皓矢が首を傾げると、八雲は永の方を向いて尋ねる。
「周防の、犀髪の結は持ってきたか」
「ああ、はい。預かってます」
永が硬鞭を渡すと、八雲はそれを受け取って片手で少し上下させてから皓矢に聞いた。
「ふむ。……これをどう見る?」
「少し伺いましたが、その硬鞭には慧心弓の神気が複製されているとか」
「そうだ。何か感じるか?」
「……微かには。鵺の妖気の奥の奥、そこに少し光が見えます。ただ、それが慧心弓の神気なのかは僕にはわかりかねます」
二人の話を注意深く聞いていた永が口を挟んで尋ねる。
「わかんないもんなの?」
「萱獅子刀と違って、慧心弓の近年のデータは銀騎にはないんだ。長いこと雨都が持っていたからね」
皓矢の返答に、八雲も顎に手を置いて考えるように呟いた。
「ふむ。すると伝承レベルのものを取り出して新たな弓に込めても、慧心弓にはならんかもしれんな」
「そうですね……。それ以前にこんな微かな気配を取り出せるかが難問でしょう」
勝手に大人だけで進んでいく話に、とうとう蕾生が根をあげた。
「なんか全然話が見えねえんだけど」
「ああ、ごめんごめん。つい先走ってしまった。ええと八雲さんから説明して頂いても?」
皓矢がそう促すと、八雲は表情を崩さずに淡々と述べ始める。
「む。わかった。この犀髪の結──原材料は犀芯の輪だが、かつて眞瀬木が銀騎から持ち出した鵺の体毛と、雨都から借りた慧心弓が纏っていた鵺の妖気を拝借して合わせたものが込められていることは話したと思う」
「はい、確かに聞きました」
永が頷くと八雲は手中の硬鞭を指でトントンと軽く叩きながら更に説明した。
「最初は犀芯の輪を鵺の疑似魂として、眞瀬木が鵺神像に格納して崇めていた訳だ」
「それを、指輪型に加工し直して雨辺が持っていたんですよね」
「その通り」
鈴心の付け足しに八雲が頷いた後、蕾生が聞いた。
「けど、祭の日に雨辺がはめてたのはレプリカだったんだろ」
「そうだ。あれには珪が仕込んでいた呪毒が溢れていた。雨辺菫の……キクレー因子と言うのか?それと結合して一瞬だけ常人ならざる力を得たが、彼女が石化するとともにその役目を終えて砕けた」
珪が異空間に消えた後、菫がはめていた犀芯の輪が無くなっていたことを永は思い出した。
「ではもっと前からその硬鞭が「犀髪の結」であり、「犀芯の輪」でもあったということですね」
「そうだ」
八雲は相変わらずの無表情で頷いた。
今ここにある硬鞭は、鵺の疑似魂であり、鵺の妖気を増幅する呪具でもある。そこまで聞いた梢賢は眉を顰めて言う。
「だいぶヤバいシロモンやな。こんなんどうやって保管しとけばええんや?」
「康乃様もそれを憂いていた。あんな事があっては藤生も眞瀬木も、雨都さえもこれを持て余すだろう」
八雲がそう答えると、皓矢が細かく頷きながら身も蓋もない事を言う。
「なるほど。それならば鵺人とやらに押し付けてしまえと、そういうことですね?」
「え!?ちょっと、慧心弓を作ってくれるんじゃないの!?」
どうも話が弓に行かない様なので永は焦った。しかし八雲は落ち着いている。
「最後まで聞け。この硬鞭は犀芯の輪から作ったのだから、慧心弓から抽出した鵺の妖気とともに、慧心弓自身の神気も僅かに取り込まれている」
「つまりね、慧心弓の神気のコピーが硬鞭の中にあるからそれを取り出して、新たな弓に宿らせれば慧心弓の複製弓が作れるかもってことだよ」
言葉の足りない八雲の説明を皓矢が補ったことで、永にも理解ができた。鈴心も同様で、弾んだ声を出す。
「すごい!本当ですか!?」
「かつて慧心弓を雨都から借りた時にとった記録によれば、慧心弓はその神気の中に鵺の妖気を取り込んでいたらしい。だからこそ、慧心弓は鵺に対する武器として有効なのだ」
「なるほど。慧心弓のメカニズムとしては、毒には毒を持って制すってことかな。鵺の妖気を神気で包んで放つ矢は、確かに効きそうだ」
皓矢は嬉々として慧心弓の分析に思いを馳せている。しかし、すぐにハタとなって八雲に問うた。
「ただ、今は、中で妖気と神気の割合が逆になっていませんか?神気が妖気に包まれた状態だ」
「そうだ。珪の設計でその様に調整した。その割合を元に戻して弓に宿らせれば、理論上は可能だ」
「すげえじゃねえか、永、やったな!」
蕾生は八雲が「可能」と言った言葉で判断して喜んだ。だが、永はまだ疑っている。
「う、うん……。でも、そんなことが本当にできるの?」
「問題は、そこだ」
永の不安を肯定するように、八雲は少し顔を曇らせる。そしてまず皓矢が見解を述べた。
「詳しく調べないとはっきりとは言えないけど、現在の硬鞭の中にある慧心弓の神気が少な過ぎる。おそらく、眞瀬木珪によって鵺の妖気が増幅されたのでは?」
「でも、妖気と神気を反転させたのは八雲さんですよね?逆の作業をすればいいのでは?」
鈴心の疑問は当然だったが、八雲はさらに難しい顔をしていた。
「確かにそうなのだが、銀騎の見立て通り俺が扱った時よりも妖気が増幅されているのでは勝手が変わるからかなり困難だ」
「あいつ、ほんとに碌でもないことしやがったな……」
永も悔しそうに歯噛みしていた。
「なんとかならんの?」
梢賢も救いを求めて皓矢を見た。皓矢は腕を組んで深く考える。
「硬鞭の中の神気を増幅できたらあるいは──」
「だがどうやって?」
「……」
八雲とともに黙ってしまった皓矢に、突如永が低く笑った。
「ふっふっふ。まだまだだな皓矢」
「急にどうしたハル坊?」
「いつ出そういつ出そう、もしかしてこいつの出番なんてないのかもしれないと思っていたけど、ついに来たね」
「何がだよ?」
とっておきの物をもったいぶるのは永の癖なのだが、蕾生もさすがに焦れた。
そうして永は更に大袈裟な動作でゆっくり桐の箱をポーチから取り出して掲げて見せる。
「ジャーン!この子達の事をお忘れですかあぁ!?」
「──あ」
それを見た皓矢は目を丸くしていた。鈴心も晴れやかな顔になって叫ぶ。
「そうか、翠破と紅破ですね!」
「何!?」
突然の新たな神具の登場に、八雲でさえも驚愕していた。
「そう、僕の可愛い二本の矢!その鏃がここに揃ってんのよ!?」
「そうか、そいつに慧心弓と同じ力が宿ってるんやな!?」
梢賢も明るい声に戻っていた。永は勢いのままに桐の箱を皓矢に握らせる。
「ね?これ、使えるでしょ?」
「確かに。出来るかもしれない」
箱を開けて鏃を手に取る皓矢の瞳には、強い光が宿っていた。
「ふむ。鏃の神気で奥に隠れている神気を釣り上げることができれば──」
「スポーン!てか?やば、興奮するわ!」
すっかり安心した梢賢はもうふざけていた。
「光明が見えましたね、八雲さん」
「うむ、久々に腕が鳴るな。銀騎の、出来れば手伝ってはくれないか?」
「それはこちらからもお願いしたい所ですよ」
皓矢と八雲が互いに笑いかけながら言うと、鈴心もいっそう安心して声を弾ませた。
「お兄様!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
永と梢賢も手を上げて喜んでいる。その様子を蕾生は笑いながら見ていた。
やはり、事態はなんとかなるものだ。それはきっと永がずっと頑張っているからだと思った。
「では早速作業に取り掛かろう」
八雲が硬鞭を作業机に置くと、梢賢は突然大声で止めた。
「あああ、ちょっと待って!」
「どうした?」
「その前にスジ通さな!」
そう言うと、梢賢は硬鞭をひったくって作業場を飛び出した。
梢賢は急いで自宅に戻って来ていた。
「ただいまあ!姉ちゃん達は?」
玄関を上がったところで橙子がおり、短く答える。
「帰ってきたわよ、孫を連れて」
「マジで!?もう!?」
梢賢は二重に驚いていた。
楠俊と優杞夫妻がもう葵を連れ帰ってきたこと。それから橙子の口から「孫」という単語が出たことだ。
「全く、今朝突然話があるなんて言って、他所様の子を引き取りたいなんて──我が娘ながらなんて無鉄砲なのかしら」
こんな風に口早に喋る母を梢賢はあまり見たことがない。例え文句だとしてもだ。
「顔が笑ってんで、お母ちゃん」
「ああ!?」
なので面白くなってつい揶揄ってしまった梢賢に、橙子は極道の女組長のような睨みを効かせた。
「ピッ!」
一目散に逃げた梢賢を追って永、蕾生、鈴心もドタバタと騒がしく戻ってくる。
「ちょっと梢賢くん、待ってよお!」
居間に行くと、葵が優杞と楠俊に囲まれて食事をしていた。
「おお……」
葵の顔に血色が戻り、黙々とスプーンを動かす様を見て梢賢は感嘆の声を上げる。
「お帰り、梢賢」
「なんや姉ちゃんソレ!お子様ランチか!?」
優杞は葵の隣でにこにこしながら、口を拭いてやったり甲斐甲斐しく世話をしていた。
「作ってみたかったのよぉ、こういうの!」
「最初から飛ばしすぎなんちゃう?」
逆隣の楠俊も苦笑しつつも、葵が食べているのを幸せそうに見ていた。
そんな二人の気持ちが通じているかはまだよくわからないが、葵は一心不乱にお子様ランチを食べ続けている。
「葵くん、うまいか?」
小刻みに頷きながら手を止めない葵の様子に、梢賢は更に感動していた。
「そうかあ……」
そんな我が子と新たにできた孫の様子を薄暗い隣の部屋から覗いている者がいる。
「……」
「何してるんですか?柊達さん」
明るい部屋の団欒に踏み入れるのを躊躇った永達は、襖を隔てた隣の部屋で柊達がコソコソ様子を窺っているのを見てこちらに来たのだった。
「──!いや、何、私が側に行ったら泣くんじゃないかと思って……」
強面坊さんは焦りながらそう答えた。本人の意識とは別に、その様は実にコミカルだ。
「雨都家は基本コント集団ですね」
「ワカル」
鈴心と蕾生の感想が全てを物語っていた。
「あんた、用事は済んだの?」
「いや、これからや。その前にスジ通さんとと思ってな」
優杞と梢賢の会話を、何故か柊達とともに隣の部屋から永達も覗いて見守った。
「葵くん、あんな、これ……」
梢賢が恐る恐る取り出した犀髪の結と呼ばれていた硬鞭に、葵はビクッと震えてスプーンを落とした。
「──!!」
慌てて優杞がスプーンを拾って葵の背中を摩る。
「だ、大丈夫?梢賢!あんたなんてもの見せるの!」
「いいや、見るんや。見てくれ、葵くん!」
梢賢はさらにずいと硬鞭を葵の目の前に差し出した。
「梢賢!」
「優杞。ちょっと……」
「でも──」
楠俊が穏やかに制したが、優杞はまだ不安そうだった。
「葵くん、これ、ちっと形が違とるけど、わかるか?」
葵は目の前の硬鞭にかつて犀芯の輪であった頃の妖気を感じ取って、優杞にしがみつきながら答えた。
「うん……怖いの」
「せや。これはごっつこわーいもんや。それを前まで君は平然と触っとった」
「ごめんなさい、僕……」
「いや、いいんや。謝らんでもええ」
梢賢は硬鞭を少し遠ざけて葵の目を見て言った。
「今の葵くんはこれが怖いものだってわかってるんやろ?それで充分や」
「僕、それ、もう持ちたくない……」
「ほうか。なら、これ兄ちゃん達にくれへんか?」
梢賢がそう言うと、葵は怯えながらも声を荒げて焦った。
「だめ!お兄ちゃん達もおかしくなっちゃうよ!」
葵はやはりわかっていたのだろう。
あの呪具が母親を狂気に駆り立てた原因だったこと。自分の運命も狂わせたこと。そして最愛の姉を創り出してしまったこと。わかっていながらも、葵は母のために従うしかなかった。
そんな健気で優しい葵の頭を撫でて、梢賢はにっこりと笑った。
「心配してくれるんか、ありがとうな。でも大丈夫やで。これをな、今度はごっつええもんにするんや」
「いいもの?」
「そう。ぜーんぜん怖くない、めっちゃありがたーいモンにこいつは生まれ変わる」
だから、君も生まれ変わって欲しい。ここで。
「ほんと?」
「おう。それをな、やってもええかって葵くんに聞こうと思ったんや」
すると葵は無邪気にニカッと笑った。
「いいよ!」
「──ありがとう」
梢賢はしばし葵の頭を撫で続ける。どうか、これからは健やかに。叔父として願わずにはいられなかった。
「なあ、あいつ、幼くなってないか?」
梢賢に撫でられてニコニコしている葵の様子を影から見ていた蕾生が小声で呟いた。
「そうかもしれません。以前はもっとしっかりしていたような……?」
鈴心もそれに同意すると、永が総括するように答えた。
「精神的ショックが大きくて幼児退行してるのかも」
「ああ……」
「──生まれ変わったんだよ、きっと」
そうだ、そう考えればいい。蕾生は笑い続ける葵に視線でエールを送る。
「そのうち年相応に戻るだろ?」
「きっとね。ここにいれば」
永も同じように葵の幸せな行末を願っていた。
「よーし、元の持ち主の許可が下りたで!」
「全く、騒々しい!早く行け!」
それまでのほのぼのとした空気感が一気に台無しになるような軽快さで梢賢が立ち上がると、優杞もつられて角でも出すような勢いで怒鳴る。
ただ、それを見ても葵は変わらず笑っていた。
「ほいほい、お待たせ」
八雲の作業場に永達を伴って戻って来た梢賢の軽快さを見て、皓矢は笑いながら聞いた。
「スジは通してきたのかい?」
「おう、バッチリや」
それから硬鞭を八雲に渡してから梢賢は強い意思をこめて言う。
「──生まれ変わらせたってや」
「承知した」
八雲も力強く頷いた。
「では八雲さん、どこから手をつけましょう?」
「うむ、そうだな……」
積極的な皓矢を見て、永が少し揶揄う。
「随分楽しそうじゃん?」
「うん、そりゃあね。銀騎は自分が使う呪具は基本自分で作るけれど、眞瀬木は専門家に一任している。そこが眞瀬木の強みだよ、勉強させてもらいたい」
「何を言う。鵺の専門家に立ち会ってもらえるなら私の方こそ勉強させてもらおう」
「さいですか……」
すっかり乗り気の専門家二人を見比べて永は呆れながら溜息をついた。
「御免」
「おっちゃん!」
梢賢達が戻って間もなく、作業場の戸板を開けて眞瀬木墨砥と瑠深が入って来た。
「みな、ここにいると聞いてな」
「どうも……」
遠慮がちに入ってきた瑠深の姿に、鈴心が弾んだ声で駆け寄った。
「瑠深さん!体調はどうですか?」
「うん、そこそこ……?バカに借り作ったままじゃあ落ち込んでもいられないしね」
「さよけ」
瑠深が、少し元気はないけれど、梢賢に悪態をついた事で梢賢も少しほっとした。なのでいつも通りに返す。
子ども達の反応を見た後、墨砥は一歩進んで永達に向かって頭を下げた。
「鵺人の皆さんには、珪が大変申し訳ないことをした。本当にすまない」
「いえ、僕らは別に……」
恐縮して慌てる永に続いて、鈴心と蕾生も口々に言う。
「そうです。結局私達は珪さんを止められませんでした」
「俺があそこまで消耗してなけりゃ……」
「いや。あの場で皆殺されずに済んだのは貴方方のおかげだ」
墨砥は首を振りながら、皓矢にも視線を送る。それを受けて皓矢も軽く会釈を返した。
「あの、良かったら聞かせてくれませんか?珪さんと、灰砥さんのこと……」
永はどうしても気になっていた。眞瀬木灰砥という人物が眞瀬木珪に与えた影響について。
「……身内の恥を話すことになるが、それでも良ければ聞いていただこう」
「大丈夫です。恥ずかしい人達の話なら慣れてますから!」
躊躇いながら言う墨砥に、永は皓矢を見ながら明るく答える。心当たりのある皓矢は何も言わずに苦笑していた。
「……兄の灰砥は優秀な呪術師だったのだが、実戦を好まなくてね。術を体現するよりは、術体系を開発する方が好きで得意だった」
話し始めた墨砥に皓矢は頷きながら反応する。
「たまにいらっしゃいますね、そういう方」
「おめーのジジイだろが」
だが、永にそうつっこまれて、皓矢は苦笑してまた黙った。
「兄は毎日文献を読んで暮らしていた。眞瀬木が所有するものはどんなに古くても隅から隅まで読み、把握しておかないと我慢ができない性格で──」
「そういう人、よく知ってます」
永がうんうん頷いて言うと、やはり皓矢は後ろで苦笑する。
「兄が鵺にのめり込むのは自然なことだったのかもしれない。ただでさえ俗世離れしている兄はますます自分の世界、鵺を中心に置いた独自の世界に没頭した」
「ええ?そんな陰気な印象ちゃうかってんけどなあ。よく遊んでもろたし」
梢賢が横入りすると、墨砥はそちらを向いて答える。
「お前や珪と遊ぶ時はただの気分転換だったからだろう。子どもの無邪気さに当てられれば、どんなに狂気があろうと一時的には薄れるさ」
「狂気ですか、はっきり仰るんですね」
永が真顔でそう言うと、墨砥も真面目に頷いた。
「まあ、私は兄とは逆で体術を高める方が好きだったからな。私から見れば鵺を崇める兄の行動は奇異そのものだったよ」
「それで、十年前に跡目争いが起こったんですね?」
「ある程度の想像はつくだろうが、そもそも鵺肯定派は当主になれないのが慣例だ。次代の当主は満場一致で私に決まった」
そこまで聞いた鈴心が続きを促すように尋ねる。
「けれど、それに灰砥さんは納得しなかった……?」
「いや、そこには兄も不満はなかったと思う。当主なんかになれば、好きな研究に没頭できないからね。ただ、何を思ったのか、兄はとんでもないことをしようとしていた」
「何だよ、それ?」
蕾生が聞くと、墨砥は一瞬躊躇ったものの低い声で答える。
「……あろうことか、康乃様を呪おうとした」