潜もった(けい)の声が聞こえた。梢賢(しょうけん)(あおい)に覆い被さって身を伏せる。しかし、二人に危害は加えられず、すぐ側で(すみれ)の悲鳴が響いた。
 
「キャアアアア!」
 
「菫さん!?」
 
 驚いて顔を上げると、菫は立膝をついていた。その身体から焦げた匂いがする。
 
灰砥(かいと)様!?何をなさるんです?」
 
 菫は珪に向けてそう呼びかける。梢賢も(はるか)もその名がここで出たことに驚いていた。
 
 珪は眼鏡を整え直してゆっくりと菫に近づいてくる。
 
「困った人だ。いつになったらわかってくれるのか……。僕は珪ですよ、灰砥伯父さんの代わりだって言ったでしょう?」
 
 しかし菫は恐怖に怯えながら地面に手をついた。
 
「灰砥様、申し訳ありません!気に障ったのなら謝ります。ですが、息子の葵はここまで来ましてよ」
 
 もう何処を見ているのかわからない瞳をして菫が言うと、珪はにっこり笑って言った。
 
「ええ、よくやりましたね。メシア様もお喜びになるでしょう」
 
「ああ、灰砥様……」
 
 その言葉に菫が恍惚の表情を見せると、珪は顔を顰めて短く呪文を発する。
 
「──熱波!」
 
「アアアァァァッ!」
 
 珪の呪文とともに、菫がまた悲鳴を上げる。炎など見えないのに菫の身体は焦げていった。電磁波で熱せられた肉塊のようだった。おぞましい匂いが場を埋めていく。
 
「僕は珪だと言っただろう。学習しない女だ。だから寄生虫は嫌なんだ」
 
「申し訳……申し訳ありません……」
 
 吐き捨てる珪の言葉に、菫は地面に伏してブルブルと震えながら謝り続けた。
 
「珪兄ちゃん!もうやめてくれ!酷すぎる!!」
 
 梢賢が叫んで懇願すると、珪は冷たく言い放った。
 
「梢賢、この女の末路はお前にも責がある。お前が甘やかすから図に乗ったんだ」
 
「それは──そうかもしれんけど……」
 
 二の句が告げない梢賢に変わって蕾生(らいお)も永も、鈴心(すずね)でさえも口々に抗議した。
 
「ふざけるな!梢賢はその人を正気に戻そうとしてた!」
 
「そうです、その為に僕らは呼ばれたんだ!」
 
「梢賢は一生懸命やりました!」
 
 三人の姿を憐れむように見てから、珪は溜息をつき静かに言う。
 
鵺人(ぬえびと)の方は黙っててくれませんか。いよいよ最後の詰めなのでね」
 
「え?」
 聞き返した永を無視して、珪は菫に向き直った。
 
「菫」
 
「──」
 
 弱々しく顔を上げる菫に向けて、珪は穏やかな笑みを与える。
 
「今までご苦労だったね」
 
「は──?」
 
「僕はね、お前のような人間が一番嫌いなんだ。働きもせず他人の力で生かされているくせに、自分は特別だから当然だと思い上がる。──虫唾が走るよ」
 
「あ、あの……?」
 
 何を言われているのか、もはや菫には理解できていなかった。それを満足げに眺めて珪はもう一度右手を挙げる。
 
「さあ、己の罪を清算するといい。せめて最期に息子の役に立つことでね」
 
 非情な呪文が紡がれた。
 
「我が視線は(けだもの)を貫く。地に堕ちろ、冷たき(かばね)輝石(きせき)
 
「ヒアアァアァッ!葵……あおい、アオイ、アオ──」
 
 絹を裂くような悲鳴をあげて菫の身体は発光していく。最愛の息子の名を呼びながら、その存在は消えていった。
 
 地面には拳大の紫色の石が転がった。次いで犀芯の輪だけが地に落ちる。菫の姿はどこにもなかった。

「菫さん!?」
 
「──!!」
 
 梢賢の腕の中で、葵はその光景を見ていた。瞳が衝撃に揺れる。
 
「石化の術!?どうしてお前がそれを!?」
 
「呪力の低い僕にはできるはずがない、とお思いですか?お父さん?」
 
 動揺する墨砥に珪は笑いかけた。それは侮蔑の笑いだった。次いで瑠深も震えながら言う。
 
「でたらめよ。その術は遺体や遺骨を永久保存するための秘術。生者にかけるなんてできるはずない!」
 
「やれやれ。瑠深、伝統ばかり教わっていては進歩できないぞ。僕のように既存のものをアップグレードしていかないと時代に置いていかれる」
 
「そんな……それでも、兄さんの実力でできるとは──」
 
 その言葉に顔を顰めた後、ニヤリと笑って珪は得意げに説明を始めた。
 
「可愛い妹のために種明かしをしてあげよう。菫には何年も石化促進の術をかけていた。もうあの体は石になる寸前だったんだ。そういう状態にもっていけば、僕程度の呪力でも実行できるという訳だ」
 
「なんて……卑劣!」
 
 そこまで聞いた永はそう罵らずにはいられなかった。蕾生も怒りを堪えながら拳を強く握りしめる。
 
「お前は……何と言うことを……」
 
 墨砥は現実に打ちのめされて肩を落としていた。珪の策謀に愕然としている。
 
「珪兄ちゃん!菫さんはどうなったんだ!?戻してくれよ、早く!」
 
 おそらくあの紫色の石が菫だろうと思った梢賢が叫ぶと、珪は溜息をついていた。
 
「瑠深の話を聞いていなかったのか、梢賢。石化の術は遺体を保存するためのものだ」
 
「え……」
 
雨辺(うべ)(すみれ)は、死んだんだよ」
 
「──」
 
 その冷たい目には、地に落ちた石ころなどとうに映っていない。梢賢は言葉を失った。
 
「なんてこと……」
 
「そんな……鵺の、鵺の呪いは……こんなにも人を破滅させるのか──」
 
 鈴心も永も、あまりに残酷な結末に打ちひしがれた。その横で、蕾生は己から怒りの感情が湧き上がっていくのを感じていた。
 
「ウソだ……菫さんが死んだなんて、ウソだ……」
 
 首を振ってうわごとのように呟く梢賢に、珪は更に追い討ちをかける。
 
「嘘じゃない。菫は永久に石になったんだよ。お前のその楓石(かえでいし)のようにね」
 
「──!」
 梢賢は胸元に手を置いて衝撃に耐えるように肩を震わせていた。
 
「何ですって……」
 それを聞いていた鈴心も同じように震える。
 
「まさか、楓サンを石に変えたのは──」
 
 永は橙子(とうこ)から聞いた話を思い出していた。
 確か楓は呪いに詳しい人の治療を受けたと言っていた。あの時も眞瀬木のことだろうとは思っていたが、こういう意味もあったのかと思い至る。
 
「おかあ、さん……?」
 
 おぼつかないままだった葵がとうとう口を開いた。梢賢の腕から逃れて地面に転がる紫色の石に近づく。
 
「葵くん!?だめだ!」
 
「お母さん……?」
 
 震える手でその石を取り瞳を揺らすその姿に、珪はまたニヤリと笑った。
 
「まずい!」
 永が危険を叫ぶ。
 
 鵺化の条件。
 対象者が身的あるいは精神的に大きなストレスを抱えた時──
 
「お母さん!お母さん!お母さんッ!!」

 鵺が顕現する。

 
 
「葵く──」
 梢賢の声は届かなかった。
 
 蕾生は自らの経験を元に、これから何が起こるのかを知っていた。白藍牙(はくらんが)を握ってその時に備える。

「葵くん!?」
 
 葵の身体が青く発光した。続いてどこからか黒雲が現れその身体を包んでいく。
 
「黒雲……!」
 
 永はまたも己の無力さを嘆いた。

 
 
「さあ、うつろ神の降臨だ」
 
 珪は邪悪な笑みを浮かべながら、その呪いを迎えるために両手を広げた。