(すみれ)のマンションまでやってきた蕾生(らいお)は大きな溜息を吐いていた。
 
「はあー……」
 
「そんなあからさまに「めんどくせー」みたいな顔すな!」
 
 梢賢(しょうけん)が発破をかけるけれども、蕾生は全くやる気が出なかった。
 
「だってよ、あの女、怖えよ……」
 
「だぁいじょぶ!このオレが一生かけてでも正気に戻したんねん!」
 
 ドンと胸を叩く梢賢を、蕾生は改めて尊敬しようと思った。ただ、見習いたくはない。
 
「……お前のそういうとこ、マジですげえと思う」
 
「オレの愛は器がでかいんや!さあ、行くで!」
 
 威勢よく梢賢がインターホンを鳴らすと、すぐに菫がドアを開けた。
 
「あら、こずえちゃん、いらっしゃい。今日も来てくれたのね」
 
「いやあ、昨日の(あい)ちゃんの様子が気になりましてえ」
 
 蕾生が恐怖すら覚える相手に喜んで会いに来る梢賢は本当に凄いと蕾生は思った。もちろん嫌味的な意味で。
 
「まあ、そのことなら心配ないわ。今日はケロッとしてるもの」
 
「そうでっか、そら良かったですぅ」
 
 鼻の下を伸ばしてデレデレしている梢賢を綺麗に無視して、菫は後ろの蕾生に注目していた。
 
「まあ!蕾生様までいらしてくださったのに、長話してすみません。さ、どうぞどうぞ」
 
 名前呼びに「様」までつけられて、蕾生は度肝を抜かれたが、なんとか平静を見せながら短く挨拶する。
 
「お、おはようございます……」
 
「我慢や、我慢やで!」
 
 だがその嫌悪感は梢賢にはばっちり伝わっており、小声で注意されてしまった。

 
 リビングに入ると、(あい)(あおい)が並んでテーブルの前に座っていた。それを確認した梢賢は嬉しそうに二人に近寄る。
 
「おお、藍ちゃんに葵くんもお揃いで、おはようさん!」
 
「おはようございます……」
 
 葵は少しはにかみながら小声で挨拶をしたが、藍はキツい視線で梢賢を睨んでいた。
 
「葵、そろそろ午前のお勉強の時間よ」
 
「はい」
 
 菫が声をかけると、葵は立ち上がって二人に一礼した後自室へ向かった。藍もまたその後を不機嫌な顔のままついていった。
 
「今日は(はるか)様と鈴心(すずね)様は?御一緒ではありませんの?」
 
 冷たい麦茶を出しながら菫が聞くので、蕾生は何の気なく答えた。
 
「あー、あいつらは村で別の用事があって」
 
「ええ!?」
 
 すると突然豹変した菫は恐ろしい顔で蕾生を見ていた。その事態に蕾生が戸惑っている間に梢賢がすかさずフォローをいれる。
 
「あっ、バカ!あの、大した用事やないですわ。実は鈴心ちゃんが熱中症ぎみで、永くんが看病してるんですわ」
 
 それを聞くと菫はまた穏やかな顔に戻って話し始めた。蕾生はこれでは心臓がもたないと思い、発言は全て梢賢に任せようと思った。
 
「まあ、そうなの?今年も暑いですからねえ。失礼だけど麓紫村(ろくしむら)の医療レベルで大丈夫なの?大事な御身ですのに」
 
「医者が必要な程じゃないですよ!療養すれば大丈夫でしょ」
 
「そうね。使徒様の大切なお体を麓紫村の医者なんかにはそもそもお見せできないわ。あれなら有宇儀(ゆうぎ)様に言いましょうか?」
 
「ああ、いやいや!そんな大袈裟にされたら鈴心ちゃんも困るでしょうから!」
 
 こちらが二人だけと見てチャンスだとでも思ったのか、今日の菫は更に積極的だった。少し焦っているようにも見える。
 
「そう?でも麓紫村は不便じゃない?いくらこずえちゃんが後見人だからって、皆で村にいなくてもいいんじゃない?」
 
「えー……っと、でもほら、うちは寺だから部屋がたくさんあって都合がいいんですよねえ」
 
「そうねえ。うちみたいな小さなマンションじゃあ狭すぎて使徒様に失礼ですからねえ。やっぱり有宇儀様に相談しましょうね!」
 
「いやー、それは、どうなんですかねえ?伊藤さんのお手を煩わせるのもねえ?」
 
 梢賢はかなり健闘している。ぐいぐい来る菫をのらりくらりと交わしていたが、今日の菫の積極性は格別だった。
 
「あら、大丈夫よ。使徒様に快適に過ごしていただくためですもの。有宇儀様ならちゃんとしてくださるわ」

「あの、その伊藤って人なんスけど、どういう人なんデスか?」
 
 仕方なく蕾生が助け舟を出す。話題が変われば儲けものだ。
 
「そうねえ、メシア様に近い、とても上位にいらっしゃる方よ。私達親子を長年援助してくださっているの」
 
「援助?その……生活とかのデスか?」
 
「そうよ。最初から説明しないとわからないわね。私達雨辺(うべ)家はかつてはうつろ神様の一番弟子だったの。昔むかしのお話ね」
 
「はあ……」
 
「でも、雨都(うと)の弾圧にあって麓紫村を追い出されてからは、隣のこの街でひっそりと生きてきた。真摯にうつろ神様を讃えながらね」
 
 思いの外、菫の話は長く続いた。蕾生は興味のある振りをするのが苦痛ではあった。だがきちんと聞いておかないと後で永に報告しなければならないので懸命に耳を傾けた。