(けい)の短い呪文とともに、犀髪の結(さいはつのむすび)の先端が一瞬だけ光った。
 
「!?」
 
 だが、何も起こらない。蕾生(らいお)(ぬえ)化した(あおい)は距離をとって睨み合いを続けている。珪の動作など気にしてはいないようだった。
 
「珪!言ったはずだ、お前では扱えない。ストッパーが掛かるように調整した」
 
 舞台の脇にいた八雲(やくも)が歩みを進めて言った。
 それを聞いた珪は顔を歪めて歯を軋ませる。
 
「余計な事を……瑠深(るみ)ィ!!」
 
「は、はい……」
 
 憤りに任せた珪の呼ぶ声に、瑠深は気圧されながらも返事をした。妹を見る兄の目は、既に常軌を逸している。
 
「お前が使いなさい」
 
「ええ?」
 
 犀髪の結を瑠深に差し出してニヤリと笑う珪。その姿に邪なものを感じ取った八雲は大声で制する。
 
「珪、よすんだ!」
 
「八雲!あれは何なのだ?」
 
 蕾生とともに葵と対峙していた墨砥(ぼくと)だったが、堪らず八雲に聞いた。八雲は後悔に顔を歪ませて俯きがちに答える。
 
「……術者の呪力を引き金に鵺の妖気を増幅して対象に放出するものだ。墨砥兄さん、すまない。珪に頼まれて鵺の妖気を元に、俺が作った」
 
「何故そんな危険なものを作った!?」
 
「申し訳ない。職人として、鵺の妖気を扱う誘惑に勝てなかった……」
 
 墨砥は叱責するより先に、呪術師として当然浮かんだ疑問を投げる。
 
「鵺の妖気?そんなものがどこにあったのだ?」
 
犀芯の輪(さいしんのわ)だ。あれを使った」
 
「だがあれは雨辺(うべ)がはめていただろう?」
 
 (すみれ)は犀芯の輪を指に嵌めて現れた。見せた常人ならざる力もあの環が成したことだろうと墨砥は思っていた。
 そして菫が石になった今、犀芯の輪はまだ鵺化した葵の足元に転がっている。
 
 するとその会話に珪が笑いながら入って来た。
 
「いやだなあ、お父さん。あんな重要な呪具雨辺には勿体無いですよ。とっくに回収済みです」
 
「じゃ、じゃあ、菫さんが持ってたのは……?」
 
 梢賢(しょうけん)が恐る恐る聞くと、珪はまたそちらを向いて可笑しそうに言う。
 
「八雲おじ様渾身のレプリカだよ。まあ、僕がその後呪毒を仕込んだけどね。おかげで菫の石化が上手くいった」
 
「珪兄ちゃん……いつからそんな風に」
 
「そんなことはどうでもいい。瑠深、この犀髪の結に呪力を込めなさい。お前なら、鵺のその先を導くことができる」
 
 梢賢の言葉を鼻で笑って、珪はもう一度瑠深に犀髪の結を差し出して命令する。
 
「瑠深、だめだ、聞くんじゃない!」
 
「父さん……」
 
 瑠深は墨砥と珪に挟まれて困惑していた。
 
「瑠深ぃ、兄さんの頼みだ、聞いてくれるだろう?僕ら兄妹で眞瀬木(ませき)を盛り立てていくって約束したじゃないか」
 
「に、兄さん……」
 
 父と兄。どちらが正しいのだろう。どちらの言うことを聞けばいいのだろう。瑠深はその狭間に立って混乱していく。
 
「瑠深!」
 
「瑠深ィ!!」
 
「あ、ああああっ……!」
 
 困惑、そして恐怖。大切な家族の間で板挟みとなり苦しむ瑠深の姿が、蕾生の中であの日祖父に苦しめられた星弥(せいや)の姿と重なった。


 
「てめえら、いいかげんにしろ!!」

 叫んだ蕾生の怒号は、その場の空気をビリビリと震わせた。
 
「!!」
 
 その気迫に押され、眞瀬木の三人は身体を強張らせる。蕾生から漂う強者の匂いを感じたからだ。
 
「ライくん、落ち着──黄金の、雲?」
 
 ここで蕾生まで怒りに呑まれて鵺化してしまっては危険だ。永は宥めようとしかけて、蕾生の周りに漂う黄金色の(もや)に気付く。

 
 
「そいつをお前らの欲望で振り回すんじゃねえ……!」
 
 墨砥と珪を睨む蕾生の迫力は、その場の全員から言葉を奪った。そしてそれは葵にも同様で、更に慎重さを見せてもう一歩後ずさった。
 
「うあっ……!」
 
「ライくん!」
 
 蕾生は膝を震わせて苦悶に顔を歪めた。
 
「は、るか……、ちょっと、俺、やばい──」
 
「ライ!落ち着きなさい!」
 
 鈴心(すずね)も懸命に叫んだ。だが、蕾生は片手で頭を抱えて苦しむ。
 
「あ、あぁ……」
 
 永は蕾生の周りに増えていく黄金色の靄を注意深く観察していた。これまでの鵺化ならもっと禍々しい黒い雲が出て来たはずだ。
 
 だが、今見えている黄金の雲は、とても清々しい。
 それなら──

 
  
「ライ!構わない!その怒りを解放しろ!」
 
「ハル様!?」
 
 驚く鈴心に頷いた後、永は蕾生に向けて言う。
 
「ただし、前みたいに怒りに任せるんじゃない!その怒りをコントロールするんだ!お前の中の鵺を従えるんだ!」
 
「鵺を……従える……」
 
 頭を重そうに抱える蕾生に、永は真っ直ぐな瞳で大きく頷いた。
 
「ライくんなら出来る」
 
「でも、もし──」
 
 不安気な蕾生に向けて、永はにっこり笑ってもう一度頷いた。

 
  
「大丈夫だライくん。僕らは君を愛してる」
 
「──」
 
「君がどんな姿になったって愛してる。──君を、信じてる」
 
 君はこんな呪いなんかに負けやしない。
 一度勝ったんだ、きっとまた勝てる。
 僕らはそう、信じてる。


 
 永の思いは鈴心にも、もちろん蕾生にも伝わっている。
 
「ライ、思いっきりやりなさい」
 
 鈴心も信頼の瞳を向けて頷いた。
 そこで蕾生の気持ちも決まる。
 
「これ、頼む」
 
「!」
 
 蕾生が投げてよこした白藍牙(はくらんが)を受け取った永は驚いた。手に持った途端にビリビリととてつもないエネルギーが伝わる。木材であることは間違いないのに、未知なるものを触っているような感覚だった。
 
「おい、ガキ!駄々こねてないでしっかりしやがれ!」
 
 蕾生は葵を見据えて叫んだ。
 
「ガァ!」
 
 その気迫に鼓舞されたのか、鵺化した葵は地面を踏み締め短く吠え、臨戦体勢をとった。
 
「仕方ねえから付き合ってやるよ……!!」
 
 蕾生は自分の中に渦巻いている強い力を解放した。すると強い風とともに黄金色の雲が舞い上がる。雲はどんどん増えて蕾生を包み光り輝いた。
 
「眩しっ!」
 
「なんちゅーこっちゃ……」
 
 瑠深は眩しさに目を眩ませ、梢賢は呆然とその成り行きを見届ける。

 
 
「これは……凄い、凄いぞ……ッ!」
 
 珪は歓喜の声を上げ震えていた。



 
 雲が晴れる。
 金色に光る毛をなびかせて、気高い狒々(ひひ)の眼差しを持った鵺が雄々しく立っていた。