転生帰録2──鵺が嗤う絹の楔

 息が詰まりそうなほどの沈黙の中、救世主が現れた。
 
「まま、これオレのお気に入りのジュースやねん。わざわざお取り寄せしてるんよ」
 
 梢賢(しょうけん)は「高級!」と書かれたラベルの瓶ジュースを手に戻ってきた。後からグラスを運んできた優杞(ゆうこ)とともに愛想笑いを浮かべて全員に注いで回る。
 
「はあ。いただきます」
 
 (はるか)にしてもその笑顔が張り付いており、緊迫から微妙な雰囲気に格上げはしたがまだ居た堪れなかった。
 そこで、梢賢は大袈裟にグラスをぐいっと飲み干して笑う。
 
「んー!これこれ!やっぱりんごジュースはこれやないとあかんわあ!」
 
「梢賢、さっきから黙って聞いていれば、なんだそのお笑い芸人みたいな喋り方は」
 
「ピッ!」
 
 だが、父の柊達(しゅうたつ)は更に不機嫌になって梢賢を睨みつける。
 
「馬鹿がますます馬鹿に見える。やめなさい」
 
「すいません!」
 
 母の橙子(とうこ)からも辛辣な言葉が出て、梢賢は結局その場で縮こまった。アイデンティティとは何かを考えざるを得ない。
 
「まあいい。不肖の息子が色々と迷惑をかけたようですまなかった」
 
 柊達は肩で大きく息を吐いて形式上謝った。
 それに永達は恐縮しながら答える。
 
「あ、いえ!僕らこそ、また雨都(うと)の方にお会いできて本当に心強いです」
 
「毎度ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
 
 永の謝辞と鈴心(すずね)の侘言の後、ぼうっとしている蕾生(らいお)を柊達が軽く睨んだ。
 お前は何かないのかと言わんばかりだ。
 
「すいませんでした……」
 
 仕方なく蕾生も頭を下げたが、具体的な事は言えなかった。
 そうしてやっと橙子が口を開く。
 
「まあ、あらましは梢賢から聞いています。それに私が子どもの頃は叔母からも散々聞かされました」
 
(かえで)サンからですか?」
 
「ええ。母の目を盗んではいろいろとね。あの頃は御伽話のようで楽しく聞いていたものだけど、いざ息子が関わると思うとねえ……」
 
「……」
 
 当然の言い分に、永は二の句が出なかった。
 
「ご存知かもしれないが、楓の姉である私達の母は二年前に亡くなっている。母は妹が受けた(ぬえ)の呪いを最期まで憎んでいた。その想いは代を変えても私達の根幹にあると承知おかれよ」
 
「はい……」
 
 吊し上げの様ではあるが、永は甘んじてこれを受け入れる。その横で鈴心が控えめに申し出た。
 
「あの、ご迷惑でなければ、楓さんの墓前に参りたいのですが……」
 
「悪いが墓に行ってもらっても楓はいない」
 
「──え?」
 
 ひたすら不機嫌なままの柊達の言葉に鈴心が聞き返すと、橙子が息子を促した。
 
「梢賢」
 
「ああ……」
 
 短く返事をした後、梢賢は胸元から小さな石のついたペンダントを取り出した。それは翡翠のような色の石で、鈍く光っている。
 
「楓婆ならここや」
 
 梢賢のその言葉の意味を永も鈴心も理解できなかった。
 
「ええ?」
 
「どういうことです?」
 
 二人の様子に、橙子は眉を顰めながらも説明を始める。
 
「説明しなくてはわかりませんね。楓は鵺の呪いを受けて里に帰ってきましたが、徐々に体が弱っていき、遂には寝たきりになりました」
 
 予め梢賢から聞いてはいたものの、具体的に表現されて、永はショックを隠せず、鈴心は一瞬で青ざめた。
 
「里で、その……そういうことに詳しい方の治療を受けながら、細々と、それでも七年生きました。私は当時子どもだったので、叔母が亡くなったと聞かされたのは少し後のこと」
 
 そして橙子は静かに不可思議な事実を告げる。
 
「母に聞いた話をそのまま申し上げますが、叔母はある時その石に身を変えたそうです」
 
「──」
 予想もしていなかった事に、永は何も言うことができなかった。
 
「以降、その石を楓石(かえでいし)と呼んで、母が肌身離さず持っていました。それを私が結婚する時に受け継いで、今は梢賢に持たせています」
 
「拝んだってや、気持ちは届くかもしれん」
 
 梢賢はペンダントを首から外して鈴心に渡した。震える手でそれを受け取った鈴心は驚愕と衝撃で瞳を震わせる。
 
「そんな、楓……」
 
「なんてことだ──」
 
 二人の悲しみが居間全体に広がっていく様だった。沈黙の中、蕾生はその楓石に注目する。
 不思議な感覚がした。何か大切な感情がそこに吸い込まれていくようだった。
 
「申し訳ありませんでした。僕らは何も知りませんでした」
 永は土下座して謝罪する。
 
「楓さんのその後に気を配れずに申し訳ありません」
 梢賢にペンダントを返して鈴心も頭を下げた。瞳には少し涙が滲んでいる。
 
 蕾生も二人に倣って一礼した。
 すると幾分か態度を和らげて橙子は言った。
 
「いえ。貴方がたはとうに亡くなっていたんでしょう?叔母も後悔してましたよ、私だけ生き延びてしまったって」
 
「そんな!楓さんが生き残ったって聞いて僕らは救われたんです。こんな言い方は失礼かもしれませんが──」
 
「ありがとう。貴方がたも大変な運命を生きていらっしゃるのにね」
 
 微かに笑う橙子の顔が、どこかで見たような面影を思い出す。蕾生は恐縮しきりの永を他所に不思議な感覚に支配されていた。
 
「ンン、先程は憎んでいると申し上げたが、私達は母ほどそれに支配されている訳ではない。今の君達の見せてくれた態度でそんな感情も薄れた。むしろ私個人としては君達の境遇には同情している」
 
「ありがとうございます……」
 
 橙子が表した歩み寄りに倣って柊達も少し涙交じりになって理解を示す。それが永には有り難かった。
 
「過去を水に流す──ことはできないし、もう二度と楓のようなことはあってはならない。ましてや息子が同じ目にあうなど絶対に御免被る!」
 
「それはもちろんです!」
 
 柊達に向けて永は力強く頷いた。
 それに満足したのか、柊達も最後には声音を和らげて言った。
 
「そうならないためにも、私達ができることは協力して差し上げよう。蔵を開放するから気のすむまで調べたらいい」
 
「──ありがとうございます!」
 
 永は許しを得た喜びを表す。鈴心も勢いよく一礼し、蕾生も静かに頭を下げた。
 
「なんや、父ちゃん!良かったわー、それならそうと早く言ってくれんと!長々ともったいぶって!」
 
 全てを台無しにする梢賢の呑気な言葉を柊達は一喝するように睨む。
 
「ピッ!」
 
 肩を震わせた梢賢の頬を優杞が摘みながら凄んだ。
 
「お、ま、え、の、心配、を、していたんだろうが、馬鹿が!!」
 
「ひいいい、ふ、ふいまひぇん……」
 
 急なバイオレンスに三人が唖然としていると、優杞は我に返って誤魔化すように笑う。
 
「あら、いけない。オホホホ」
 
 雨都家はもしかしたら愉快な人達なのかもしれない、と三人は心の中で頷き合った。






 雨都(うと)家で話がまとまると、梢賢の父と母は会合があると言って忙しなく出ていった。
 残された(はるか)達は途方に暮れかけたが、優杞(ゆうこ)が昼時なので素麺を振る舞ってくれた。後は勝手にやってもよいということなのだろう。
 
「ご馳走様でした」
 
「お粗末さまでした。すみませんねえ、母も父もバタバタと忙しくて」
 
「いえ、そんなことは」
 
 恐縮してばかりの永の肩を乱暴に叩いて梢賢(しょうけん)が笑った。
 
「ええやん。父ちゃんも母ちゃんもいない方がのびのびやれるわあ」
 
 だがそんな弟を姉が視線で刺す。
「……」
 
「ピッ!」
 
 それで梢賢は黙ってしまったが、鈴心(すずね)がそれとなく優杞に聞いてみた。
 
麓紫村(ろくしむら)は今お忙しいんですか?」
 
「そうね……ちょっと村興し?みたいな動きがあって。上の人達は毎日のように集まってるわ」
 
「村興しですか?」
 
 意外な答えに鈴心が目を丸くしていると、永も驚きながら口を挟む。
 
「隠れて住んでる村なんですよね?そんなことして大丈夫なんですか?」
 
「どうなのかな……?ただ、もうそんな古いこと考えなくてもいいんじゃないか、みたいな動きがね……私もよくわからないんだけど」
 
 優杞は明らかにはぐらかそうとしていた。そんな姉の様子を無視して梢賢は少し憎たらしげに付け足す。
 
「里の長老どもが額突き合わせて悪巧みしとるんや。俺らみたいな若い世代はそっちのけでな」
 
「お前は村興しに反対なのか?」
 
 蕾生(らいお)が聞けば、梢賢はどうでもいい事のように投げやりな態度で答えた。
 
「せやなあ。けんど、里に限界が来てるのは確かや」
 
「限界……」
 永は何かを考えながらその言葉を反芻していた。
 
「まあ、ええやん!俺らの重要事項は(ぬえ)の方や。蔵にいこか?」
 
「うん……」
 
「まあ、こちらの事情は私達がとやかく言えることではありませんね」
 
 鈴心が割り切って言うと、蕾生は早々に立ち上がった。
 
「だな。よし、行こうぜ」
 
「おっ、ライオンくん、威勢がええな」
 
「まあな。俺は二人に比べて知識が全然ないからな。早くいろいろ知りたい」
 
「いいねえ!勤勉な若者は眩しいっ」
 
 上機嫌になって立ち上がった梢賢に、優杞は古い鍵を手渡した。
 
「はい、梢賢。蔵の鍵」
 
「サンキュー。じゃあ、行くで!」
 
 元気良く先導する梢賢に、蕾生と鈴心も続く。永は少し遅れてまだ何かを考えながらついて行った。

 
 母屋を出ると梢賢は裏口に周る。日陰の多い場所に大きな蔵が建っていた。
 
「立派なものですね」
 
 鈴心が関心して言うが、梢賢は少し悔しそうにしていた。
 
「まあなあ。これで小判でも入っとったらよかったのに、中が紙切ればっかりっちゅー……」
 
 愚痴をこぼしながら梢賢は蔵の扉を開ける。重い金属音とともに入口が開かれた。その中は閑散としていた。
 
「んん?」
 
「なんだ。蔵の見かけよりも入ってねえな」
 
 蕾生の感想通り、蔵の中には棚が置いてあるが、そこには何も置かれていなかった。床に数枚の紙切れが散らばっているだけだ。
 
「……」
 鈴心は即座に顔を強張らせ、蔵の入口辺りを注視している。
 
「ちょっと失礼」
 
 異変を感じた永は梢賢に続いて蔵の中に入る。棚をよく見て、埃が四角い跡を作っているのを指差した。
 
「この辺、何かが置いてあったようだけど──」
 
「えらいこっちゃ……」
 
 梢賢の顔は真っ青だった。
 蕾生もそれでようやく異変を感じとる。
 
「どうした?」
 
「うちの文献がほとんど無くなっとる!」
 
 その言葉に鈴心は驚愕し、永は深刻な顔で空になった棚を見つめていた。
 
「ええ?」
 
 蕾生が訳もわからず声を上げると、梢賢は慌てて三人に言い含める。
 
「ちょ、ちょっと待っててな。君らはここを動かんといて!姉ちゃーん!ナンちゃーん!!」
 
 言い終わらない内に梢賢は母屋に走って行った。
 残された蕾生は永に聞いた。
 
「どういうことだ、永?」
 
「……蔵にあったはずの文献が無くなってるってことだろうね」
 
「梢賢の両親が隠したんでしょうか?」
 
 当初永達に否定的だったのを鑑みて鈴心が言うと、永は首を振った。
 
「いや……蔵を解放するって言ってくれてたから、それは考えにくい」
 
「じゃあ、盗まれたとかか?」
 
「誰が?何のために?」
 
 物が無くなれば盗られたと蕾生が思ったのは当然だが、蔵にあったものは他人にとっては価値がないに等しい物だ。永の疑問に蕾生も続ける言葉が出なかった。







 沈黙したままの(はるか)達の所へ、梢賢(しょうけん)優杞(ゆうこ)楠俊(なんしゅん)を連れて戻って来た。
 
「く、くく蔵に、ど──どどど、ドドドド」
 
「優杞さん、落ち着いて」
 
 明らかに狼狽している優杞と楠俊を見て、永は冷静に言った。
 
「泥棒、だと思うんですか?」
 
「当たり前やん!」
 
 代わりに答えた梢賢も瞳孔を開いて焦っている。永はその様子に飲まれないようにして更に聞いた。
 
「ご両親が僕らに見せないように書物を隠したとは?」
 
「そんなことする訳ないやろ!それはしっかり家族会議済みや!」
 
 バタバタと大きな手振りで言う梢賢の言葉に嘘はないように思えて、永は溜息を吐いた。
 
「わかった。じゃあ、泥棒に盗まれたんだね」
 
「こんなん欲しいヤツいんのか?」
 
 蕾生の当然の疑問を置いておいて、鈴心はもう一つの現実的な可能性を探る。
 
「蔵に金目のものは入れてないんですよね?」
 
「ああ、そんなん村の全員が知っとる。うちが村で一番貧乏なんはな!」
 
 悔しそうに語る梢賢に永が手を挙げて聞いた。
 
「でも、寺って寄進とかあるよね?」
 
「うちは雇われ住職やねん。寺への寄進は全部藤生(ふじき)の方にするんや。うちは藤生から運営費を預かってるだけや」
 
「ふうん……」
 
 永が形式上だが納得していると、蕾生が珍しく鋭いことを言った。
 
「でも犯人ってなると村人以外には考えられねえよな」
 
「そ、それは──」
 
 梢賢が言葉に詰まっていると、楠俊と優杞がそれを引き継いだ。
 
「うちは寺だからね。門戸はいつも開けてあるし、里人なら誰でも出入りできるし、歩き回っても不審には思わない」
 
「そして外部からの人間はあんた達しか入っていない……」
 
 全員が沈黙したのを破ったのは鈴心だった。
 
「矛盾してますね」
 
「うん。村の誰もがここにお金がないことを知ってる。でもここに出入りするのは村人でなければ不可能だ」
 
「つまり──」
 
 蕾生が永を見て確認するように聞いた。
 永は頷いて答える。
 
「泥棒の目的は蔵にある資料だった。(ぬえ)に興味がある村人がいるってことだね」
 
 梢賢はその結論に衝撃を受けていた。
 
「そんなのあり得ない……」
 優杞は否定するけれど、状況が物語る可能性に困惑していた。
 
「最後に蔵を開けたのはいつだい?」
 
 すると楠俊が冷静に状況整理を試みる。
 
「ええ?そんなん覚えてへんわあ」
 
 梢賢が投げやりに答えると、優杞の鉄拳が飛んでくる。
 
「私達とお母さんは蔵に近寄らないし、こそこそ蔵を出入りしてたのはお前とお父さんだけだろ!」
 
「ええー……いつだったかなあー、うーんと、うーんと」
 
「思い出さなかったら、どうなるのかな?梢賢?」
 
 にっこりと拳を鳴らす優杞に梢賢は泣きそうになって抗議した。
 
「いや、もう一発殴られとるんですけど!?」
 
「優杞さん、どうどう。梢賢くんは三ヶ月ぶりに帰ってきたところでしょ!帰ってきてから蔵に入ったのは見てないよ?」
 
「それや!さすがナンちゃん!」
 
 援護射撃に喜んだ梢賢は楠俊の後ろに隠れた。そして優杞はそれを聞くなり体の向きを変える。
 
「──と言うことは、残るはお父さんだね。ちょっと行ってくる!」
 
 そう言いながら優杞は寺の門を飛び出していった。
 
「どこへ行くんでしょう?」
 
「会合場所でしょう。盗難の報告もその場でするはずです。そっちは優杞に任せて、僕らは現場を確認しよう」
 
 鈴心の疑問に答えながら楠俊は蔵の方を見やる。
 
「ナンちゃん!探偵みたいやね!」
 
「茶化さないの。この場で蔵の蔵書を知ってるのは君だけだよ。確認して」
 
「せやな、わかった」
 
 梢賢が再び蔵に入ろうとするので、永もそれに続く。
 
「僕らも入っていい?」
 
「おう」
 
 そうして改めて四人は蔵に入る。灯りはないが、真夏の日中なので中はそれなりに明るかった。
 
「ええーっと」
 
「元々蔵書はどれくらいあったんですか?」
 
 内部をキョロキョロしながら歩く梢賢に鈴心が聞いた。
 
「蔵書なんて言うほどのもんやないよ。ライオンくんの言った通り、見かけに反して中身は元からスッカスカや。一つにまとめたら段ボール一箱で済むやろうね」
 
「すると、棚に一冊ずつ、まるで資料館みたいに陳列してた感じかな?」
 
 その話を受けて、蔵内部に設置された多数の棚を見て永が分析する。
 
「そうやね。婆ちゃんや母ちゃんの目盗んで読むんや。短時間でパッと探せるような置き方をしとった。父ちゃんがな」
 
「それはとても盗みやすい環境で……」
 
 気持ちはわかるが、ずさんな管理の仕方に永は苦笑した。そして棚を隈なく見て周りながら梢賢が悲嘆に暮れる。
 
「ああー、うわー!あれもないー!」
 
「見た感じ、ほとんどやられてねえか?」
 
 近寄って見るまでもなく、入口付近にいる蕾生にすらそれはわかっていた事だった。
 
「そうだねえ。根こそぎって感じ?」
 
「あかんわ、昔のやつは全部やられとる。秘伝書も、日記も──」
 
「秘伝書!?」
 
 梢賢の言葉に鈴心と蕾生が目を光らせた。
 
「おい、なんだそのワクワクワードは」
 
雨都(うと)、の前の雲水(うんすい)一族が代々体験した(ぬえ)との出来事を記したやつや。八代目と十四代目が纏めたやつがあんねんけど、どっちもないわ」
 
 永が興味を持ったのは別の単語だった。
 
「日記って言うのは?」
 
「全員やないけど、何人かの先祖が書いた個人的な日記や。中には鵺のことが書いてあるやつもある。それも全部ない」
 
「じゃあ、何も残って──」
 
 鈴心ががっくりと肩を落とすと、梢賢は一番隅の棚を指差して言った。そこは一際暗がりだった。
 
「いや、最近のは残ってる。里に来た時の記録と、雨辺(うべ)が去っていった時の記録。それから(まゆみ)婆ちゃんの日記も残ってるな」
 
「檀さんの、ですか」
 
「恨み言ばっか書いてある根暗日記や。まてよ、すると──ああ!ない!クッソォ!」
 
 何かを思いたった梢賢はもう一度暗がりに戻って確認すると殊更に悔しがった。
 
「何だよ?」
 
(かえで)婆の日記が、ない」
 
「楓サンの?」
 永はドキリとして梢賢の方を見た。
 
「死ぬまでの七年間でつけとったもんや。あれこそ──」
 梢賢は歯噛みして立ち尽くす。
 
「楓が何か残してくれていたかもしれない……」
 
「くそっ!」
 
 鈴心も永も憤りを隠せなくなった。蕾生にも残念な気持ちはあるものの、二人のような感情をまだ共有することができない。別の悔しさを感じて一歩後ずさると、足に何かが触れた。
 
「うん?なんか落ちてる」
 
 拾い上げたそれは、とても古い書物のようだった。
 
「ああっ!それ!」
 
 それを見た梢賢が歓喜の声を上げる。
 蕾生は表紙のタイトルが平仮名だったので読むことができた。
 
「うつろがたり……?」







 蕾生(らいお)が手に取った古い書物を受け取って、梢賢(しょうけん)は嬉しそうにはしゃいだ。
 
「うわあ、これが残っとったのは正に雲水(うんすい)様のお導きやあ!」
 
「床に落ちてたぞ」
 
「だから運良く免れたのかもね」
 
「で、これはなんだ?」
 
 蕾生と(はるか)はその書物に興味津々だった。梢賢は永に書物を手渡して言う。
 
「そいつはうちの最古の文献や。初代が(ぬえ)の亡霊に会うた記録を二代目が書き残したもんや」
 
「鵺の亡霊だって?」
 突然、永の視線が鋭くなった。
 
「おう。もしかして覚えてんのんか?」
 
「当然だ。長い転生の中であっても絶対に忘れない──忘れてはならない出来事だよ」
 
「へええ。オレはその本でしか知らんけど、当時におった人から生の声が聞けるんか!ヤバッ、興奮するッ!」
 
 はしゃぎ続ける梢賢に気をとられていると、後方でガタ、と棚を揺らす音がした。見ると鈴心(すずね)が青ざめて寄りかかっていた。
 
「リン?」
 
「あ……すみません」
 
 その声は弱々しかった。蕾生が近寄ると、息も上がっていた。
 
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
 
「あ、ちょっと暑くて……」
 
 いくら日陰の多い場所でも今は真夏の正午過ぎ。日照がちょうど厳しくなっている時間だ。梢賢は慌てて蔵を出ようとした。
 
「あかん、熱中症かもしれん。家に戻ろか」
 
「これ、持ち出してもいい?」
 
 件の書物を片手に永が聞くと、梢賢は大きく頷いた。
 
「当然や。涼しい部屋でいっちょ鵺談義と洒落込もうや」
 
「盗難事件の方はどうするんだ?」
 
 蕾生が聞くと、梢賢は少し白けた雰囲気で言う。
 
「ああ……どうせ警察には言えないんや。里の大人達が考えるやろ。オレ達が何かできるとしたら大人の話が済んでからや」
 
「そんなんでいいのか?」
 
「ライくん、ここは特殊な場所なんだよ。仕方ない。それよりも早くリンを休ませたい」
 
 蕾生は消化不良な気分だったが、永は鈴心を心配して少し焦っていた。それで蕾生も従うことにする。
 
「そうだな。鈴心、平気か?おぶってやろうか」
 
「……おんぶよりもお姫様抱っこがいいです」
 
「ああん!?」
 
「冗談です。大丈夫、家までなら歩けます」
 
 せっかく心配してやったのにふざける元気はあったのか。蕾生は先にスタスタ歩く鈴心に文句を投げた。
 
「クソガキがっ!」
 
 怒りながら後に続いて蔵を出た蕾生の後ろで、永はまた何かを考えていた。目は鈴心の背中を追っている。
 また、梢賢もそんな永の様子を注視していた。

 
「どうだった?」
 
 蔵の外にいた楠俊(なんしゅん)に、梢賢は残念そうに首を振った。
 
「あかんわ。二代目の手記と、最近の記録以外はごっそりや」
 
「そうか……。犯人が戻って見にくるかもと思って蔵の周りを見張ってたんだけど、誰もこなかったよ」
 
「ナンちゃん、マジか!気がきくどころやあれへんね!ほんまに名探偵みたいや」
 
 梢賢が褒めそやすと楠俊は苦笑しながら、先を歩く鈴心と蕾生を指して言う。
 
「いいから、君達は部屋に戻っていなさい。もうすぐ人が色々来るだろうから」
 
 優杞(ゆうこ)が父のいる会合場所へ行ったと言うことは、藤生(ふじき)にも眞瀬木(ませき)にも事件のことはバレている。その後起こることは明白だ。その場には永達はいない方がいいのと言うは楠俊も梢賢も同じ考えだった。
 
「はーい。子どもらは大人しく留守番してますぅ」
 
 そうして梢賢は先に母屋に向かう永達を追いかけた。

 
 三人は梢賢の部屋に案内された。
 畳の上にネオンカラーのカーペットが敷かれ、ガラス張りテーブルが置かれている。
 アルミ製のゴミ箱やマガジンラックなど、かなり昔のヤンキーが使っていたような物ばかりが雑然と置いてあった。
 パイプベッドにはあろうことか直接布団が敷いてある。
 
「鈴心ちゃん、大丈夫か?なんならオレのベッドに寝っ転がってもええで」
 
 クーラーをつけてから梢賢は鈴心を気遣った。だが、返ってきたのは辛辣な言葉だった。
 
「臭そうなので嫌です」
 
「──!!」
 
 まるで雷に打たれたように、梢賢は固まった。蕾生も気持ちはわかるが言うことではないと思った。
 
「そんだけ悪態つければ平気だろ」
 
「しかたないので座らせてもらいます」
 
 鈴心は深く溜息をついてベッドに腰掛けた。
 
「ま、まあええ、麦茶でも持ってきたるわ。適当に座っててや!」
 
 ショックから立ち直れない梢賢は一旦部屋を出て行った。永はカーペットの上に直接腰を下ろす。
 
「リン、本当に大丈夫か?」
 
「はい。家の中に入ったらだいぶ良くなりました」
 
「そう、良かった」
 
 しかし、鈴心はその後黙ってしまった。そんな様子を具合が悪いだけと捉えた蕾生は部屋の壁を見回しながら永の隣に座った。
 
「しかし、なんだこの部屋?」
 
「んー、古き良き時代の青春って感じだねえ」
 
 永も懐かしそうに部屋を眺めていた。まるでその時代を経験したかのように。
 
「なんで壁に布張ってんだ?」
 
「あれはペナントって言ってね、昔のお土産の定番だよ」
 
「へえー……」
 
 初めて見るものに蕾生が目を丸くしていると、梢賢がトレイに麦茶を乗せて戻ってきた。
 
「おまっとうさん!どうした坊達!さてはオレの部屋のおシャンティさに腰抜かしよったな?」
 
「ちょっと何言ってるかわかんねえ」
 
 今度は蕾生からの辛辣な反応に、また梢賢は固まった。
 
「はいはい、麦茶ありがとう。──はい、リン、飲みな」
 
 そんな梢賢からトレイをひったくって、永はまず鈴心に麦茶を差し出した。
 
「ありがとうございます」
 
 受け取った鈴心は静かに、けれど勢いよく麦茶を飲んでいる。
 
「まあええわ、オレはお兄さんやからな。広い心で受け止めたるわ」
 
 引き攣った顔のまま、梢賢もようやく腰を下ろした。







 それぞれが麦茶を飲み干した後、梢賢(しょうけん)は丁寧にテーブルを拭いた。グラスを片付けて書物をテーブルに置く。
 
「さあて、どうする?まず読んでみる?」
 
「そうだね。そうさせてもらおうかな」
 
 新聞でも読むような手軽な雰囲気の中、蕾生(らいお)は少し不安を表した。
 
「読めるのか?すんげえ昔の人が書いたんだろ?」
 
「古典なら満点ですけど?」
 
 ドヤ顔の(はるか)に少しムカつきつつも、蕾生は口を曲げて要求した。
 
「じゃあ読み聞かせてくれよ」
 
「オッケイ、なになに……?こは我が父雲水(うんすい)入道なるが諸国一見の旅にて候いしが──」
 
「ちょ、ちょっと待て!音読されてもわかんねえよ!翻訳してくれよ!」
 
 焦った蕾生に、梢賢はニヤニヤしながらつっこんだ。
 
「翻訳て。外国語ちゃうで」
 
「俺には同じだよ!」
 
 その主張に永も苦笑しながら頷いた。
 
「わかったわかった。えーっと、これは私の父の雲水が国中を旅していた時に出会った亡霊の話である」
 
「うんうん」
 
「化け物が出ると噂された小屋に泊まった日のこと、川から丸木舟が流れてきた。そこにはぼうっと光る人間が乗っていた──」
 
「うんうん」
 
 しかし永は直ぐに音読を止め、自分だけで読み進めてしまう。
 
「……」
 
「永?」
 
「……」
 
「おい、続きは?」
 
 蕾生の声など聞こえていないようで、永はそこからたっぷり十分ほど書物を精読していた。
 蕾生はつまらなくなったが、梢賢が無言で「読み終わるまで待っとけ」と合図を送るので、黙ってそれを見守った。
 
「なるほど」
 
 漸く顔を上げた永は、少しスッキリしたような顔をしていた。
 
「どうや?」
 
「そうだね。かなり詳しく、正確に書かれている。雲寛(うんかん)は几帳面な人だったからその性格がよく出てるね」
 
「ウンカン?」
 
 蕾生が首を捻ると、梢賢が捕捉してくれた。
 
「初代が雲水、その息子の雲寛が二代目や。この本の筆者やな」
 
「読ませてもらって良かった。おかげで当時の記憶が鮮明になったよ」
 
「そうか!──で?」
 
 蕾生は少し高揚していた。自分の知らない情報が与えられることを期待して。
 
「うん、この書物には前半が雲水氏から聞いた(ぬえ)の亡霊の話。後半が雲寛氏が実際に見た鵺のことが書いてある」
 
「永と鈴心(すずね)はその雲水と雲寛に会ってるんだな?」
 
「うん」
 
「どれくらい前なんだ?」
 
 蕾生の疑問はまたも梢賢が教えてくれた。
 
「ざっと六百五十年くらい前や。貴族の世から武士の時代になって二百年ちょっと。それなりに平和な時代やな」
 
 それに頷きながら、永は少し言いにくそうに喋る。
 
「雲水氏に会ったのは僕らが九回目の転生の時だよ。まだその頃はライが鵺に変化して殺される──をただ繰り返していた頃で何もわかっていなかった」
 
「九回もか?」
 
 永がそんなに時間を無駄に使うなんて想像できない蕾生は、意外な気持ちからつい責めるような口調になってしまった。
 
「うん……最初の頃の転生は本当に意味がわからなくてただ無駄に過ごしてしまっていた。
 僕は今でこそある程度要領を得ているから余裕な感じを見せられているけど、当初はほんとに──できれば恥ずかしくて言いたくない程だよ」
 
 永は沈んで過去の反省を述べる。その姿に蕾生は悪いことを言ってしまったと思った。
 
「それは、仕方ないだろ?そもそも自分が繰り返し生まれ変わってるなんて信じられねえよ。
 わりぃ、つい今の永と比べちまった」
 
「いいよ、僕が三十三回失敗してきたのは事実だからね」
 
 蕾生が謝ると、永も首を振って困ったように笑った。自嘲の笑みだった。






 (はるか)蕾生(らいお)の会話が終わった頃を見計らって、梢賢(しょうけん)は書物を指差しながら聞いた。
 
「で、その本によれば、初代が君らを探し当てた時、君らは随分と憔悴してたみたいなことが書いてあるんやけど、本当なん?」
 
「うん。その通りだ。正確には僕が。自分の運命に絶望して自暴自棄になってた。そんな時に雲水(うんすい)氏──お坊様が現れたんだ」
 
 永は大きく頷いた後更に続けた。
 
「お坊様は自分が出会った鵺の亡霊の話をしてくれたよ。そしてやっと僕らは生と死を繰り返しているという確証を得たんだ。
 お坊様が僕らの話を聞いてくれて、自分が会った亡霊の証言と照らし合わせてそう結論付けてくれた時は、心が晴れたみたいだった」
 
「呪われてるって言われたのに?」
 
 梢賢が怪訝な顔で聞き返したが、永は何ら恥じることのない顔をして頷いた。
 
「うん。それまではこの境遇を自分達でさえ疑っていたからね。僕らは頭がおかしいだけじゃないのかっていうことも考えてた。
 けど、お坊様によって客観視を得られた。呪われていること自体がわかっただけでもその時はありがたかった。自分の立ち位置がはっきりしたからね」
 
「へえ、やっぱハル坊はすごいなあ」
 
 梢賢は思わずのけぞって感嘆の声を上げる。
 永は恥ずかしそうに頭をかいた。
 
「そうでもないよ。そこで腹を括っただけさ」
 
「いや、永はすごい」
 
 蕾生の真面目な援護射撃で、ますます永は恥ずかしそうにしていた。
 
「ははは……うん、とにかくそこで自分の状況がわかった。次は何でもいいから情報が欲しかった。
 お坊様にしつこく聞いたよ、その亡霊のことを。その姿はとても美しい男性だったって。
 ただ、見たことがないほど奇妙な髪型と格好をしていたから異国の人間じゃないかって言ってた」
 
 永の言葉を受けて、梢賢が書物を開く。
 
「ちょうど、この辺やな。ええと、狩衣(かりぎぬ)みたいなのに袖が短かった。括り(くくり)(ばかま)みたいなのに裾が長かった。って言うのはハル坊はどう理解しててん?」
 
「狩衣とか、括り袴ってどんなのだ?」
 
 蕾生の質問に答えながら永は言った。
 
「ええっとね、狩衣って昔の貴族の衣装なんだけど、(ひとえ)っていう着物の上に着るやつで合わせがないんだ。お坊様が言うにはそれを直に着ていたらしいんだけど……」
 
 その続きは梢賢が引き継いだ。
 
「初代が異国の人だって言うのを信じるなら、実際に来てたのは狩衣やないんやろな。当時の人からしたらそう見えたってことかもしれんよ」
 
「僕もそう思う。着物の様な合わせがない、ということは洋服を着ていたんじゃないかって、今なら思うよ」
 
「洋服か」
 
 昔の着物にも色々あるし、それが洋服だろうと言われても、蕾生にはいまいちピンと来なかった。
 
「残念ながら時代はわからないけどね。お坊様が会ったのは亡霊だったんだから、確実にそれより過去の人物だろうけど」
 
「そうなると括り袴──ってのは字の通り裾を括って歩きやすくした袴やねんけど、洋服だとするとズボンかね?」
 
 梢賢の考えに、永は軽く頷いた。
 
「断定はできないけど、可能性はあると思うね。その亡霊がどこの国のどの時代の人かがわからないから、服装の話は頭の片隅に置くくらいでいいと思う」
 
「ふむ。重要なのは、初代が会った(ぬえ)の亡霊は人間だった──ちゅうことやな?」
 
「あ!」
 
 梢賢の示したものの重要さに蕾生も気づいた。それは今までの認識を変えそうなくらいのものだった。
 
「そう。僕が(はなぶさ)治親(はるちか)だった時に会った鵺は最初から獣だった。けど、ここの部分を読んで欲しいんだけど──」
 
 今度は永が書物の頁を捲って指差した。それを覗き込んだ梢賢が読み上げる。
 
「あー、「私は呪いの成れの果て。私は黒い獣」ってその亡霊が言ったってとこやな?」
 
「うん。つまり、鵺は元々人間だった──のかもしれない」
 
「それって、俺と同じってことか?」
 
 蕾生が聞けば、永は少し歯切れ悪く答える。
 
「うん……お坊様が会った亡霊もかつて鵺に呪われた人なのかも」
 
「ちゅーことは、ライオン君がそいつから鵺の呪いを(なす)りつけられたってことやんな?」
 
「まあ、今の所はそう考えるのが良さそうだね」
 
 断定はしないものの、永がそう結ぶと梢賢は肩で息を吐いた。
 
「なるほどなあ。呪いの発生源みたいなもんは見えてきたけど、呪いを解くってなると何もわからんな」
 
「そうなんだよ。結局お坊様が会った亡霊は繰り返し転生させていることを伝えただけだった。
 だから当時の僕は一生懸命お坊様に説明したんだ。英治親がどうやって鵺を倒したのか。雷郷(らいごう)がどんな風に鵺化したのかをね」
 
 梢賢は永に説明を聞きながら書物を捲る。
 
「うん、それは本にも書いてあるよ。それを聞いた初代が萱獅子刀(かんじしとう)慧心弓(けいしんきゅう)を使えば鵺を倒せるかもしれんっちゅーアドバイスをしたんやな?」
 
「そう。僕らは未だにその教えに従って、萱獅子刀と慧心弓を探している」






「んん?待てよ、ご先祖の事を悪く言うのも気が引けるんやけど、本当にその方法が最善なんか?あくまで初代の考えやろ?」
 
 思ってもみない梢賢(しょうけん)の冷静な疑問に、蕾生(らいお)は思わず語気を強めた。
 
「はあ?そこを疑うのかよ?んなこと言ってたら何もできねえぞ」
 
 今までそうだと信じてやってきたものを否定されてしまったら、何もかもが無駄だったことになる。(はるか)の九百年が無駄だったなんて蕾生は信じたくなかった。
 
「そらそうやけど、オレは身内だから却って心配なんやで。もし君らが初代の、仮に間違った方法にとらわれて正解を見失ったまま何百年も過ごしたんだとしたら、えらい申し訳ないやん!」
 
 身内ならではの視点でないとそれは出てこないだろう。梢賢の心配に永は笑って答えた。
 
「はは、それは大丈夫。確かにこの方法が最も正解なのかはわかんないけど、萱獅子刀(かんじしとう)慧心弓(けいしんきゅう)を使った時はある程度の効果があったよ」
 
「ほんとにぃ?今までかてよくて相打ちなんやろ?」
 
「それを言われると耳が痛いんだけど、その時々で事情も違うし、銀騎(しらき)からの邪魔もかなり入ったしね」
 
 肩を落として言う永に、蕾生は質問を投げかけた。
 
「ある程度効果があったってのは例えばどんなのだ?」
 
「うーんと、それなんだけど、どうも記憶が曖昧でね……特に前後関係なんか朧げで」
 
 だが、永は急に自信を無くして言った。
 蕾生もそんな回答が出るとは思わず目を丸くする。
 
「そう、なのか?」
 
 永にわからない事があるなんて、蕾生の常識ではあり得ない。そんな閉じられた常識を打ち破ったのは梢賢だった。
 
「そらあ、そうやろな。前世の記憶なんちゅーもんはないのが当たり前や。なのにハル坊は三十三回分、九百年分の記憶がある──ていう意識があるだけでもえらいこっちゃ。
 何年のいつにあんなことがあった、なんて細かく覚えててみい。絶対精神がやられてまうで。そうならないように忘れるべきなんや、本来はな」
 
 流石に寺の息子は言う事が違う。そういう知識もないまま「永が全部知ってるから大丈夫」だと今まで思っていた蕾生は反省した。
 
「そうか。永はずっと覚えてるんだと思ってた。だから相当大変なんだろうなって」
 
「てへへー、ちょっとカッコつけ過ぎちゃったかあ」
 
 蕾生が落ち込みそうになると戯けて誤魔化す永の癖は変わらない。蕾生が気にしないように、鵺化しないようにわざと深刻ぶるのを止めるのだ。
 
「いや、ちょっとホッとした。永が大変なのは良くない」
 
 そういう蕾生への気遣いだけでも大変だろうに、九百年分の知識が蓄積されているなら頭がどうかしてしまわないか蕾生はずっと不安だった。
 だが、梢賢の言う通りだとすると、永にも負担にならないようなストッパーのようなものがあることは喜ばしい。
 
「あ、ありがと。それでね、この本を読んだら、少なくとも雲水(うんすい)雲寛(うんかん)親子と体験したことはかなり思い出せたよ。やっぱり記録に残すって大事だね」
 
 少し照れながらも、永は書物を眺めてうんうん頷いていた。
 
「せやな。君ら本人は死んだら全くの他人に生まれ変わる。記録を受け継ぐことなんてできん。その代わりにウチのご先祖がこうやって書き記したんやろな」

「だから、これ以降の記録が盗まれたのが本当に惜しいよ。記録が読めたらはっきりと思い出せることが沢山あると思うんだ」
 
「それはそうかもしらんけど……」
 
 梢賢は少し不安になった。仮に盗難などなくて全ての記録を一気に永に見せれば、九百年ぶんの知識を思い出すことになる。そんな記憶の奔流みたいなことが起こったら、果たして永は正気でいられるのだろうか?
 
 梢賢がそんなことを考えていると、急に永の焦った声がした。
 
「リン?大丈夫か?顔、真っ青じゃないか!」
 
「だ、大丈夫です」
 
 全く会話に入って来なかったので、鈴心(すずね)の存在をつい忘れてしまっていた。ベッドに腰掛けたままくらくらと体が揺れるほどに具合が悪そうだった。
 
「そうは見えんで!だから横になってもええって言ったのに!」
 
 梢賢がそう叫ぶと、鈴心は意識も朦朧となっているのに顔をしかめていた。
 
「嫌です……臭い……」
 
「そこまで!?」
 
 もうショックで立ち直れそうにない。
 
「梢賢、入るよ」
 
 いきなり襖を開けた優杞(ゆうこ)の登場が、梢賢には女神のように思えた。
 
「ああ、姉ちゃん!ええとこに来た!鈴心ちゃんが具合悪いみたいなんや」
 
「ええ?あらほんと、顔色が悪いね。すぐに別の部屋に布団敷いてあげるわ。ここは臭いからね」
 
「姉ちゃんまで!?」
 
 ショックで固まった梢賢を他所に、永が優杞に鈴心を託そうとした。
 
「すみません、よろしくお願いします」
 
「いいのいいの、女の子はね、色々大変なことがあるのよ」
 
「そ、そんなんじゃ、ありません……」
 
 鈴心は息苦しそうにしながらも言い張るが、それを優杞が優しくいなした。
 
「いいからいいから。後は野郎達に任せましょ。梢賢、あんたその二人連れて藤生(ふじき)に行きな」
 
「へ?」
 
 我に返った梢賢は間抜けな声を出す。そんな弟の反応を無視して優杞は言った。
 
「蔵の盗難の件で長達が話し合ってる。あんた達からも話が聞きたいってさ」
 
「ハル坊達は盗んでへんよ!?」
 
「それはわかってる。でもあんた達を尋問しないと収まらない連中がいるんだよ」
 
「けど──」
 
 梢賢が躊躇っていると、蕾生も永もケロリとしていた。
 
「俺達なら平気だ、なあ?」
 
「そうだね。尋問って言われるとちょっと怖いけど、その場に行くことで何か情報が得られるなら僕らは喜んで行くよ」
 
 二人の態度に優杞は笑っていた。
 
「いい度胸だ。うちの弟ばっかり女々しくて、あたしは悲しいわ」
 
「そんなん男女差別やあ!」
 
 そうして鈴心を優杞に預けて、永と蕾生、それから梢賢は藤生家に向かった。
 鈴心の体調変化は熱中症だろうと、この時は誰も疑わなかった。







 梢賢(しょうけん)(はるか)蕾生(らいお)を連れて再度藤生(ふじき)家に行くと、家の玄関先で高校生くらいの少女と小学校高学年ほどに見える少年がビー玉で遊んでいた。
 それを見て、梢賢は苦虫を噛み潰したような顔をする。
 
「あれ、梢賢」
 
「げ。ルミ」
 
 少女は梢賢に気づくと、こちらも負けずに顔をしかめて嫌悪を表す。
 
「なあに、その格好。大学デビュー失敗したの?」
 
「何言うてんねん!大成功やがな!女子大生にモッテモテやで!」
 
「……え、何、その関西弁。イタ……」
 
 ドン引きする少女の態度に、永も蕾生も笑いをこらえるのが大変だった。
 
「う、うっさいな!オレらは康乃(やすの)様に呼ばれたんや、行くで!」
 
 憤然となった梢賢はそう言い捨てて、先に玄関へ入っていく。永と蕾生はそこで自己紹介をする時間はなかったので会釈だけして梢賢について行った。
 
 その姿を見送る少女の冷ややかな目と、少年のキョトンとした顔には気づかなかった。

 
「今の、誰?」
 
 永が聞くと、梢賢はすっかり機嫌を悪くしており面倒くさそうに言う。
 
「ああ?あいつは眞瀬木(ませき)瑠深(るみ)(けい)兄やんの妹で高三」
 
「じゃあ男の子は弟か?」
 
 続けて蕾生が聞くと、梢賢はまだ怠そうにして答えた。
 
「違う。あの子は康乃様の孫の剛太(ごうた)くんや。だいぶ繊細な子でな、大人がぞろぞろここに集まる時は不安定になるから瑠深がお守りしてんねん」
 
「ふうん……」
 
 この村に入って初めて見た子どもだった。よく見なかったが、あの少年から永は言い知れない違和感を感じていた。だが、今はそれを考える時ではない。
 大広間に通されると、康乃をはじめ、眞瀬木(ませき)墨砥(ぼくと)(けい)雨都(うと)柊達(しゅうたつ)橙子(とうこ)、それから楠俊(なんしゅん)が勢揃いしていたからだ。
 
雨都(うと)梢賢(しょうけん)、入ります!」
 
 梢賢は半ばヤケクソで一礼する。大人達の視線が痛かった。
 
 続けて入った永も、村の重要人物が雁首揃えて一列に座っている様を見て少し怯んだ。
 大人の高圧的な雰囲気に蕾生は不機嫌になっている。
 
 すでに一段上の畳で座っている康乃が柔らかな声で話しかけた。
 
「こんにちは。ごめんなさいね、わざわざ来てもらっちゃって」
 
「いえ、僕らは大丈夫です」
 
 永は愛想笑いを浮かべたものの、蕾生にはそんな芸当はできず、軽く睨みながら辛うじて頭を下げた。
 
「どうぞ、お座りになって」
 
「はあ……」
 
 康乃が促した席は、一段下のど真ん中。康乃の対面だった。
 
「梢賢くんはこっち!」
 
 部屋の端で横並びに座る楠俊が梢賢を小声で呼ぶ。それで梢賢は楠俊の隣に正座した。
 
「本当にごめんなさいね。そんな場所じゃまるで被告人よね」
 
「まあ、いいですけど」
 
 その言葉から永はすでに疑われていることを悟った。それでも言われた通りに中央に正座する。
 蕾生も渋々隣に座ったが、胡座をかいてやった。
 
「もう一人の女の子はどうなさったの?」
 
「あ──御堂(みどう)鈴心(すずね)は体調を崩してしまって、雨都の家で休ませてます。優杞(ゆうこ)さんがついていてくれると……」
 
「まあ、そうなの。可哀想に。ここは山の中だけど盆地ですからね、暑さが厳しいのよ」
 
 労りの言葉をかける康乃に、墨砥が咳払いをして訴えた。
 
「御前、そろそろ……」
 
「わかってますよ。ええと、雨都の蔵に盗人が入って文献が持ち出されたことは聞きました。あえて確認するけれど、貴方がたではないわよね?」
 
「違います」
 
 永はあえて無表情で短く答えた。蕾生はぶすったれて明後日の方向を向いている。
 
「わかりました。それで梢賢ちゃん、文献は全部盗まれていたの?」
 
「いえ、少し残ってました」
 
「何が盗られたのか聞いても?」
 
「それは──」
 
 梢賢は躊躇いながら母の顔色を伺う。橙子は澄ました顔のままで言った。
 
「康乃様にご報告なさい」
 
「わ、わかりました。ええと、まず我が一族が(ぬえ)と関わってきたことを時系列にまとめた秘伝書が二冊。
 初代雲水(うんすい)から八代雲謙(うんけん)までのものと、九代雲覚(うんかく)から十四代雲善(うんぜん)までのものです。
 それから六代雲徹(うんてつ)、八代雲謙、十四代雲善、十五代雲信(うんしん)の日記。
 後は(かえで)婆の日記です」
 
 蕾生が驚いて感心するほど、梢賢は蔵書についてスラスラと淀みなく言ってのけた。永も梢賢が蔵書についてかなり読み込んでいる証拠だと感じていた。
 
「なるほど。では残ったものはあるの?」
 
「はい。初代雲水の記録を二代雲寛(うんかん)が書物にしたものは残ってました。それとウチが雨都になってからの記録は概ね残ってます」
 
「そう……。では犯人はやはり鵺に関心がある誰か、ということかしら」
 
「ですかねえ……」
 
 康乃が首を捻って疑問を述べるのと同じ調子で梢賢も返していた。






 康乃(やすの)は着眼点を変えて、今度は柊達(しゅうたつ)に尋ねた。
 
「達ちゃん、蔵に盗人が入ったのはいつ頃だと考えられる?」
 
「そうですね。まず愚息は四月から大学に通うため家を出ているので、それ以降は蔵に入っておりません。四月から今日までは恐らく私しか出入りしていないでしょう。ですが私も月に一度くらいが関の山で──」
 
 柊達の長くまとまらない報告をやんわりと止めて、康乃は端的に聞いた。
 
「それで、最後に蔵に入ったのは?」
 
「詳しくは覚えておりませんが、二週間ほど前でしたか……少し換気と掃除に入ったくらいで」
 
「なるほど。それ以外はもちろん施錠を?」
 
「御意にございます」
 
 そこまで聞くと康乃は溜息を吐いた。
 
「ふう。困ったわね、今日蔵に入った時も鍵は壊れてなかったんでしょう?」
 
「はい。特に不自然なことはありませんでした」
 
「まあ……そうなの……」
 
 梢賢の答えにまた康乃が首を捻っていると、その空間を切り裂くような(けい)の鋭い声が響いた。
 
「──銀騎(しらき)なのでは?」
 
 その発言に、並んでいた大人達はギョッと目を見開いた。永と蕾生もそれは注視せざるを得なかった。
 
「け、けけ、珪!」
 
 墨砥(ぼくと)が慌てて嗜めると、珪はそれを意にも介さず余裕の笑みを浮かべて言った。
 
「──ああ、すみません。つい思ったことを喋ってしまいました」
 
「銀騎を、ご存知なんですか?」
 
 永が警戒しながら聞くと、その感情を読み取ったのか珪はさらに笑って語る。
 
「そりゃあ、知ってますよ。雨都さんちの敵ですからね。ここに雨都を住まわせる時にも説明してもらったって話ですし」
 
 その話は確かに筋は通っていた。だが彼はそれ以上のことを知っていると永は肌で感じていたが、あえて表には出さなかった。
 
「そうですか。でも銀騎ではないと思います」
 
「ほう?その理由をお聞きしても?」
 
「──仕方ないですね」
 
 永はその安い誘導尋問に乗ってやることにした。
 
「僕らは銀騎とつい最近まで揉めていました。
 色々あったんですけど──当主の孫娘を救う手伝いを僕らがして、偶然ですけどライくんが鵺になったことで力を示し、銀騎が降参する形で僕らとは和解しました。
 今も銀騎の次期当主がバックアップしてくれていますから、この期に及んで僕らを害することはしないと思います」
 
 すると珪は腕を組んで更に永に注目した。
 
「へえ……興味深い話ですねえ。詳しくお聞きしたいな」
 
「お断りします」
 
 にっこり笑い返して永が言うと、珪は少し眉を顰めた後挑戦的な物言いで応えた。
 
「おや。銀騎と同盟関係にあるとはいえ、雨都は君達の恩人。そしてこの里は雨都の恩人のようなものだ。恩人の恩人がお願いしているのに?」
 
「雨都の方にならお話します。失礼ですけど藤生や眞瀬木の方と僕らはまだそんなに親しくないですよね」
 
 さらににこにこ笑って永がきっぱり断るので、珪も満面の笑みを浮かべていた。
 
 そのやり取りを見て、蕾生は星弥(せいや)(はるか)の口喧嘩の方が百倍マシだと怖気とともに思った。
 
「珪!いいかげんに黙りなさい!差し出がましいぞ!」
 
 ついに墨砥が叱責すると、珪はあっさりと引き下がった。
 
「申し訳ありません」
 
「珪ちゃんも我慢できなくて困った子ね。周防(すおう)さん、私に免じて許してやってちょうだい」
 
「はあ……」
 
 康乃ののんびりとした口調で毒気を抜かれた永は生返事で感情を持て余していた。そんな様子に梢賢はそわそわと落ち着かない。
 
「まあ、話のついでだから銀騎さんについての私の考えを言えば、銀騎さんはここの結界を発見してはいないんでしょうからこの件には関係ないと思うわ」
 
「その通りだと思います。次期当主も雨都についての現在の情報は持っていないようでした」
 
 永が頷きながら答えると、また珪が含み笑いをしつつ口を挟む。
 
「けれど君達は彼らのバックアップを受けてここに来たんでしょう?すでにこの里の所在は報告済みでしょうし──」
 
「それは、そうですけど……」
 
 困ったな、どう言えばこいつは大人しくなってくれるんだ、と永が考えていると、墨砥が更に激昂して怒鳴った。
 
「珪!」
 
 だが珪はそれを無視して侮蔑を含んだ声で言う。
 
「鍵を壊さずに普通の人間が入れますか?銀騎が式神でも使えば容易でしょう?あいつらの鵺に対する執着を、周防くんは甘く見ているのでは?」
 
「……」
 
 あまりに遠慮のない物言いに、永は衝撃とともに怒りを感じていた。こいつに銀騎の何がわかると言うのだろう。
 そして蕾生もその隣で激しい怒りを携えて珪を睨む。
 
「珪!!」
 
 怒鳴る墨砥の声は終いには掠れてしまう程だった。だが、そんな父の怒りなどどこ吹く風で、珪は薄く笑っている。
 
「珪ちゃん、言い過ぎですよ。年少者を煽るなんて関心しないわね」
 
 遂には康乃が諌めたことで珪はやっと頭を下げた。
 
「申し訳ありません」
 
 少しの静寂の後、柊達が呟くように言った。
 
「では、銀騎の可能性は薄いという彼の言葉を信じるとして、他に誰が──?」
 
 それにまたしても珪が挑発的な顔で答える。
 
「銀騎でないなら、後は──雨辺(うべ)ですかね?」
 
 それは爆弾投下にも等しい発言だった。柊達も橙子も楠俊でさえも、目を大きく見開いて珪を睨んでいた。
 
「珪!!お前はどういうつもりだ!もういい、出ていきなさい!」
 
 怒りで倒れるのではないかと思われるくらいに激昂する墨砥を他所に、康乃は大きな溜息をついて立ち上がった。
 
「もう結構です。話し合いにならないわ。今日はおしまい」
 
「御前!申し訳ありません!」
 
 墨砥の土下座も無視して、康乃は珪に冷たく言い放つ。
 
「珪ちゃん、しばらく藤生への出入りを禁止します。よく反省なさい」
 
 珪は無言で土下座した。
 それを一瞥した後、康乃は大広間を出て行った。
 
「橙子殿、この度は申し訳ない」
 
「いえ……」
 
 墨砥が頭を下げて謝るもその怒りは収まらないようで、橙子はずっと珪を睨んでいた。
 
「珪、帰るぞ!」
 
「はいはい」
 
 台風の目のような親子はそそくさとその場を退出した。