転生帰録2──鵺が嗤う絹の楔

 祭の厳かな雰囲気を割って入ってきたのは黒い礼服に身を包んだ雨辺(うべ)(すみれ)だった。
 白い肌はいつにも増していっそう白く、口元の紅だけがくっきりと鮮やかに見える。

 その手に引いているのは息子の(あおい)。白いシャツ黒い半ズボンを着て一言も発さず、その瞳は虚ろで何も映していないようだった。
 
「御前、剛太様!!」
 
 一番に動いたのは眞瀬木(ませき)墨砥(ぼくと)だった。真っ直ぐに舞台を目指して進んでくる菫から二人を守ろうと、その進路を避けるように脇へと素早く連れていく。

 驚き慌てる梢賢(しょうけん)(はるか)達もその行動に従った。
 
「す、菫さん!?」
 
「バカな、どうやって入った?」
 
 狼狽する梢賢と墨砥に向けて菫はクスクスと笑いながら言う。
 
「あら?村人の皆さんにお願いしたら入れてくれましたよ?うふふ……」
 
 葵と繋がれていない方の手を口元にあてて笑う様は妖艶で、その中指には黒い石造りの環がはめられている。
 
「……」
 葵の表情には生気がなく、菫に歩かされているようだった。
 
「ハル様、葵くんの様子が変です!」
 
「ああ……心ここにあらずって感じだ」
 
(あい)ちゃんがいない……」
 
 鈴心(すずね)は辺りを見回して藍の姿がどこにも見えないことに不安を募らせた。葵が異常な姿で現れたのに、葵を常に守っていた藍がいない。
 
「永、あの指にしてるの、例の家宝だ」
 
「あれが、サイシンの輪?」
 
 菫の手元を確認した蕾生(らいお)が指したことで永は初めて犀芯の輪(さいしんのわ)を目にした。黒光りしている石の環は禍々しい雰囲気を醸している。
 
「どないなっとんねん……」
 
「梢賢……ッ!」
 
 菫の後方から、優杞(ゆうこ)が息を切らせてよろめきながら走って来た。ぼろぼろに汚れた姿を見て、梢賢も夫の楠俊(なんしゅん)もギョッとする。
 
「姉ちゃん!?」
 
「優杞!」
 
 妻の異変を認めた楠俊は舞台の横から飛び降りて、迂回して優杞の側に駆け寄った。
 
「はぁ、はぁ……あなた、ごめんなさい」
 
 夫に支えられながら這々の体でいる優杞に楠俊は厳しい声で聞いた。
 
「何があった?」
 
「突然あの女が寺にやって来て、藤生(ふじき)の方向へ向かおうとするもんだから、里の男達が止めようとしたの。そしたら、あっという間に全員吹っ飛ばされて……」
 
「ウソやろ……」
 
 まだ目の前の光景が信じられない梢賢を睨みつけて優杞は叫ぶ。
 
「梢賢、あんたあの女知ってるね!?」
 
「う……」
 
「いいか、梢賢!これはあんたの責任だ。死ぬ気で止めな!あの女はもう人間じゃない!」
 
「あ……う……」

 姉弟のやり取りも全く意に介さず、菫はゆっくりと舞台に近づいていった。
 すぐに康乃(やすの)が動く。墨砥はそれを止めようとしたが、その腕は振り払われた。

 康乃は菫の歩みを遮るように舞台の前に立った。
 
「貴女、雨辺の方ね?」
 
「その通りです。初めまして、藤生の御当主様。私は菫、この子は息子の葵と申します」
 
「……」
 
 菫は仰々しく笑って一礼する。葵はその場で微動だにしなかった。
 
 それを受けて康乃も微かに笑って威厳を込めた声音で言う。
 
「今日は里では一番大切な行事ですのよ。日を改めてくださる?」
 
「あら、一番大切な日だからこそ参りましたの。私達もこれを奉納させて頂きたいと思いまして」
 
 菫はハンドバッグから手製の絹織物を取り出した。その乳白色の輝きは、先ほど皆で炊き上げたものと遜色ない。
 
 思いもよらなかった物を見て、康乃は厳しい視線を投げて言った。
 
「何故、貴女がお持ちなのかしら?」
 
「眞瀬木の方に頂きましたの。ずうっと私達を支援してくださっている──ね」
 
 含み笑いながら菫はチラと(けい)の方を見た。それを聞いた墨砥が目に見えて狼狽する。
 
「な、……んだと?」

「チッ」
 
 舌打ちした珪を見て永はやっぱり、と思った。菫を支援していたのは珪だったのだ。あんなに得意げに誤解だと言っていたのに。
 
「あの舞台の上に奉納するんですよね」
 
 炎は下火になって燻っている。しかし菫はそれでも絹織物を手に足を一歩進めようとした。
 それを制して康乃が立ちはだかる。
 
「申し訳ないけれど、雨辺のご先祖様は資実姫(たちみひめ)様の元にはいらっしゃいませんよ」
 
 余裕を感じさせる笑みだった。本当に康乃に余裕があったかはわからない。けれど虚勢だとしてもそうした康乃の態度は菫を苛立たせた。
 
 菫は歯軋りした後、恐ろしい形相で手を振り上げる。
 
「!!」
 
「──させぬ!」
 
 その腕は康乃に届くことなく、墨砥に掴まれた。瞬時に康乃の前に走り出て菫を止めたのだ。その後ろで康乃は毅然と立って菫を睨んだ。
 
「御前、お下がりください」
 
「でも──」
 
 墨砥が康乃に気を取られた瞬間を菫は見逃さなかった。
 
「邪魔よ」
 
 菫は力任せに腕を振り上げ、その反動で墨砥を身体ごと吹っ飛ばした。それは常人の力ではなかった。
 
 蕾生は菫の様子に驚いていた。今まで会っていたお淑やかな菫ではない。鬼女のような様相を目の当たりにし、蕾生は背負った白藍牙(はくらんが)を意識し始めていた。
 
「父さん!」
 
 高く舞い上がった墨砥は空中で身を翻して着地し、駆け寄った瑠深と合流する。

 二人はすぐに臨戦態勢をとった。瑠深はジリジリと菫との距離をつめていく。墨砥はその後ろで瑠深に呼吸を合わせていた。おそらく二人がかりで菫を捕えるつもりだ。
 
 だが、菫はそんな二人をつまらないものでも見るような目で見ていた。
 
「──ハッ!」
 
「──ッ!」
 
 瑠深が手を組み掛け声を上げると、菫の体がビタッと周りの空気とともに固まった。その隙に墨砥が回り込んで後ろ手に捕える。
 
「あんた、目的は何!?うちを陥れるなんてどういう了見なの!?」
 
 瑠深が詰問すると、菫は眉をへの字に曲げて泣くような声で言う。
 
「酷いわ……私は里に挨拶に来ただけなのに」
 
 その弱々しい声とは真逆に、菫は捕らえられた腕をぐっと広げて墨砥を押し返した。
 
「ぬぅ!」
 
「どうして……あたしの緊縛が効いてないの!?」
 
 瑠深は手を組み替えて術を強めた。しかし、菫の動きは止まらなかった。
 
「酷いわ、酷いわ……私はただお祝いして欲しいだけなのに」
 
 亡霊のようにゆらりと立ちながら菫は今度は本当に涙を流す。
 
「お祝い?」
 
 永が怪訝に聞き返すと、泣いていたはずがすぐにニヤリと笑って菫は高らかに宣言した。
 
「私の息子がうつろ神となって、里に降臨するお祝いを──!」
 
 その言葉にその場の全員が凍りついた。
 
「な……」
 
「何ですって?」
 
 墨砥も康乃も動揺して一瞬動きを鈍らせた。その隙に乗じて珪が右手を挙げるのを梢賢の目が捕らえていた。
 
「……」
 
「まずい!葵くん!」
 
 危険を察知した梢賢は葵に駆け寄った。


 
「爆ぜろ、裁きの熱波」







 潜もった(けい)の声が聞こえた。梢賢(しょうけん)(あおい)に覆い被さって身を伏せる。しかし、二人に危害は加えられず、すぐ側で(すみれ)の悲鳴が響いた。
 
「キャアアアア!」
 
「菫さん!?」
 
 驚いて顔を上げると、菫は立膝をついていた。その身体から焦げた匂いがする。
 
灰砥(かいと)様!?何をなさるんです?」
 
 菫は珪に向けてそう呼びかける。梢賢も(はるか)もその名がここで出たことに驚いていた。
 
 珪は眼鏡を整え直してゆっくりと菫に近づいてくる。
 
「困った人だ。いつになったらわかってくれるのか……。僕は珪ですよ、灰砥伯父さんの代わりだって言ったでしょう?」
 
 しかし菫は恐怖に怯えながら地面に手をついた。
 
「灰砥様、申し訳ありません!気に障ったのなら謝ります。ですが、息子の葵はここまで来ましてよ」
 
 もう何処を見ているのかわからない瞳をして菫が言うと、珪はにっこり笑って言った。
 
「ええ、よくやりましたね。メシア様もお喜びになるでしょう」
 
「ああ、灰砥様……」
 
 その言葉に菫が恍惚の表情を見せると、珪は顔を顰めて短く呪文を発する。
 
「──熱波!」
 
「アアアァァァッ!」
 
 珪の呪文とともに、菫がまた悲鳴を上げる。炎など見えないのに菫の身体は焦げていった。電磁波で熱せられた肉塊のようだった。おぞましい匂いが場を埋めていく。
 
「僕は珪だと言っただろう。学習しない女だ。だから寄生虫は嫌なんだ」
 
「申し訳……申し訳ありません……」
 
 吐き捨てる珪の言葉に、菫は地面に伏してブルブルと震えながら謝り続けた。
 
「珪兄ちゃん!もうやめてくれ!酷すぎる!!」
 
 梢賢が叫んで懇願すると、珪は冷たく言い放った。
 
「梢賢、この女の末路はお前にも責がある。お前が甘やかすから図に乗ったんだ」
 
「それは──そうかもしれんけど……」
 
 二の句が告げない梢賢に変わって蕾生(らいお)も永も、鈴心(すずね)でさえも口々に抗議した。
 
「ふざけるな!梢賢はその人を正気に戻そうとしてた!」
 
「そうです、その為に僕らは呼ばれたんだ!」
 
「梢賢は一生懸命やりました!」
 
 三人の姿を憐れむように見てから、珪は溜息をつき静かに言う。
 
鵺人(ぬえびと)の方は黙っててくれませんか。いよいよ最後の詰めなのでね」
 
「え?」
 聞き返した永を無視して、珪は菫に向き直った。
 
「菫」
 
「──」
 
 弱々しく顔を上げる菫に向けて、珪は穏やかな笑みを与える。
 
「今までご苦労だったね」
 
「は──?」
 
「僕はね、お前のような人間が一番嫌いなんだ。働きもせず他人の力で生かされているくせに、自分は特別だから当然だと思い上がる。──虫唾が走るよ」
 
「あ、あの……?」
 
 何を言われているのか、もはや菫には理解できていなかった。それを満足げに眺めて珪はもう一度右手を挙げる。
 
「さあ、己の罪を清算するといい。せめて最期に息子の役に立つことでね」
 
 非情な呪文が紡がれた。
 
「我が視線は(けだもの)を貫く。地に堕ちろ、冷たき(かばね)輝石(きせき)
 
「ヒアアァアァッ!葵……あおい、アオイ、アオ──」
 
 絹を裂くような悲鳴をあげて菫の身体は発光していく。最愛の息子の名を呼びながら、その存在は消えていった。
 
 地面には拳大の紫色の石が転がった。次いで犀芯の輪だけが地に落ちる。菫の姿はどこにもなかった。

「菫さん!?」
 
「──!!」
 
 梢賢の腕の中で、葵はその光景を見ていた。瞳が衝撃に揺れる。
 
「石化の術!?どうしてお前がそれを!?」
 
「呪力の低い僕にはできるはずがない、とお思いですか?お父さん?」
 
 動揺する墨砥に珪は笑いかけた。それは侮蔑の笑いだった。次いで瑠深も震えながら言う。
 
「でたらめよ。その術は遺体や遺骨を永久保存するための秘術。生者にかけるなんてできるはずない!」
 
「やれやれ。瑠深、伝統ばかり教わっていては進歩できないぞ。僕のように既存のものをアップグレードしていかないと時代に置いていかれる」
 
「そんな……それでも、兄さんの実力でできるとは──」
 
 その言葉に顔を顰めた後、ニヤリと笑って珪は得意げに説明を始めた。
 
「可愛い妹のために種明かしをしてあげよう。菫には何年も石化促進の術をかけていた。もうあの体は石になる寸前だったんだ。そういう状態にもっていけば、僕程度の呪力でも実行できるという訳だ」
 
「なんて……卑劣!」
 
 そこまで聞いた永はそう罵らずにはいられなかった。蕾生も怒りを堪えながら拳を強く握りしめる。
 
「お前は……何と言うことを……」
 
 墨砥は現実に打ちのめされて肩を落としていた。珪の策謀に愕然としている。
 
「珪兄ちゃん!菫さんはどうなったんだ!?戻してくれよ、早く!」
 
 おそらくあの紫色の石が菫だろうと思った梢賢が叫ぶと、珪は溜息をついていた。
 
「瑠深の話を聞いていなかったのか、梢賢。石化の術は遺体を保存するためのものだ」
 
「え……」
 
雨辺(うべ)(すみれ)は、死んだんだよ」
 
「──」
 
 その冷たい目には、地に落ちた石ころなどとうに映っていない。梢賢は言葉を失った。
 
「なんてこと……」
 
「そんな……鵺の、鵺の呪いは……こんなにも人を破滅させるのか──」
 
 鈴心も永も、あまりに残酷な結末に打ちひしがれた。その横で、蕾生は己から怒りの感情が湧き上がっていくのを感じていた。
 
「ウソだ……菫さんが死んだなんて、ウソだ……」
 
 首を振ってうわごとのように呟く梢賢に、珪は更に追い討ちをかける。
 
「嘘じゃない。菫は永久に石になったんだよ。お前のその楓石(かえでいし)のようにね」
 
「──!」
 梢賢は胸元に手を置いて衝撃に耐えるように肩を震わせていた。
 
「何ですって……」
 それを聞いていた鈴心も同じように震える。
 
「まさか、楓サンを石に変えたのは──」
 
 永は橙子(とうこ)から聞いた話を思い出していた。
 確か楓は呪いに詳しい人の治療を受けたと言っていた。あの時も眞瀬木のことだろうとは思っていたが、こういう意味もあったのかと思い至る。
 
「おかあ、さん……?」
 
 おぼつかないままだった葵がとうとう口を開いた。梢賢の腕から逃れて地面に転がる紫色の石に近づく。
 
「葵くん!?だめだ!」
 
「お母さん……?」
 
 震える手でその石を取り瞳を揺らすその姿に、珪はまたニヤリと笑った。
 
「まずい!」
 永が危険を叫ぶ。
 
 鵺化の条件。
 対象者が身的あるいは精神的に大きなストレスを抱えた時──
 
「お母さん!お母さん!お母さんッ!!」

 鵺が顕現する。

 
 
「葵く──」
 梢賢の声は届かなかった。
 
 蕾生は自らの経験を元に、これから何が起こるのかを知っていた。白藍牙(はくらんが)を握ってその時に備える。

「葵くん!?」
 
 葵の身体が青く発光した。続いてどこからか黒雲が現れその身体を包んでいく。
 
「黒雲……!」
 
 永はまたも己の無力さを嘆いた。

 
 
「さあ、うつろ神の降臨だ」
 
 珪は邪悪な笑みを浮かべながら、その呪いを迎えるために両手を広げた。







 (あおい)を覆っていた黒雲が晴れた。頭は猿、胴体は猪、尾は蛇、手足は虎。そこには黒い色の(ぬえ)が深い怒りを帯びて立っていた。
 
「あ、葵くん……?嘘だろ……?」
 
 梢賢(しょうけん)をはじめ、その場の誰もが今見ている光景を信じられずにいた。
 
 (はるか)は後悔と己の力不足に打ちのめされかけた。だがすんでのところで心を奮い立たせる。
 
優杞(ゆうこ)さん!楠俊(なんしゅん)さん!村の人達を遠くに逃してください!」
 
「え?あ……」
 
「早く!皆、殺される!早く逃げるんだ!」
 
 永の叫びを聞いて村人達は我に返り、半狂乱となって寺の方向へ走る。群衆雪崩が起きそうな雰囲気で、危険を感じた楠俊が村人達の元へ駆け寄った。
 
「みな、落ち着いて!とにかく寺まで走って!」
 
 指示を出しながら楠俊は妻の方を省みる。優杞はあちこちに怪我を負っており、腰が抜けてしまっているようだった。
 だが夫婦のアイコンタクトで楠俊は苦悶の表情を浮かべながら先に走り出す。
 
「梢賢くん!優杞を頼む!」
 
「私は大丈夫、機敏には動けないけど自分の身くらいは守れる」
 
「姉ちゃん……」
 
「それよりも、あんたはこの状況を良く見ておくんだ。これから何が起きても後悔しないように」
 
 優杞の真剣な言葉に、梢賢は葵のいる方を向いて息をのんだ。

 
 
 黒い鵺となった葵は低く唸っている。目の前の康乃(やすの)を狙っているようだった。
 蕾生(らいお)はその前に立ちはだかって白藍牙(はくらんが)を構えた。
 
「俺が食い止める。その間に──」
 
「わかった。葵くんが元に戻る方法を探す。リン、優杞さんと梢賢くんの援護を」
 
「御意」
 
 永と鈴心(すずね)がばらけた後、珪は懐から棒状の呪具を取り出した。
 
「フ、フフ。素晴らしい!まだこの犀髪の結(さいはつのむすび)すら使っていないのに鵺化するとは!葵、君は本当に救世主だ!」
 
 蕾生は横目で珪を見ながら、その手に持った呪具の禍々しい空気を感じていた。
 それは永も同様で嫌な予感がしていた。あれを使われる前にけりをつけなければならない。
 
「おい、珪!葵くんを元に戻せ!」
 
 永が注意を引こうとわざと大袈裟に叫ぶと、珪は顔を歪めて笑いながら答えた。
 
「はあ?冗談でしょう?ここまで来るのに僕がどれだけの金と労力をかけたと思ってるんです?」
 
「その手に持ってんの!キクレー因子の制御装置だろ!それで葵くんの因子を鎮めろよ!」
 
 それを聞いた梢賢は僅かに希望を持って鈴心に聞いた。
 
「ほ、ほんまか?」
 
銀騎(しらき)でも似たような装置を作っていました。おそらく可能だとは思うんですが……」
 
 銀騎(しらき)詮充郎(せんじゅうろう)が作った萱獅子刀(かんじしとう)のレプリカ、今の白藍牙(はくらんが)のことだが、皓矢(こうや)がそれを使って鵺化した蕾生を人の姿に戻したことがある。
 
 だが、あれは皓矢の磨かれた対鵺の術があったからではないかと鈴心は考えていた。それを行使できる人材がこの場にいるのだろうか。
 
 事態が膠着しつつある頃、康乃が舞台の上にいる柊達(しゅうたつ)に呼びかける。
 
「達ちゃん!」
 
「は、は!」
 
「動けますね?降りてきて剛太(ごうた)をお願い」
 
「はい!」
 
 命を受けた柊達は昇降台を使って舞台を降り、梢賢達の側で震えている剛太の元へ走った。
 
「御前もお下がりください。あれは危険です」
 
 墨砥(ぼくと)は蕾生の隣までやって来て、後ろの康乃に言う。しかし康乃は厳しい顔のまま拒んだ。
 
「いいえ。これは私に定められた運命(もの)です。私はこの里を守る義務がある……!」
 
「御前……。では私より前にはお出にならぬよう」
 
 康乃の決意に腹を決めた墨砥は蕾生とともに鵺と対峙するべく構えた。康乃も毅然と鵺化した葵を睨む。
 
 蕾生は永が習っていた剣道の構えを思い出しながら白藍牙を構える。
 
「葵、聞こえるか。蕾生だ。俺はお前の仲間だ、わかるか?」
 
 蕾生は目の前の葵が自分と「同じ」ものだと言うことを感じていた。何がどうとかはわからない。けれど葵と意思の疎通が出来るのは自分しかいないと思った。
 
 だが黒い鵺となった葵の目は虚ろに曇り、怒りにまかせて低く唸った後蕾生に飛びかかる。
 
「!」
 
 来る!と思った瞬間、蕾生は白藍牙を盾に葵の爪を弾いた。それまではただの木刀だと思っていた白藍牙は、まるで鋼のような硬さで葵を弾いた。
 
「ガッ!……ウゥ」
 
 白藍牙に弾かれた葵は身を翻して着地し、蕾生を注視しながら一歩後ずさった。
 
 葵の攻撃を受けたからか、白藍牙は鈍くも白く光っており、とてもその素材が木であるとは思えなかった。
 皓矢から碌にレクチャーも受けずに使ったものの、ちゃんと対抗できていることに蕾生は素直に驚いた。
 
「なんと素晴らしい呪具だ!そして素晴らしいお力!さすが鵺人(ぬえびと)、いや、黄金の鵺!」
 
 蕾生と葵の攻防を見た珪は興奮しきりの表情で讃える。
 
 しかし永は珪が「黄金」という言葉を使ったことに驚いていた。そんな事まで知っているだなんて、情報収集に自信があると言っていたのは伊達ではなかったのだと。
 
「ああ、私の鵺もその高みに昇らなければ……」
 
 そうして珪は興奮したまま手に持っている犀髪の結という呪具を高く掲げた。おそらく「正しい」使い方をするつもりだ。
 
「やめろぉ!」
 
 永は叫んだ。鵺化した葵に更なる力の活性化を図られたら蕾生はただでは済まない。
 
「神女の(かもじ)よ!」







 (けい)の短い呪文とともに、犀髪の結(さいはつのむすび)の先端が一瞬だけ光った。
 
「!?」
 
 だが、何も起こらない。蕾生(らいお)(ぬえ)化した(あおい)は距離をとって睨み合いを続けている。珪の動作など気にしてはいないようだった。
 
「珪!言ったはずだ、お前では扱えない。ストッパーが掛かるように調整した」
 
 舞台の脇にいた八雲(やくも)が歩みを進めて言った。
 それを聞いた珪は顔を歪めて歯を軋ませる。
 
「余計な事を……瑠深(るみ)ィ!!」
 
「は、はい……」
 
 憤りに任せた珪の呼ぶ声に、瑠深は気圧されながらも返事をした。妹を見る兄の目は、既に常軌を逸している。
 
「お前が使いなさい」
 
「ええ?」
 
 犀髪の結を瑠深に差し出してニヤリと笑う珪。その姿に邪なものを感じ取った八雲は大声で制する。
 
「珪、よすんだ!」
 
「八雲!あれは何なのだ?」
 
 蕾生とともに葵と対峙していた墨砥(ぼくと)だったが、堪らず八雲に聞いた。八雲は後悔に顔を歪ませて俯きがちに答える。
 
「……術者の呪力を引き金に鵺の妖気を増幅して対象に放出するものだ。墨砥兄さん、すまない。珪に頼まれて鵺の妖気を元に、俺が作った」
 
「何故そんな危険なものを作った!?」
 
「申し訳ない。職人として、鵺の妖気を扱う誘惑に勝てなかった……」
 
 墨砥は叱責するより先に、呪術師として当然浮かんだ疑問を投げる。
 
「鵺の妖気?そんなものがどこにあったのだ?」
 
犀芯の輪(さいしんのわ)だ。あれを使った」
 
「だがあれは雨辺(うべ)がはめていただろう?」
 
 (すみれ)は犀芯の輪を指に嵌めて現れた。見せた常人ならざる力もあの環が成したことだろうと墨砥は思っていた。
 そして菫が石になった今、犀芯の輪はまだ鵺化した葵の足元に転がっている。
 
 するとその会話に珪が笑いながら入って来た。
 
「いやだなあ、お父さん。あんな重要な呪具雨辺には勿体無いですよ。とっくに回収済みです」
 
「じゃ、じゃあ、菫さんが持ってたのは……?」
 
 梢賢(しょうけん)が恐る恐る聞くと、珪はまたそちらを向いて可笑しそうに言う。
 
「八雲おじ様渾身のレプリカだよ。まあ、僕がその後呪毒を仕込んだけどね。おかげで菫の石化が上手くいった」
 
「珪兄ちゃん……いつからそんな風に」
 
「そんなことはどうでもいい。瑠深、この犀髪の結に呪力を込めなさい。お前なら、鵺のその先を導くことができる」
 
 梢賢の言葉を鼻で笑って、珪はもう一度瑠深に犀髪の結を差し出して命令する。
 
「瑠深、だめだ、聞くんじゃない!」
 
「父さん……」
 
 瑠深は墨砥と珪に挟まれて困惑していた。
 
「瑠深ぃ、兄さんの頼みだ、聞いてくれるだろう?僕ら兄妹で眞瀬木(ませき)を盛り立てていくって約束したじゃないか」
 
「に、兄さん……」
 
 父と兄。どちらが正しいのだろう。どちらの言うことを聞けばいいのだろう。瑠深はその狭間に立って混乱していく。
 
「瑠深!」
 
「瑠深ィ!!」
 
「あ、ああああっ……!」
 
 困惑、そして恐怖。大切な家族の間で板挟みとなり苦しむ瑠深の姿が、蕾生の中であの日祖父に苦しめられた星弥(せいや)の姿と重なった。


 
「てめえら、いいかげんにしろ!!」

 叫んだ蕾生の怒号は、その場の空気をビリビリと震わせた。
 
「!!」
 
 その気迫に押され、眞瀬木の三人は身体を強張らせる。蕾生から漂う強者の匂いを感じたからだ。
 
「ライくん、落ち着──黄金の、雲?」
 
 ここで蕾生まで怒りに呑まれて鵺化してしまっては危険だ。永は宥めようとしかけて、蕾生の周りに漂う黄金色の(もや)に気付く。

 
 
「そいつをお前らの欲望で振り回すんじゃねえ……!」
 
 墨砥と珪を睨む蕾生の迫力は、その場の全員から言葉を奪った。そしてそれは葵にも同様で、更に慎重さを見せてもう一歩後ずさった。
 
「うあっ……!」
 
「ライくん!」
 
 蕾生は膝を震わせて苦悶に顔を歪めた。
 
「は、るか……、ちょっと、俺、やばい──」
 
「ライ!落ち着きなさい!」
 
 鈴心(すずね)も懸命に叫んだ。だが、蕾生は片手で頭を抱えて苦しむ。
 
「あ、あぁ……」
 
 永は蕾生の周りに増えていく黄金色の靄を注意深く観察していた。これまでの鵺化ならもっと禍々しい黒い雲が出て来たはずだ。
 
 だが、今見えている黄金の雲は、とても清々しい。
 それなら──

 
  
「ライ!構わない!その怒りを解放しろ!」
 
「ハル様!?」
 
 驚く鈴心に頷いた後、永は蕾生に向けて言う。
 
「ただし、前みたいに怒りに任せるんじゃない!その怒りをコントロールするんだ!お前の中の鵺を従えるんだ!」
 
「鵺を……従える……」
 
 頭を重そうに抱える蕾生に、永は真っ直ぐな瞳で大きく頷いた。
 
「ライくんなら出来る」
 
「でも、もし──」
 
 不安気な蕾生に向けて、永はにっこり笑ってもう一度頷いた。

 
  
「大丈夫だライくん。僕らは君を愛してる」
 
「──」
 
「君がどんな姿になったって愛してる。──君を、信じてる」
 
 君はこんな呪いなんかに負けやしない。
 一度勝ったんだ、きっとまた勝てる。
 僕らはそう、信じてる。


 
 永の思いは鈴心にも、もちろん蕾生にも伝わっている。
 
「ライ、思いっきりやりなさい」
 
 鈴心も信頼の瞳を向けて頷いた。
 そこで蕾生の気持ちも決まる。
 
「これ、頼む」
 
「!」
 
 蕾生が投げてよこした白藍牙(はくらんが)を受け取った永は驚いた。手に持った途端にビリビリととてつもないエネルギーが伝わる。木材であることは間違いないのに、未知なるものを触っているような感覚だった。
 
「おい、ガキ!駄々こねてないでしっかりしやがれ!」
 
 蕾生は葵を見据えて叫んだ。
 
「ガァ!」
 
 その気迫に鼓舞されたのか、鵺化した葵は地面を踏み締め短く吠え、臨戦体勢をとった。
 
「仕方ねえから付き合ってやるよ……!!」
 
 蕾生は自分の中に渦巻いている強い力を解放した。すると強い風とともに黄金色の雲が舞い上がる。雲はどんどん増えて蕾生を包み光り輝いた。
 
「眩しっ!」
 
「なんちゅーこっちゃ……」
 
 瑠深は眩しさに目を眩ませ、梢賢は呆然とその成り行きを見届ける。

 
 
「これは……凄い、凄いぞ……ッ!」
 
 珪は歓喜の声を上げ震えていた。



 
 雲が晴れる。
 金色に光る毛をなびかせて、気高い狒々(ひひ)の眼差しを持った鵺が雄々しく立っていた。







 金色の(ぬえ)は鋭い眼差しで黒い鵺を睨んでいる。その迫力に、その場の誰もが動けなくなった。
 
「……」
 
「──」
 
 黒い鵺──(あおい)はその気迫に当てられて少し怯み、また一歩後ずさる。
 
「なんて美しい……」
 
 すぐ側で蕾生(らいお)が鵺化したのを目の当たりにした康乃(やすの)は呆然としていた。今、現実で起こったことが信じられないという訳ではなく、その金色の姿の神々しさに目を奪われていた。
 
「す、凄い!本当に金色!黒と金、二体の鵺!やった、やったよ灰砥(かいと)伯父さん!」
 
「珪、やはりお前はまだあいつの事を……」
 
 金色の鵺の顕現にますます興奮した(けい)は有頂天になって亡き伯父の名を呼ぶ。
 その姿を父親の墨砥(ぼくと)は後悔とともに眺めることしかできなかった。
 
「ウギャアアア!」
 
 蕾生の気迫に一度は怖気づいた葵だったが、何もせずに屈服する訳にはいかないとばかりに、半ばやけを起こして蕾生に襲いかかる。
 
「ウオオオア!」
 
 それを受けてたった蕾生は雄叫びをあげて葵の突進を受け止めた。体格を比べても蕾生の方が頭一つ大きい。突進した葵は逆に吹っ飛ばされることになる。
 
「ワアアァアア!」
 
 後ろに跳躍した葵は大きく叫んだ。空気が震えて衝撃波が蕾生を襲う。
 
「オアアァァア!」
 
 それが到達する前に、蕾生も大きく叫び衝撃波を相殺した。
 
「ギィアアッ!」
 
 体や衝撃波の大きさで敵わないなら、葵は小さな体を活かした機動性で勝負するしかない。縦横に飛んだ後、蕾生めがけて鋭い爪で襲いかかる。機敏に動き回り手足で打撃を繰り返した。
 
 小煩い打撃を受けながら、蕾生も腕を伸ばして葵を組み敷こうとする。それをスルリと躱した葵はついに蕾生の喉元に噛みついた。
 
「ギャァアッ!」
 
「ライくん!」
 
 苦悶の表情を浮かべる蕾生を見て、(はるか)は思わず一歩踏み出したがすでに人智を超えた神獣同士の戦いだ。人の身の永にはなす術がない。
 
「ライオンくん……おされてへんか?金色の鵺は、その先の存在なんやろ?」
 
 梢賢(しょうけん)が防戦一方の蕾生を見て言うと、鈴心(すずね)も悔しさに歯噛みする。
 
「金色の姿の鵺にはライの自我があります。ライはできるだけ葵くんを傷つけないように戦っている。けど、黒い姿の鵺である葵くんは──」
 
「自我がないから、容赦がないってことか……」
 
「このままではジリ貧です」
 
 葵の爪や打撃を受けながら、その身体を取り押さえようと奮戦する蕾生の姿を永は苦悩しながら見ていた。
 
「……」
 
「ハル坊!なんかないんか!?このままじゃ葵くんもライオンくんも無事じゃ済まん!」
 
 梢賢の叫びを受けて、永は苦し紛れに珪を挑発した。
 
「おい、珪!これがお前の目的なのか?これじゃあ鵺化した二人を消耗させるだけだ!」
 
「おっといけない。つい見惚れてしまっていました。鵺化した葵は大切な器。そろそろ鎮っていただきましょうか、瑠深(るみ)!」
 
 珪はさらに下卑た笑みを浮かべた後、大声で瑠深を呼んだ。二体の鵺の戦いに怯えてしまっていた瑠深は大きく肩を震わせる。
 
「──!」
 
 そんな妹の様子など構わずに珪は再度犀髪の結(さいはつのむすび)を目の前に差し出した。
 
「さあ、この犀髪の結に祈れ。お前の呪力なら可能だ。これをもってあの黒い鵺を従えるんだ」
 
「え……あ……」
 
 珪は怯えて動かない瑠深の前まで歩き、その手に無理矢理犀髪の結を握らせる。
 
「怖がることはない。それで晴れてお前は鵺の主人になる。僕ら兄妹は新たな世界の扉を開くんだ!」
 
 新たな世界の扉──またも聞いたその言葉に永は驚愕した。あの時、銀騎(しらき)詮充郎(せんじゅうろう)も同じことを言っていた。
 偶然だろうか?いや、何か共通することがあると直感した。
 
「瑠深さんダメです!」
 
「!?」
 
 犀髪の結を受け取ってしまった瑠深に、鈴心は必死で叫んだ。
 
「私達は鵺を従えようとして破滅していった人を知ってる!瑠深さんはそんな道に進んではいけない!」
 
 戸惑う瑠深に向けて、墨砥も静かな口調で諭すように言う。
 
鵺人(ぬえびと)の言う通りだ、瑠深。我々は灰砥兄さんの件から学んだはずだ。あれに手を染めてはいけない」
 
 すると珪はそれまで笑っていた態度を翻してヒステリックに叫んだ。
 
「お父さんは黙っててくれませんか!灰砥伯父さんを見殺しにした時のようにね!
 ──ええ、そうですとも。灰砥伯父さんと同じ轍を踏んではいけない。だからこそ僕はこうするしかないのです」
 
「珪!目を覚ましなさい!お前は灰砥兄さんを誤解している!」
 
「はあ!?誤解しているのはお父さんの方でしょう?だから伯父さんが粛清されるのを容認した!伯父さんを見捨てたんだ!」
 
「……」
 
 もう息子には何を言っても通じない。墨砥は苦悩に塗れて言葉を失った。
 
「さあ、瑠深。僕ら兄妹は二人で一人だろう。僕の頭脳はお前のもの、お前の呪力は──僕のものだ」
 
「あ……兄さん……」
 
 瑠深は既に抗う気力さえ失くしている。手の中の犀髪の結を握ったまま珪の瞳に魅入られかけた。
 
「バカ言ってんじゃねえぞ!クソアニキが!」
 
「!」
 
 だがすんでのところで、永の怒号が瑠深をとどめる。
 
「瑠深サンの力は瑠深サンのものだ!妹と自分を同一視して考えるなんて、自立できてないシスコン野郎のすることだ!」
 
「な、なんだ……その汚い言葉遣いは!気高い鵺人がそんなことでいいと思ってるのか!」
 
「うるせえ!前も言ったけど、僕らを勝手に英雄視すんじゃねえ!こちとら大迷惑なんだよ!」
 
 言われた珪だけでなく、鈴心も梢賢も永の乱暴な物言いに驚いて少し怯んだ。
 そして瑠深は。
 
「……」
 
「瑠深サン、お願いだ、僕らを──ライを信じてくれ!ライが必ず葵くんをなんとかするから!」
 
「え……」
 
 言われて瑠深は視線を二体の鵺に移す。黒い鵺が引っ掻いたり噛みついたりしているのを、金色の鵺が防ぎながら反撃の機会を狙っていた。
 傷をあちこちに受けながらも、金色の鵺である蕾生は諦める様子を見せない。黄金の瞳は依然輝いている。
 
「あ──」
 
「瑠深さん!お願いします、ライを信じて!」
 
 必死な鈴心の声が、瑠深の胸の中にストンと落ちた。
 
「兄さん、ごめん。あたしはこれ、使えない……。だって、あの子が……可哀想だよ」
 
 傷だらけの蕾生。しかしそれ以上に葵の姿が痛ましかった。母親を失ってやり場のない悲しみをぶつけるその姿が哀れだった。
 
 そんな二人を思いやって、瑠深は犀髪の結を投げ捨てる。
 
「瑠深ィィイ!!」
 
 珪が怒りに我を忘れて叫ぶ。けれど瑠深はそれを必死で堪えた。







「ライくん!一旦下がれ!距離をとるんだ!」
 
「──ガッ」
 
 蕾生(らいお)(はるか)の指示に従って後ろに跳躍し距離をとる。そこにはちょうど康乃(やすの)が立っていた。
 
「貴方……そんなに傷だらけなのに、あの子のために──」
 
 康乃は蕾生の体を見て驚く。その言葉が聞こえたような顔をして蕾生は穏やかな瞳で康乃を見ていた。
 
「この白藍牙(はくらんが)、僕でも使えそうだな……」
 
 永がぎゅっと握ると、白藍牙は仄かに白く光った。
 
「ハル様、何をなさるおつもりで?」
 
 鈴心(すずね)が問うと、永は腹を決めて言う。
 
「僕の分の因子をライくんに届けたら、葵くんを圧倒できる力が出るかも」
 
「ですが、今、ライが本気になれないのは(あおい)くんの身を案じているからでは?
 さらに力を強めれば勝てるでしょうけど、葵くんも無事には済みませんよ」
 
「そこは、ライくんの器用さに賭ける!」
 
「ライが器用だったことがありますか!?」
 
 鈴心が声を張り上げると、落ち着いているのに誰よりもよく通る声がした。康乃だった。
 
「──おやめなさい」
 
「!」
 
「貴方の力は、蕾生君を元に戻すためにとっておきなさい」
 
「でも、じゃあ!」
 
 焦る永に、康乃は普段通りの微笑みを向けた。
 
「私にお任せくださる?」
 
「え──」
 
「御前!無茶です!」
 
 何かを察した墨砥(ぼくと)が声を張り上げる。しかし康乃は首を振った。
 
「いいえ。私がやらなければ。墨砥は(けい)をなんとかなさい、いいわね」
 
「御前……」
 
「お祖母様!?」
 
 異変を感じた剛太(ごうた)にも、康乃は強い意志を込めた眼差しで言う。
 
「剛太、よく見ているのです。これが、藤生(ふじき)の取る責というもの!」
 
 次の瞬間、康乃の周りに白い光が輝き出した。この場のどれでもない異質な、けれど清廉な風が舞い始める。
 
 そのオーラの様なものを感じた永は驚愕した。ここまでの力が藤生の当主にあったとは。
 
 そしてその力は金色の(ぬえ)である蕾生にも感じられたようで、その手に自らの胴を擦り付けた。
 
「まあ、乗せてくださるの?嬉しいわ」
 
 康乃は蕾生の背に腰掛ける。蕾生が睨むと、葵は明らかに恐怖の色を滲ませた瞳で空を駆けた。次いで蕾生もそれを追う。背の上の康乃はその間に力を集中させた。
 
「祖の地より流れし我が血に依て……」
 
 康乃が言葉を紡ぐと、その両の掌から夥しい絹糸が伸びた。まるで生きているかのような糸の群れがあっという間に葵の体を絡めとる。
 
「──ッ!」
 
「戒めを!」
 
「ギャアアア!」
 
 康乃が叫んだと同時に絹糸が輝いて葵を縛り上げる。葵は苦しみながら悲鳴を上げた。
 
「あなた……葵くんと言ったわね。お母さんを亡くして悲しかったわね……何もできなくてごめんなさいね……」
 
「ガッ……アァァ……」
 
 康乃が絹糸を操りながら優しく語りかけると、葵は呼吸を制限されて固まった。
 
「葵くんの動きが止まった!キクレー因子に干渉したのか?何故、康乃さんがそんなことできるんだ?」
 
「わ、わかりません。あの絹糸の、資実姫(たちみひめ)の力でしょうか?」
 
 永も鈴心も目の前の光景に驚いた。銀騎(しらき)雨都(うと)を含む関係者以外で鵺に対抗した人間を初めて見たからだ。
 
「いや、違う。多分……」
 
 梢賢(しょうけん)にはその力の検討がついているようだったが、それを言うのを躊躇っている。
 
「なるほど。鵺人(ぬえびと)の遺伝子はここにも。だが、させる訳にはいかない──ッ!?」
 
 事態を重く見た珪が康乃と蕾生に攻撃しようとしたが、墨砥と瑠深(るみ)が立ちはだかった。
 
「行かせないよ、兄さん!」
 
「御前の邪魔はさせぬ!後でお前は私とともに腹を切るんだ!」
 
「父さん!そんな時代錯誤の冗談は後!」
 
「冗談では……」
 
 自分の実力ではこの二人を相手取ることはできない。珪は自尊心を砕かれて悔しそうに歯噛みした。
 
「クソが……!」
 
 そうしているうちに、康乃は葵を締め上げる力を強めていく。
 
「さあ……子どもはお昼寝の時間よ」
 
「ガァアアァ……」
 
 葵は苦しみながら次第に大人しくなっていた。虚に曇っていた瞳が白くなっていく。
 
「眠りなさい!」
 
 絹糸を伝って康乃の神気が葵に注がれた。







 康乃(やすの)の力は(ぬえ)化した(あおい)を圧倒していた。絹糸で縛り上げられた葵は康乃の戒めにより意識を手放そうとする。
 
「やめて!」
 
 康乃が最後に力を込めようとした時、目の前に突然少女が現れた。人間の姿の時の葵にそっくりなその少女は、両手を広げて康乃と鵺化した葵との間に立ちはだかった。
 
「!」
 
「おばちゃん、もうやめて、許して!」
 
「あなたは……?」
 
 その様子を地上から見ていた梢賢(しょうけん)は度肝を抜かれて叫んだ。
 
(あい)ちゃん!?」
 
「どこから!?飛んでる!?」
 
「まさか、彼女は──」
 
 鈴心(すずね)も上空を見上げながら驚き、(はるか)はこの瞬間藍の正体に納得がいった。
 
 藍は康乃に向けて懸命に訴える。
 
「おばちゃん、ごめんなさい!葵は苦しかったの!お母さんの役に立ちたかっただけなの!
 なのにお母さんがいなくなっちゃって、どうしたらいいかわかんなくなっちゃったの!」
 
 藍の姿はよく見ると少し透き通っていた。おそらくその姿を維持するのに限界が来ているのだろう。そこまで想像した時、康乃も藍の正体を悟った。
 
「あなた……。ええ、そうね。葵くんの気持ちはわかってるわ。それにおばちゃんは怒っていませんよ」
 
「ほんと?」
 
「本当よ。この鵺のお兄ちゃんもね、怒っていませんよ。葵くんを心配しているの」
 
 康乃がその背を撫でながら言うと、蕾生もそれを受けて大きく頷いた。
 
 藍は少し戸惑うような顔で黙っている。 
「……」
 
「あなた、お名前は?」
 
「藍……」
 
「いいお名前ね。そしていいお姉ちゃんなのね」
 
 康乃はにっこり笑って目の前の藍を褒めた。藍の存在は確かに葵の心の拠り所だった。
 
「葵は……一人で、寂しくて……」
 
「それであなたが側にいてあげたのね」
 
「うん……」
 
 しかし、藍の存在が消えかけている以上、葵はそれを乗り越えなければならない。寂しさのあまりに具現化されてしまった藍を、自身に戻す強さを手に入れなければならない。
 その手伝いを、康乃は菫の代わりに請け負うことを誓う。
 
「もう大丈夫よ。葵くんは今日からこの里の子になるからね」
 
「本当?」
 
 藍は不安気な顔で聞いた。ひたすらに葵が心配なのだろう、そして自分がもうすぐ消えることも藍はわかっている。

 二人分の不安を抱える健気な子どもに康乃はにっこり笑って言った。
 
「お母さんの代わりにはなれないかもしれないけど、おばちゃん達がずっと一緒にいるから大丈夫よ」
 
「うん……」
 
「藍ちゃんともね、ずっと一緒よ」
 
「あたしも?」
 
 存在してしまった以上は藍も別個の人間だ。藍自身も納得して消えなければ意味がない。
 
「うん。だからね、安心してお帰りなさい。これからは葵くんとおばちゃん達とずっと一緒」
 
「葵!聞いた?」
 
 康乃の真心を受け取った藍はパッと顔を輝かせて葵の方を振り向いた。絹糸に包まれた葵は虚に曇る瞳で藍を見ている。
 
「……」
 
「葵!もう大丈夫だよ、もういいんだよ!お姉ちゃんがずっと一緒だからね」
 
 藍は葵に向かっていく。小さな手を伸ばしてありったけの愛を手渡そうとしていた。
 
「おねえ……ちゃん……」
 
 曇った瞳に少し光が宿る。葵の鵺としての体が朧になっていく。
 
「ずっと、一緒だよ──」
 
 藍は笑顔のまま消えていく。最後に小さな光の粒になって葵の中に入っていった。
 すると葵の体がまた青い光を放ち、一瞬だけ眩しく輝く。その光が収まると葵は人の姿に戻っていた。
 
「──戻った!」
 
「すごい……」
 
 見届けた永と鈴心は目を見張る。
 梢賢は目に涙をためて鼻をすすっていた。
 
「あかん、こんなん、奇跡やん……」
 
 上空では康乃が絹糸を引き寄せて気を失った葵を抱きかかえた。二人を背に乗せた蕾生がゆっくりと地面に降り立つ。
 
「──くっ!」
 
 蕾生の背から降りようとした康乃は葵を抱えたまま膝から崩れ落ちた。
 
「御前!」
 
「康乃様!」
 
 直ぐに墨砥(ぼくと)瑠深(るみ)が駆け寄った。葵を瑠深に預け、康乃は墨砥に支えられる。
 
「はあ、はあ……だい、じょうぶです。でもさすがに疲れたわ……」
 
「お見事でございました」
 
「やあね、これくらいは軽くできないといけないのだけど、年をとったわねえ」
 
 荒い息を整えている康乃の後ろで、金色の鵺である蕾生もガクリと体勢を崩す。
 
「ライくん!」
 
「ライ!」
 
 永と鈴心が駆け寄る。蕾生はすでに自分では立てなくなっており、ぜえはあと苦しそうに呼吸していた。
 
「消耗が激しいわ。すぐに戻しなさい」
 
「え、でも、どうやって?」
 
 康乃が厳しい口調で言うけれども、永にも鈴心にもその方法がわからなかった。
 
「前にお兄様は呪文を唱えましたが……」
 
「あんな変な呪文なんて覚えてないよ!」
 
 息も絶え絶えの蕾生の姿に焦りながら永が狼狽える。
 皓矢(こうや)が以前使った術が出来るわけがない。白藍牙(はくらんが)の使い方も碌に教えてくれなかった皓矢には怒りを覚える。
 
 あのどグサれ陰陽師が!今すぐ来てライを元に戻せ!
 
 永が心の中で毒づいた時、聞き覚えのある涼しげな声がした。

 
 
「呪文はいらないよ」

 
 
「げ!」
 
「お兄様!?」
 
 村人が逃げた方向から、パリッとしたスーツに身を包んだ銀騎(しらき)皓矢(こうや)が現れた。
 
「どど、どうしてお前がここに!?」
 
 なんというタイミング。鮮やか過ぎて永の頭は一瞬パニックになった。しかしそういう自分の行動に対する自覚がない皓矢は、まず目の前の事案に指示を出した。
 
「まずは蕾生くんを戻しなさい。白藍牙に永くんが祈ればいい」
 
「ええ?」
 
 永が半信半疑でいると、皓矢は少し挑発するような口調で言った。
 
「これくらいは僕なしでもできるようにならないと」
 
 目論見通りカチンときた永は白藍牙を握った。
 
「おお、上等だ、やってやんよ!」
 
 蕾生は相変わらず荒い呼吸で苦しんでいる。祈れと言われても勝手がわからない。けれど蕾生の無事を願う気持ち、蕾生に戻ってきて欲しいという気持ちを永は白藍牙に込めた。
 
「ライくん、お疲れ様──」
 
 呪文は覚えていないがあの時皓矢がしていた動作を思い出しながら永はやってみた。
 白藍牙に祈りをこめてその切先を優しく蕾生の額に当てる。すると金色の鵺の体が輝き始め、黄金色の雲が包んでいく。
 雲は靄となりゆっくり晴れて、そこには人の姿に戻った蕾生が立っていた。しかし蕾生はそのまま倒れそうになる。
 
「──!」
 
 永は手を伸ばして蕾生を支えて抱き締めた。
 
「お帰り、ライくん」
 
「おう……キツかったけどな……」
 
 疲れ果てた声ではあったが、蕾生は穏やかに笑っていた。
 
「ライ!良かった……」
 
 鈴心も駆け寄って蕾生の体をさする。
 
「葵は?」
 
「大丈夫や、康乃様が守ってくれとる」
 
 梢賢が指差す方、瑠深と康乃に抱かれて眠る葵を見て蕾生は安堵の溜息を吐いた。
 
「良かった……」
 
「良かったのはライオンくんもやで」
 
「?」
 
 涙声の梢賢の言葉がすぐ近くで聞こえた。
 
「ありがとう。ありがとうな」
 
 ぐずぐずの顔を向けて言う梢賢に、蕾生は思わず苦笑する。
 
「不細工な顔だな」
 
 でも、その顔は結構好きだ。







「は……ははは、はははは!素晴らしい!実に素晴らしいものを見せてもらった!」
 
 場の雰囲気をぶち破って(けい)の高らかな笑いが響いた。場違いな程にはしゃぐ珪に(はるか)は厳しい視線で言い放つ。
 
「お前の計画は失敗だ、観念するんだな」
 
「失敗?とんでもない、大成功だとも!今、康乃(やすの)様は言いましたよね!その葵を里に迎えると!」
 
「ええ」
 
 康乃が睨んでいることも意に介さず、珪は上機嫌で続けた。
 
「今こそ、里は(ぬえ)の元で一つになるべきなんです!(あおい)を鵺として祀り、鵺の下では里の者は皆平等!そして眞瀬木(ませき)は鵺の主人として里に君臨するんです!」
 
「珪!お前はまだそんなことを……!」
 
「兄さん!正気に戻ってよ!」
 
「僕は正気さ!大真面目だとも!」
 
 墨砥(ぼくと)瑠深(るみ)が大声で嗜めても、珪は常軌を逸した高笑いを続けていた。
 
「鵺に、魅入られてしまったか……」
 
 無念を感じて項垂れる墨砥の肩を叩いて、それまで事の成り行きを見守っていた八雲(やくも)が一歩前に進む。
 
「珪」
 
「なんです、おじ様?」
 
 その寡黙な瞳に後悔の色を滲ませて八雲は静かに告げた。
 
灰砥(かいと)兄さんを殺したのは俺だ」
 
「──!!」
 
 その言葉に、珪は途端に顔を曇らせた。
 八雲の告白は続く。
 
「灰砥兄さんも、ちょうど今のお前の様に鵺に魅入られていた。粛清は避けられなかった。だが、お前が灰砥兄さんを慕っていたのは充分知っている」
 
「──」
 
「心のよりどころを突然失ったお前は、こうでもしなくては自我が保てなかったんだろう。許せとは言わん、腹いせに俺を殺せ」
 
「八雲おじさん!?」
 
「お前は、その負い目で珪に加担したのか……」
 
 そのとんでもない申し出に、瑠深は大きく動揺し、墨砥は諦めの入った表情で項垂れた。
 
 そして珪は八雲に対し、とても冷たい目で言い捨てる。
 
「──知ってますよ、そんなことは」
 
「!?」
 
「八雲おじ様が贖罪で僕の言いなりになっていることもね、もちろん知ってましたよ。都合が良かったので利用させてもらいました」
 
「そうか……」
 
 八雲は全てを諦めた。珪の心に巣食ったものは、己の命に変えても取り除くことができないことを悟った。
 
「でも、そうですね。せっかくの申し出ですからお受けしますよ。犀髪の結(さいはつのむすび)ではいらぬ調整をされて僕は少々むかついているのでね」
 
「……」
 それでも、差し出せるものはこれしか思いつかない。
 
「兄さん!やめて!」
 
「珪!」
 
 瑠深も墨砥もこの事態に絶望した。眞瀬木という家の業をこれほど後悔したことはない。
 
「サヨナラ、八雲おじ様──」
 
 無抵抗の八雲に向けて、珪は愉快そうに右手を振り上げる。
 
 だが、次の瞬間、その手は白く光る糸で縛り上げられた。
 
「!」
 
「やめろ……」
 
梢賢(しょうけん)ッ!?」
 
 姉に比べたら極弱い梢賢の糸は、それでも珪の右手を縛って動きを止めていた。梢賢は心の底から叫ぶ。
 
「もうやめてくれ!珪兄ちゃん!」
 
 だが珪は梢賢を見下して蔑んだ。
 
「離したまえ。どっちつかずの愚図が」
 
「そうや……結局オレは(すみれ)さんにも、ハル坊達にもいい顔して、その間をふらふらしとった。そのせいで菫さんは死んでもうた……」
 
「よくわかってるじゃないか。全てはお前が優柔不断だったからだよ」
 
「ふざけるな!梢賢くんは──」
 
 激昂しかけた永を制して梢賢は懺悔するように言った。
 
「ええんやハル坊。コウモリ野郎でも愚図でも、オレは何でもええ。ただ、里の皆を信じたかった。色んな人の機嫌とって皆が仲良くしてくれるなら、オレは裏切り者でも良かった」
 
「梢賢……」
 
 その気持ちは、瑠深が理解していた。
 藤生(ふじき)と眞瀬木の間で常に道化を演じて里の円滑な運営を図る雨都(うと)は、珪のように見下す者が多い。しかし中には瑠深のように好ましく思う者も確かにいる。雨都は、里での潤滑油のような存在だ。
 
「なあ、珪兄ちゃん!?もうやめよ、皆に謝ろ!オレも里の皆に謝る!雨辺(うべ)を調子づかせたのは確かにオレやから!珪兄ちゃんも謝ってくれ!そうしたら康乃様かて許してくれる!」
 
 梢賢の言い分は甘いことこの上ない。康乃もおいそれと同意する訳にはいかなかった。珪ももちろん切り捨てる。
 
「バカか、お前は!?謝ったら許すなんてのは子どもだけなんだよ!謝っても許されないことを、この里では誰もがしてるんだ!」
 
 雨辺の離反。
 藤生の嫁一家の自殺。
 眞瀬木灰砥の粛清。
 ──そして、雨都(うと)(かえで)の殉死。
 
「ああ、本当や……」
 
 梢賢は里で行われた多くの闇の深さを、今、思い知った。
 
「楓婆が言っとった「里はもう終わる」ってのは本当やった。けど!楓婆は終わらしたくないから、あないに頑張った!楓婆が首の皮一枚で繋げたモンをオレかて終わらせたくなかったんや!」
 
「梢賢……」
 
 梢賢は希望の子だと、雨都の誰もが産まれた時から思っていた。姉の優杞(ゆうこ)は正直言ってこのちゃらんぽらんな弟には荷が重すぎると思っていた。
 けれど、誰よりもそう思っていたのは本人だったのだろう。背負わされた期待とも宿命とも戦って、折れずにこうして珪に対峙している弟を優杞は誇りに思う。
 
「黙れ!他所者が大きなお世話だ!里のことは我々が考える!雨都も、雨辺も──藤生も!鵺人に成り果てた者には任せられない!!」
 
 梢賢の真っ直ぐで真摯な思いに怯んだ珪は、それを打ち消すべく頭ごなしに否定した。もはや珪に誠実な思いは届かない。
 
「先にその減らず口から閉じてやる……」
 
 梢賢の出した糸が時間とともに緩んでいく。自由を取り戻した珪の右手は梢賢へと狙いを定めた。
 
「梢賢くん!」
 
「──くっ!」
 
 蕾生を支えなければならない永は咄嗟には動けない。蕾生も疲れ果ててしまっていて同様だった。
 
「梢賢!」
 
 鈴心は恐怖のあまり悲鳴をあげる。梢賢は己の非力さに呆れて目を閉じた。







「──!!」
 

 チィイイイ……ッ!
 青い鳥が高らかに叫んで飛び回った。
 梢賢(しょうけん)に飛ばされた呪いの衝撃波は、対象に届く前に霧散した。

 

「──ッ!なんだ!?」
 
 呪詛を返された(けい)の手が赤く爛れる。激痛に顔をしかめて、珪はその術者を探した。
 
「お兄様!」
 
 鈴心(すずね)の希望に満ちた声が響く。
 青い鳥を差し戻し、その肩にとめた皓矢(こうや)が涼やかな顔で言った。
 
「込み入った話の最中に申し訳ない。僕の妹に血を見せる訳にはいかないのでね」
 
 どうやっても格好良くなる皓矢の言動は人智を超えているのかもしれない。(はるか)蕾生(らいお)は「お約束」を見せられた気分でシラーとしていた。
 
「そうか、お前は銀騎(しらき)!」
 
 やっと皓矢の存在に気づいた珪は忌々しいものを見る目で睨みつける。
 しかし皓矢は康乃(やすの)の方へ歩み寄って深々と一礼した。
 
「すみません、ご挨拶が遅れまして。銀騎(しらき)皓矢(こうや)と言います」
 
「貴方が──」
 
「銀騎の、次期当主……」
 
 康乃も墨砥(ぼくと)も唖然として皓矢の姿を凝視する。
 
「元はと言えば、銀騎が眞瀬木(ませき)家のご先祖に(ぬえ)の知識を与えたことが原因です。本当に申し訳ありませんでした」
 
 次いで皓矢は墨砥にも頭を下げた。
 
「更に言えば、銀騎が雨都家を呪ったことで麓紫村(ろくしむら)はここまで複雑な事情を抱えることになった。なんとお詫びしたらいいのか検討もつきません」
 
「銀騎の方、顔をお上げになって」
 
「は……」
 
 康乃は表情を少し緩めて穏やかに言った。
 
「最初のきっかけはそうでも、里の問題を大きくしたのは中の私達です。そうね……人間の業というものかしらね」
 
「恐れ入ります」
 
 殊勝な皓矢の態度に激昂した珪は、左手を振り上げて皓矢に術を飛ばそうとした。
 
「いいや!銀騎が悪い!詫びると言うならとことん詫びてもらおうか!」
 
「──」
 
 だが、皓矢が珪の方を一瞥しただけでその術は珪の顔の前で暴発する。その衝撃で珪は後ろに吹っ飛んだ。
 
「あああっ!」
 
「し、視線だけで──?」
 
 自身が強力な呪術師である瑠深(るみ)は皓矢の力を正確に感じ取り青ざめる。
 
「こわ……」
 
 それを見た永は何もそこまで実力の差を見せつけなくても、と皓矢の意地悪さに引いていた。
 
「くっ、おのれ、銀騎ィィイ!」
 
 このままで終われない珪は歯を食いしばって立ちあがる。その肩をポンと叩く者が突然現れた。
 
「いや、惜しかったですなあ」
 
「──!」
 
 何の前触れもなく、まるで最初からそこにいたような存在感で佇む男に、皓矢は緊張とともに身構えた。
 
「伊藤さん!?」
 
「まさか銀騎の若当主まで出張るとは計算外ですな、珪さん」
 
「う……」
 
 伊藤有宇儀(ゆうぎ)は以前見かけた時と同じ、黒いスーツに黒いハットを被ってにこやかに笑っていた。
 
「仕方ない、我々は手を引きますが──」
 
「そんな!ここまで来て!」
 
「貴方はどうします?」
 
「え?」
 
 まるで捨て犬のような目をした珪に、伊藤はほくそ笑みながら提案する。
 
「一緒に来るなら、歓迎しますよ?」
 
「お、おお……おお!では本当にメシア様はいらっしゃるんですね!?」
 
「──では、参りましょう」
 
 満足気にまた笑って、伊藤は右手で弧を描く。すると空中に真っ暗な穴のようなものが出現した。風がその穴の中に吸い込まれている。珪は躊躇いもせずに喜んでその穴に飛び込んだ。
 
「兄さん!?」
 
「行かせるか!」
 
「動くな!!」
 
 止めようとする瑠深と墨砥は、皓矢の怒号で動きを止めた。永達もここまで険しい表情の皓矢は初めて見る。
 
 その場の全員が緊張で硬直した。
 
「抵抗したら、皆、殺されるぞ……!」
 
 皓矢にここまで言わしめる伊藤の恐ろしさを誰もが感じ取った。
 
「さすがですな」
 
 伊藤はまだニコニコ笑って自らも穴に入った。
 
「さようなら、クズ達」
 
 伊藤とともに、珪も最後に嗤って消えていく。宙に浮かんでいた穴はそこで閉じられた。もはや何の気配もない。
 
「珪兄……ちゃん?」
 
 梢賢は呼んでも応えない姿を探す。もう何処にもいないのに。
 
「あ、ああ、ああああああああ!!」
 
 悲痛な叫びが空しく響く。

 
 
 突きつけられた現実を、誰もがまだ受け入れられずにいた。
 
 地面に落ちていた犀芯の輪(さいしんのわ)は砕けて砂となり、崩れていった。