眞瀬木(ませき)の敷地内に古くみすぼらしい離れ屋がある。(けい)はその内部を綺麗に整えて事業のための事務所にしていた。
 最近はずっとこの離れ屋におり、父の墨砥(ぼくと)や妹の瑠深(るみ)と重要時以外は顔を合わせないことが多くなった。

 珪はデスクに向かい、反応しない羅針盤を眺めながら口端に笑みを浮かべていた。

犀瞳の標(さいどうのしるべ)を持たずに街に出るとは、ね」
 
「それだけ雨都(うと)梢賢(しょうけん)が本気になったということでしょう」
 
 後ろに控えている男がそう言うと、珪は振り返って面白がるように尋ねる。
 
「ちょっとつつきすぎたかな?」
 
「珪様も意地が悪うございますからな」
 
「はは、それは僕にとっては褒め言葉だね」
 
「恐れ入ります」
 
 男は恭しい態度を崩さなかった。それに満足した珪は男を指差しながら試すように聞く。
 
「で?我が弟は今日は街で何をすると思う?」
 
「街で彼がすることはひとつでしょう」
 
(すみれ)、か」
 
 その名を口に出すのは珪にとっては気持ちの良いものではない。だがまだ彼女には利用価値がある。
 
鵺人(ぬえびと)を伴って、子どもらしい情に訴えた説得でもするのでは」
 
 男が頭を下げながら言うと、珪は顎に手を当てて顔を歪めた。
 
「ふむ……菫のことだ、絆されたりはしないだろうけど、──邪魔だな」
 
「では先んじて菫に言い含めまする」
 
「そうだね。せいぜい梢賢をその美貌で誘惑するようにとね」
 
「──ご冗談を」
 
 男がフッと笑いかけると、珪はその何倍もの声で笑った。
 
「ははは。ところで(あおい)の具合はどうだい?」
 
「順調です。ただひとつ不安があるとすれば──」
 
「ああ、(あい)とかいう子か。気にすることもないだろう。どうせ何もできはしない」
 
「そうですな。葵が近づけば、自ずと必要なくなるでしょう」
 
 しかしすぐに珪は苦虫を噛み潰したような顔で毒を吐いた。
 
「全く、とんだ甘ったれの坊やだ。菫の教育が悪い」
 
「これは耳が痛いですな、長年後見してきた身としては」
 
 男は言いながら苦笑していた。葵のことも、珪にとってみればただの道具。珪は少し背筋を正して男に言い含める。
 
「まあいい。これは千載一遇のチャンスだ。梢賢が生まれ、まんまと鵺人を誘き寄せることができた。ここからは一切のミスは許されないよ」
 
「もちろん肝に銘じておりまする。では、取り急ぎ」
 
「ああ、よろしく頼む」
 
 珪の言葉に深く一礼をした男はそのままの体勢で陽炎のように揺らめいてその場から消えた。
 
 椅子に深く座り直した珪は独り笑いながら呟く。
 
「ふう……もうすぐだ。この目で鵺を──」
 
 デスク上の羅針盤に手の中の平たく黒い石を転がして、珪はこれから起こる素晴らしい出来事に思いを馳せる。
 黒い光がコロコロと弄ばれるように不規則な円を描いていた。


 
 珪の部屋からそのまま菫のマンションにやってきた伊藤はしばしそのドアの前で立ち尽くしていた。
 
「まあ、有宇儀(ゆうぎ)様。突然どうなさったの?」
 
 インターフォンを押さないのに菫はドアを開けてみせた。
 それに満足した伊藤はにっこりと微笑む。
 
「朝早くにすまないね」
 
「いいえ、とんでもありませんわ。どうぞお入りになって。葵!葵!」
 
 伊藤が菫に続いて居間に入ると、葵が姿勢を正して立っていた。
 
「……おはようございます」
 
「おはよう。姉さんはどこかな?」
 
「あ……」
 
 言われて肩を震わせながら、葵は居間の隅に視線をやる。伊藤もそこを見ると、藍がもの凄い形相で睨んでいた。
 
「相変わらずのようだね。よろしい。君は姉さんと部屋に行っていなさい」
 
 軽い溜息を吐いて伊藤がそう言うと、藍は葵の手を引いて居間を出ようとする。伊藤に捨て台詞を吐いて。
 
「バーカ!」
 
「し、失礼します……」
 
 葵は少し躊躇っていたが、藍に手を引かれるままに二人で居間を出た。
 
「まあ、葵が何か失礼を?」
 
 お茶を運んできた菫が二人を見送りながら不安を口にする。だが伊藤は穏やかに答えた。
 
「いいえ。元気そうで何よりですよ」
 
「そうですか?ならきっといただくお薬のおかげですわね」
 
「きちんと毎日飲んでいますか?」
 
 菫はパッと顔を明るくした後、恍惚の表情を見せる。
 
「もちろんですわ。葵に課せられた修行ですもの。日一日とうつろ神様に近づいていると思うと……」
 
「よく精進なさっているようで安心しました。が、あの小僧が何か画策しているようですね」
 
 突然声の調子を落とした伊藤に、菫は敏感に反応して早口で説明する。
 
「こずえちゃんのことですね?ご安心ください。あの子には来るたびにうつろ神様の素晴らしさを説いています。
 一昨日なんてついに使徒様を三人も連れてきてくれて。私、感激して震えるのを隠すのが大変だったのですよ」
 
「その使徒ですが、どうも雨都(うと)側につきそうな雰囲気でしてね」
 
「ええっ!?そんなまさか、こずえちゃんからは聞いておりませんよ?」
 
「私はそこも不安なのですが。雨都梢賢はきちんと洗脳したんですか?」
 
 伊藤がジロリと睨むと、菫は顔色を真っ青にしてその場に土下座した。
 
「申し訳ありません!まだ少し実家に未練があるようで……。ですが、近いうちに必ずこちら側に来させます、──使徒諸共!」
 
 最後に顔を上げて結んだ菫の言葉は常人では出ないような発音が混ざっていた。
 
 飴と鞭を使い分ける伊藤はまたにっこり笑って屈み、菫の肩を優しく叩く。
 
「頼みますよ。(あるじ)は貴女に大変期待しておられる」
 
「ああ、ゆくゆくはうつろ神様が降臨なされるメシア様ですね!有宇儀様、こずえちゃんを取り込んだらメシア様にお目通りは叶いますか?」
 
「そうですね、伝えておきましょう。貴女の精進には必ずお応えくださいますよ」
 
 伊藤がそう言うと、菫はまたうっとりとしてうわごとのように呟いた後、焦点を定めて伊藤に宣言した。
 
「まあ!素敵……。必ずや雨都梢賢を意のままに操って、雨都を葵のものにしてみせます!」
 
「頑張ってくださいね。では私は失礼します」
 
「あら、今日は歩いてお帰りなのですか?」
 
 立ち上がって玄関へと向かう伊藤に菫が尋ねると、またにっこり笑って伊藤は答える。
 
「ええ。最近運動不足でね」
 
「まあ。お気をつけて」
 
 クスクス笑う母の声を自室で聞いていた葵は、口を結んで虚ろな瞳のまま立ち尽くしていた。