梢賢の態度が康乃の心を動かした訳ではないのだろうが、眞瀬木を放免するきっかけになったことは確かだった。
分家扱いの眞瀬木の嫡男が行ったことは許されざる事である。康乃には里人への体面があり、独断で放免することは出来なかった。そこへ中立の雨都からの申し出は渡りに舟だったのだ。
雨都は客人とは言え里の宗教面で深い所まで食い込んでいる。そこの嫡男が責を負うと言えば里人も納得せざるを得ない。梢賢は気づいていないが、麓紫村における彼の地位は本人が思っているよりも遥かに高い。
その日のうちに康乃による大号令が敷かれ、眞瀬木家当主墨砥、長女瑠深、分家の大柿鋼一──とは八雲の本名だが、その三人は無罪放免とされた。
そして眞瀬木家嫡男の珪は大罪人として指名手配となり、その追討を雨都梢賢に任ずるということも発布された。
これで今回の件は一応の決着をつけたのだが、真面目が服を着て歩く墨砥は自主謹慎を続けている。瑠深も体調不良として自宅からは出て来ず、八雲のみが通常通り作業場にて里人のために生活雑貨などを作成している。
一連の堅苦しいやり取りを側から眺めていた永は「ほんと時代劇みたい」と毒付いていた。
蕾生は梢賢が立ち直ったことを喜んでおり、村のしきたり云々はどうでも良かった。ただ、珪以外の眞瀬木の者達もすぐに許されたのでそこは安心した。
鈴心と皓矢は銀騎と麓紫村の相違点を見出しては「興味深い」と事あるごとに言い合っていた。
葵はまだ目覚めない。
それで皓矢も麓紫村にもう一泊することになった。優杞が熱心に引き留めたからではあるが。
そして翌日の朝、雨都家に藤生剛太が息を切らせて駆け込んできた。
「銀騎様!銀騎様はいらっしゃいますか!?」
「まあ、剛太様。そんなに慌ててどうしたんです?」
玄関で彼を迎えた橙子は驚きで目を丸くしていた。こんなに活発に動く剛太を初めて見たからだ。
「あの、あの、すぐに銀騎様に来ていただきたくて!あの子が目を覚ましたんです!」
「何やてえ!?ほんまか、剛太くん!」
騒ぎを聞きつけた梢賢が興奮して言うと、橙子の鋭い視線が飛んでくる。
「梢賢!!」
「……様、えろうすんまへん」
わざとらしく寸劇のように体をすぼめる梢賢に、剛太は焦れていつにない大声を出す。
「そんなことはどうでもいいです!早く来てください!」
次いでやってきた皓矢は直ぐに玄関を降りて靴を履き始めた。
「わかりました、行きましょう」
皓矢と剛太の後に続いて、永、蕾生、鈴心も当然のように玄関を飛び出した。梢賢もそれを追おうとした所で姉に引き止められる。
「待って、梢賢!」
「僕らも行っていいかい?」
「へ?」
優杞だけでなく、楠俊もやって来てそう言うので、梢賢はつい首を傾げてしまった。だが考えている時間も惜しいのでそのまま三人で藤生家と向かった。
「失礼します」
藤生家の奥の間。皓矢がまず襖を開けて静かに入り、永達三人と梢賢が続けて入った。楠俊と優杞は遠慮がちに廊下で様子を窺っている。
「ああ、どうぞ」
こんな大人数にも気にすることなく、康乃はいつもののんびりとした調子で一同を迎え入れた。
剛太は機敏に動いて、布団で寝ていたのであろう葵を優しく抱き起こしてその背を支えてやった。
「……」
「葵くん!」
確かに目を開けている葵を見て、梢賢は嬉しそうに近寄った。が、葵の瞳は定まらずに何も言葉を発さない。
「……」
「葵、くん?」
「まだね、意識がはっきりしないみたいなの。一言も喋らないし……」
康乃が梢賢に向けて優しく答えると、皓矢は葵のそばにしゃがんだ。
「失礼。葵くん?」
「……」
呼ばれても、葵はただ呆然としていて何も答えなかった。
「少し触るよ?いいかな?」
「……」
皓矢は葵の額に手を置いた後、頬、首元のあたりを触診してから頷いた。
「──うん。気の流れは正常だね」
そうして少し身を引いた皓矢に代わって、梢賢が近づいてその手を取った。
「葵くん……ごめんなあ」
するとその小さな指がピクリと動いた後、葵はようやく口を開く。
「おかあさんは?」
「……」
梢賢は何も言えなかった。
雨辺菫はもういない。直接手を下したのは珪でも、梢賢はその責任の一端を背負っている。
どう謝ればいいのか、その前にどう真実を伝えるべきなのか、梢賢は情けないほどに考えが浮かばなかった。
「おねえちゃんは?」
「あ……」
藍もまた、葵が自ら生み出した幻想であったなどとは少なくとも今の状態の葵にはとても言えなかった。
梢賢が己の無力さに打ちひしがれていると、康乃が優しく助け舟を出した。
「藍ちゃんはね、ここですよ」
康乃は温かな手で葵の胸元に触れて答えてやった。
「そう……」
葵は何の感情も見せずにただ康乃の手に視線を落として頷いた。
「お母さんはね、ここよ」
続けて康乃は枕元に置いておいた菫石を取って葵の掌に乗せた。
「……おかあさん」
「葵くんとずっと一緒よ」
「うん……」
康乃の言葉がどれだけ届いているかはわからない。葵はただ手の中の菫石を眺めて呆然としたままだった。
「葵くん……」
「大丈夫、ゆっくり良くなるさ」
「……」
皓矢が梢賢の肩を叩いて励ましたが、梢賢は葵の現状を憂いて沈んだ顔のままであった。
「康乃様、折言ってお願いがございます」
ふと廊下で控えていた優杞が手をついて切り出した。
「姉ちゃん?」
「何かしら?」
梢賢も康乃も首を傾げてそちらを注視すると、楠俊も妻に続いて頭を下げて言う。
「そちらの雨辺葵くんを私共夫婦の養子に迎えたく存じます」
「ええええ!」
梢賢は大袈裟に驚いたし、永達もその展開に驚いていた。そして康乃も少し目を開いて声を上げる。
「まあまあ」
すると夫妻は頭を下げたまま続けた。
「夫婦で二晩考えました結果にございます」
「何卒お聞き入れいただきたく……」
「そうねえ。雨辺さんはそちらの親戚ですもんね、自然な形だとは思うけど──」
康乃はすでにいつも通りに深刻ぶらない口調で考えながら梢賢の方を振り向いた。
「梢賢ちゃんはどう思う?」
「そ、そ、そんなん……」
梢賢は驚きのあまり口をパクパクさせながらも、終いには大粒の涙を零した。
「大賛成に決まってますやん!」
それを見ていた永も蕾生も鈴心も、心から良かったと思った。当初の梢賢の願いは叶わなかったけれど、葵だけでも迎え入れることができたことは梢賢にとっても喜ばしい結果になった。
「じゃあ、後は葵くん次第ね」
康乃が満足そうににっこり笑って少し身を引くと、梢賢は涙をぐいと拭って殊更に明るい声で葵に呼びかける。
「葵くん!あんな、葵くん、これからはオレのうちで暮らさへん?」
「お兄ちゃんの?」
葵はキョトンとして梢賢を見上げた。少し瞳に光が差した。
「そう!オレは大学とかあるから出かける事が多いけど、オレの兄ちゃんと姉ちゃんが君とずっと一緒におるから!」
「ずっと、一緒……?」
「ずうっと一緒やで!」
梢賢が胸を叩いているのを見ながら、葵は菫石を握りながらただ純朴に尋ねる。
「おかあさんも?」
「……当たり前やで!」
梢賢の望みは叶わなかった。
菫はいない。
その罪の意識は永劫に消えないだろう。
けれど梢賢の家族は、その罪を共に抱える選択をしてくれた。
後悔はある。けれど過去は変えられない。
だからせめて未来だけは笑って過ごせるように守っていきたい。
葵と菫石はその誓いの象徴である。
梢賢はその未来ごと、葵を抱き締めて泣いた。
「ずうっと……一緒……」
梢賢の温もりに包まれて、葵の瞳からもすうっと涙が一筋流れ落ちた。
「銀騎さんと、鵺人のお三方、ちょっとよろしいかしら?」
楠俊と優杞が葵と話しながら打ち解けていく姿を見届けてから、康乃は皓矢と永達に向き直って言った。
「は?」
「ご覧にいれたいものがあるの」
分家扱いの眞瀬木の嫡男が行ったことは許されざる事である。康乃には里人への体面があり、独断で放免することは出来なかった。そこへ中立の雨都からの申し出は渡りに舟だったのだ。
雨都は客人とは言え里の宗教面で深い所まで食い込んでいる。そこの嫡男が責を負うと言えば里人も納得せざるを得ない。梢賢は気づいていないが、麓紫村における彼の地位は本人が思っているよりも遥かに高い。
その日のうちに康乃による大号令が敷かれ、眞瀬木家当主墨砥、長女瑠深、分家の大柿鋼一──とは八雲の本名だが、その三人は無罪放免とされた。
そして眞瀬木家嫡男の珪は大罪人として指名手配となり、その追討を雨都梢賢に任ずるということも発布された。
これで今回の件は一応の決着をつけたのだが、真面目が服を着て歩く墨砥は自主謹慎を続けている。瑠深も体調不良として自宅からは出て来ず、八雲のみが通常通り作業場にて里人のために生活雑貨などを作成している。
一連の堅苦しいやり取りを側から眺めていた永は「ほんと時代劇みたい」と毒付いていた。
蕾生は梢賢が立ち直ったことを喜んでおり、村のしきたり云々はどうでも良かった。ただ、珪以外の眞瀬木の者達もすぐに許されたのでそこは安心した。
鈴心と皓矢は銀騎と麓紫村の相違点を見出しては「興味深い」と事あるごとに言い合っていた。
葵はまだ目覚めない。
それで皓矢も麓紫村にもう一泊することになった。優杞が熱心に引き留めたからではあるが。
そして翌日の朝、雨都家に藤生剛太が息を切らせて駆け込んできた。
「銀騎様!銀騎様はいらっしゃいますか!?」
「まあ、剛太様。そんなに慌ててどうしたんです?」
玄関で彼を迎えた橙子は驚きで目を丸くしていた。こんなに活発に動く剛太を初めて見たからだ。
「あの、あの、すぐに銀騎様に来ていただきたくて!あの子が目を覚ましたんです!」
「何やてえ!?ほんまか、剛太くん!」
騒ぎを聞きつけた梢賢が興奮して言うと、橙子の鋭い視線が飛んでくる。
「梢賢!!」
「……様、えろうすんまへん」
わざとらしく寸劇のように体をすぼめる梢賢に、剛太は焦れていつにない大声を出す。
「そんなことはどうでもいいです!早く来てください!」
次いでやってきた皓矢は直ぐに玄関を降りて靴を履き始めた。
「わかりました、行きましょう」
皓矢と剛太の後に続いて、永、蕾生、鈴心も当然のように玄関を飛び出した。梢賢もそれを追おうとした所で姉に引き止められる。
「待って、梢賢!」
「僕らも行っていいかい?」
「へ?」
優杞だけでなく、楠俊もやって来てそう言うので、梢賢はつい首を傾げてしまった。だが考えている時間も惜しいのでそのまま三人で藤生家と向かった。
「失礼します」
藤生家の奥の間。皓矢がまず襖を開けて静かに入り、永達三人と梢賢が続けて入った。楠俊と優杞は遠慮がちに廊下で様子を窺っている。
「ああ、どうぞ」
こんな大人数にも気にすることなく、康乃はいつもののんびりとした調子で一同を迎え入れた。
剛太は機敏に動いて、布団で寝ていたのであろう葵を優しく抱き起こしてその背を支えてやった。
「……」
「葵くん!」
確かに目を開けている葵を見て、梢賢は嬉しそうに近寄った。が、葵の瞳は定まらずに何も言葉を発さない。
「……」
「葵、くん?」
「まだね、意識がはっきりしないみたいなの。一言も喋らないし……」
康乃が梢賢に向けて優しく答えると、皓矢は葵のそばにしゃがんだ。
「失礼。葵くん?」
「……」
呼ばれても、葵はただ呆然としていて何も答えなかった。
「少し触るよ?いいかな?」
「……」
皓矢は葵の額に手を置いた後、頬、首元のあたりを触診してから頷いた。
「──うん。気の流れは正常だね」
そうして少し身を引いた皓矢に代わって、梢賢が近づいてその手を取った。
「葵くん……ごめんなあ」
するとその小さな指がピクリと動いた後、葵はようやく口を開く。
「おかあさんは?」
「……」
梢賢は何も言えなかった。
雨辺菫はもういない。直接手を下したのは珪でも、梢賢はその責任の一端を背負っている。
どう謝ればいいのか、その前にどう真実を伝えるべきなのか、梢賢は情けないほどに考えが浮かばなかった。
「おねえちゃんは?」
「あ……」
藍もまた、葵が自ら生み出した幻想であったなどとは少なくとも今の状態の葵にはとても言えなかった。
梢賢が己の無力さに打ちひしがれていると、康乃が優しく助け舟を出した。
「藍ちゃんはね、ここですよ」
康乃は温かな手で葵の胸元に触れて答えてやった。
「そう……」
葵は何の感情も見せずにただ康乃の手に視線を落として頷いた。
「お母さんはね、ここよ」
続けて康乃は枕元に置いておいた菫石を取って葵の掌に乗せた。
「……おかあさん」
「葵くんとずっと一緒よ」
「うん……」
康乃の言葉がどれだけ届いているかはわからない。葵はただ手の中の菫石を眺めて呆然としたままだった。
「葵くん……」
「大丈夫、ゆっくり良くなるさ」
「……」
皓矢が梢賢の肩を叩いて励ましたが、梢賢は葵の現状を憂いて沈んだ顔のままであった。
「康乃様、折言ってお願いがございます」
ふと廊下で控えていた優杞が手をついて切り出した。
「姉ちゃん?」
「何かしら?」
梢賢も康乃も首を傾げてそちらを注視すると、楠俊も妻に続いて頭を下げて言う。
「そちらの雨辺葵くんを私共夫婦の養子に迎えたく存じます」
「ええええ!」
梢賢は大袈裟に驚いたし、永達もその展開に驚いていた。そして康乃も少し目を開いて声を上げる。
「まあまあ」
すると夫妻は頭を下げたまま続けた。
「夫婦で二晩考えました結果にございます」
「何卒お聞き入れいただきたく……」
「そうねえ。雨辺さんはそちらの親戚ですもんね、自然な形だとは思うけど──」
康乃はすでにいつも通りに深刻ぶらない口調で考えながら梢賢の方を振り向いた。
「梢賢ちゃんはどう思う?」
「そ、そ、そんなん……」
梢賢は驚きのあまり口をパクパクさせながらも、終いには大粒の涙を零した。
「大賛成に決まってますやん!」
それを見ていた永も蕾生も鈴心も、心から良かったと思った。当初の梢賢の願いは叶わなかったけれど、葵だけでも迎え入れることができたことは梢賢にとっても喜ばしい結果になった。
「じゃあ、後は葵くん次第ね」
康乃が満足そうににっこり笑って少し身を引くと、梢賢は涙をぐいと拭って殊更に明るい声で葵に呼びかける。
「葵くん!あんな、葵くん、これからはオレのうちで暮らさへん?」
「お兄ちゃんの?」
葵はキョトンとして梢賢を見上げた。少し瞳に光が差した。
「そう!オレは大学とかあるから出かける事が多いけど、オレの兄ちゃんと姉ちゃんが君とずっと一緒におるから!」
「ずっと、一緒……?」
「ずうっと一緒やで!」
梢賢が胸を叩いているのを見ながら、葵は菫石を握りながらただ純朴に尋ねる。
「おかあさんも?」
「……当たり前やで!」
梢賢の望みは叶わなかった。
菫はいない。
その罪の意識は永劫に消えないだろう。
けれど梢賢の家族は、その罪を共に抱える選択をしてくれた。
後悔はある。けれど過去は変えられない。
だからせめて未来だけは笑って過ごせるように守っていきたい。
葵と菫石はその誓いの象徴である。
梢賢はその未来ごと、葵を抱き締めて泣いた。
「ずうっと……一緒……」
梢賢の温もりに包まれて、葵の瞳からもすうっと涙が一筋流れ落ちた。
「銀騎さんと、鵺人のお三方、ちょっとよろしいかしら?」
楠俊と優杞が葵と話しながら打ち解けていく姿を見届けてから、康乃は皓矢と永達に向き直って言った。
「は?」
「ご覧にいれたいものがあるの」