「それで?その後は?」
永は続きをせがんだが、梢賢の答えはあっさりしていた。
「後も何もそれっきりよ。菫さんに再会したのはつい最近。高二あたりや」
「どこで?」
「学校の帰りや。オレは高校は高紫やねん。放課後街をぶらぶら歩いてたら、葵くんを連れた菫さんにバッタリ会うた」
「バッタリ……まあいいでしょう、続けて」
鈴心が怪しんだのは当然だが、いちいち止めていてもいられない。続ける梢賢はこの世の終わりのような顔をしていた。
「ショックやった。ただただ、ショックやった。菫さんが結婚して子どもまで産んでたなんてな……」
「それは自然な流れでは」
「五歳の分際で女子大生の恋愛対象になれると思うなよ、図々しい」
「酷い!オレは真剣やったのに!──まあでも、聞いたら離婚したってことでな。急に目の前が明るくなってん」
永の苦笑と蕾生の正論に打ちのめされた梢賢はヨヨヨと泣き崩れたが、すぐに明るい調子を取り戻す。まるで芸人がエピソードトークを披露するかのようだった。
そんな梢賢にゴミを見るような視線を鈴心が投げつける。
「さっきからオレ、鈴心ちゃんにすごい勢いで嫌われてない!?」
「安心してください。元々貴方への好感度は底辺ですから」
「おおう……あかん、目眩が……」
「そういうのいいから、続けて」
にこやかに永に裏回しされ、梢賢は溜息を吐きながら続けた。
「ハル坊も冷たいのう……針のむしろやん。
でな、当時は檀ばあちゃんが死んだばっかりでな。それまでうちの中心やったばあちゃんがのうなってしもうて、なんや家族みんなやる気なくしてなあ。そういう時に菫さんに再会したんよ」
「絶妙のタイミングってことね」
「オレもなあ、ばあちゃんがいない家に帰るのがなんか嫌でなあ。放課後は菫さんの家に入り浸ったもんよ」
シングルマザーの家に入り浸る高校生。なんて気持ち悪い設定だろう。まるで大人の映画だと鈴心が嫌悪をこめながら促した。
「その時に親しくなったんですね」
「そうや。するとなあ、菫さんの本性も見えてくるやろ。鵺をうつろ神なんて呼んで有り難がっとる。
ああ、文献で読んだまんまの人が本当におったんやって寒気がした」
「その頃には雲水一族のことは一通り知ってたんだ?」
永が聞くと梢賢は胸を張って得意になっていた。
「おう。なんせオレは雨都家に百数十年ぶりで産まれた希望の息子やろ。そらもう家では特別扱いよ。子どもがそんな風に育ったら中二病全開やろ。
蔵の文献も中学の間でくまなく読んだったわ!おかげで古文だけ満点やで」
「ちなみに、雨辺が里を出て行った経緯は?」
「あ、だめ。それ言えない」
調子に乗っているので舌の滑りも良くなっているだろうと、永が踏み込んで聞いたが梢賢は意外に冷静でキッパリ断った。
「どうして?」
「さっきのヤツに抵触するんや。父ちゃんの首が飛ぶ」
「──んだよ、使えねえな」
蕾生が文句を言うと、梢賢は笑いながら手を合わせた。
「そこは許して欲しいわ。ざっくり言うと、鵺を過激に信仰したから里を追い出したっちゅーことや。後は堪忍!」
「追い出した──でいいんだね?」
永が目ざとく確認すると、梢賢は素直に頷いた。
「そうや。まあ、眞瀬木とかは雨辺が自ら出て行ったって言うかもしれん。でも雨都の見解は逆や、おおっぴらには言えんけど」
「なら、雨辺は雨都を恨んでいる可能性があるね?」
永が更に踏み込むと、梢賢は真顔でまた頷く。
「菫さんに限って言えば、多分雨都を恨んでる。オレには笑って「雨都の人達はお元気?」なんて言うけど、腹の中は違うやろな」
「貴方、菫に懸想している割にそういう所は冷静ですね」
鈴心が少し関心しながら言うと、梢賢は自嘲するように溜息をついた。
「ああ、せやなあ。ばあちゃんの教育の賜物かもな。鵺、是、忌むべし!って毎日言われとったからなあ。
ほんまかいなって思ったのが文献読んだそもそもの動機やしな」
「ふうん。檀さんのある意味一方的な感情にも左右されず、菫さんの言い分も的確に分析して感情とは別のところで飲み込んでる。梢賢くんはきちんと自分を持ってるんだね」
「少し、意外です」
「すげえな。俺だったらばあちゃんに洗脳されてそうだ」
三人が急に褒め始めたので、梢賢は身震いしながら首を振った。
「ええ、何々!?急に持ち上げても言えないもんはあるんやで!」
「──チッ」
「あぶなー、ハル坊はほんと油断ならないわあ」
失敗に終わった誘導尋問には見切りをつけて、永は話題を戻す。
「わかった。それで、菫さんの危険思想をどうにかしようとはしたの?」
「うーん。オレが再会した時はもうそういうレベルではなかったわ。たまに例の伊藤が来て、菫さんを洗脳してたみたいやし」
「その伊藤が何をしてたかは知らないの?」
「伊藤が来るとオレは帰らされたからなあ。だからオレは逆方向にシフトしてん」
「と言うと?」
鈴心がそう問うと、梢賢は悪戯するような顔で答えた。
「うつろ神に興味があるふりや。オレは雨都の貴重な跡取りやからオレの代になったら便宜図ったる、みたいなことをな、言った」
「菫さんを懐柔しようとしたんだ?」
「懐に入らんと情報が取り出せないからなあ。けど、あんまり成果はない。いいようにはぐらかされて化かし合いの毎日や」
「ふうん。じゃあ、この前菫さんが同じような事を言ってたけど、本心ではないかもしれない?」
一昨日会った情報だけでは雨辺菫は梢賢に丸め込まれているように見えた。
だが今日よくよくその背景などを聞くと、そう単純な話ではないことがわかる。厄介なことこの上ないと永は思った。
「どうやろうなあ。どこまで本気なんかはわからんな」
「一昨日の会話は、見た目ほどのほほんとはしていなかったんですね」
鈴心も考えながら感想を述べる。裏に駆け引きがあったとして一昨日の出来事を思い出していた。
「まあな。オレと菫さんの愛の攻防戦よ!敵対する家同士の男女が愛を育んでいく!これやねん」
だがそんな二人が悩んでいる側で、梢賢は鼻息荒くひん曲がった恋愛観を披露した。
「変わった恋愛だな」
「ふっ、オレの器はでかいねん。彼女の罪ごと愛す!これやねん」
呆れる蕾生の反応も気にせず、梢賢は陶酔していた。
「その攻防戦の起爆剤として僕らが呼ばれた訳か」
「説明ついでに、もう一つ重大なことがあるんやけど」
「何?」
永は少し恐れて身構えた。その予感は当たっていた。
「先に謝っとくわ、すまん!実は菫さんは君らの正体を知ってんねん」
「え!?」
「ていうか、君らの居場所は菫さんから聞いてん!」
「ええっ!?」
「はあ!?」
三人が口々に素っ頓狂な声を上げても、梢賢はヘラヘラと笑って手を合わせるだけだった。
眞瀬木の敷地内に古くみすぼらしい離れ屋がある。珪はその内部を綺麗に整えて事業のための事務所にしていた。
最近はずっとこの離れ屋におり、父の墨砥や妹の瑠深と重要時以外は顔を合わせないことが多くなった。
珪はデスクに向かい、反応しない羅針盤を眺めながら口端に笑みを浮かべていた。
「犀瞳の標を持たずに街に出るとは、ね」
「それだけ雨都梢賢が本気になったということでしょう」
後ろに控えている男がそう言うと、珪は振り返って面白がるように尋ねる。
「ちょっとつつきすぎたかな?」
「珪様も意地が悪うございますからな」
「はは、それは僕にとっては褒め言葉だね」
「恐れ入ります」
男は恭しい態度を崩さなかった。それに満足した珪は男を指差しながら試すように聞く。
「で?我が弟は今日は街で何をすると思う?」
「街で彼がすることはひとつでしょう」
「菫、か」
その名を口に出すのは珪にとっては気持ちの良いものではない。だがまだ彼女には利用価値がある。
「鵺人を伴って、子どもらしい情に訴えた説得でもするのでは」
男が頭を下げながら言うと、珪は顎に手を当てて顔を歪めた。
「ふむ……菫のことだ、絆されたりはしないだろうけど、──邪魔だな」
「では先んじて菫に言い含めまする」
「そうだね。せいぜい梢賢をその美貌で誘惑するようにとね」
「──ご冗談を」
男がフッと笑いかけると、珪はその何倍もの声で笑った。
「ははは。ところで葵の具合はどうだい?」
「順調です。ただひとつ不安があるとすれば──」
「ああ、藍とかいう子か。気にすることもないだろう。どうせ何もできはしない」
「そうですな。葵が近づけば、自ずと必要なくなるでしょう」
しかしすぐに珪は苦虫を噛み潰したような顔で毒を吐いた。
「全く、とんだ甘ったれの坊やだ。菫の教育が悪い」
「これは耳が痛いですな、長年後見してきた身としては」
男は言いながら苦笑していた。葵のことも、珪にとってみればただの道具。珪は少し背筋を正して男に言い含める。
「まあいい。これは千載一遇のチャンスだ。梢賢が生まれ、まんまと鵺人を誘き寄せることができた。ここからは一切のミスは許されないよ」
「もちろん肝に銘じておりまする。では、取り急ぎ」
「ああ、よろしく頼む」
珪の言葉に深く一礼をした男はそのままの体勢で陽炎のように揺らめいてその場から消えた。
椅子に深く座り直した珪は独り笑いながら呟く。
「ふう……もうすぐだ。この目で鵺を──」
デスク上の羅針盤に手の中の平たく黒い石を転がして、珪はこれから起こる素晴らしい出来事に思いを馳せる。
黒い光がコロコロと弄ばれるように不規則な円を描いていた。
珪の部屋からそのまま菫のマンションにやってきた伊藤はしばしそのドアの前で立ち尽くしていた。
「まあ、有宇儀様。突然どうなさったの?」
インターフォンを押さないのに菫はドアを開けてみせた。
それに満足した伊藤はにっこりと微笑む。
「朝早くにすまないね」
「いいえ、とんでもありませんわ。どうぞお入りになって。葵!葵!」
伊藤が菫に続いて居間に入ると、葵が姿勢を正して立っていた。
「……おはようございます」
「おはよう。姉さんはどこかな?」
「あ……」
言われて肩を震わせながら、葵は居間の隅に視線をやる。伊藤もそこを見ると、藍がもの凄い形相で睨んでいた。
「相変わらずのようだね。よろしい。君は姉さんと部屋に行っていなさい」
軽い溜息を吐いて伊藤がそう言うと、藍は葵の手を引いて居間を出ようとする。伊藤に捨て台詞を吐いて。
「バーカ!」
「し、失礼します……」
葵は少し躊躇っていたが、藍に手を引かれるままに二人で居間を出た。
「まあ、葵が何か失礼を?」
お茶を運んできた菫が二人を見送りながら不安を口にする。だが伊藤は穏やかに答えた。
「いいえ。元気そうで何よりですよ」
「そうですか?ならきっといただくお薬のおかげですわね」
「きちんと毎日飲んでいますか?」
菫はパッと顔を明るくした後、恍惚の表情を見せる。
「もちろんですわ。葵に課せられた修行ですもの。日一日とうつろ神様に近づいていると思うと……」
「よく精進なさっているようで安心しました。が、あの小僧が何か画策しているようですね」
突然声の調子を落とした伊藤に、菫は敏感に反応して早口で説明する。
「こずえちゃんのことですね?ご安心ください。あの子には来るたびにうつろ神様の素晴らしさを説いています。
一昨日なんてついに使徒様を三人も連れてきてくれて。私、感激して震えるのを隠すのが大変だったのですよ」
「その使徒ですが、どうも雨都側につきそうな雰囲気でしてね」
「ええっ!?そんなまさか、こずえちゃんからは聞いておりませんよ?」
「私はそこも不安なのですが。雨都梢賢はきちんと洗脳したんですか?」
伊藤がジロリと睨むと、菫は顔色を真っ青にしてその場に土下座した。
「申し訳ありません!まだ少し実家に未練があるようで……。ですが、近いうちに必ずこちら側に来させます、──使徒諸共!」
最後に顔を上げて結んだ菫の言葉は常人では出ないような発音が混ざっていた。
飴と鞭を使い分ける伊藤はまたにっこり笑って屈み、菫の肩を優しく叩く。
「頼みますよ。主は貴女に大変期待しておられる」
「ああ、ゆくゆくはうつろ神様が降臨なされるメシア様ですね!有宇儀様、こずえちゃんを取り込んだらメシア様にお目通りは叶いますか?」
「そうですね、伝えておきましょう。貴女の精進には必ずお応えくださいますよ」
伊藤がそう言うと、菫はまたうっとりとしてうわごとのように呟いた後、焦点を定めて伊藤に宣言した。
「まあ!素敵……。必ずや雨都梢賢を意のままに操って、雨都を葵のものにしてみせます!」
「頑張ってくださいね。では私は失礼します」
「あら、今日は歩いてお帰りなのですか?」
立ち上がって玄関へと向かう伊藤に菫が尋ねると、またにっこり笑って伊藤は答える。
「ええ。最近運動不足でね」
「まあ。お気をつけて」
クスクス笑う母の声を自室で聞いていた葵は、口を結んで虚ろな瞳のまま立ち尽くしていた。
「使徒って何のことだよ!」
珍しく蕾生が怒鳴った。ここが密室のカラオケボックスで救われた。蕾生の図体では恫喝しているように見えるだろう。
「いやー、それがそのー」
その剣幕にすっかり怯んでしまった梢賢は目を泳がせていた。
しかし、鈴心も容赦なく睨む。
「まあ、その設定のこねくり回しは興味深いです。気分は最悪ですけど」
二人の態度よりは柔和だったが、永も白い目を向けていた。
「麓紫村でも僕らのことを別の呼び方してたよね?鵺人だっけ」
「えっ、何故それを!?」
「え?最初に康乃さんが言ってたよ。「初めまして鵺人の皆さん」って」
「おーっほほほぉー」
梢賢はますます目を忙しなく動かして、永から目を逸らす。
「多分、麓紫村では僕ら──鵺の呪いで転生している歴代の僕らをそう呼んで蔑んでるんでしょ」
「うっ!」
「まあ、それは百歩譲って仕方ないよ。雨都の人達には迷惑かけてばっかりだったからね。でも、使徒っていうのはいただけないなあ」
「まるで私達が鵺の手下みたいじゃないですか」
永に続く鈴心はさっきからずっと梢賢を睨んでいる。それにビビりながら梢賢は困った顔で言う。
「菫さんの信じてるうつろ神信仰では、君らはそういう位置付けやねん」
「うーん、見方が変われば地位も変わるってことか。確かに興味深いけど……」
「それよりも、俺達の居場所を雨辺から聞いたってどういうことだよ?」
考え始める永とは対照的に直情型の蕾生はまだぶすたっれて梢賢に訴えた。すると梢賢は手を合わせてペコペコしながら言い訳する。
「すまんって!本当はそれをいの一番に言うべきやった!でも雨辺も知らず、里の事情にも触れてない君らにいきなり言ってもわかってもらえないと思ってえ!」
だがそれはさらに鈴心の怒りを買った。
「ハル様が貴方ごときの考えも理解できないと、今言いましたか?」
「ひいいい、殺さんといて!」
まるで鷲に狙われた蛙。梢賢は部屋の隅に追いやられブルブル震え始めた。
「リン、リン。落ち着きな。梢賢くんの言い分はわかったよ」
「さすがハル坊……!」
慈悲深さを感じて手を合わせたのも束の間、梢賢は今日一番の命の危険を感じ取る。
「じゃあ、もう今すぐ説明できるよね?」
にっこり笑う永の目は氷点下。笑いながら人の命を摘み取る目だ。
「はひっ!」
その右横では蕾生が拳をボキボキ鳴らしている。蕾生の怪力加減がどの程度か梢賢はまだ知らないけれど、確実に骨の数本はもっていかれる予測はついた。
「えーっとな、あれは高三の秋頃やったかな。受験する気もなかったオレは毎日のように菫さんちに入り浸ってた。執拗にオレにうつろ神を説いてくるけど、受け流しながらな」
永の左に控えた鈴心の睨みをチラチラ気にしながら梢賢は続けた。早く言い訳を完遂させないと本当に危ない。
「けんど、良い加減業を煮やしたんやろな、ある日菫さんは切り口を変えてきた。使徒と呼ばれる存在の話や」
「それが俺達だって言うのか?」
蕾生が握ってた拳を開いたので、梢賢は少し落ち着いて語る。
「まあな。流石のオレもその話題には食いついてしもうた。聞けば聞くほど、楓婆や先祖が関わった鵺人と重なる。オレの態度に気を良くした菫さんは、鵺人が遠い都会で転生してるって言ってきおったんや」
「それを信じたの?」
「そうや。オレ自身、君らに興味があったからな。けど菫さんも居場所の詳細はわからないって言うから、オレはすぐ都会の大学に行こうと思った。そこで君らを探そうと思ったんや」
「やっぱりすごい行動力だね……」
感心しながら聞く永の態度が柔らかくなったので、梢賢はやっと安心して少しおちゃらける。
「そっからがマジ地獄よ!勉強なんてしてこなかったツケが一気にきてなあ。思い出すと今でも吐きそうや」
「お前、頑張ったんだな……」
「馬鹿の一念、岩をも通すってやつですね」
勉強嫌いの蕾生も素直に敬意を表し、鈴心も睨むのをやめていた。
「で、なんとか大学に補欠合格できて、みっちり三ヶ月、君らを探してたんや。銀騎研究所周りやろうと睨んでな」
「余裕綽々で現れたから、雨都には僕らの居場所を察知できるツールがあるんだと思ってたよ」
「あるわけ無いやろ、銀騎じゃあるまいし!まあ、あの時はオレもカッコつけたかってん。ミステリアスなイケメン登場ってな!」
すっかり元の調子に戻った梢賢の軽口に、鈴心も蕾生もきょとんとしていた。
「イケメン、とは?」
「格好良かったか?土下座が?」
「酷いっ!」
「しかし、そうなると雨辺菫は本当に怪しいね。どこからそんな情報を?」
一人真面目に考え込んでいる永に、梢賢はあっさり言う。
「多分、例の伊藤やろな」
「伊藤の裏には眞瀬木がいるんだろ?じゃあ、眞瀬木が俺達の居場所を知ってたってことか?」
蕾生の質問に、梢賢は首を捻りながら答えた。
「いや、そこはオレも不思議でな。君らがここに来た日、一度足止めくったやろ?あの晩、藤生でオレはこっぴどく大人達に叱られたんやけど、眞瀬木のおっちゃんも君らの正体は知ったばかりみたいだったんよ。ただ──」
「私達の正体を隠して村に入れようとしてたんですか?」
「無謀だな……」
鈴心も蕾生も梢賢の言葉を遮ってまで呆れていた。
「んんん、まあそこはご愛嬌やで。その晩にきっちり説明したから、翌朝迎えにいけたやん。ただ、君らの正体を康乃様にバラしたのは珪兄やんなんよ」
珪の名前が出ると、永もさらに真面目な顔で眉を寄せていた。
「オレが都会の大学に入ったことを不審に思ったらしくて、オレを監視してたんやて。それでオレが君らと会ったのを知ったって言ってたな」
「それ、そのまま信じてるの?」
「いや、さすがにオレも疑ってるよ。けど、そしたら珪兄やんの何もかもを疑わないといけない。子どもの頃から兄貴みたいに慕ってた人を、オレはそこまでできん」
梢賢の言い分は鈴心には充分理解できた。鈴心も以前皓矢に対して似たような感情だったからだ。
「でも、君は僕に言ったよね?眞瀬木珪を信用するなって」
「だからや。オレは身内を百パー疑える自信がない。だからオレの代わりにハル坊の冷静な視点で疑って欲しいんや」
その梢賢の言葉は今の彼の現状を的確に表現していた。村での梢賢の微妙な立ち位置が、実際に村に入って見ているから永にはすぐに理解できた。
「ああ、そういうことか。君が僕らを頼った本当の理由がわかった気がする」
村の事情、雨都の立場、それから梢賢自身の運命。それを永は思いやった。
「共に育った人を、故郷を疑わなければならなくなった……頭ではわかっていても心がついていきませんよね」
「あれは、そういうSOSだったんだな……」
鈴心も蕾生もここまで聞いてやっと慮ることができた。おちゃらけながら村を雨辺をと忙しなく三人に見せたのはその現状を感じて欲しかったのだと理解できた。
「梢賢くんは今まで孤独な戦いをしてたんだね、大変だったでしょう」
「ええ?いきなりの理解!」
真面目な雰囲気が苦手な梢賢は変わらずおちゃらけていた。
「戯けなくてはやってられなかったんですね」
「こそばゆい!」
「よし、わかった。これからは俺たちが力になる」
無条件で信じてくれたのは自分が雨都だからだろうか?梢賢は祖先達と彼らの絆を初めて実感した。
「ほんまに君らはもう、人が良すぎやで」
梢賢ははにかんでそう言うのが精一杯だった。けれど気持ちは伝わっている。
ほのぼのとした雰囲気の中を打ち消すように、けたたましいベルが鳴った。梢賢の電話だった。
「ピッ!なんやええところで──あ」
慌ててポケットから取り出して画面を確認したら梢賢はそのまま固まった。
「誰?」
「噂をすれば……菫さんや」
「全くもう、菫さんてば急に会いたいなんて、ちょうど街にいたからいいものをぅ!」
カラオケボックスを後にした四人は菫のマンションへ向かっている。梢賢は電話を受けてから顔が緩みっぱなしだった。
「締まりのない顔ですね……」
「僕らも一緒でいいのかな?」
鈴心が呆れ、永が不審に思っていても、梢賢は体をくねくねさせて舞うように歩いていく。
「て言うか、使徒様も一緒に連れてきて欲しいわーん、やて。甘え上手やなあ、ウヘヘヘ」
「ほんとにそんな語尾で言ったのか?」
蕾生のツッコミも、梢賢には聞こえていない。
「それにしても菫は梢賢が街に来てることを知ってたんでしょうか」
「さあ。たとえ村にいたとしても、あの梢賢くんの調子じゃあ自分が呼べばすぐ街に来るってわかってるんじゃない?」
「なるほど……確かに空でも歩きそうな勢いです」
鈴心はまた梢賢に引き始めている。
永はそんな浮かれ調子の梢賢のシャツを掴んで正気に戻そうと試みた。
「ねえ、梢賢くん。一昨日は僕らは君の友達として行ったけど、菫さんは僕らが使徒だってわかってたんでしょ」
「ん?そうや。一昨日の設定では、オレが使徒様をうまく騙くらかして里に呼んだから、とりあえず初対面かつ正体も知らないていで会って見定めて欲しいって言ってあってん」
「随分とまわりくどい事をしましたね……」
呆れ続ける鈴心に弁解するその顔はまだニヤけていた。
「菫さんの反応を見るためや。それにできるだけフラットな状態の彼女を君らに見て欲しかってん」
「あれでフラットだったのか?」
「おお、もちろん。上出来な方やったなあ」
一昨日の菫の様子はただのシングルマザーにはとても見えない異常ぶりだった。それを思い出していた蕾生は、あれがマシならこれから会う菫はどれだけトンでいるのか空恐ろしくなった。
「彼女が僕らを見定めた結果、反応はあったの?」
「その日の夜にメールが来たで。使徒様にお会いできて感激だったって」
「へ、へえ……」
永も蕾生と同様に、不安を隠せなかった。
「まだ子どものうちに雨辺側に引き入れましょって。だからまた近いうちに連れてきて欲しいわーん、て」
「だから語尾……」
「それで電話が来たんですね。一日経ったのに連れてこないから」
「かもなあ。菫さんはせっかちさんやからなあ」
蕾生と鈴心の言葉もどこか上の空で浮き足立っている梢賢に、永は今度は襟足を引っ張って確認した。
「それで?今日は僕らはどんな設定で会えばいいの?」
「うん。素のままの君らでええで。ただ、前世だの呪いだのっていう基礎知識は持ってないふりしてくれる?」
「何故です?」
「詳しくは教えてもらえてないねんけど、うつろ神信仰の中での使徒っちゅうのはな、無垢な存在みたいなんや」
「無垢……」
その意味を永は思考しようと試みるが、暑さと梢賢の浮かれモードのせいでうまく考えがまとまらない。
「そう。条件次第で黒にも白にも染まる存在や。そんな君らを手中に収めた者にうつろ神が降臨するって言われとるらしい」
「私達は道具扱いですか……」
鈴心の呟きは的を射ているように思えた。だとすればこれから永達は菫に下の存在として見られる可能性がある。少し気に食わないが情報を引き出すためには仕方ないか、と永は息を吐いた。
「じゃあ、僕らは全員ライくんになれば良いって事だね」
「おい、俺がバカだってことか?」
蕾生はこの手の話題にだけ鋭敏な反応を示す。
「せやな。ライオンくんくらい白紙な感じがちょうどいいかもしれん」
「難しそうですね、ハル様の溢れる知性を抑えるなんて」
「おい、クソガキ」
不服そうな蕾生を宥めながら永はわかりやすくそうする目的を悟らせようとした。
「まあまあ。つまり僕らが何にも知らない態度を取れば、ここぞとばかりに洗脳しようとするって事でしょ?」
「ああ。それをオレは狙ってん。君らのバカさ加減では菫さんからかなりの情報が引き出せるかもしれんで」
それでも蕾生は不貞腐れていた。
「うつろ神信仰の全容が掴めるかもしれませんね」
「おう。だから頼んだで、皆──」
鈴心が歩くのを制して梢賢は突然真面目な顔を見せた。その視線は逆方向から歩いてくる人物に向けられている。
背の高い男性だった。夏なのに黒いハイブランドのスーツ姿で、黒いハットを被っている。
「──!」
その姿を見た途端、鈴心は体を強張らせた。その様子を見て永も緊張を高める。蕾生はあまりよくわかっておらず、二人が緊張しているので黙って様子を窺っていた。
スーツ姿の男が四人に近づき、梢賢を一瞥だけして通り過ぎる。表情は読めなかったが、顔から年齢を重ねていることだけがわかった。
「今のが伊藤や」
男が数メートル歩いた先で角を曲がってから梢賢が緊張を孕んだ声で言った。永はとりあえず見た目の評価しかできなかった。
「まじ、イケおじじゃん……」
隣で震える鈴心に蕾生が声をかけたので、永もそちらに注目する。
「鈴心、どうした?」
「リン?大丈夫か?」
「あ、大丈夫、です。ちょっと迫力に呑まれそうに……」
鈴心の顔色は真っ青だった。その反応をそのまま信じる永も息を呑んだ。
「確かにただ者じゃなさそうだ」
「俺は、よくわかんなかった」
一人首を傾げる蕾生を見て、梢賢も複雑な顔をしている。
「君らの感知能力はかなりバラつきがあるんやね」
「そうかも。あんまり気にしたことなかったけど」
「そういうの、気にした方がええで。何があるかわからんからな」
「うん。今後は気をつけるよ」
永は頭で考えるだけではどうにもならない事態がこれからは増えるだろうことに気を引き締めた。
「向こうから歩いてきたってことは、雨辺の家に行ってたのかな?」
「そうやろな。急に菫さんから電話が来るなんておかしいと思ったら、あいつの差し金やったんか」
「伊藤に入れ知恵されてるってこと?」
「ああ。こらいっそう気が抜けんな」
「そうだね」
永は改めていつでも一触即発の状態であることを実感する。鈴心は不安でいっそう顔を曇らせた。蕾生もまた、二人の様子を見て緊張していた。
マンションまでやってきた四人がインターホンを鳴らすと、菫が直ぐに出迎えた。
「こずえちゃんいらっしゃい。急にごめんなさいねえ」
その表情は明るく、快活としていた。
「いいええ、ちょうど街におったから!」
対してヘラヘラ笑っている梢賢に微笑みかけた後、菫は永達を招き入れる。
「使徒の皆様もようこそお越しくださいました。どうぞお入りになって」
開口一番にその単語が出るとは、菫は一昨日は猿芝居だったことをを先んじて言ったようなものだ。
永は先手を取られて苦々しく思ったけれども、顔には出さずに愛想良く返事した。
「あ、お邪魔します……」
蕾生と鈴心も続いて部屋に入る。居間では藍と葵がソファに座っていた。
「おお、葵くん!藍ちゃんも今日はお揃いで」
「こ、こんにちは」
「また来たのか。クソ間男が」
葵は控えめに挨拶し、藍は一昨日と同じく梢賢に辛辣な言葉を吐く。
「だからあ、間男やないって言うてるでしょうがっ」
「フン!」
「ムムム……」
藍と梢賢が睨み合っていると、お茶を運んできた菫がのんびりとした口調で言った。
「葵?使徒様達に失礼な事言ったらだめよ」
「え?ぼ、僕……」
葵は戸惑っているが、菫は藍の方を見向きもしない。梢賢は慌てて戯けてみせた。
「ええんですわ、菫さん。これも藍ちゃんとのコミュニケーションのひとつですわ」
「本当に困った子ね。だからいっそう精進しなさいって有宇儀様に言われるのよ」
「ゆうぎ?」
「ああ、こずえちゃんは会ったことなかったかしら?私達の後見をしてくださってる方よ。伊藤有宇儀様とおっしゃるの」
饒舌な菫の態度を永は不審な思いで見ていた。梢賢の話では伊藤という男のことはそれまで名前すらも教えていなかったはずだ。それなのに今日いきなりこんなに喋るなんて。
それを感じるよりも、梢賢は突然の名前呼びに動揺を隠せなかった。
「あ、へー、そうなんですかあ。し、下の名前で呼ばはってるなんて、と、特別な人なんかなあ……?」
「あら、そうじゃないわ。あの方は私なんか手の届かないほど上にいるお方なのよ。それに、どちらかと言えば、私は年下の方が好きなの」
少し上目遣いで梢賢に猫撫で声で話す菫は一昨日見た彼女よりもしたたかさを感じる。しかし梢賢は真っ赤になって喜んでいるだけだった。
「えっ!ああ、そうでっかあ!へへへえ、そうなんですねえ」
その様子に鈴心はドン引きしていた。バカ丸出しの顔が本当に気持ち悪いと言う目をしている。
永も転がされている梢賢の姿に呆れていた。
「あらいけない。話題が逸れちゃうわね。お茶でもどうぞ」
にこにこ微笑みながら四人と葵に麦茶を菫は差し出す。藍の分はなかった。
「……」
人前で堂々と娘を無視する菫の姿に蕾生はやるせない怒りを募らせる。他の皆も気づいているはずなのにそれを指摘できる勇気のある者はいなかった。
「先日はごめんなさいね。使徒様が来てくださったのに、知らないふりなんかして」
菫が醸し出す雰囲気は他人からの苦言等が一切耳に入らないようなものだったからだ。菫はどこを見ているのだろう。永に話しかけてはいるけれど、永のことは見えていないようで、自己倒錯の世界に入り込んでいるのではないかと思えた。
「いえ、えっと、事情があったとか……」
「と言うか、本当に烏滸がましいんだけど、貴方方を見定めさせてもらっていたの。うつろ神様の使徒たる資格があるかをね」
「は、はあ……」
「大丈夫。結果は合格よ。三人ともとっても素直そうな良い子なんですもの!」
朗らかな笑顔で言い切った菫。その上から目線な物言いに鈴心は心の中で怒り、蕾生はますます嫌悪感を抱く。
そんな二人を矢面には出すまいと、永は必死で愛想笑いを浮かべていた。
「それで、貴方方は御自分の宿命についてどれほど御存じ?」
「いえ、僕らは梢賢くんに集められただけで、まだよくわからなくて」
「まあ、そうなの。まだ覚醒されてないのね」
「覚醒?」
鈴心が眉を顰めたまま聞くが、菫は笑顔を崩さずに言った。
「ええ。使徒様は御自分の宿命に気づいた時、覚醒して上位の存在におなりになるの。貴方方はそのひよこってトコかしらね」
「上位の存在って何ですか?」
「それは使徒様それぞれで違うようだけど、私達とは全く別の高次元の存在よ。修行を始めればじきに覚醒されると思うわ」
永が具体的に質問してみても、その答えに具体性はない。菫の話は抽象的過ぎる。鵺、もとい、うつろ神信仰の全容がまるで見えてこないことに一同は少しずつ焦れていった。
「修行……ですか?」
「どんなことするんだ?」
「んー、それは有宇儀様の指示がないと何とも言えないわね。でもおそらく貴方方にもお薬が処方されるはずよ」
「く、薬ッ!?」
鈴心と蕾生が代わる代わる聞いてみても結果は同じだったが、その後の菫の発言に一同は驚愕した。
「大丈夫。便宜的にお薬って言ってるだけで、危険なものじゃないわ。これくらいのね、お札を飲むのよ」
親指と人差し指で一センチほどの隙間を作ってその大きさを表現しながら菫は笑う。
しかし鈴心には到底受け入れられることではなかった。
「な、なんですか、それは?」
「私達の頂点にはね、メシア様という方がおられるの。メシア様はうつろ神様が降臨される時にはその器となるお方。その方が毎日祈りを捧げられたお札をね、有宇儀様が持ってきてくださるの」
「そんなの飲んで大丈夫なのか?」
蕾生が疑心を言うと、梢賢はまずい、と肩を震わせる。
「そうね、不安になるのはわかるわ。でも最初だけよ。メシア様のお力を体に蓄えることで、素晴らしい力に目覚めると思うわ」
「……」
猜疑の目を向ける蕾生に梢賢は人知れず焦った。そんな態度をとって菫が不機嫌になったらと思うと気が気でない。だが、その心配は無用だったようだ。菫のご機嫌なお喋りは続く。
「実はね、私の息子の葵も貴方方と同じく使徒様のひよこなのよ」
「ええっ!」
永の驚きを好意的にとった菫はさらにウキウキした調子で息子を見ながら言った。
「葵はお薬を飲み始めて随分経つけど、健康そのもの。むしろ日々力が増してるわ。貴方方の先輩なのよ」
そんな母の言葉に、葵は暗い表情で俯き、藍は睨みながら葵の手を握っていた。
「なんだかすごい世界ですねえ」
永はそう言うしかなかった。何か反論でもしようものならきっと恐ろしい事が起こる、と直感していた。
「大丈夫!私が一生懸命サポートさせていただくわ、一緒に頑張りましょうね!」
鈴心も蕾生も永を見習って薄ら笑うだけに留める。
「こずえちゃんは、この方達の後見人として有宇儀様に報告しておくわ。これからはずっと一緒に頑張りましょう!ね!」
「あ、あはは、よろしく頼んます……」
梢賢も同様に愛想笑いしていると、菫はあらぬ方向を見ながらうっとりして言った。
「ああ、今日は素晴らしい日だわ!使徒様がこんなに増えるなんて、雨辺家の未来は明るいわね!」
ここまでイッてしまっている者をどうやって正気に戻せばいいのか?永はそれが途方もないことに思えた。
皆が二の句が告げなくなっていると、小さくも侮蔑を孕んだ声で藍が呟く。
「バカじゃないの?」
「──え?」
ぐる、と急に首を回して菫は地獄の底から聞こえるような低い声でようやく藍の方を振り返った。
「そんな神様いるわけないじゃん!葵はあのお札のせいで毎日苦しんでる!それを修行なんて言ってお母さんは見ないフリして!」
しかし藍はそんな雰囲気にも構わずまくしたてた。菫は恐ろしい顔で黙って聞いている。
「葵だけじゃなくて、おバカな子ども四人も丸め込んで責任とれるの!?この人達の保護者に訴えられたら終わりなんだよ!?」
怒りに任せて訴える藍の言葉に、菫はワナワナと震え出す。堪らず梢賢が割って入った。
「あ、藍ちゃん、ちょっと落ち着こうな?な?」
「うるさい!間男!お前もお母さんを上手くのっけて調子に乗らせて!お前なんか来なければこんな事にならなかった!」
「う……」
押し黙ってしまった梢賢にも構わず、藍は耳を塞いで泣き叫ぶ。
「もう嫌!もう沢山!葵、行くよ!こんな家、いたくない!」
「お、お姉ちゃん!?」
藍は葵の手を引いて、そのまま玄関を飛び出してしまった。パタパタと走る足音が遠ざかる。
「葵!?」
菫は悲鳴を上げんばかりの動揺を見せる。梢賢はすぐさま立ち上がった。
「皆、追うで!」
永達も頷いて立ち上がったが、それよりも早く菫は息子の名前を呼びながら玄関に向かっていた。
「葵!葵!」
「菫さんはここで待っとってください、オレ達が連れ戻します!」
咄嗟に梢賢が止めるけれど、菫は半狂乱で叫んだ。
「嫌よ!葵は私の息子よ!私がいなければ葵はだめなのよ!」
「菫さん!!」
梢賢は大声を張り上げ、菫の肩を掴んだ。
「悪いけど、菫さんに反抗して藍ちゃんは出ていったんです。だから菫さんはいかない方がいい。オレ達がうまく宥めますから!」
すると少し弱気になった菫はその場で止まって梢賢に懇願した。唇がフルフルと震えていた。
「ああ……わ、わかったわ。こずえちゃん、葵のことお願いね」
「藍ちゃんの話もちゃんと聞いてきます」
「……」
「行くで、皆!」
菫を玄関に残して、梢賢の号令とともに四人はマンションを出た。
「子どもの足じゃ遠くまでは行けないと思いますけど、もう姿がありませんね」
街並みを走りながら鈴心が言うと、梢賢には明確な目的地があるようで、目指す方向を示しながら走る速度を緩めた。
「多分、街外れの公園やと思うわ。あの子らも頭を冷やす時間がいるやろ。少し緩く走るで」
「わかった。しかし、ここまでの事態になってるとはね」
「常軌を逸してるぞ、こんなん」
永と蕾生の遠慮のない言葉に、梢賢は悔しそうに歯噛みしていた。
「オレが迂闊やった。まさかこんなに闇が濃くなってるなんて……」
ゆっくり走る四人の頭上には厳しい日差しが当たり続けていた。
四人がゆっくり走って十分もすると小さな公園についた。象を形どった遊具の中に藍と葵は身を寄せ合って座り込んでいた。
「……」
「お姉ちゃん、だいじょうぶ?」
涙目でうずくまる藍に、葵はその頭を撫でて気遣った。藍は目元を手で拭きながら強がっている。
「うん。ごめんね、あたしがしっかりしないといけないのに」
ふるふると頭を振っている葵に、藍は精一杯の笑顔で答える。
「葵、あたしが絶対守ってあげるからね」
「うん、お姉ちゃん」
そんな二人の会話に割り込んだのは梢賢の首だった。
「おお、おったおった。良かったわあ」
「!」
遊具を無遠慮に覗き込んだ梢賢はその顔にグーパンチをくらう。
「イテ!うーん、藍ちゃん、ナイスパンチやで」
「そんなこと一ミリも思ってないくせに!キモいんだよ!!」
「ガーン!」
少し遅れた永達がそこに近づくと、梢賢がよろめいていた。
「どしたの、梢賢くん?」
「うう……心が、心に穴があいてん……」
わざとらしい演技の真似を放っておいて、鈴心がしゃがんで藍と葵に声をかけた。
「あんな親で災難ですね。少しお話ししません?」
「あんた達、お母さんの手下じゃないの?」
藍が葵を守りながら言うと、鈴心はにっこり笑って答える。
「まさか。油断させて情報を聞こうとしていただけです。こちらの周防永様はきっと貴女の力になってくれますよ」
突然紹介されたので咄嗟にうまい言葉が出ず、永は少し屈んで挨拶した。
「はは、どうもー」
「……笑顔が胡散臭い」
「ガーン!」
今度は永がオーバーリアクションをする番になり、蕾生がつっこんだ。
「どうした永?」
「うう……純真な子どもに言われると堪える……」
「うふふ、お兄ちゃん達面白い」
梢賢と永のコミカルな動きが功を奏して、葵はクスクス笑っていた。その反応に藍が態度を軟化させて答えた。
「まあ、少しなら話してもいいけど」
「良かった。じゃあ、ベンチに移動しましょう。木陰があります。ライ、何かジュース買ってきてください」
「おう」
言われた蕾生はすぐ近くの自動販売機に駆けていった。その間に鈴心は二人をベンチに誘導する。一緒に腰掛け、梢賢と永はその脇で立つことにした。
間もなく蕾生が両手にジュースを持って帰ってきた。
「コーラとオレンジジュース、どっちがいい」
「葵は炭酸飲めないから、あたしがコーラ飲む」
「ん」
二人にジュースを渡すとすぐに蓋を開けてゴクゴクと飲み始める。真夏の炎天下を走ってきたのだから当然のことだが、葵は殊更感動するように飲んでいた。
「お、おいひい……」
「なんだよ、大袈裟だな」
「大袈裟じゃない。うちにこんな甘い飲み物ない。こんなに冷たいのも」
藍の言葉に改めて永は菫の異常性を感じている。二人が落ち着くのを待って、鈴心が話しかけた。
「藍ちゃん、お母さんがああなってしまったのはいつからですか?」
「そんなのわかんない。お母さんはずっとああだから」
「相当だな」
蕾生の吐き捨てた感想を鈴心はひと睨みで制して、また藍に向き直る。
「それでは、今日みたいにうっとりするような感じになるのは?」
「時々。伊藤のおじさんが来た時とか」
「この梢賢が来た時は、お母さんはどんな感じですか?」
「えっ」
梢賢は肩を震わせて何かを期待している。そんな姿に冷ややかな視線を送った後、藍は淡々と言った。
「別に。今日こそしょうけんをかんらくするわって意気込んでる」
「──」
放心してしまった梢賢の肩を永が叩いて慰めた。
「オツカレ」
だが、心の中は爆笑している。
「葵くんはいつからお札を飲んでるんですか?」
「え、えっと……」
鈴心が今度は葵に尋ねると、葵はうまく言葉が出ず、代わりに藍がスラスラと説明する。
「二年前。そいつがうちに来るようになって、そしたら伊藤のおじさんが新しい修行だよって持ってきた」
「二年間、毎日?」
「うん」
「藍ちゃん、君は飲んでるの?」
永が聞くと、藍は少し俯いて首を振った。
「あたしは──飲んでない。お母さんには無視されてるから」
その反応を見て、鈴心は少し躊躇いながら言葉を選びながら尋ねてみた。
「あの、違ってたらすみません。今日着ている服、一昨日も着てましたよね?一日あれば洗濯して乾くとは思うんですが……」
「お洋服はこれしか持ってない」
「──」
藍の回答に、さすがの鈴心も言葉を失っていた。
「おい、永……」
「うん。これはかなり深刻だ」
重度の育児放棄を連想した蕾生と永を他所に、梢賢が会話に割って入る。
「藍ちゃんよ。君の状況はわかった。けんど、今の所君らは菫さんと暮らすしかない。わかるな?」
「ちょ、梢賢!」
戸惑う鈴心を制して梢賢は藍に顔を近づけ瞳を見据えて言う。
「もうちょっとだけ我慢してくれるか?菫さんはオレ達が必ずなんとかする」
「そんなの信じない」
「できるだけ早く菫さんが正気に戻るように、オレ達が頑張るから」
「……」
疑惑の眼差しを続ける藍に、梢賢も少し力を抜いて本音で接した。
「まあ、そら何ともならんかもしれん。そん時は、君らはオレの家に来たらええ」
「お母さんは、どうなるの?」
葵が純真な顔で聞くのに梢賢は少し心を痛めた。本当に最悪の場合は言える訳がない。優しい嘘が正しいかなんてわからない。けれど梢賢は今はそうするしかなかった。
「そうやな、菫さんも一緒に来たらええよ。優しい普通のお母さんになってな」
「お前を父親とは認めないぞ」
「ええっ!?やだ!そういう意味じゃないのにっ」
藍に言われた言葉に梢賢は努めてコミカルに照れた。その気持ちが伝わったのか、藍も渋々と頷いた。
「まあ、考えてやってもいい」
「そうか、あんがと。絶対に助けるからな」
藍と葵の頭に手をおいて笑ってみせる梢賢の姿は健気だった。永達は改めて梢賢の胸の内を思いやる。
「よし、じゃあ送ったるから帰ろ。一緒に謝ったる」
「あたしは悪いことなんかしてない」
「わかったわかった。オレが謝ったるから」
藍と梢賢のやり取りの中、永の携帯電話が軽快な呼び音を立てた。
「うん?」
「どうした永?」
「皓矢からメッセージだ。調べがついたから電話して欲しいって」
「おう、ちょうどええわ。オレは二人を送って、ルミ御所望のタルト買ってくるわ。その間に電話したらええ」
梢賢は既に藍と葵と手を繋いでいた。
「いいの?」
「里では出来んやろ。オレもいない方がよさそうやしな」
「わかった。じゃあ、後で」
「おう、後でな」
そうして梢賢は二人の手を引いて公園から出て行った。
永が皓矢に電話をかけるとすぐに繋がった。動画通話に切り替えて、その画面を三人で覗き込む。
「ああ、早かったね。大丈夫なのかい?」
画面の向こうの皓矢は本棚を背に映っていた。薄暗いのでおそらく研究所の書庫だろう。
「うん。今公園なんだけど、周りは誰もいないし、念のため梢賢くんは外してもらった」
「そうか。それなら話しやすい」
「そう言えば、ホテルのことはいろいろ、あ、ありがとな」
永は珍しく小声で呟いた。銀騎に対しては下手に出たくない意地があるので素直になれないんだな、と蕾生は思った。
皓矢の方もそれを充分察しているので苦笑しながら頷く。
「どういたしまして。不自由はないかい?」
「大丈夫です、お兄様」
鈴心が少し身を乗り出して返事をすると、皓矢もにっこりと笑った。
「やあ、鈴心。元気そうだね」
「はい。おかげさまで」
その声を聞きつけたのか、最初からいたのかはわからないが突然星弥の顔が画面に飛び込んできた。
「すずちゃーん!!」
その弩級の大声は永と蕾生の鼓膜をつんざいた。
「せ、星弥……」
「すずちゃん、そっちはどうなの!?暑いんじゃないの!?熱中症は大丈夫なの!?」
鈴心に関する星弥に洞察の鋭さに永も蕾生も少し怖くなった。鈴心はその剣幕に押されて少し口篭っている。
「ええっと、昨日少しアレでしたが、今日はもう慣れました」
「ええ!?気をつけてよ、もう!蕾生くんっ!わたし言ったよねっ!?」
「も、申し訳ない」
とばっちりだったが、星弥の雰囲気に逆らえず蕾生は思わず謝った。
「すずちゃんもすずちゃんだよ!毎日電話してって言ったのに、兄さんにばっかり電話してずるいったらない!」
「ハル様、あれは気にせずお兄様と会話してください」
ついに鈴心は永の後ろに引っ込んだ。しかし星弥の方は更に画面に近づいてどアップで迫る。
「あ、ちょっと、すずちゃん?すずちゃーん!」
その変態性が更に増しているので蕾生もつい一歩後ずさる。画面の奥から皓矢の溜息と呟きが聞こえた。
「ルリカ」
するとその声に反応して青い大きな鳥が甲高い声とともに現れた。鳥は星弥の首根っこを嘴で掴んで部屋の奥へ引きずっていった。
「あっ、ちょっと、ルリちゃん、待って!もう少しだけえぇぇ……」
「その鳥──」
何度か見たことはあったけれど、皓矢が何かを攻撃したり守ったりする以外にも出てくるのかと蕾生は驚いた。
「ああ、そういえば色々忙しくてきちんと紹介してなかったね。あの子は瑠璃烏と言う僕の式神だ。気軽にルリカと呼んでるけどね。今は修行中の星弥のお目付役をさせている」
「そうか。まあ元気そうで良かった」
蕾生にはその形容しか穏便に言えることがなかった。
「星弥も修行がだいぶキツくてね。ストレスが溜まってあんなことに」
「いやあ、元からだよねえ」
遠慮しない永は星弥のあれがストレスからではないことをはっきり言う。星弥は陰陽師の修行をするためについてこなかったので、蕾生は一応その進捗を気にした。
「皓矢……サンが、修行をつけてるンスか?」
「最初はそのつもりだったけど、僕は妹を甘やかしてしまうようでね。僕の師匠にそれがばれて、今は師匠に指導してもらっているよ。師匠は厳しいから、ストレスが溜まって……」
困ったように笑いながら言う皓矢に永はもう一度言い切った。
「だから、元からだって」
「まあ、その辺は帰ったら教えてあげよう。本題に入るけどいいかな?」
「もちろん。何かわかった?」
堂々巡りになりそうな雑談から脱して、皓矢は少し真面目な顔に戻して話し始める。
「そうだね、お尋ねの眞瀬木という呪術師とうちに接点があるかだけど、結論から言えばあった」
「へえ!」
「銀騎はどこにでも出てくるな」
予想はついていたが、自分達の周りに必ずいる銀騎の存在に永も蕾生も改めて驚いていた。
「ははは、申し訳ない。あったと言っても、かなり昔の話だ。ざっと二百五十年前の記録に少しだけね」
「そんな前かよ」
「当時は陰陽師という稼業そのものが衰退していてね、それを打破するべく銀騎朝詮という人が身内以外にも術者を募ったんだ」
「銀騎朝詮って、おたくの開祖でしょ?」
永が確認すると、皓矢も大きく頷いた。
「そう。お祖父様が尊敬してやまない偉大な先祖だ。尤も、銀騎という字に改めてからのことだけどね」
「改名したってことか?」
「そうだね。それ以前は違う漢字を充てていたんだけど、師羅鬼幽保──元々の朝詮の名前なんだけど、彼が改革して身内以外にも全国から有力な術者を集めたんだ」
「へえ……」
永がそれを初めて聞くような感じで聞いているので皓矢は首を傾げながら尋ねる。
「永くんは覚えていないかい?」
「そんな昔のことは鮮明にはわかんないな。もっと前から陰陽師には狙われてたけど、そいつの名前なんて興味なかったし。銀騎って言う名前も知ったのは最近な気がしてる」
永の記憶力のセーブについては梢賢から言われていたので、蕾生はそんなものだろうと思っていた。
「そうか。確かに君達から見ればうちはいつも胡散臭い奴らだったろうからね。
で、師羅鬼幽保は身内と有力な術者をまとめて陰陽師集団・銀騎を作った。それが今でも続いている我が家という訳だ」
「それはちょっと知ってる。親戚筋を分家において、外部からの人達を部下としてこき使ってるんでしょ。親藩と外様みたいな」
容赦ない永の例えに皓矢は苦笑しながら頷いた。
「まあ、そうだね。今から二百五十年前、銀騎の黎明期において、眞瀬木家はその外様候補だった」
「集めるというと、どのようにしたんですか?」
星弥がこれ以上出てこないと見定めた鈴心が永の後ろからひょっこり顔を出して聞いた。
「公募もしたし、こちらからスカウトに行ったりもしたようだ。眞瀬木家はこちらから幽保本人が当時の麓紫村に出向いている」
「ええ?だって隠れて住んでたのに?なんか不思議な結界が張ってあったけど?」
「そうです。私達も目の当たりにしましたが、とても奇妙なものでした。銀騎に見つかるとは思えませんでしたよ」
永と鈴心が口々に言うと、皓矢は少し考えてたら見解を述べる。
「恐らくだけど、君達が見たその奇妙な結界は雨都が村にやってきてから張り直したものじゃないかな?当時はごく普通の結界だったと記録されている。ただ、その記述を僕は少し疑っている」
「と言うと?」
「麓紫村の結界は幽保本人が出向かなければ破れないものだった可能性もある。天才の幽保には普通の結界に見えただけかもしれないね。
総じて考えると、村に張ってある結界は今も昔も強力なものであることは間違いない」
「つまり、開祖の力をもってしかコンタクトがとれなかったほど、眞瀬木の力は強いということですか?」
「そう。スカウトしたくなる気持ちもわかるだろう?」
鈴心の確認に皓矢は満足そうに頷いていた。
「それで?銀騎がスカウトしてどうなったんだよ」
永は皓矢に話の続きを急かした。
「眞瀬木家は民間出身の呪術師だ。衰退しているとはいえ、陰陽師の肩書を持つ銀騎の誘いには両手を挙げて喜んだそうだ。そして当時の当主の長男をうちに修行に出したとある」
「へえー、銀騎はお弟子さんも集めたんだあ」
嫌味を込めた永の言葉を皓矢は気づかないフリをして続けた。
「銀騎の下で働いてもらうためにはうちの術や理を学んでもらう必要がある。当時は全国から術者の子息が集められて教育を施したそうだ」
「でも良かったのか?よくわかんねえけど、他人に自分家の手の内を教えるなんて危ねえんじゃ?」
「集められた子息達は二度と実家に戻ることはない」
蕾生の質問に皓矢は平然と言ってのけた。それに永はまた嫌味で反応する。
「出た。卑怯なやつ」
「当時は切羽詰まっていたからね。子息の実家にはきちんと説明しているはずだけど」
「それで、眞瀬木の長男はどうなったんですか?」
鈴心の問いに皓矢は溜息混じりで答えた。
「それが、どうもこの長男が問題でね。詳しい経緯は記されていないんだけど、銀騎に来た後ごく短い期間で出奔している」
「ああ……それが確執ってこと?」
「だろうね。うちにある記録はこちら側から書いたものだから、眞瀬木が悪いようになっているけど、真相はわからない」
「まあ、呪術師なんてどいつもこいつも良くはないよ」
公平を気取った皓矢の説明も永にしてみれば同じ穴の貉である。
「はは、耳が痛いね。だけど、うちにも言い分はある。眞瀬木は出奔する際、銀騎から鵺の遺骸の一部を持ち出している」
「──!」
皓矢の言葉に鈴心は大きな衝撃を受けていた。
「じゃあ、眞瀬木が悪いんじゃね?」
「問題は、そこじゃないよ」
のんびり言った蕾生の言葉を永が真面目な顔で否定した。画面上の皓矢も今までで一番神妙な顔つきになっている。
「そう。出奔した眞瀬木家の長男が鵺の遺骸と銀騎の技術を麓紫村に持ち帰ったんだとしたら……」
「眞瀬木の技術、銀騎の技術、鵺の未知数の力が合わさって、独特のやばい術に進化を遂げた──なら、あの変な結界も説明がつく」
永の考えを捕捉するように皓矢も言った。
「そういう雑種の力は、時として我々のような正当な陰陽師には想像もつかないような術を作り上げる」
「うわー、自分で言った。高飛車発言!」
永がそう揶揄すると、皓矢は苦笑していた。
「今のは眞瀬木を褒めたんだよ?それにこの件があってからうちもオリジナリティのある術の開発を始めた。それを完成させたのが僕の父だ」
「マジかよ、超天才じゃん。どうりでお前の使う術って変な呪文だと思った」
皓矢が使う陰陽術はその祝詞からまず違う。永は今まで使われてきた一般的なものとは一線を画す皓矢の術を思い出していた。
「父の作り上げた術体系の使い手は、僕と師匠だけ。あ、星弥はまだタマゴだね」
「ではお兄様の力なら麓紫村を探せたのでは?どうして放っておいたんです?」
鈴心の素朴な疑問に皓矢は呑気に答えた。
「んー、それを言われると困るなあ。なにせ二百五十年前の出来事だったからねえ。僕もそんな古い記録を理由もなくわざわざ読んだりしないしねえ」
「なんだよ、ちゃんと代々言い伝えろよな。だから今になって問題になるんだ」
「それは申し訳ない。そんなに眞瀬木とうちの因縁は問題なのかい?」
「もう、ちょっと酷いよ。心して聞けよなあ」
そうして永は文句を言いながら雨辺家についての現状を皓矢に説明した
「……ちょっと、言葉が出ないな」
「でしょ?」
あらましを聞いた皓矢は開口したまま頭を抱えた。
「一体、どこをどうしたら、そんなひん曲がった信仰心が生まれるんだろう……」
「所詮お坊ちゃまには下々の考えなんてわかんないよねえ」
「永、言い過ぎだぞ」
「えー。だって眞瀬木と雨辺がこうなったのは、銀騎が介入したからでしょう?」
永が不服を言うと、それに鈴心も追随した。
「銀騎はきっかけに過ぎないかもしれませんが、責任はあると思います」
「ほらぁ」
すると皓矢は更に真顔になっていた。
「とにかくもう一度うちの文献を漁る必要があるな。少し時間が欲しい」
「おう、もっと詳細に調べてくれよな」
「俺たちはその間どうするんだ?」
「お兄様、私達にできることはありますか?」
鈴心が聞くと皓矢は考えながら答える。
「そうだね。その雨辺菫が信じている組織が知りたい。眞瀬木の協力者、伊藤と言う男、何よりメシアなんて存在は僕は初めて聞いた」
「うん、それはもうちょっと探ってみる」
「あと、できればそのお薬とやらのサンプルは手に入るかい?それが分析できれば──」
「ああ。わかった。やってみる」
「ハル様、危険です!」
簡単に頷く永を鈴心が嗜めると、永は手を振って笑った。
「大丈夫だって、気をつけるから!梢賢くんもいるしね」
「無理はするな。何かある前に引き返すんだ、いいね?」
「う、うん」
しかし皓矢も鈴心同様神妙な顔で言うので、永は少し態度を改めた。
「蕾生くん」
「?」
「白藍牙は持っているね?」
「ああ」
麓紫村に来てから蕾生は外出時はずっと白藍牙を背負っている。背にあるそれに手をかけて頷いた。
「何かあったら、鈴心と永くんは君が守るんだ」
「もちろん。けど、これが役に立つのか?」
今の所白藍牙はただの木刀でしかない。蕾生は少し不安を覚えていた。だが、皓矢は自信を持って頷く。
「それは君の牙だ。使い方は君の心が知っている」
「……?」
そんな抽象的に言われても困る。ただ白藍牙を握ると少し勇気が出る気がする。蕾生はその自分の感覚を信じることにした。
「こうなっては慧心弓どころじゃないかもしれないけど、そっちも探りなさい」
「ああー!そうだったー!どんどん最初の目的から遠ざかる!」
今まさにそれを思い出した永は頭を抱えて大袈裟に叫んだ。しかし鈴心は既に諦めたような顔で溜息をついた。
「それもいつもの事です」
「ではまた連絡するよ。くれぐれも気をつけて」
皓矢が締めようとした所で遠くから星弥の声が聞こえてきた。
「すずちゃーん!すずちゃー……」
だが、その姿を再び見せることもなく電話は切れた。
「はあ……」
鈴心は今日一番の大きな溜息をついていた。