「な、成実ですか!?」
永があまりに驚いているので、蕾生は隣の鈴心にこっそり聞いた。
「なんだ?それ」
「かつての英家の政敵です。治親様が戦で負けた相手です」
鈴心も永に負けないほど驚いていた。そんな三人の反応を気にする風もなく康乃は思い出を語るように言う。
「そうね、一度は成実家は政権をとった。その際に滅ぼされた英治親氏は不遇でした。
けれど、別の英家が盛り返し、今度は成実が倒された。私達は敗戦の際に落ち延びてこの村に辿り着き、名前を変えてここに隠れ住んでいるの」
「そう、だったんですか……」
「雨都の──当時は雲水一族ね。彼らがここに辿り着いたのはずうっと後の時代になってから。それも偶然よ。
彼らの境遇に同情した私達がここに匿うことにしたの。それ以来、雨都家にはこの里の神事などを任せています。元々が僧侶の家系でしたからね」
そこまで話したところで、墨砥が小さな声で釘を刺そうとする。
「御前……」
「あらいけない、喋りすぎてしまったかしら。次は貴方達のことを聞かせて」
お茶目に笑った顔は、その余裕さを物語っている。
永は注意深く探りを入れることにした。
「ええと、何をお知りになりたいので?」
「そうねえ……やっぱり鵺のことかしら」
「鵺、ですか。ですが、そちらでもかなり詳しくご存知なのでは?」
ずばり聞いてくるとは、永は無意識に身構える。大胆なこの女傑はそんな永に向かって柔らかな口調で言った。
「そんなことはないのよ。雨都の文献は秘蔵ですから、この私も見たことはないの。雨都はあくまで同盟みたいな関係でね。適度な距離をとっているのよ」
「そうですか。でも僕らも鵺の呪いについてはわからないことばっかりで。藤生さんのご満足いく話ができるかどうか……」
「お若いのにはぐらかすのがお上手なのね。そちらの唯さん──が鵺に変化できるというのは本当かしら?」
遠慮のないその発言は永と鈴心の体を強張らせた。
蕾生はドキリと慌てて「違う」と言おうとしても言葉が出なかった。
「いや、俺は──」
そんな蕾生を優しく制して、永が代わりに答える。息を吐いて、観念するように努めて冷静に言った。
「確かに一度彼は鵺に変化しました。本来はそういう呪いのはずです。今、何か特殊能力のように表現されましたが、それは全くの誤解です」
鈴心もそれに追随する。少し怒った表情で。
「私達は彼が鵺に変化しないように、何回も転生を繰り返しているんです」
康乃は少し驚いていた。三人の反応は予想外だったようだ。
「そうだったの。気を悪くしたならごめんなさい。では貴方達はその呪いを解く手がかりをこの里に見つけに来たのね?」
「おっしゃる通りです。ですから、僕らにこちらで調査する許可を頂きたいのです」
その反応が本心からのもなのかが永には判断がつかなかった。銀騎詮充郎とはまた違った老獪さを感じて、永は急いで本題を提示した。あまり長居はしたくなかった。
すると康乃は即答した。
「構いませんよ。必要なことがあれば何でもこの眞瀬木墨砥に言ってください」
「ありがとうございます」
その場で永は一礼する。もうこの話は終わりにしてください、と言わんばかりに。
「梢賢ちゃん、彼らのお世話は雨都に一任します」
「はっ」
「では今日はこの辺で。何もない里ですけど、ゆっくりしていらして」
そう言い残して康乃はまた音もなく部屋出て行った。
「ふう……」
プレッシャーから解放されて思わず息を吐いた永に、墨砥が急に話しかけた。
「私からもひとついいかね」
「あ、はい」
「御前はああおっしゃっているが、君達部外者が里に入ったことを公にしたくない。君達が調査できるのは雨都家の周辺のみに限定させてもらおう。
雨都と藤生、眞瀬木以外の住民と触れ合うことは禁止させていただく」
厳しい目でこちらを見る墨砥はまるで番犬の様だった。
「──わかりました」
「では、私も失礼する。梢賢、くれぐれも頼むぞ」
「はあい」
そうして墨砥もまた音もなく部屋を出て行った。残された梢賢が困ったように笑う。
「すまんなあ、仰々しいおっちゃんで」
「眞瀬木って人は麓紫村ではどんな地位なの?」
永が聞けば、梢賢はヘラヘラ笑って答えた。
「眞瀬木は藤生の分家や。だから、おっちゃんが自分で行った通り、藤生の側近。ま、門番みたいなもんや」
「忠臣って感じですね」
鈴心が感想を言うと、梢賢は頷きながら鈴心と蕾生を交互に指差した。
「まあな、君らと似た者同士やないの?」
「そうですね……」
「そうか?それにしては、なんか違う感じがするな。うまく言えねえけど、ただの手下じゃないって言うか──」
眞瀬木墨砥からは確かに蕾生が永に抱くような絶対的なものを感じていた。
だが、それだけではなく何か小さな違和感もある。それがわからなくて蕾生はなんだかモヤモヤしていた。
「ライオン君、その野生のカンは大事にしいや」
「?」
梢賢はそう言って蕾生の胸をつついた。それから明るく言い放つ。
「ほなら、いよいよウチに行こか!」
そうして四人は部屋を出てまた人気のない玄関へと向かった。
梢賢は藤生の家を出ると、来た道を戻り左の寺を指差した。
「ま、さっき見たやろけど、予想通りこの寺がウチやねん」
「だよね」
寺の門構えを見上げながら永は頷いていた。
蕾生もその奥の寺の規模に少し驚いている。
「結構でかい寺だな」
「まあ、里で唯一の寺やからな」
「では、あっちのお屋敷は?」
鈴心が右側の屋敷を指差して聞く。
藤生の屋敷に比べると小さいがそれでも雨都の寺よりは大きく見えた。
「あっこが眞瀬木んちや。眞瀬木、雨都、奥に藤生。この三家の住まいが建ってるあたりを鳴藤地区て呼んでてん」
「ふうん。一目でここが村の重要な場所だってわかるね。だから結界が?」
続けて永が聞けば、梢賢は肩をすくめて答えた。
「そやね、しらばっくれても無駄やろうから白状するわ。この鳴藤地区には特別な結界が張られとる。銀騎への目眩しや」
「術者は眞瀬木ですか?」
鈴心がきっぱりと尋ねると、梢賢はわざと一歩後ずさるリアクションをした。
「えー、なんでそないにドンピシャ当てられるのん?ほんと怖いわ」
「ただの消去法ですけど」
「眞瀬木の人って陰陽師なのか?」
蕾生にとっては結界イコール陰陽師という知識しかまだない。
「いや、厳密には違うらしいで。民間発祥の呪術師って聞いてるわ」
「ふうん……意外にすんなり教えてくれるんだね」
永が少し意地悪く言うと、梢賢はそれを躱すように戯けてみせた。
「あらヤダ!オレのことまで疑わんでほしいわあ。オレは君らの味方やで」
「それはどうも」
苦笑しきりの永の横で、真面目な鈴心が真面目に疑問を述べる。
「でも、銀騎への目眩しなら雨都家の敷地だけ隠せばいいのでは?」
「さっき康乃様が言うたやろ。ムニャムニャ一族の子孫だから隠れて住んでるって。眞瀬木かてお世辞にも真っ当な生き方してへんからなあ。隠れるならまとめて、っちゅーこっちゃ」
「藤生の本来の姓を言うのは禁止なんだ?」
その言葉を受けて永が聞くと、頭の上で手を組んで溜息吐きながら梢賢は答えた。
「まあ、誰に聞かれてるかわからんからなあ。念には念を入れてや。特にオレんちは居候やから厳守せんと」
「雨都のここでの地位は低いんですね」
「そうや。ただ飯食いやからな。こう見えて気苦労が多いんですわ」
梢賢の物言いからも前時代的なものを感じざるを得ない。実際にこの村の様子を見た三人はそれを改めて納得する。本当に時が止まった世界にタイムスリップしたような気分だった。
長々と立ち話をしていても仕方がないので、四人は寺の門を通る。短い参道を箒で掃いている若い僧侶がいた。
「ナンちゃーん!お客人連れてきたで」
「──ああ、これは遠路はるばるようこそ」
僧侶は梢賢達の姿に気づくと、にこやかに笑いながら近づいた。
「オレの姉貴の婿さんや」
「初めまして、雨都楠俊です。実緒寺の副住職をしております」
丁寧に頭を下げて挨拶する楠俊は、その声の印象からも穏やかな人物だと言うことがわかる。僧侶の格好をしているが、頭髪がまだあった。スポーツ刈り程の長さだ。
「周防永です。お世話になります」
「唯蕾生っス」
「御堂鈴心です」
三人が順番に挨拶すると、楠俊は参道からそれて母屋だと思われる建物へと入っていく。
「おーい、優杞さーん」
それについていくと、楠俊が呼びかけてすぐに若い女性が小走りでやって来た。
「はいはい。ああ、梢賢お帰り!皆さんもようこそいらっしゃいました」
「こんにちは」
三人が挨拶とともに一礼すると、横で梢賢が情報を付け足す。
「で、これがオレの姉ちゃんや」
「姉の優杞です。よろしくね、さあ、どうぞどうぞ」
ショートボブの髪をヘアピンで留め、パンツスタイルの優杞は快活そうな印象だった。
「お邪魔します」
緊張しながら玄関を上がろうとする三人に、梢賢は小声でさらに情報を付け足した。
「姉ちゃん、外面はええけど怒るとやっかいやで。気ぃつけや」
「梢賢、なんか言ったか?ん?」
かなり小さな声での耳打ちだったが、優杞は梢賢を威圧するように笑いかける。それはさながらレディースの総長のようだった。
「いいええ!ボクハナニモ──」
蛇に睨まれた蛙よろしく、梢賢は固まって片言で首を振るのが精一杯だった。雨都家では男性の地位が低いのかもしれないと永は思った。
奥の座敷に通された三人を一組の男女が待ち構えていた。
楠俊より明らかに格上の僧侶と、和服をきっちりと着て厳しい表情で正座する女性。見た目の年齢からこれが梢賢の両親であることは明白だった。
「いらっしゃい」
梢賢の父と思しき男性は低く抑揚のない声で一言述べただけ。
「こんにちは」
続く母と思しき人物もただ一言発するだけで、一瞬で空気が重苦しくなる。
「あああ、オレの父ちゃんと母ちゃんや!」
そんな両親の重たい雰囲気を軽くしようとしたのか、梢賢は殊更明るく三人に紹介した。
「初めまして、周防永です。この度はよろしくお願いします」
「唯蕾生です」
「御堂鈴心と申します」
梢賢の両親の重く厳しい雰囲気に、永はその場でしゃがんで頭を下げる。蕾生もそれに倣い、鈴心は手をついて一礼した。
「んんー、カタイカタイ!姉ちゃん、なんか飲み物持ってきてや。オレのとっときのやつ!」
「そ、そだね」
梢賢と優杞は更に明るく振る舞ってバタバタと動いた。そんな二人の様子に苦笑しながら楠俊が三人に声をかける。
「まあ、どうぞ楽にしてください」
「……」
楠俊はそう言うが、梢賢の両親はすでに永達の方を見ておらず、まるで瞑想をするように目を伏せ黙っていた。
とりあえず居間の端に座ったものの、気まずい空気が流れ続け、三人は緊張と相まって息が詰まりそうだった。
息が詰まりそうなほどの沈黙の中、救世主が現れた。
「まま、これオレのお気に入りのジュースやねん。わざわざお取り寄せしてるんよ」
梢賢は「高級!」と書かれたラベルの瓶ジュースを手に戻ってきた。後からグラスを運んできた優杞とともに愛想笑いを浮かべて全員に注いで回る。
「はあ。いただきます」
永にしてもその笑顔が張り付いており、緊迫から微妙な雰囲気に格上げはしたがまだ居た堪れなかった。
そこで、梢賢は大袈裟にグラスをぐいっと飲み干して笑う。
「んー!これこれ!やっぱりんごジュースはこれやないとあかんわあ!」
「梢賢、さっきから黙って聞いていれば、なんだそのお笑い芸人みたいな喋り方は」
「ピッ!」
だが、父の柊達は更に不機嫌になって梢賢を睨みつける。
「馬鹿がますます馬鹿に見える。やめなさい」
「すいません!」
母の橙子からも辛辣な言葉が出て、梢賢は結局その場で縮こまった。アイデンティティとは何かを考えざるを得ない。
「まあいい。不肖の息子が色々と迷惑をかけたようですまなかった」
柊達は肩で大きく息を吐いて形式上謝った。
それに永達は恐縮しながら答える。
「あ、いえ!僕らこそ、また雨都の方にお会いできて本当に心強いです」
「毎度ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
永の謝辞と鈴心の侘言の後、ぼうっとしている蕾生を柊達が軽く睨んだ。
お前は何かないのかと言わんばかりだ。
「すいませんでした……」
仕方なく蕾生も頭を下げたが、具体的な事は言えなかった。
そうしてやっと橙子が口を開く。
「まあ、あらましは梢賢から聞いています。それに私が子どもの頃は叔母からも散々聞かされました」
「楓サンからですか?」
「ええ。母の目を盗んではいろいろとね。あの頃は御伽話のようで楽しく聞いていたものだけど、いざ息子が関わると思うとねえ……」
「……」
当然の言い分に、永は二の句が出なかった。
「ご存知かもしれないが、楓の姉である私達の母は二年前に亡くなっている。母は妹が受けた鵺の呪いを最期まで憎んでいた。その想いは代を変えても私達の根幹にあると承知おかれよ」
「はい……」
吊し上げの様ではあるが、永は甘んじてこれを受け入れる。その横で鈴心が控えめに申し出た。
「あの、ご迷惑でなければ、楓さんの墓前に参りたいのですが……」
「悪いが墓に行ってもらっても楓はいない」
「──え?」
ひたすら不機嫌なままの柊達の言葉に鈴心が聞き返すと、橙子が息子を促した。
「梢賢」
「ああ……」
短く返事をした後、梢賢は胸元から小さな石のついたペンダントを取り出した。それは翡翠のような色の石で、鈍く光っている。
「楓婆ならここや」
梢賢のその言葉の意味を永も鈴心も理解できなかった。
「ええ?」
「どういうことです?」
二人の様子に、橙子は眉を顰めながらも説明を始める。
「説明しなくてはわかりませんね。楓は鵺の呪いを受けて里に帰ってきましたが、徐々に体が弱っていき、遂には寝たきりになりました」
予め梢賢から聞いてはいたものの、具体的に表現されて、永はショックを隠せず、鈴心は一瞬で青ざめた。
「里で、その……そういうことに詳しい方の治療を受けながら、細々と、それでも七年生きました。私は当時子どもだったので、叔母が亡くなったと聞かされたのは少し後のこと」
そして橙子は静かに不可思議な事実を告げる。
「母に聞いた話をそのまま申し上げますが、叔母はある時その石に身を変えたそうです」
「──」
予想もしていなかった事に、永は何も言うことができなかった。
「以降、その石を楓石と呼んで、母が肌身離さず持っていました。それを私が結婚する時に受け継いで、今は梢賢に持たせています」
「拝んだってや、気持ちは届くかもしれん」
梢賢はペンダントを首から外して鈴心に渡した。震える手でそれを受け取った鈴心は驚愕と衝撃で瞳を震わせる。
「そんな、楓……」
「なんてことだ──」
二人の悲しみが居間全体に広がっていく様だった。沈黙の中、蕾生はその楓石に注目する。
不思議な感覚がした。何か大切な感情がそこに吸い込まれていくようだった。
「申し訳ありませんでした。僕らは何も知りませんでした」
永は土下座して謝罪する。
「楓さんのその後に気を配れずに申し訳ありません」
梢賢にペンダントを返して鈴心も頭を下げた。瞳には少し涙が滲んでいる。
蕾生も二人に倣って一礼した。
すると幾分か態度を和らげて橙子は言った。
「いえ。貴方がたはとうに亡くなっていたんでしょう?叔母も後悔してましたよ、私だけ生き延びてしまったって」
「そんな!楓さんが生き残ったって聞いて僕らは救われたんです。こんな言い方は失礼かもしれませんが──」
「ありがとう。貴方がたも大変な運命を生きていらっしゃるのにね」
微かに笑う橙子の顔が、どこかで見たような面影を思い出す。蕾生は恐縮しきりの永を他所に不思議な感覚に支配されていた。
「ンン、先程は憎んでいると申し上げたが、私達は母ほどそれに支配されている訳ではない。今の君達の見せてくれた態度でそんな感情も薄れた。むしろ私個人としては君達の境遇には同情している」
「ありがとうございます……」
橙子が表した歩み寄りに倣って柊達も少し涙交じりになって理解を示す。それが永には有り難かった。
「過去を水に流す──ことはできないし、もう二度と楓のようなことはあってはならない。ましてや息子が同じ目にあうなど絶対に御免被る!」
「それはもちろんです!」
柊達に向けて永は力強く頷いた。
それに満足したのか、柊達も最後には声音を和らげて言った。
「そうならないためにも、私達ができることは協力して差し上げよう。蔵を開放するから気のすむまで調べたらいい」
「──ありがとうございます!」
永は許しを得た喜びを表す。鈴心も勢いよく一礼し、蕾生も静かに頭を下げた。
「なんや、父ちゃん!良かったわー、それならそうと早く言ってくれんと!長々ともったいぶって!」
全てを台無しにする梢賢の呑気な言葉を柊達は一喝するように睨む。
「ピッ!」
肩を震わせた梢賢の頬を優杞が摘みながら凄んだ。
「お、ま、え、の、心配、を、していたんだろうが、馬鹿が!!」
「ひいいい、ふ、ふいまひぇん……」
急なバイオレンスに三人が唖然としていると、優杞は我に返って誤魔化すように笑う。
「あら、いけない。オホホホ」
雨都家はもしかしたら愉快な人達なのかもしれない、と三人は心の中で頷き合った。
雨都家で話がまとまると、梢賢の父と母は会合があると言って忙しなく出ていった。
残された永達は途方に暮れかけたが、優杞が昼時なので素麺を振る舞ってくれた。後は勝手にやってもよいということなのだろう。
「ご馳走様でした」
「お粗末さまでした。すみませんねえ、母も父もバタバタと忙しくて」
「いえ、そんなことは」
恐縮してばかりの永の肩を乱暴に叩いて梢賢が笑った。
「ええやん。父ちゃんも母ちゃんもいない方がのびのびやれるわあ」
だがそんな弟を姉が視線で刺す。
「……」
「ピッ!」
それで梢賢は黙ってしまったが、鈴心がそれとなく優杞に聞いてみた。
「麓紫村は今お忙しいんですか?」
「そうね……ちょっと村興し?みたいな動きがあって。上の人達は毎日のように集まってるわ」
「村興しですか?」
意外な答えに鈴心が目を丸くしていると、永も驚きながら口を挟む。
「隠れて住んでる村なんですよね?そんなことして大丈夫なんですか?」
「どうなのかな……?ただ、もうそんな古いこと考えなくてもいいんじゃないか、みたいな動きがね……私もよくわからないんだけど」
優杞は明らかにはぐらかそうとしていた。そんな姉の様子を無視して梢賢は少し憎たらしげに付け足す。
「里の長老どもが額突き合わせて悪巧みしとるんや。俺らみたいな若い世代はそっちのけでな」
「お前は村興しに反対なのか?」
蕾生が聞けば、梢賢はどうでもいい事のように投げやりな態度で答えた。
「せやなあ。けんど、里に限界が来てるのは確かや」
「限界……」
永は何かを考えながらその言葉を反芻していた。
「まあ、ええやん!俺らの重要事項は鵺の方や。蔵にいこか?」
「うん……」
「まあ、こちらの事情は私達がとやかく言えることではありませんね」
鈴心が割り切って言うと、蕾生は早々に立ち上がった。
「だな。よし、行こうぜ」
「おっ、ライオンくん、威勢がええな」
「まあな。俺は二人に比べて知識が全然ないからな。早くいろいろ知りたい」
「いいねえ!勤勉な若者は眩しいっ」
上機嫌になって立ち上がった梢賢に、優杞は古い鍵を手渡した。
「はい、梢賢。蔵の鍵」
「サンキュー。じゃあ、行くで!」
元気良く先導する梢賢に、蕾生と鈴心も続く。永は少し遅れてまだ何かを考えながらついて行った。
母屋を出ると梢賢は裏口に周る。日陰の多い場所に大きな蔵が建っていた。
「立派なものですね」
鈴心が関心して言うが、梢賢は少し悔しそうにしていた。
「まあなあ。これで小判でも入っとったらよかったのに、中が紙切ればっかりっちゅー……」
愚痴をこぼしながら梢賢は蔵の扉を開ける。重い金属音とともに入口が開かれた。その中は閑散としていた。
「んん?」
「なんだ。蔵の見かけよりも入ってねえな」
蕾生の感想通り、蔵の中には棚が置いてあるが、そこには何も置かれていなかった。床に数枚の紙切れが散らばっているだけだ。
「……」
鈴心は即座に顔を強張らせ、蔵の入口辺りを注視している。
「ちょっと失礼」
異変を感じた永は梢賢に続いて蔵の中に入る。棚をよく見て、埃が四角い跡を作っているのを指差した。
「この辺、何かが置いてあったようだけど──」
「えらいこっちゃ……」
梢賢の顔は真っ青だった。
蕾生もそれでようやく異変を感じとる。
「どうした?」
「うちの文献がほとんど無くなっとる!」
その言葉に鈴心は驚愕し、永は深刻な顔で空になった棚を見つめていた。
「ええ?」
蕾生が訳もわからず声を上げると、梢賢は慌てて三人に言い含める。
「ちょ、ちょっと待っててな。君らはここを動かんといて!姉ちゃーん!ナンちゃーん!!」
言い終わらない内に梢賢は母屋に走って行った。
残された蕾生は永に聞いた。
「どういうことだ、永?」
「……蔵にあったはずの文献が無くなってるってことだろうね」
「梢賢の両親が隠したんでしょうか?」
当初永達に否定的だったのを鑑みて鈴心が言うと、永は首を振った。
「いや……蔵を解放するって言ってくれてたから、それは考えにくい」
「じゃあ、盗まれたとかか?」
「誰が?何のために?」
物が無くなれば盗られたと蕾生が思ったのは当然だが、蔵にあったものは他人にとっては価値がないに等しい物だ。永の疑問に蕾生も続ける言葉が出なかった。
沈黙したままの永達の所へ、梢賢が優杞と楠俊を連れて戻って来た。
「く、くく蔵に、ど──どどど、ドドドド」
「優杞さん、落ち着いて」
明らかに狼狽している優杞と楠俊を見て、永は冷静に言った。
「泥棒、だと思うんですか?」
「当たり前やん!」
代わりに答えた梢賢も瞳孔を開いて焦っている。永はその様子に飲まれないようにして更に聞いた。
「ご両親が僕らに見せないように書物を隠したとは?」
「そんなことする訳ないやろ!それはしっかり家族会議済みや!」
バタバタと大きな手振りで言う梢賢の言葉に嘘はないように思えて、永は溜息を吐いた。
「わかった。じゃあ、泥棒に盗まれたんだね」
「こんなん欲しいヤツいんのか?」
蕾生の当然の疑問を置いておいて、鈴心はもう一つの現実的な可能性を探る。
「蔵に金目のものは入れてないんですよね?」
「ああ、そんなん村の全員が知っとる。うちが村で一番貧乏なんはな!」
悔しそうに語る梢賢に永が手を挙げて聞いた。
「でも、寺って寄進とかあるよね?」
「うちは雇われ住職やねん。寺への寄進は全部藤生の方にするんや。うちは藤生から運営費を預かってるだけや」
「ふうん……」
永が形式上だが納得していると、蕾生が珍しく鋭いことを言った。
「でも犯人ってなると村人以外には考えられねえよな」
「そ、それは──」
梢賢が言葉に詰まっていると、楠俊と優杞がそれを引き継いだ。
「うちは寺だからね。門戸はいつも開けてあるし、里人なら誰でも出入りできるし、歩き回っても不審には思わない」
「そして外部からの人間はあんた達しか入っていない……」
全員が沈黙したのを破ったのは鈴心だった。
「矛盾してますね」
「うん。村の誰もがここにお金がないことを知ってる。でもここに出入りするのは村人でなければ不可能だ」
「つまり──」
蕾生が永を見て確認するように聞いた。
永は頷いて答える。
「泥棒の目的は蔵にある資料だった。鵺に興味がある村人がいるってことだね」
梢賢はその結論に衝撃を受けていた。
「そんなのあり得ない……」
優杞は否定するけれど、状況が物語る可能性に困惑していた。
「最後に蔵を開けたのはいつだい?」
すると楠俊が冷静に状況整理を試みる。
「ええ?そんなん覚えてへんわあ」
梢賢が投げやりに答えると、優杞の鉄拳が飛んでくる。
「私達とお母さんは蔵に近寄らないし、こそこそ蔵を出入りしてたのはお前とお父さんだけだろ!」
「ええー……いつだったかなあー、うーんと、うーんと」
「思い出さなかったら、どうなるのかな?梢賢?」
にっこりと拳を鳴らす優杞に梢賢は泣きそうになって抗議した。
「いや、もう一発殴られとるんですけど!?」
「優杞さん、どうどう。梢賢くんは三ヶ月ぶりに帰ってきたところでしょ!帰ってきてから蔵に入ったのは見てないよ?」
「それや!さすがナンちゃん!」
援護射撃に喜んだ梢賢は楠俊の後ろに隠れた。そして優杞はそれを聞くなり体の向きを変える。
「──と言うことは、残るはお父さんだね。ちょっと行ってくる!」
そう言いながら優杞は寺の門を飛び出していった。
「どこへ行くんでしょう?」
「会合場所でしょう。盗難の報告もその場でするはずです。そっちは優杞に任せて、僕らは現場を確認しよう」
鈴心の疑問に答えながら楠俊は蔵の方を見やる。
「ナンちゃん!探偵みたいやね!」
「茶化さないの。この場で蔵の蔵書を知ってるのは君だけだよ。確認して」
「せやな、わかった」
梢賢が再び蔵に入ろうとするので、永もそれに続く。
「僕らも入っていい?」
「おう」
そうして改めて四人は蔵に入る。灯りはないが、真夏の日中なので中はそれなりに明るかった。
「ええーっと」
「元々蔵書はどれくらいあったんですか?」
内部をキョロキョロしながら歩く梢賢に鈴心が聞いた。
「蔵書なんて言うほどのもんやないよ。ライオンくんの言った通り、見かけに反して中身は元からスッカスカや。一つにまとめたら段ボール一箱で済むやろうね」
「すると、棚に一冊ずつ、まるで資料館みたいに陳列してた感じかな?」
その話を受けて、蔵内部に設置された多数の棚を見て永が分析する。
「そうやね。婆ちゃんや母ちゃんの目盗んで読むんや。短時間でパッと探せるような置き方をしとった。父ちゃんがな」
「それはとても盗みやすい環境で……」
気持ちはわかるが、ずさんな管理の仕方に永は苦笑した。そして棚を隈なく見て周りながら梢賢が悲嘆に暮れる。
「ああー、うわー!あれもないー!」
「見た感じ、ほとんどやられてねえか?」
近寄って見るまでもなく、入口付近にいる蕾生にすらそれはわかっていた事だった。
「そうだねえ。根こそぎって感じ?」
「あかんわ、昔のやつは全部やられとる。秘伝書も、日記も──」
「秘伝書!?」
梢賢の言葉に鈴心と蕾生が目を光らせた。
「おい、なんだそのワクワクワードは」
「雨都、の前の雲水一族が代々体験した鵺との出来事を記したやつや。八代目と十四代目が纏めたやつがあんねんけど、どっちもないわ」
永が興味を持ったのは別の単語だった。
「日記って言うのは?」
「全員やないけど、何人かの先祖が書いた個人的な日記や。中には鵺のことが書いてあるやつもある。それも全部ない」
「じゃあ、何も残って──」
鈴心ががっくりと肩を落とすと、梢賢は一番隅の棚を指差して言った。そこは一際暗がりだった。
「いや、最近のは残ってる。里に来た時の記録と、雨辺が去っていった時の記録。それから檀婆ちゃんの日記も残ってるな」
「檀さんの、ですか」
「恨み言ばっか書いてある根暗日記や。まてよ、すると──ああ!ない!クッソォ!」
何かを思いたった梢賢はもう一度暗がりに戻って確認すると殊更に悔しがった。
「何だよ?」
「楓婆の日記が、ない」
「楓サンの?」
永はドキリとして梢賢の方を見た。
「死ぬまでの七年間でつけとったもんや。あれこそ──」
梢賢は歯噛みして立ち尽くす。
「楓が何か残してくれていたかもしれない……」
「くそっ!」
鈴心も永も憤りを隠せなくなった。蕾生にも残念な気持ちはあるものの、二人のような感情をまだ共有することができない。別の悔しさを感じて一歩後ずさると、足に何かが触れた。
「うん?なんか落ちてる」
拾い上げたそれは、とても古い書物のようだった。
「ああっ!それ!」
それを見た梢賢が歓喜の声を上げる。
蕾生は表紙のタイトルが平仮名だったので読むことができた。
「うつろがたり……?」
蕾生が手に取った古い書物を受け取って、梢賢は嬉しそうにはしゃいだ。
「うわあ、これが残っとったのは正に雲水様のお導きやあ!」
「床に落ちてたぞ」
「だから運良く免れたのかもね」
「で、これはなんだ?」
蕾生と永はその書物に興味津々だった。梢賢は永に書物を手渡して言う。
「そいつはうちの最古の文献や。初代が鵺の亡霊に会うた記録を二代目が書き残したもんや」
「鵺の亡霊だって?」
突然、永の視線が鋭くなった。
「おう。もしかして覚えてんのんか?」
「当然だ。長い転生の中であっても絶対に忘れない──忘れてはならない出来事だよ」
「へええ。オレはその本でしか知らんけど、当時におった人から生の声が聞けるんか!ヤバッ、興奮するッ!」
はしゃぎ続ける梢賢に気をとられていると、後方でガタ、と棚を揺らす音がした。見ると鈴心が青ざめて寄りかかっていた。
「リン?」
「あ……すみません」
その声は弱々しかった。蕾生が近寄ると、息も上がっていた。
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
「あ、ちょっと暑くて……」
いくら日陰の多い場所でも今は真夏の正午過ぎ。日照がちょうど厳しくなっている時間だ。梢賢は慌てて蔵を出ようとした。
「あかん、熱中症かもしれん。家に戻ろか」
「これ、持ち出してもいい?」
件の書物を片手に永が聞くと、梢賢は大きく頷いた。
「当然や。涼しい部屋でいっちょ鵺談義と洒落込もうや」
「盗難事件の方はどうするんだ?」
蕾生が聞くと、梢賢は少し白けた雰囲気で言う。
「ああ……どうせ警察には言えないんや。里の大人達が考えるやろ。オレ達が何かできるとしたら大人の話が済んでからや」
「そんなんでいいのか?」
「ライくん、ここは特殊な場所なんだよ。仕方ない。それよりも早くリンを休ませたい」
蕾生は消化不良な気分だったが、永は鈴心を心配して少し焦っていた。それで蕾生も従うことにする。
「そうだな。鈴心、平気か?おぶってやろうか」
「……おんぶよりもお姫様抱っこがいいです」
「ああん!?」
「冗談です。大丈夫、家までなら歩けます」
せっかく心配してやったのにふざける元気はあったのか。蕾生は先にスタスタ歩く鈴心に文句を投げた。
「クソガキがっ!」
怒りながら後に続いて蔵を出た蕾生の後ろで、永はまた何かを考えていた。目は鈴心の背中を追っている。
また、梢賢もそんな永の様子を注視していた。
「どうだった?」
蔵の外にいた楠俊に、梢賢は残念そうに首を振った。
「あかんわ。二代目の手記と、最近の記録以外はごっそりや」
「そうか……。犯人が戻って見にくるかもと思って蔵の周りを見張ってたんだけど、誰もこなかったよ」
「ナンちゃん、マジか!気がきくどころやあれへんね!ほんまに名探偵みたいや」
梢賢が褒めそやすと楠俊は苦笑しながら、先を歩く鈴心と蕾生を指して言う。
「いいから、君達は部屋に戻っていなさい。もうすぐ人が色々来るだろうから」
優杞が父のいる会合場所へ行ったと言うことは、藤生にも眞瀬木にも事件のことはバレている。その後起こることは明白だ。その場には永達はいない方がいいのと言うは楠俊も梢賢も同じ考えだった。
「はーい。子どもらは大人しく留守番してますぅ」
そうして梢賢は先に母屋に向かう永達を追いかけた。
三人は梢賢の部屋に案内された。
畳の上にネオンカラーのカーペットが敷かれ、ガラス張りテーブルが置かれている。
アルミ製のゴミ箱やマガジンラックなど、かなり昔のヤンキーが使っていたような物ばかりが雑然と置いてあった。
パイプベッドにはあろうことか直接布団が敷いてある。
「鈴心ちゃん、大丈夫か?なんならオレのベッドに寝っ転がってもええで」
クーラーをつけてから梢賢は鈴心を気遣った。だが、返ってきたのは辛辣な言葉だった。
「臭そうなので嫌です」
「──!!」
まるで雷に打たれたように、梢賢は固まった。蕾生も気持ちはわかるが言うことではないと思った。
「そんだけ悪態つければ平気だろ」
「しかたないので座らせてもらいます」
鈴心は深く溜息をついてベッドに腰掛けた。
「ま、まあええ、麦茶でも持ってきたるわ。適当に座っててや!」
ショックから立ち直れない梢賢は一旦部屋を出て行った。永はカーペットの上に直接腰を下ろす。
「リン、本当に大丈夫か?」
「はい。家の中に入ったらだいぶ良くなりました」
「そう、良かった」
しかし、鈴心はその後黙ってしまった。そんな様子を具合が悪いだけと捉えた蕾生は部屋の壁を見回しながら永の隣に座った。
「しかし、なんだこの部屋?」
「んー、古き良き時代の青春って感じだねえ」
永も懐かしそうに部屋を眺めていた。まるでその時代を経験したかのように。
「なんで壁に布張ってんだ?」
「あれはペナントって言ってね、昔のお土産の定番だよ」
「へえー……」
初めて見るものに蕾生が目を丸くしていると、梢賢がトレイに麦茶を乗せて戻ってきた。
「おまっとうさん!どうした坊達!さてはオレの部屋のおシャンティさに腰抜かしよったな?」
「ちょっと何言ってるかわかんねえ」
今度は蕾生からの辛辣な反応に、また梢賢は固まった。
「はいはい、麦茶ありがとう。──はい、リン、飲みな」
そんな梢賢からトレイをひったくって、永はまず鈴心に麦茶を差し出した。
「ありがとうございます」
受け取った鈴心は静かに、けれど勢いよく麦茶を飲んでいる。
「まあええわ、オレはお兄さんやからな。広い心で受け止めたるわ」
引き攣った顔のまま、梢賢もようやく腰を下ろした。
それぞれが麦茶を飲み干した後、梢賢は丁寧にテーブルを拭いた。グラスを片付けて書物をテーブルに置く。
「さあて、どうする?まず読んでみる?」
「そうだね。そうさせてもらおうかな」
新聞でも読むような手軽な雰囲気の中、蕾生は少し不安を表した。
「読めるのか?すんげえ昔の人が書いたんだろ?」
「古典なら満点ですけど?」
ドヤ顔の永に少しムカつきつつも、蕾生は口を曲げて要求した。
「じゃあ読み聞かせてくれよ」
「オッケイ、なになに……?こは我が父雲水入道なるが諸国一見の旅にて候いしが──」
「ちょ、ちょっと待て!音読されてもわかんねえよ!翻訳してくれよ!」
焦った蕾生に、梢賢はニヤニヤしながらつっこんだ。
「翻訳て。外国語ちゃうで」
「俺には同じだよ!」
その主張に永も苦笑しながら頷いた。
「わかったわかった。えーっと、これは私の父の雲水が国中を旅していた時に出会った亡霊の話である」
「うんうん」
「化け物が出ると噂された小屋に泊まった日のこと、川から丸木舟が流れてきた。そこにはぼうっと光る人間が乗っていた──」
「うんうん」
しかし永は直ぐに音読を止め、自分だけで読み進めてしまう。
「……」
「永?」
「……」
「おい、続きは?」
蕾生の声など聞こえていないようで、永はそこからたっぷり十分ほど書物を精読していた。
蕾生はつまらなくなったが、梢賢が無言で「読み終わるまで待っとけ」と合図を送るので、黙ってそれを見守った。
「なるほど」
漸く顔を上げた永は、少しスッキリしたような顔をしていた。
「どうや?」
「そうだね。かなり詳しく、正確に書かれている。雲寛は几帳面な人だったからその性格がよく出てるね」
「ウンカン?」
蕾生が首を捻ると、梢賢が捕捉してくれた。
「初代が雲水、その息子の雲寛が二代目や。この本の筆者やな」
「読ませてもらって良かった。おかげで当時の記憶が鮮明になったよ」
「そうか!──で?」
蕾生は少し高揚していた。自分の知らない情報が与えられることを期待して。
「うん、この書物には前半が雲水氏から聞いた鵺の亡霊の話。後半が雲寛氏が実際に見た鵺のことが書いてある」
「永と鈴心はその雲水と雲寛に会ってるんだな?」
「うん」
「どれくらい前なんだ?」
蕾生の疑問はまたも梢賢が教えてくれた。
「ざっと六百五十年くらい前や。貴族の世から武士の時代になって二百年ちょっと。それなりに平和な時代やな」
それに頷きながら、永は少し言いにくそうに喋る。
「雲水氏に会ったのは僕らが九回目の転生の時だよ。まだその頃はライが鵺に変化して殺される──をただ繰り返していた頃で何もわかっていなかった」
「九回もか?」
永がそんなに時間を無駄に使うなんて想像できない蕾生は、意外な気持ちからつい責めるような口調になってしまった。
「うん……最初の頃の転生は本当に意味がわからなくてただ無駄に過ごしてしまっていた。
僕は今でこそある程度要領を得ているから余裕な感じを見せられているけど、当初はほんとに──できれば恥ずかしくて言いたくない程だよ」
永は沈んで過去の反省を述べる。その姿に蕾生は悪いことを言ってしまったと思った。
「それは、仕方ないだろ?そもそも自分が繰り返し生まれ変わってるなんて信じられねえよ。
わりぃ、つい今の永と比べちまった」
「いいよ、僕が三十三回失敗してきたのは事実だからね」
蕾生が謝ると、永も首を振って困ったように笑った。自嘲の笑みだった。
永と蕾生の会話が終わった頃を見計らって、梢賢は書物を指差しながら聞いた。
「で、その本によれば、初代が君らを探し当てた時、君らは随分と憔悴してたみたいなことが書いてあるんやけど、本当なん?」
「うん。その通りだ。正確には僕が。自分の運命に絶望して自暴自棄になってた。そんな時に雲水氏──お坊様が現れたんだ」
永は大きく頷いた後更に続けた。
「お坊様は自分が出会った鵺の亡霊の話をしてくれたよ。そしてやっと僕らは生と死を繰り返しているという確証を得たんだ。
お坊様が僕らの話を聞いてくれて、自分が会った亡霊の証言と照らし合わせてそう結論付けてくれた時は、心が晴れたみたいだった」
「呪われてるって言われたのに?」
梢賢が怪訝な顔で聞き返したが、永は何ら恥じることのない顔をして頷いた。
「うん。それまではこの境遇を自分達でさえ疑っていたからね。僕らは頭がおかしいだけじゃないのかっていうことも考えてた。
けど、お坊様によって客観視を得られた。呪われていること自体がわかっただけでもその時はありがたかった。自分の立ち位置がはっきりしたからね」
「へえ、やっぱハル坊はすごいなあ」
梢賢は思わずのけぞって感嘆の声を上げる。
永は恥ずかしそうに頭をかいた。
「そうでもないよ。そこで腹を括っただけさ」
「いや、永はすごい」
蕾生の真面目な援護射撃で、ますます永は恥ずかしそうにしていた。
「ははは……うん、とにかくそこで自分の状況がわかった。次は何でもいいから情報が欲しかった。
お坊様にしつこく聞いたよ、その亡霊のことを。その姿はとても美しい男性だったって。
ただ、見たことがないほど奇妙な髪型と格好をしていたから異国の人間じゃないかって言ってた」
永の言葉を受けて、梢賢が書物を開く。
「ちょうど、この辺やな。ええと、狩衣みたいなのに袖が短かった。括り袴みたいなのに裾が長かった。って言うのはハル坊はどう理解しててん?」
「狩衣とか、括り袴ってどんなのだ?」
蕾生の質問に答えながら永は言った。
「ええっとね、狩衣って昔の貴族の衣装なんだけど、単っていう着物の上に着るやつで合わせがないんだ。お坊様が言うにはそれを直に着ていたらしいんだけど……」
その続きは梢賢が引き継いだ。
「初代が異国の人だって言うのを信じるなら、実際に来てたのは狩衣やないんやろな。当時の人からしたらそう見えたってことかもしれんよ」
「僕もそう思う。着物の様な合わせがない、ということは洋服を着ていたんじゃないかって、今なら思うよ」
「洋服か」
昔の着物にも色々あるし、それが洋服だろうと言われても、蕾生にはいまいちピンと来なかった。
「残念ながら時代はわからないけどね。お坊様が会ったのは亡霊だったんだから、確実にそれより過去の人物だろうけど」
「そうなると括り袴──ってのは字の通り裾を括って歩きやすくした袴やねんけど、洋服だとするとズボンかね?」
梢賢の考えに、永は軽く頷いた。
「断定はできないけど、可能性はあると思うね。その亡霊がどこの国のどの時代の人かがわからないから、服装の話は頭の片隅に置くくらいでいいと思う」
「ふむ。重要なのは、初代が会った鵺の亡霊は人間だった──ちゅうことやな?」
「あ!」
梢賢の示したものの重要さに蕾生も気づいた。それは今までの認識を変えそうなくらいのものだった。
「そう。僕が英治親だった時に会った鵺は最初から獣だった。けど、ここの部分を読んで欲しいんだけど──」
今度は永が書物の頁を捲って指差した。それを覗き込んだ梢賢が読み上げる。
「あー、「私は呪いの成れの果て。私は黒い獣」ってその亡霊が言ったってとこやな?」
「うん。つまり、鵺は元々人間だった──のかもしれない」
「それって、俺と同じってことか?」
蕾生が聞けば、永は少し歯切れ悪く答える。
「うん……お坊様が会った亡霊もかつて鵺に呪われた人なのかも」
「ちゅーことは、ライオン君がそいつから鵺の呪いを擦りつけられたってことやんな?」
「まあ、今の所はそう考えるのが良さそうだね」
断定はしないものの、永がそう結ぶと梢賢は肩で息を吐いた。
「なるほどなあ。呪いの発生源みたいなもんは見えてきたけど、呪いを解くってなると何もわからんな」
「そうなんだよ。結局お坊様が会った亡霊は繰り返し転生させていることを伝えただけだった。
だから当時の僕は一生懸命お坊様に説明したんだ。英治親がどうやって鵺を倒したのか。雷郷がどんな風に鵺化したのかをね」
梢賢は永に説明を聞きながら書物を捲る。
「うん、それは本にも書いてあるよ。それを聞いた初代が萱獅子刀と慧心弓を使えば鵺を倒せるかもしれんっちゅーアドバイスをしたんやな?」
「そう。僕らは未だにその教えに従って、萱獅子刀と慧心弓を探している」
「んん?待てよ、ご先祖の事を悪く言うのも気が引けるんやけど、本当にその方法が最善なんか?あくまで初代の考えやろ?」
思ってもみない梢賢の冷静な疑問に、蕾生は思わず語気を強めた。
「はあ?そこを疑うのかよ?んなこと言ってたら何もできねえぞ」
今までそうだと信じてやってきたものを否定されてしまったら、何もかもが無駄だったことになる。永の九百年が無駄だったなんて蕾生は信じたくなかった。
「そらそうやけど、オレは身内だから却って心配なんやで。もし君らが初代の、仮に間違った方法にとらわれて正解を見失ったまま何百年も過ごしたんだとしたら、えらい申し訳ないやん!」
身内ならではの視点でないとそれは出てこないだろう。梢賢の心配に永は笑って答えた。
「はは、それは大丈夫。確かにこの方法が最も正解なのかはわかんないけど、萱獅子刀と慧心弓を使った時はある程度の効果があったよ」
「ほんとにぃ?今までかてよくて相打ちなんやろ?」
「それを言われると耳が痛いんだけど、その時々で事情も違うし、銀騎からの邪魔もかなり入ったしね」
肩を落として言う永に、蕾生は質問を投げかけた。
「ある程度効果があったってのは例えばどんなのだ?」
「うーんと、それなんだけど、どうも記憶が曖昧でね……特に前後関係なんか朧げで」
だが、永は急に自信を無くして言った。
蕾生もそんな回答が出るとは思わず目を丸くする。
「そう、なのか?」
永にわからない事があるなんて、蕾生の常識ではあり得ない。そんな閉じられた常識を打ち破ったのは梢賢だった。
「そらあ、そうやろな。前世の記憶なんちゅーもんはないのが当たり前や。なのにハル坊は三十三回分、九百年分の記憶がある──ていう意識があるだけでもえらいこっちゃ。
何年のいつにあんなことがあった、なんて細かく覚えててみい。絶対精神がやられてまうで。そうならないように忘れるべきなんや、本来はな」
流石に寺の息子は言う事が違う。そういう知識もないまま「永が全部知ってるから大丈夫」だと今まで思っていた蕾生は反省した。
「そうか。永はずっと覚えてるんだと思ってた。だから相当大変なんだろうなって」
「てへへー、ちょっとカッコつけ過ぎちゃったかあ」
蕾生が落ち込みそうになると戯けて誤魔化す永の癖は変わらない。蕾生が気にしないように、鵺化しないようにわざと深刻ぶるのを止めるのだ。
「いや、ちょっとホッとした。永が大変なのは良くない」
そういう蕾生への気遣いだけでも大変だろうに、九百年分の知識が蓄積されているなら頭がどうかしてしまわないか蕾生はずっと不安だった。
だが、梢賢の言う通りだとすると、永にも負担にならないようなストッパーのようなものがあることは喜ばしい。
「あ、ありがと。それでね、この本を読んだら、少なくとも雲水・雲寛親子と体験したことはかなり思い出せたよ。やっぱり記録に残すって大事だね」
少し照れながらも、永は書物を眺めてうんうん頷いていた。
「せやな。君ら本人は死んだら全くの他人に生まれ変わる。記録を受け継ぐことなんてできん。その代わりにウチのご先祖がこうやって書き記したんやろな」
「だから、これ以降の記録が盗まれたのが本当に惜しいよ。記録が読めたらはっきりと思い出せることが沢山あると思うんだ」
「それはそうかもしらんけど……」
梢賢は少し不安になった。仮に盗難などなくて全ての記録を一気に永に見せれば、九百年ぶんの知識を思い出すことになる。そんな記憶の奔流みたいなことが起こったら、果たして永は正気でいられるのだろうか?
梢賢がそんなことを考えていると、急に永の焦った声がした。
「リン?大丈夫か?顔、真っ青じゃないか!」
「だ、大丈夫です」
全く会話に入って来なかったので、鈴心の存在をつい忘れてしまっていた。ベッドに腰掛けたままくらくらと体が揺れるほどに具合が悪そうだった。
「そうは見えんで!だから横になってもええって言ったのに!」
梢賢がそう叫ぶと、鈴心は意識も朦朧となっているのに顔をしかめていた。
「嫌です……臭い……」
「そこまで!?」
もうショックで立ち直れそうにない。
「梢賢、入るよ」
いきなり襖を開けた優杞の登場が、梢賢には女神のように思えた。
「ああ、姉ちゃん!ええとこに来た!鈴心ちゃんが具合悪いみたいなんや」
「ええ?あらほんと、顔色が悪いね。すぐに別の部屋に布団敷いてあげるわ。ここは臭いからね」
「姉ちゃんまで!?」
ショックで固まった梢賢を他所に、永が優杞に鈴心を託そうとした。
「すみません、よろしくお願いします」
「いいのいいの、女の子はね、色々大変なことがあるのよ」
「そ、そんなんじゃ、ありません……」
鈴心は息苦しそうにしながらも言い張るが、それを優杞が優しくいなした。
「いいからいいから。後は野郎達に任せましょ。梢賢、あんたその二人連れて藤生に行きな」
「へ?」
我に返った梢賢は間抜けな声を出す。そんな弟の反応を無視して優杞は言った。
「蔵の盗難の件で長達が話し合ってる。あんた達からも話が聞きたいってさ」
「ハル坊達は盗んでへんよ!?」
「それはわかってる。でもあんた達を尋問しないと収まらない連中がいるんだよ」
「けど──」
梢賢が躊躇っていると、蕾生も永もケロリとしていた。
「俺達なら平気だ、なあ?」
「そうだね。尋問って言われるとちょっと怖いけど、その場に行くことで何か情報が得られるなら僕らは喜んで行くよ」
二人の態度に優杞は笑っていた。
「いい度胸だ。うちの弟ばっかり女々しくて、あたしは悲しいわ」
「そんなん男女差別やあ!」
そうして鈴心を優杞に預けて、永と蕾生、それから梢賢は藤生家に向かった。
鈴心の体調変化は熱中症だろうと、この時は誰も疑わなかった。