菫と葵は粛々と準備を始めた。
仏壇の扉を開ける。普通ならそこに安置されているはずの位牌はひとつもなく、代わりに小さな仏像が一体置かれていた。
奥に安置されているため暗がりで全貌がよくわからない。合掌しているその姿は観音像に見えるが、どことなく奇異な雰囲気である。その仏像の手に、菫は葵が持ってきた小さな黒い石の輪をかけた。
「じゃあ、貴方達は私の後ろで正座しててね」
「は、はい」
「……」
菫はおりんや香炉が乗った経机の前に、葵とともに正座する。
梢賢も蕾生も黙って従い、これから何が起こるのか緊張は頂点に達していた。
菫は蝋燭に火を灯し、線香を焚いた。その後おりんを鳴らして手を合わせて祈る。葵はその隣でただ祈り続けていた。
一見、一般的な先祖参りの作法に見えた。葵は祈りながら微動だにしなかったが、菫はおりんを鳴らして祈る、という動作を繰り返し行っていた。
二人が何を祈っているのかは梢賢にも蕾生にも窺い知ることはできなかった。経などは一切あげず、親子揃って黙々と祈り続けるだけであった。
せめて経文などが聞ければどんなことを祈っているのかわかるのに、と梢賢は当てが外れた思いだった。
蕾生はこの「修行」の場に藍が姿を見せないことが気になっていた。やはり藍の存在は放棄されているのだろうか。ならばできるだけ急いでこの現状を打破しなければならない。
蝋燭の灯火が揺れる。
ゆらゆらとたまに仏壇の奥が明るくなっては暗くなる。
菫がおりんを鳴らしながら一心に祈っていく。
炎が一瞬だけ大きくなった。仏壇の奥の観音像の顔が見えた気がした。──狒々の顔だった。
「!」
その顔を見た瞬間、蕾生の身体がざわつく。悪寒に似たような、けれど更に酷い、背筋に痛みが走った。
「はい、おしまい」
五分ほど経っただろうか、菫が祈りを止め後ろをにこやかに振り返る。葵も姿勢を直していた。
「もうですか?」
「ええ。これをね、日に五回行うの」
「はあ……そうでっか」
梢賢は少し気の抜けた返事をした。祈りの光景は少し珍しかったものの、何の経文も発されなかったので手掛かりが得られずがっかりしている。
細かい分析は梢賢がしているだろうとふんだ蕾生は、皓矢に頼まれた事を実行しようとした。
「あの、前に聞いた薬って言うのは……?」
「ああ、それはね、夜のお祈りが終わった後。一日の最後にうつろ神様に感謝しながらいただくのよ」
「小さいお札なんでしたっけ……?」
「ええそう。──これよ」
菫は仏壇下部の引き出しから、和紙に包まれた小さな紙の札を取り出して見せた。
「へえ、ほんまに小さい紙のお札ですなあ」
その手元を興味深そうに覗き込む梢賢につられて蕾生もそれを見ようとした時、突然の吐き気に襲われた。
「──!!」
口元を押さえて青ざめる蕾生の異変に気づいた梢賢は慌てて立ち上がる。
「あ、ありがとうございました、菫さん!貴重なもん見せてもろて」
「いいえ。貴方達もいずれやる事ですからね」
菫は満足そうに笑っている。梢賢はその背に蕾生を隠すようにして愛想笑いを返した。
「じゃあ、僕らはこの辺でおいとまさせてもらいます」
「そう?またいつでもいらしてね」
「お、お邪魔しました……」
蕾生は一言言うのが精一杯で、菫の方も、葵の方も省みることが出来ずに玄関を目指した。梢賢もその後をそそくさと追って二人は雨辺家を後にした。
「ふいー。大丈夫か、ライオンくん?」
「う……まだ気持ち悪い」
マンションを出て、ガードレールにもたれながら蕾生は俯いて答えた。
「よっしゃ、冷たいモン買うてきたるわ」
梢賢は数メートル先の自動販売機へ駆けていった。
「うう……」
「ほれ、レモン水」
「サンキュー……」
冷たい水の入ったペットボトルを蕾生は一気に半分ほど飲み干した。レモンの香料が喉を抜けて、気分が楽になっていく。
「ふう……」
「落ち着いたか?」
「ああ、少し……」
「なんや、原因はあの薬か?」
梢賢の問いに、蕾生は菫に見せられた札を思い出しながら言った。
「多分。あのお札に書いてある変な絵を見たら急に──」
その絵は、仏壇の中の観音像とも違う、もっと獣に近い何かだったような気がしていた。
あまり覚えていない蕾生に対して、はっきりと見た梢賢は言い切った。
「あれは、鵺の姿やろな」
「そうだな……」
黒く、禍々しい獣の姿を朧げに感じながら蕾生は深く息を吐いた。
仏壇の扉を開ける。普通ならそこに安置されているはずの位牌はひとつもなく、代わりに小さな仏像が一体置かれていた。
奥に安置されているため暗がりで全貌がよくわからない。合掌しているその姿は観音像に見えるが、どことなく奇異な雰囲気である。その仏像の手に、菫は葵が持ってきた小さな黒い石の輪をかけた。
「じゃあ、貴方達は私の後ろで正座しててね」
「は、はい」
「……」
菫はおりんや香炉が乗った経机の前に、葵とともに正座する。
梢賢も蕾生も黙って従い、これから何が起こるのか緊張は頂点に達していた。
菫は蝋燭に火を灯し、線香を焚いた。その後おりんを鳴らして手を合わせて祈る。葵はその隣でただ祈り続けていた。
一見、一般的な先祖参りの作法に見えた。葵は祈りながら微動だにしなかったが、菫はおりんを鳴らして祈る、という動作を繰り返し行っていた。
二人が何を祈っているのかは梢賢にも蕾生にも窺い知ることはできなかった。経などは一切あげず、親子揃って黙々と祈り続けるだけであった。
せめて経文などが聞ければどんなことを祈っているのかわかるのに、と梢賢は当てが外れた思いだった。
蕾生はこの「修行」の場に藍が姿を見せないことが気になっていた。やはり藍の存在は放棄されているのだろうか。ならばできるだけ急いでこの現状を打破しなければならない。
蝋燭の灯火が揺れる。
ゆらゆらとたまに仏壇の奥が明るくなっては暗くなる。
菫がおりんを鳴らしながら一心に祈っていく。
炎が一瞬だけ大きくなった。仏壇の奥の観音像の顔が見えた気がした。──狒々の顔だった。
「!」
その顔を見た瞬間、蕾生の身体がざわつく。悪寒に似たような、けれど更に酷い、背筋に痛みが走った。
「はい、おしまい」
五分ほど経っただろうか、菫が祈りを止め後ろをにこやかに振り返る。葵も姿勢を直していた。
「もうですか?」
「ええ。これをね、日に五回行うの」
「はあ……そうでっか」
梢賢は少し気の抜けた返事をした。祈りの光景は少し珍しかったものの、何の経文も発されなかったので手掛かりが得られずがっかりしている。
細かい分析は梢賢がしているだろうとふんだ蕾生は、皓矢に頼まれた事を実行しようとした。
「あの、前に聞いた薬って言うのは……?」
「ああ、それはね、夜のお祈りが終わった後。一日の最後にうつろ神様に感謝しながらいただくのよ」
「小さいお札なんでしたっけ……?」
「ええそう。──これよ」
菫は仏壇下部の引き出しから、和紙に包まれた小さな紙の札を取り出して見せた。
「へえ、ほんまに小さい紙のお札ですなあ」
その手元を興味深そうに覗き込む梢賢につられて蕾生もそれを見ようとした時、突然の吐き気に襲われた。
「──!!」
口元を押さえて青ざめる蕾生の異変に気づいた梢賢は慌てて立ち上がる。
「あ、ありがとうございました、菫さん!貴重なもん見せてもろて」
「いいえ。貴方達もいずれやる事ですからね」
菫は満足そうに笑っている。梢賢はその背に蕾生を隠すようにして愛想笑いを返した。
「じゃあ、僕らはこの辺でおいとまさせてもらいます」
「そう?またいつでもいらしてね」
「お、お邪魔しました……」
蕾生は一言言うのが精一杯で、菫の方も、葵の方も省みることが出来ずに玄関を目指した。梢賢もその後をそそくさと追って二人は雨辺家を後にした。
「ふいー。大丈夫か、ライオンくん?」
「う……まだ気持ち悪い」
マンションを出て、ガードレールにもたれながら蕾生は俯いて答えた。
「よっしゃ、冷たいモン買うてきたるわ」
梢賢は数メートル先の自動販売機へ駆けていった。
「うう……」
「ほれ、レモン水」
「サンキュー……」
冷たい水の入ったペットボトルを蕾生は一気に半分ほど飲み干した。レモンの香料が喉を抜けて、気分が楽になっていく。
「ふう……」
「落ち着いたか?」
「ああ、少し……」
「なんや、原因はあの薬か?」
梢賢の問いに、蕾生は菫に見せられた札を思い出しながら言った。
「多分。あのお札に書いてある変な絵を見たら急に──」
その絵は、仏壇の中の観音像とも違う、もっと獣に近い何かだったような気がしていた。
あまり覚えていない蕾生に対して、はっきりと見た梢賢は言い切った。
「あれは、鵺の姿やろな」
「そうだな……」
黒く、禍々しい獣の姿を朧げに感じながら蕾生は深く息を吐いた。