転生帰録2──鵺が嗤う絹の楔

 麓紫村(ろくしむら)鳴藤(なるふじ)地区。
 梢賢(しょうけん)が実家に着いたのは夕方に差し掛かる頃だった。

 大学通学のために実家を出ている梢賢は約三ヶ月ぶりの帰宅だった。だが感慨に耽っている暇もなく、梢賢は帰るなり姉の優杞(ゆうこ)を探す。
 
「姉ちゃん!姉ちゃん!」
 
 玄関を通り居間を覗くと姉はテーブルを拭いていた。夕食の支度をしているようだった。
 
「あら、梢賢。おかしいね、上手く伝わってなかった?あんたも帰ってくるなって言ったんだけど」
 
 弟を見る姉の目は冷たい。だがそれに怯んでもいられない梢賢は笑って誤魔化した。
 
「ま、またまたあ。オレが帰らないでどう収拾つけんのよ」
 
「──それもそうだね」
 
 優杞は短く返事した後、右手を掲げた。
 するとその指先から白く光沢のある糸が出現し、それが何本も撚られてついにはロープの様になり、梢賢へと襲いかかった。

 次いで優杞はその拳にロープを一巻きさせると力任せに引っ張り上げる。瞬く間に梢賢は優杞の不思議な力によって縛り上げられた。
 
「ぐげえっ!姉ちゃん、ちょ、待って!」
 
「うるさい、黙れ」
 
 ちょうど肺のあたりをグルグルに巻かれた梢賢は一瞬呼吸ができなかった。同時に両腕も後ろに回されてしまったため、バランスを崩してその場にすっ転んだ。
 その体を非情にも足蹴にする姉に向けて、梢賢は泣きながら抗議する。
 
「帰ったばっかりの弟、いきなり縛るなんて普通する!?」
 
 だが泣き落としなどはこの姉には通じない。優杞は却って怒りを増して怒鳴った。
 
「悪いね、梢賢。こうしないとあんたに口添えしたうちの人の立場が悪くなるんだよ!」
 
「──てことは、まさか」
 
「そう。全部バレた。あんたが招待したお友達が実は鵺人(ぬえびと)だってことがね!」
 
 それを聞いて梢賢は体から血の気が引いた。
 どうしよう、とか思う間もなくドタドタと激しい足音が近づいてくる。
 
「しょうけええん!おんどれぇええ!!」
 
「ヒィッ、父ちゃん!」
 
 スキンヘッドの頭から湯気が出るような勢いで、父親の柊達(しゅうたつ)がやってくる。元から強面のため、僧侶というよりもどこかの組の若頭のような風体である。
 柊達は夜のお勤め中でまだ袈裟を着ており、正装の僧侶がチンピラ息子を締め上げるという奇怪な光景だった。
 
「いい度胸だ、コラァ!よくも母さんを謀ってくれたなァア!」
 
「父ちゃん、勘弁!」
 
 梢賢が泣き叫ぶと、優杞は少し冷静になって父を諌める。
 
「ま、ま、お父さん。お腹立ちはもっともですが、愚弟はこの通り縛首寸前ですから落ち着いてください」
 
 しかし、柊達は怒りとともに恐怖に引き攣った顔で優杞にも食ってかかった。
 
「優杞!お前までグルだったそうだな、しかも楠俊(なんしゅん)君まで巻き込んで!どうすんの、どう説明すんの、康乃(やすの)様に!?」
 
 焦りと困惑に支配され取り乱す父に優杞は努めて冷静に跪いた。
 
「ま、ま。こうなっては仕方ありません。梢賢の首ひとつで収まるなら安いこと」
 
「ひどいっ!」
 
 梢賢がさらに叫ぶと、柊達はより焦って息子を庇う。
 
「梢賢を差し出せる訳ないでしょ!?うちの奇跡の息子だよ!?──仕方ない、優杞介錯しなさい。この父が腹を切る!」
 
 前時代的な発言に聞こえるが、ここではこれが現在でも常識である。優杞は静かに畳に手をつき、一礼した。
 
「さすがお父様、尊い御判断です。お供仕ります」
 
「うむ、では!」
 
「やめてええええ!」
 
 この姉と父は本当にやりかねないので、梢賢は絶叫した。だが、それをかき消す絶対的な声で三人は我に返る。
 
「いい加減にしなさい!」
 
「ピッ!」
 
 雨都(うと)家のラスボス、母の橙子(とうこ)の鶴の声に、父と姉弟は甲高い悲鳴で姿勢を正した。
 
「まったく。親子揃って馬鹿馬鹿しい。くだらないコントなんてしてないで真面目に考えなさい」
 
「すみません橙子しゃん!」
 
 母の威厳に父は小さくなって謝った。組の若頭があっという間にスケ番の舎弟に格下げである。
 対して優杞は母の登場にしれっと正座して黙っていた。
 
「お母ちゃああん……」
 
 縛られたまま情けなく弱音を吐く梢賢に、橙子は厳しい視線を投げて叱った。
 
「泣くな、馬鹿息子。こんなことになるならお前が生まれた時に切り落としておけば良かった」
 
「ヒイイィ!」
 
 下半身が寒くなって梢賢は悲鳴を上げた。
 橙子はその醜態も無視して静かに言い放つ。
 
「とにかく来なさい。康乃様がお呼びです」
 
「お母さん、うちの人は?」
 
「楠俊はとっくに出頭しました。お前もすぐ来なさい」
 
「はい!立て、梢賢!」
 
 母の登場で冷静になった優杞はもう一度梢賢を縛る糸に力を込めた。締めつけられた梢賢は泣いたまま懇願する。
 
「これ、ほどいてよ!逃げないから!」
 
「いいえ、そのまま優杞が連行しなさい」
 
「そんなあああ……」
 
 雨都家では母の命令は絶対だ。優杞は梢賢をそのまま引きずって玄関に向かった。
 
「あなたもですよ、タッちゃん!」
 
「は、はい、橙子しゃん!」
 
 一足遅れた柊達をも叱咤して、橙子はバカ親子を連れて家を出た。






 麓紫村(ろくしむら)。同じく鳴藤(なるふじ)地区の奥。
 雨都(うと)家の面々は村一番の有力者・藤生(ふじき)康乃(やすの)の元を訪れた。
 
「──来たか、雨都の」
 
 大広間に通された一同を迎えたのは藤生家の分家で忠臣の眞瀬木(ませき)墨砥(ぼくと)だった。
 
「は。この度は愚息がとんでもないことをしでかしまして……」
 
 情けなく橙子(とうこ)に引っ張られていた柊達(しゅうたつ)はその様相をがらりと変えて、恭しく土下座をする。まだ年若い柊達は年齢的にも地位的にも墨砥の足元にも及ばない。
 
「お義父さん、すみません……」
 
 先に来ていた婿の雨都(うと)楠俊(なんしゅん)は肩を落として正座していた。
 
「いいんだ、どうせ優杞(ゆうこ)が主導したんだろう。すまないね、娘が迷惑をかけて」
 
「あなた、ごめんなさい……」
 
 シュンとしている妻に向かって楠俊は優しく微笑んだ。
 
「いいよ、僕もそうしたいと思ったんだから」
 
「ナンちゃん──」
 
 しかし次の瞬間、楠俊はギョッとして驚いた。ロープでぐるぐる巻きの梢賢(しょうけん)に気づいたからだ。
 
「しょ、梢賢くん!?どうしたんだい?」
 
「この鬼嫁になんとか言ってくれよお」
 
 情けない声を出す梢賢に、優杞はまたロープに力を込めて縛り上げた。
 
「黙れ」
「ぐえええっ」
 
 眞瀬木墨砥はその様子を溜息混じりに眺めた後、優杞に向けて命令した。
 
「相変わらず愉快なご家族だ。優杞よ、梢賢の戒めを解きなさい」
 
「はい」
 
 優杞は短く返事をするとすぐに梢賢を縛る白い糸の束を消して見せた。やっと体が自由にはなったが、梢賢は息が上がったままだった。
 
「二人とも前に。楠俊の隣に座りなさい」
 
 大広間は上段と下段に分かれており、楠俊は下段手前に正座している。墨砥に促され、優杞と梢賢もその隣に正座した。少し離れた後方に柊達と橙子が座る。全員の位置が整った所で、墨砥は朗々と言い上げた。
 
「──よろしい。では御前のおなりである」
 
 その場の全員が緊張の中頭を下げてその人物を待つ。
 墨砥が襖を開けると落ち着いた藍色の着物を着た年配の女性が入って来た。藤生家当主の康乃である。
 康乃は大広間上段に上がり、座布団の上に座って一同を見た。
 
「こんばんは、皆、ご苦労様」
 
 土下座して康乃を迎えた一同は、体を起こしたもののまだ顔は伏せていた。康乃が座る上段のすぐ下で跪いた墨砥が話を切り出した。
 
「御前、以前に梢賢が連れてくると申していた部外者三人なんですが」
 
「そんな話だったわね、いらしたの?」
 
「いえ、それが、のっぴきならない事情ができたため差し止めております」
 
「まあ、穏やかじゃないわね。どうしたの?」
 
 康乃の口調は優しく、のんびりとしている。雨都の者達は彼女が感情を露わにするところを見たことがない。だからこそ康乃には畏敬の念を抱いていた。
 
「それが、その部外者、そこの雨都(うと)梢賢(しょうけん)の友人という話でしたが、正体が鵺人(ぬえびと)だという報告がありまして」
 
「──まあ」
 
 少し驚いてみせた康乃の反応に、柊達は過敏になり大声で土下座する。
 
「申し訳ございません!私共の監督不行届きでございます!」
 
 突然のことに康乃が驚いていると、墨砥は柊達を軽く睨んで言った。
 
「雨都の、勝手に話されては困ります」
 
「──ははっ」
 
 叱られた柊達は慌てて頭を下げたまま退がった。
 部屋の空気が凍りついたようだった。その雰囲気のままに墨砥は報告を続ける。
 
「鵺人は雨都にとっては禁忌の存在。そして我ら眞瀬木にしましても浅からぬ因縁がございます」
 
「そうねえ……」
 
「奴らに資実姫(たちみひめ)様の治める聖なる地を踏ませるなどもっての外。直ちに遠ざけ──」
 
 淡々と言う墨砥に梢賢がその言葉を遮って反論した。
 
「ちょっと待ってよ!奴らだなんて言い方、あの子達はそんな危険な存在じゃ──」
 
「……」
 墨砥は先程よりも鋭い視線を投げて梢賢を黙らせた。
 
「──ッ!」
 
「よって直ちに遠ざけ──」
 
 しかし、その墨砥の言葉を遮って康乃がよく通る声で語りかけた。
 
「梢賢ちゃん」
 
「は、はい」
 
「貴方から見て、そのお友達はどんな感じなの?」
 
 にっこりと笑って促す康乃の様子は高貴そのもので、その雰囲気に呑まれないようにするだけで精一杯だ。
 しかしここで毅然と彼らの弁護をしないと今後の望みは叶わないことを知っている梢賢は、姿勢を正して自らの知識を総動員した言語で語った。
 
「はい。見た目は三人とも素朴な高校生です。周防(すおう)(はるか)は聡明で一を聞いて十を知る御仁。(ただ)蕾生(らいお)は周防永に付き従い彼のためならどんな危険も厭わない勇敢な人物。御堂(みどう)鈴心(すずね)もまた周防永に忠誠を誓い影となって彼を支える奥ゆかしい人物です」
 
 言い切った、と梢賢は自画自賛しかけたが、それを聞いた康乃は笑顔のまま眉を顰めて首を捻っていた。
 
「んー……そういうんじゃなくて、その三人のこと、梢賢ちゃんは好き?」
 
「えっ!?っと、そうですね……まだ会って日も浅いのでなんとも、でも好きになれる──いえ、好きになりたいと思っています」
 
 唐突に聞かれて、梢賢は今日一日行動を共にした三人を思い出す。
 雨都の人間だから親切にしてくれるだろうと最初はたかを括っていた。だが、永は梢賢の境遇を理解しようとし、蕾生は梢賢の本質を見極めようとしていた。鈴心も言葉尻は厳しいものの、梢賢の悩みを真剣に聞いてくれた。
 
 あの三人は、雨都ではなく、梢賢を見てくれたように思う。それは、結構嬉しいことだと改めて梢賢は思った。
 そんな梢賢の気持ちが言葉に表れていたのか、康乃は満足そうに笑って言った。
 
「わかりました。許します」






「え!」
 
 あっさりと二つ返事で頷いた康乃(やすの)に、墨砥(ぼくと)は声を荒げて抗議した。
 
「なりません!五十年前の悲劇を、当時子どもとは言え御前なら覚えていらっしゃるでしょう!?」
 
「もちろん。この場で唯一覚えている私が許すのですよ?尊重してくださらない?(ぼく)ちゃんは赤ちゃんだったでしょう?」
 
「御前!」
 
 まるで子どもをいなすように余裕の笑みで言う康乃に、墨砥はつい顔を赤らめて興奮した。
 荒れかけた場に、不意に若い男の声が響く。
 
「お父さん、康乃様がそうおっしゃるのだからよろしいではないですか」
 
「あ──」
 
 ゆっくりと畳を踏み締めて入ってくる人物を梢賢(しょうけん)は複雑な気持ちで見つめた。
 
(けい)!勝手に入ってきてはいかん!」
 
 格式を重んじる墨砥は重要な会談の場に横槍が入ることを何より嫌う。それがたとえ実の息子でも。
 
「勝手にではないですよ、康乃様に呼ばれたんです。ねえ?」
 
 眞瀬木(ませき)(けい)はピシッとスーツを着こなして、四角い眼鏡に片手を添えながら入ってきた。口元は薄く笑っている。
 
「御前に馴れ馴れしいぞ、珪!」
 
「まあまあ、墨ちゃんもそんなに怒らないで」
 
「御前!!」
 
 真っ赤になって怒鳴っている墨砥に、康乃は笑顔で隠していた瞳を少し開いて真顔で言い放つ。
 
「今回の人物が鵺人だと言うことは珪ちゃんからの報告だって聞いてるんだけど?」
 
「それは──」
 
「だったら直接珪ちゃんから聞きたいと思わない?」
 
 康乃の真顔は瞬時に笑顔に戻っていた。だがその笑みは有無を言わさない圧力があった。それで墨砥は頭を冷やし、跪く。
 
「し、失礼しました……」
 
 梢賢はそのやり取りを聞いて、やはり珪の登場が素直に喜ぶべきものではないことを思い知った。
 
「珪兄ちゃんが……?」
 
 梢賢が困惑の眼差しを向けると、珪は薄く笑いながら言う。
 
「ごめんね、梢賢。でも勉強嫌いの君が大学に行くなんてちょっと意外でね。しかもわざわざあんな遠くの大学だなんて」
 
「──」
 
(かえで)嬢の前例が雨都にはあるからね。念の為ちょっと探らせてもらっていたら、銀騎(しらき)研究所に乗り込んでいくもんだから驚いたのなんのって」
 
 珪が披露して見せた情報に墨砥はまた当惑して声を上げる。
 
「し、銀騎だと!?」
 
 梢賢は冷や汗が出る思いだった。確かに珪は梢賢を探ることができる充分な手段を持っている。しかもそれを気づかせずに行ったのだから空恐ろしい。この幼馴染はどこまで知っているのか、下手なことは言えなかった。
 
 梢賢が慎重さを見せて黙っているので、珪は得意気になって続けた。
 
「私の調べでは、件の三人は既に銀騎と一戦交えたようです。顛末は梢賢なら聞いてるんだろう?」
 
「……」
 
 ここで言うべきなのか、それが今後を大きく左右することは梢賢にもわかっていた。
 
「梢賢!言いなさい!」
 
「私も聞きたいわ」
 
 出来れば言わずに済ませたかったが、墨砥の剣幕と康乃が興味を示したので梢賢は言うしかなくなった。
 
「はい……。銀騎研究所において(ただ)蕾生(らいお)は一度(ぬえ)化したそうです。しかも再度人間に戻っています。何故なのかは彼らもわからないそうですが」
 
 その報告は母と姉に多大な衝撃を与えていた。
 
「な……」
「そんなことがあり得るの……?」
 
 その反応を横目に、梢賢は康乃に向き直って言う。
 
「なお、現在は銀騎の次期当主と和解し、協力関係にあるそうです」
 
 梢賢の報告は、その場の誰もがあり得ないこととして認識していたものだった。墨砥に至っては開いた口が塞がらない程の衝撃だ。
 
 だが、珪はにっこり笑って少し演技めいた素振りで康乃に言う。
 
「──素晴らしい。康乃様、彼らと銀騎が敵対していないなら当面は雨都に危害は及ばないのではないでしょうか。そもそも彼らと銀騎のいざこざに巻き込まれて楓嬢も、それより前の雨都の先祖達も命を落としたのですから」
 
 何かにつけて「楓嬢」と言う珪の態度に、柊達(しゅうたつ)は顔を歪めていた。挑発されている気分になったからだ。
 
 そんな微妙な空気を当然察した康乃は毅然とした態度で梢賢に問う。
 
「わかりました。一つ確認を。梢賢ちゃん、彼らを里に招く目的は何かしら」
 
「それはもちろん、うちに残ってる鵺に関する情報を彼らに開示し、その呪いを解く手伝いがしたいんです!」
 
 雨辺の問題はここで口が裂けても殺されても言う訳にはいかない。建前ではあったが、それも嘘ではなかった。
 
「梢賢……」
 
 きっぱりと言ってのけた梢賢に、母の橙子(とうこ)は困惑を隠せない。その複雑な心境も全て思いやってから康乃は高らかに宣言した。
 
「やはり貴方は楓姉様が遺した希望の子ね。いいでしょう、藤生(ふじき)の名において鵺人の立ち入りを許可します」
 
「あ、ありがとうございます!」
 
 梢賢が弾んだ声を出すと、それに釘を刺すように康乃は低い声で付け足した。
 
「ただし、眞瀬木と銀騎の関係は絶対に彼らに漏らしてはなりません。鵺とのことも同様です」
 
「は、はい……」
 
「もしこれを破ったら、柊達、わかってるわね?」
 
 康乃のにこやかな脅しは息子を通り越して父に注がれた。それは梢賢にとっては効果覿面だ。
 
「御意!!」
 
 父が凄い勢いで土下座をするのに倣って、梢賢もその場で頭を下げた。
 
「墨砥もこの辺で手を打ってくれないかしら?」
 
 その様子を見て康乃は墨砥にも尋ねる。すでに決定は下された。墨砥にそれを覆すことできない。
 
「──元より御前の為さることに異論はございませぬ」
 
 冷静な態度に戻った墨砥はただ康乃の意向に従うだけだった。
 
「よろしい。では解散」
 
 康乃はそう言うと立ち上がり、そのまま大広間を退出した。

 
 張り詰めた空気が少し緩んだ気がする。
 梢賢は一息吐いて足を崩した。
 
「はー、助かったぁ」
 
「梢賢……」
 橙子は厳しい顔で息子を見つめていた。
 
「母ちゃん」
 
「やっぱり貴方に楓石(かえでいし)を継がせない方が良かったのかもしれない」
 
 目を伏せながら言う母はいつもより弱々しく見える。雨都のこれまでの運命を考えればその気持ちは痛いほどに伝わっていた。
 
「ごめん、母ちゃん。でもオレは知りたいんだ、楓婆が命をかけた理由を。彼らにその価値があったのかを──」
 
「そう……」
 
 橙子は梢賢を肯定も否定もしなかった。ただ、雨都に生まれた息子の宿命を思って母は不安に苛まれていた。






 翌朝、鈴心(すずね)は軽く身なりを整えた後、(はるか)蕾生(らいお)の泊まっている部屋をノックした。するともの凄く眠そうな蕾生がドアを開ける。
 
「──おう」
 
「おはようございます。ライ、よく眠れました?」
 
「ん、まあな」
 
 言葉と裏腹に、蕾生の目は半分閉じている。髪の毛もボサボサだった。
 
「あなた、寝起きが壊滅的に悪かったんでしたっけ?」
 
「あー、そうだったんだけど、最近はちゃんと起きれる様になった」
 
 これで?と鈴心は小言を言いたくなったが、そんなことよりも大事な確認がある。
 
「ハル様、おはようございます」
 
「うん、おはよう」
 
梢賢(しょうけん)から何か連絡はありました?」
 
 当たり前だが完全に起きている永に挨拶をすると、それでも軽く欠伸をしながら答えた。
 
「あったあった、夜明けとともに。おかげで少し眠い……」
 
「なんと?」
 
「迎えに来るって。ホテルの前で待っとけって」
 
 それを聞いて鈴心は意外そうにしていた。
「え、じゃあ、麓紫村(ろくしむら)に行けるんですね?」
 
「みたいね」
 
「ったく、昨日の騒ぎはなんだったんだよ」
 
 蕾生もおそらく夜明け頃に電話で叩き起こされたのだろう。ぶちぶち文句を言っている。
 それに苦笑しながら永は肩を竦めて言った。
 
「まあ、何かあったことはあったんだろうけど、教えてくれるかは別かもね。ムラ社会ってやつ?部外者にはわからない事情があるんじゃない」
 
「永は物分かりが良過ぎだろ」
 
 まだ蕾生の機嫌が直らないので、永も困りながら宥めた。
 
「そりゃあ、僕も根掘り葉掘り聞きたい気持ちはあるよ。でもそれで目的が達成されなかったら本末転倒だからね」
 
「多少は目をつぶらないといけないってことか?」
 
 渋々納得した蕾生に満足した永は、にこやかに鈴心に言った。
 
「そゆこと。だからリン、外出の支度をしておいで」
 
「わかりました。ではロビーで」

 
 ビジネスホテルの一階には小さなカフェが併設されていた。梢賢との待ち合わせ時間まで少し猶予があったので、三人はそこで朝食をとった。
 蕾生は物足りなさそうにしていたが、予算オーバーを懸念した鈴心におかわりを止められた。

 そうこうしていると永の携帯電話が鳴った。梢賢からだ。
 三人はフロントで外出すると託けてホテルを出た。もしもに備えてホテルの宿泊予約はそのままにしておいたが、荷物は全部持って出た。
 
 ホテルを出たすぐ前の道路で梢賢がヘラヘラ笑って出迎える。その後ろには黒のバンが止まっていた。
 
「おいーす!皆さんおはようさん」
 
「!!」
 梢賢の姿と後ろの車に、永は驚きとともに目を見張る。
 
「いやあ、昨日はごめんなあ。ちいとばっかし里で意思の疎通ができてなくって。でももう大丈夫や、麓紫村は君らを歓迎するで!」
 
「ほんとかよ」
 
 疑う蕾生を他所に、永は珍しく興奮して声を弾ませた。
 
「凄ーい!黒い高級ミニバンなんて芸能人みたーい!」
 
「貴方の車なんですか?」
 
 鈴心が聞くと、梢賢は複雑な表情で苦笑していた。
 
「そうやで──って言いたいとこなんやけどなあ」
 
 するとその運転席から梢賢よりも年上の、見るからに大人の男性が出てきた。青がかった黒いスーツで身を固め、四角い眼鏡をかけている。茶髪ではあるがすっきりと襟元で切られていて清潔感があった。
 
「初めまして。この度はうちの者がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでしたね」
 
 にっこりと笑うその男性の登場に、永達は一瞬固まった。梢賢とは絶対に相入れない格好をしていたからだ。
 
「この人が車の持ち主で、(けい)兄やんや!里では結構えらい人なんやで」
 
「ははは、雑な紹介だ。眞瀬木(ませき)(けい)と言います。梢賢がお世話になってます」
 
 眞瀬木珪はビジネスマンのように笑顔を崩さなかった。
 
「珪兄やんはちっさい頃から兄貴みたいな人でな、運転手をかってでてくれたんや」
 
 梢賢が説明し終わると、永達は順番に挨拶した。少しだけ警戒をしながら。
 
「こちらこそお世話になります。周防(すおう)(はるか)です」
 
(ただ)蕾生(らいお)っス」
 
御堂(みどう)鈴心(すずね)です」
 
 珪は鈴心の姿を確認するとさらに微笑んで懐から小さく薄い箱を取り出した。
 
「これは可愛らしいお嬢さんだ。良かったらどうぞ、お近づきの印に」
 
「いえ、そんな──」
 
 スマートな珪の所作に鈴心が戸惑っていると、梢賢が横から笑って言う。
 
「ええって、鈴心ちゃんもらっとき。そんで開けてみ?」
 
「あ、ありがとうございます。わ……綺麗……」
 
 恐る恐る箱を開けて見ると、中には美しい光沢のある白いハンカチがあった。レースで縁取りされ、飾り刺繍が施されている。
 
「うちの商品ですよ。試しに使ってみてくださいね」
 
「は、はあ……」
 
 鈴心の手元を覗き込んだ永はちょっと面白くなかったが、そんな感情は表に出さずに素朴な顔で聞いた。
 
「デパートか何かにお勤めなんですか?」
 
「いいえ、うちは問屋です。そのハンカチの材料になっている織物のね」
 
「へえー……」
 
 見れば見るほど見事な布地だ。かなり高価なものではないかと永は思った。
 
「さあ、乗って乗って!路上駐車厳禁や!」
 
 梢賢が元気よく急かすので、三人は慌ててバンに乗る。さすがの高級車は音もなく走り出した。






 ミニバンと言っても後部座席は高級車らしく二列あった。
 最後列に体の大きな蕾生(らいお)を一人押し込めて、中央に(はるか)鈴心(すずね)が座った。
 梢賢(しょうけん)は助手席に乗り込んで後ろの面々を振り返る。
 
「ここからは三十分かそこらで着くけど、道が悪いからちゃんとシートベルト締めてな。まあ、ごっつ高級車やから平気の平左やけどな」
 
「ちゃんと安全運転でいきますから、安心していいですよ」
 
 たかが隣村に行くのに車で三十分だと聞いて三人は心の中で驚いた。道も悪いとなると山越えでもするのだろうかと不安になる。
 しかし、そんな三人の気持ちを知るよしもない梢賢と(けい)はごく当たり前のように車を走らせていた。隠れ住んでいる、という前振りは伊達ではないのだろう。
 
「ところで梢賢、その変な言葉尻はどうしたんだい?里にいた頃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」て可愛かったのに」
 
 少し道路を走らせた後、珪が明るい声音で聞く。大学デビューなんてするから地元民に不審がられて笑われている梢賢が面白くて、永は思わず吹き出した。
 
「──プッ!」
 
「ちょっと珪兄やん!」
 
 案の定、梢賢は罰が悪くなって恥ずかしそうにしていた。珪はにこにこしながら続ける。
 
「いやあ、どんな心境の変化なのかと思ってね」
 
「オレかて悩んだんや。いつまでも里の(こずえ)ちゃんではおれへん。オレは大都会に羽ばたいたんや!関西弁はオレの新しいアイデンティティなんや!」
 
 せっかく築きあげたつもりのキャラクターを、地元のお兄さんに言われただけで覆す訳にはいかない。梢賢は開き直って胸を張る。
 
「ふうん、まあ梢賢がそう決めたなら最後までやり通せばいいと思うよ。生半可な気持ちで改めた訳じゃないってわかってもらうにはやり続けるしかない」
 
「おう、望むところやで!」
 
 二人のやり取りが面白くて仕方がない永はまだニヤニヤ笑っていた。
 
「里の梢ちゃんねえ……」
 
 そこに珪が笑いながらまた言った。
 
「ハッハッハ、梢賢はね、学校に上がる前まで女の子の格好をさせられてたんですよ。だから里ではいまだに梢ちゃんて呼ぶ人も多いね」
 
「あー!あー!」
 
 さすがにそこまで知られるつもりではなかった。梢賢は慌てて大声を出したが既に遅かった。
 
「女の子の格好……?」
 
 鈴心が首を傾げると珪はおせっかいにも詳しく説明してくれた。梢賢は恥ずかしさで項垂れている。
 
「なにせやっと産まれた男の子だったからねえ。雨都では最初は随分慎重だったようですよ」
 
「──大変だったんですねえ」
 
 永が半笑いで反応すると、後部座席の蕾生が身を乗り出して小声で聞く。
 
「なんでそんなことしたんだ?」
 
「多分ですけど、銀騎(しらき)から見つかるのを恐れていたのでは」
 
「ああ、なるほど」
 
 蕾生と鈴心のひそひそ話も狭い車内なので筒抜けだ。梢賢は肩を落として恥ずかしがった。
 
「言われてもうた……知らんでええことを言われてもうた……」
 
「ハッハッハ!」
 
 そんな梢賢を揶揄うように、珪は高笑いをしている。その様子を後ろから見ていた蕾生はあまりいい気分がしなかった。


 最初に梢賢が説明した通り、車は急に山道の方へ曲がった。ヘアピンカーブのような道路をぐねぐね曲がって走り、更には途中で舗装も途絶えた。
 
 こうなると幅が広いだけで獣道のような雰囲気である。車は生い茂った木々の枝を何度もかき分けて進む。はっきり言って高級車が来るような所ではない。傷がつかないのだろうかと永は気が気でなかった。

 しかしそれも束の間で、また舗装された道路が顔を出す。だが所々ヒビが入っており、年代を感じさせた。
 車は少し開けた分かれ道の手前で止まった。
 
「さあ、着きました。山道お疲れ様でした」
 
 珪はにこやかなまま、後部座席の扉を開けてくれた。
 
「あ、ありがとうございました」
 
 永達三人が車を降りる。目の前に広がるのは古くて寂れた農村地帯だった。驚くことに、電柱がまだ木材だ。
 
「梢賢、いつまでもいちびってないで皆さんをご案内しなさい」
 
 助手席から降りずにいじけている梢賢を珪が嗜める。
 
「はあい……」
 
 それでようやく車から降りた梢賢と入れ替わりで、珪は再度車に乗り込んだ。
 
「それでは私は仕事があるのでお先に失礼します」
 
「どうもお世話になりました」
 
「──また」
 
 一礼した鈴心ににっこり微笑んで、珪は分かれ道の真っ直ぐ続く方の道を走って行った。

  
「おーい、梢ちゃあん、しっかりしてよお」
 
 しゃがみ込んで落ち込んでいる梢賢を、永は悪戯心で囃し立てた。
 
「お前んちは寺だって言ったよな、梢ちゃん」
 
「早く案内してください、梢ちゃん」
 
 蕾生と鈴心も口々に言うと、梢賢は真っ赤になってようやく立ち上がった。
 
「やかましっ!梢ちゃん言いなや!年下かて容赦はせんでっ!」
 
 その様子に、永はお笑い芸人でも見るようにケタケタ笑っていた。すっかり油断している三人に向けて、梢賢は突然真顔で言う。
 
「それから、あんま珪兄やんには気を許したらあかんで」
 
「何故?」
 
 その雰囲気を鋭敏に察した永もすぐに笑うのをやめて尋ねた。しかし梢賢は口篭ってしまう。
 
「んん……そのうちわかるやろ。とにかく珪兄やんに何か聞かれても馬鹿正直に答えたらあかん」
 
「俺も何となくそう思う」
 
 蕾生はあの眞瀬木(ませき)(けい)という人物にあまりいい感情は持っていなかった。具体的には説明できないけれど、なんだか人を見下しているような気がしていた。
 
「ライくんの野生のカンが言うんじゃそうなんだろうね」
 
 永は蕾生の感覚を信じている。会話を重ねながら人物の深層に迫っていく永と違って、蕾生は最初の印象でその人が好きか嫌いか決める。そしてその的中率は、永よりも高い。
 
「ごめんなあ、今じゃ里も結構複雑なんや。前はこんなんやなかったんやけどなあ……」
 
「……」
 梢賢の言葉が今の村の状況を全て物語っているように永は思えた。
 
「で、まずはどうするんだ?」
 
 蕾生が尋ねると、梢賢は思い出したように拳を打つ。
 
「おっと、そうやった。ウチに行く前に君らには里長の所へ行ってもらわんと」
 
「里長?」
 
 特有な表現に永が聞き返すと、梢賢は当然のように頷いた。
 
「せやで。事実上麓紫村(ろくしむら)の最高権力者や。お利口さんにしててや」
 
「村長とかか?」
 
 蕾生が聞くと、首を振って梢賢は答えた。
 
「そんなもんよりもーっとえらいお人や。ここではな」
 
 この現代社会にそんな地位はあり得ない。鈴心も訝しみ、永もそれに倣った。
 
「やはりこの村は……」
 
「昔の楓さんの言葉を借りて言えば、時が止まってる──か」
 
 二人の呟きに、梢賢は冷静な感想を述べた。
 
「あながち間違いやないな。ほな、行こか」
 
 その指がさしているのは、分かれ道のもう片方。急勾配の山道だ。
 
 今日も暑くなりそうな日差しなのに、山道の奥は木々で覆われていて冷風でも吹いているような寒々しさだった。






 麓紫村(ろくしむら)鳴藤(なるふじ)地区。
 分かれ道の山道を数十メートルほど登った所にそれはあった。

 まず見えたのは大きな寺だった。その門構えを見ながら(はるか)はそこが雨都(うと)家だろうと思う。だが梢賢(しょうけん)はその説明をせずにさらに奥を指し示している。
 
「さあ、あの奥にあるお屋敷が里長の藤生(ふじき)康乃(やすの)様のお住まいや」
 
 左側には雨都家らしき寺、右側には年代物の大きな屋敷が建っていた。さながらそれは神社の狛犬のよう。奥に見えるさらに広大な屋敷を守っているように見える。
 古ぼけた石畳を踏み締めた瞬間、違和感がした。
 
「──リン、気づいたか?」
 
「はい」
 
 神妙な面持ちの(はるか)鈴心(すずね)に対して、蕾生(らいお)は首を傾げて二人の様子を訝しんでいる。
 
「どうした?」
 
「僕らは、今、なんだかよくわからない壁を通った」
 
「結界、ってやつか?」
 
 以前に銀騎(しらき)皓矢(こうや)が祖父の詮充郎(せんじゅうろう)の執務室にかけていたものを蕾生は思い出した。
 だが、あれは建物そのものが見えないように細工されていたので、それ以外の例を知らない蕾生にはよくわからなかった。
 
 永の言葉を受けて鈴心も慎重な態度で言う。
 
「そう──だと思うんですが、今、梢賢は何も手続きのような素振りをしませんでした。なのに部外者の私達も通ることができた」
 
「ああ……」
 
 言われて蕾生はさらに思い出す。皓矢は結界を緩める手振りをしていた。あのような奇怪な動きを梢賢は全くしていない。普通に通り過ぎただけだった。
 
「少なくとも、銀騎にはこのような結界術はない。一体どういう理屈で結界を張っているのか、全く得体が知れません」
 
「銀騎とは別の理で形成された術、か。それなら長年銀騎が掴めなかったのも頷けるな」
 
「ハル様、この村にもやはり相当な力を持つ呪術師の類がいるのだと思います」
 
 永と鈴心の会話を聞いた梢賢は冷や汗をかかんばかりで、顔を顰めて笑った。
 
「ほんま、鋭い子らやわあ。恐ろしいなあ」
 
 永は緊張を孕んだ声で蕾生に言った。
 
「ライくん、気をつけて」
 
「──わかった」
 それを受けて蕾生は背中の白藍牙を無意識に触っていた。

 
 右の屋敷と左の寺の間を通って少し歩くと、純和風家屋の豪邸が顔を出す。
 使われている材木は古いものと新しいものがまちまちで、改修に改修を重ねてきたようだ。その見た目は、築二百年とも三百年とも言われても納得するくらいの古いものだった。
 
 屋敷の玄関は開いており、梢賢は何も言わずに入っていく。人の気配はなかった。薄暗い土間と直結している玄関を通って四人は奥座敷へと入る。

 広々とした畳の部屋で、奥は一段高くなっていた。低い方の畳の上に何故か座布団が四つすでに並べられている。梢賢が座れと無言で促すので、三人は不気味に思いながらもそれに従った。
 
「うん。いかにもって感じ」
 
 永はその屋敷の雰囲気から、昔読んだ推理小説を思い出していた。旧家で起こる殺人事件ものだ。
 
「どんな方なんでしょう……」
 
 鈴心も珍しく不安気にそわそわしている。蕾生は正座が苦手なので座るなり不機嫌になった。
 
 数分経って、五十代ほどの男性が部屋に入ってきた。厳しい顔つきで、三人を順番に見ていく。梢賢から聞いた里長の名前は女性のものだったので、この人物が誰なのかわからなかった。
 
「?」
 
「ご一同、よくいらした。私は眞瀬木(ませき)墨砥(ぼくと)。里長の藤生(ふじき)康乃(やすの)様の側仕えをしている」
 
 墨砥の声は低くも良く通るものだった。少し銀騎(しらき)詮充郎(せんじゅうろう)の纏う空気感に似ている。
 
周防(すおう)(はるか)です。眞瀬木って──」
 
 永が言い終わらないうちに梢賢が小声で耳打ちする。
 
(けい)兄やんの父ちゃんや」
 
「ああ……」
 
 言われて永は納得した。確かに顔が似ている。眞瀬木(ませき)(けい)が仏頂面になったらこんな感じだろう。
 
「私に自己紹介は結構。これより康乃様がお見えになるからそこでして下さい」
 
 墨砥は抑揚のない声で言った。その姿に堅苦しさを感じた蕾生はますます居心地が悪くなった。
 
「では御前がお見えになります」
 
 墨砥の言葉を合図に、部屋の襖を開けて入ってくる老婦人。藤生(ふじき)康乃(やすの)である。
 深緑色の紬の着物を着ており、歩く所作は気高さにあふれていた。康乃は音もなく歩き、一段上の畳の間で明らかに高価な座布団に座った。横には脇息が置いてあったが、それを使わずに真っ直ぐ正座している。
 
「初めまして、鵺人(ぬえびと)の皆さん。麓紫村相談役の藤生(ふじき)康乃(やすの)です」
 
 にっこり笑っているものの、その声は聞く者を圧倒させる。一瞬永は言葉が出なかったが、すぐ我に返り一礼とともに挨拶する。
 
「す、周防(すおう)(はるか)です。初めまして──」
 
(ただ)蕾生(らいお)です……」
 
御堂(みどう)鈴心(すずね)と申します」
 
 さすがの蕾生も正しい敬語で名乗るしかなかった。鈴心はこのように圧を与えてくる人物に慣れているのか、少し余裕があった。
 
「ごめんなさいね、偉そうに上からお話して。そこの墨砥が形式にはうるさいの」
 
 困ったように笑う康乃に、名指しされた墨砥はそれでも表情を崩さずに黙って前を向いて襖の側に座っていた。
 
「い、いえ!僕らは若輩者ですから!」
 
 永が慌てて言うと、康乃は落ち着いた声で聞く。
 
「そちらの周防(すおう)さんが──(はなぶさ)家の御子孫かしら?」
 
 その一言で康乃がこちらの素性をかなり詳しく知っていると理解した永は、態度を改め冷静に答える。
 
「いえ。僕は(はなぶさ)治親(はるちか)氏の生まれ変わりです、子孫ではありません」
 
「では、英家の末裔とご関係は?」
 
「全くありません。今までも英の家とは関わってきませんでしたから、僕は子孫については何も知りません」
 
 永がそこまで言うと、康乃は微かに息を吐いてにっこり笑った。
 
「そうなの。それなら話しやすいわ」
 
「御前、まさか──」
 
 訝しんだ墨砥を笑顔で制して康乃は言う。
 
「いいじゃない。相手の事が知りたければ、まずこちらからお示ししないとね」
 
「──とおっしゃいますと、藤生さんは英家に関係が?」
 
「まあ、あると言えばあるけれど、血縁という訳ではないわ。私は成実(なるみ)家の子孫です」
 
 何百年ぶりにその名を聞いただろう。永は驚きで目を見張った。






「な、成実(なるみ)ですか!?」
 
 (はるか)があまりに驚いているので、蕾生(らいお)は隣の鈴心(すずね)にこっそり聞いた。
 
「なんだ?それ」
 
「かつての(はなぶさ)家の政敵です。治親(はるちか)様が戦で負けた相手です」
 
 鈴心も永に負けないほど驚いていた。そんな三人の反応を気にする風もなく康乃は思い出を語るように言う。
 
「そうね、一度は成実家は政権をとった。その際に滅ぼされた英治親氏は不遇でした。
 けれど、別の英家が盛り返し、今度は成実が倒された。私達は敗戦の際に落ち延びてこの村に辿り着き、名前を変えてここに隠れ住んでいるの」
 
「そう、だったんですか……」
 
雨都(うと)の──当時は雲水(うんすい)一族ね。彼らがここに辿り着いたのはずうっと後の時代になってから。それも偶然よ。
 彼らの境遇に同情した私達がここに匿うことにしたの。それ以来、雨都家にはこの里の神事などを任せています。元々が僧侶の家系でしたからね」
 
 そこまで話したところで、墨砥(ぼくと)が小さな声で釘を刺そうとする。
 
「御前……」
 
「あらいけない、喋りすぎてしまったかしら。次は貴方達のことを聞かせて」
 
 お茶目に笑った顔は、その余裕さを物語っている。
 永は注意深く探りを入れることにした。
 
「ええと、何をお知りになりたいので?」
 
「そうねえ……やっぱり(ぬえ)のことかしら」
 
「鵺、ですか。ですが、そちらでもかなり詳しくご存知なのでは?」
 
 ずばり聞いてくるとは、永は無意識に身構える。大胆なこの女傑はそんな永に向かって柔らかな口調で言った。
 
「そんなことはないのよ。雨都の文献は秘蔵ですから、この私も見たことはないの。雨都はあくまで同盟みたいな関係でね。適度な距離をとっているのよ」
 
「そうですか。でも僕らも鵺の呪いについてはわからないことばっかりで。藤生(ふじき)さんのご満足いく話ができるかどうか……」
 
「お若いのにはぐらかすのがお上手なのね。そちらの(ただ)さん──が鵺に変化(へんげ)できるというのは本当かしら?」
 
 遠慮のないその発言は永と鈴心の体を強張らせた。
 蕾生はドキリと慌てて「違う」と言おうとしても言葉が出なかった。
 
「いや、俺は──」
 
 そんな蕾生を優しく制して、永が代わりに答える。息を吐いて、観念するように努めて冷静に言った。
 
「確かに一度彼は鵺に変化しました。本来はそういう呪いのはずです。今、何か特殊能力のように表現されましたが、それは全くの誤解です」
 
 鈴心もそれに追随する。少し怒った表情で。
 
「私達は彼が鵺に変化しないように、何回も転生を繰り返しているんです」
 
 康乃は少し驚いていた。三人の反応は予想外だったようだ。
 
「そうだったの。気を悪くしたならごめんなさい。では貴方達はその呪いを解く手がかりをこの里に見つけに来たのね?」
 
「おっしゃる通りです。ですから、僕らにこちらで調査する許可を頂きたいのです」
 
 その反応が本心からのもなのかが永には判断がつかなかった。銀騎(しらき)詮充郎(せんじゅうろう)とはまた違った老獪さを感じて、永は急いで本題を提示した。あまり長居はしたくなかった。
 
 すると康乃は即答した。
 
「構いませんよ。必要なことがあれば何でもこの眞瀬木(ませき)墨砥(ぼくと)に言ってください」
 
「ありがとうございます」
 
 その場で永は一礼する。もうこの話は終わりにしてください、と言わんばかりに。
 
梢賢(しょうけん)ちゃん、彼らのお世話は雨都に一任します」
 
「はっ」
 
「では今日はこの辺で。何もない里ですけど、ゆっくりしていらして」
 
 そう言い残して康乃はまた音もなく部屋出て行った。
 
「ふう……」
 
 プレッシャーから解放されて思わず息を吐いた永に、墨砥が急に話しかけた。
 
「私からもひとついいかね」
 
「あ、はい」
 
「御前はああおっしゃっているが、君達部外者が里に入ったことを公にしたくない。君達が調査できるのは雨都家の周辺のみに限定させてもらおう。
 雨都と藤生、眞瀬木以外の住民と触れ合うことは禁止させていただく」
 
 厳しい目でこちらを見る墨砥はまるで番犬の様だった。
 
「──わかりました」
 
「では、私も失礼する。梢賢、くれぐれも頼むぞ」
 
「はあい」
 
 そうして墨砥もまた音もなく部屋を出て行った。残された梢賢が困ったように笑う。
 
「すまんなあ、仰々しいおっちゃんで」
 
「眞瀬木って人は麓紫村(ろくしむら)ではどんな地位なの?」
 
 永が聞けば、梢賢はヘラヘラ笑って答えた。
 
「眞瀬木は藤生の分家や。だから、おっちゃんが自分で行った通り、藤生の側近。ま、門番みたいなもんや」
 
「忠臣って感じですね」
 
 鈴心が感想を言うと、梢賢は頷きながら鈴心と蕾生を交互に指差した。
 
「まあな、君らと似た者同士やないの?」
 
「そうですね……」
 
「そうか?それにしては、なんか違う感じがするな。うまく言えねえけど、ただの手下じゃないって言うか──」
 
 眞瀬木墨砥からは確かに蕾生が永に抱くような絶対的なものを感じていた。
 だが、それだけではなく何か小さな違和感もある。それがわからなくて蕾生はなんだかモヤモヤしていた。
 
「ライオン君、その野生のカンは大事にしいや」
 
「?」
 
 梢賢はそう言って蕾生の胸をつついた。それから明るく言い放つ。
 
「ほなら、いよいよウチに行こか!」
 
 そうして四人は部屋を出てまた人気のない玄関へと向かった。






 梢賢(しょうけん)藤生(ふじき)の家を出ると、来た道を戻り左の寺を指差した。
 
「ま、さっき見たやろけど、予想通りこの寺がウチやねん」
 
「だよね」
 寺の門構えを見上げながら(はるか)は頷いていた。
 
 蕾生(らいお)もその奥の寺の規模に少し驚いている。
「結構でかい寺だな」
 
「まあ、里で唯一の寺やからな」
 
「では、あっちのお屋敷は?」
 鈴心(すずね)が右側の屋敷を指差して聞く。
 藤生の屋敷に比べると小さいがそれでも雨都(うと)の寺よりは大きく見えた。
 
「あっこが眞瀬木(ませき)んちや。眞瀬木、雨都、奥に藤生。この三家の住まいが建ってるあたりを鳴藤(なるふじ)地区て呼んでてん」
 
「ふうん。一目でここが村の重要な場所だってわかるね。だから結界が?」
 
 続けて永が聞けば、梢賢は肩をすくめて答えた。
 
「そやね、しらばっくれても無駄やろうから白状するわ。この鳴藤地区には特別な結界が張られとる。銀騎(しらき)への目眩しや」
 
「術者は眞瀬木ですか?」
 
 鈴心がきっぱりと尋ねると、梢賢はわざと一歩後ずさるリアクションをした。
 
「えー、なんでそないにドンピシャ当てられるのん?ほんと怖いわ」
 
「ただの消去法ですけど」
 
「眞瀬木の人って陰陽師なのか?」
 蕾生にとっては結界イコール陰陽師という知識しかまだない。
 
「いや、厳密には違うらしいで。民間発祥の呪術師って聞いてるわ」
 
「ふうん……意外にすんなり教えてくれるんだね」
 
 永が少し意地悪く言うと、梢賢はそれを躱すように戯けてみせた。
 
「あらヤダ!オレのことまで疑わんでほしいわあ。オレは君らの味方やで」
 
「それはどうも」
 
 苦笑しきりの永の横で、真面目な鈴心が真面目に疑問を述べる。
 
「でも、銀騎への目眩しなら雨都家の敷地だけ隠せばいいのでは?」
 
「さっき康乃(やすの)様が言うたやろ。ムニャムニャ一族の子孫だから隠れて住んでるって。眞瀬木かてお世辞にも真っ当な生き方してへんからなあ。隠れるならまとめて、っちゅーこっちゃ」
 
「藤生の本来の姓を言うのは禁止なんだ?」
 
 その言葉を受けて永が聞くと、頭の上で手を組んで溜息吐きながら梢賢は答えた。
 
「まあ、誰に聞かれてるかわからんからなあ。念には念を入れてや。特にオレんちは居候やから厳守せんと」
 
「雨都のここでの地位は低いんですね」
 
「そうや。ただ飯食いやからな。こう見えて気苦労が多いんですわ」
 
 梢賢の物言いからも前時代的なものを感じざるを得ない。実際にこの村の様子を見た三人はそれを改めて納得する。本当に時が止まった世界にタイムスリップしたような気分だった。
 
 長々と立ち話をしていても仕方がないので、四人は寺の門を通る。短い参道を箒で掃いている若い僧侶がいた。
 
「ナンちゃーん!お客人連れてきたで」
 
「──ああ、これは遠路はるばるようこそ」
 
 僧侶は梢賢達の姿に気づくと、にこやかに笑いながら近づいた。
 
「オレの姉貴の婿さんや」
 
「初めまして、雨都(うと)楠俊(なんしゅん)です。実緒寺(みおでら)の副住職をしております」
 
 丁寧に頭を下げて挨拶する楠俊は、その声の印象からも穏やかな人物だと言うことがわかる。僧侶の格好をしているが、頭髪がまだあった。スポーツ刈り程の長さだ。
 
周防(すおう)(はるか)です。お世話になります」
 
(ただ)蕾生(らいお)っス」
 
御堂(みどう)鈴心(すずね)です」
 
 三人が順番に挨拶すると、楠俊は参道からそれて母屋だと思われる建物へと入っていく。
 
「おーい、優杞(ゆうこ)さーん」
 
 それについていくと、楠俊が呼びかけてすぐに若い女性が小走りでやって来た。
 
「はいはい。ああ、梢賢お帰り!皆さんもようこそいらっしゃいました」
 
「こんにちは」
 
 三人が挨拶とともに一礼すると、横で梢賢が情報を付け足す。
 
「で、これがオレの姉ちゃんや」
 
「姉の優杞です。よろしくね、さあ、どうぞどうぞ」
 
 ショートボブの髪をヘアピンで留め、パンツスタイルの優杞は快活そうな印象だった。
 
「お邪魔します」
 
 緊張しながら玄関を上がろうとする三人に、梢賢は小声でさらに情報を付け足した。
 
「姉ちゃん、外面はええけど怒るとやっかいやで。気ぃつけや」
 
「梢賢、なんか言ったか?ん?」
 
 かなり小さな声での耳打ちだったが、優杞は梢賢を威圧するように笑いかける。それはさながらレディースの総長のようだった。
 
「いいええ!ボクハナニモ──」
 
 蛇に睨まれた蛙よろしく、梢賢は固まって片言で首を振るのが精一杯だった。雨都家では男性の地位が低いのかもしれないと永は思った。
 
 奥の座敷に通された三人を一組の男女が待ち構えていた。
 楠俊より明らかに格上の僧侶と、和服をきっちりと着て厳しい表情で正座する女性。見た目の年齢からこれが梢賢の両親であることは明白だった。
 
「いらっしゃい」
 
 梢賢の父と思しき男性は低く抑揚のない声で一言述べただけ。
 
「こんにちは」
 
 続く母と思しき人物もただ一言発するだけで、一瞬で空気が重苦しくなる。
 
「あああ、オレの父ちゃんと母ちゃんや!」
 
 そんな両親の重たい雰囲気を軽くしようとしたのか、梢賢は殊更明るく三人に紹介した。
 
「初めまして、周防(すおう)(はるか)です。この度はよろしくお願いします」
 
(ただ)蕾生(らいお)です」
 
御堂(みどう)鈴心(すずね)と申します」
 
 梢賢の両親の重く厳しい雰囲気に、永はその場でしゃがんで頭を下げる。蕾生もそれに倣い、鈴心は手をついて一礼した。
 
「んんー、カタイカタイ!姉ちゃん、なんか飲み物持ってきてや。オレのとっときのやつ!」
 
「そ、そだね」
 
 梢賢と優杞は更に明るく振る舞ってバタバタと動いた。そんな二人の様子に苦笑しながら楠俊が三人に声をかける。
 
「まあ、どうぞ楽にしてください」
 
「……」
 
 楠俊はそう言うが、梢賢の両親はすでに永達の方を見ておらず、まるで瞑想をするように目を伏せ黙っていた。
 とりあえず居間の端に座ったものの、気まずい空気が流れ続け、三人は緊張と相まって息が詰まりそうだった。






 息が詰まりそうなほどの沈黙の中、救世主が現れた。
 
「まま、これオレのお気に入りのジュースやねん。わざわざお取り寄せしてるんよ」
 
 梢賢(しょうけん)は「高級!」と書かれたラベルの瓶ジュースを手に戻ってきた。後からグラスを運んできた優杞(ゆうこ)とともに愛想笑いを浮かべて全員に注いで回る。
 
「はあ。いただきます」
 
 (はるか)にしてもその笑顔が張り付いており、緊迫から微妙な雰囲気に格上げはしたがまだ居た堪れなかった。
 そこで、梢賢は大袈裟にグラスをぐいっと飲み干して笑う。
 
「んー!これこれ!やっぱりんごジュースはこれやないとあかんわあ!」
 
「梢賢、さっきから黙って聞いていれば、なんだそのお笑い芸人みたいな喋り方は」
 
「ピッ!」
 
 だが、父の柊達(しゅうたつ)は更に不機嫌になって梢賢を睨みつける。
 
「馬鹿がますます馬鹿に見える。やめなさい」
 
「すいません!」
 
 母の橙子(とうこ)からも辛辣な言葉が出て、梢賢は結局その場で縮こまった。アイデンティティとは何かを考えざるを得ない。
 
「まあいい。不肖の息子が色々と迷惑をかけたようですまなかった」
 
 柊達は肩で大きく息を吐いて形式上謝った。
 それに永達は恐縮しながら答える。
 
「あ、いえ!僕らこそ、また雨都(うと)の方にお会いできて本当に心強いです」
 
「毎度ご迷惑をおかけして申し訳ありません……」
 
 永の謝辞と鈴心(すずね)の侘言の後、ぼうっとしている蕾生(らいお)を柊達が軽く睨んだ。
 お前は何かないのかと言わんばかりだ。
 
「すいませんでした……」
 
 仕方なく蕾生も頭を下げたが、具体的な事は言えなかった。
 そうしてやっと橙子が口を開く。
 
「まあ、あらましは梢賢から聞いています。それに私が子どもの頃は叔母からも散々聞かされました」
 
(かえで)サンからですか?」
 
「ええ。母の目を盗んではいろいろとね。あの頃は御伽話のようで楽しく聞いていたものだけど、いざ息子が関わると思うとねえ……」
 
「……」
 
 当然の言い分に、永は二の句が出なかった。
 
「ご存知かもしれないが、楓の姉である私達の母は二年前に亡くなっている。母は妹が受けた(ぬえ)の呪いを最期まで憎んでいた。その想いは代を変えても私達の根幹にあると承知おかれよ」
 
「はい……」
 
 吊し上げの様ではあるが、永は甘んじてこれを受け入れる。その横で鈴心が控えめに申し出た。
 
「あの、ご迷惑でなければ、楓さんの墓前に参りたいのですが……」
 
「悪いが墓に行ってもらっても楓はいない」
 
「──え?」
 
 ひたすら不機嫌なままの柊達の言葉に鈴心が聞き返すと、橙子が息子を促した。
 
「梢賢」
 
「ああ……」
 
 短く返事をした後、梢賢は胸元から小さな石のついたペンダントを取り出した。それは翡翠のような色の石で、鈍く光っている。
 
「楓婆ならここや」
 
 梢賢のその言葉の意味を永も鈴心も理解できなかった。
 
「ええ?」
 
「どういうことです?」
 
 二人の様子に、橙子は眉を顰めながらも説明を始める。
 
「説明しなくてはわかりませんね。楓は鵺の呪いを受けて里に帰ってきましたが、徐々に体が弱っていき、遂には寝たきりになりました」
 
 予め梢賢から聞いてはいたものの、具体的に表現されて、永はショックを隠せず、鈴心は一瞬で青ざめた。
 
「里で、その……そういうことに詳しい方の治療を受けながら、細々と、それでも七年生きました。私は当時子どもだったので、叔母が亡くなったと聞かされたのは少し後のこと」
 
 そして橙子は静かに不可思議な事実を告げる。
 
「母に聞いた話をそのまま申し上げますが、叔母はある時その石に身を変えたそうです」
 
「──」
 予想もしていなかった事に、永は何も言うことができなかった。
 
「以降、その石を楓石(かえでいし)と呼んで、母が肌身離さず持っていました。それを私が結婚する時に受け継いで、今は梢賢に持たせています」
 
「拝んだってや、気持ちは届くかもしれん」
 
 梢賢はペンダントを首から外して鈴心に渡した。震える手でそれを受け取った鈴心は驚愕と衝撃で瞳を震わせる。
 
「そんな、楓……」
 
「なんてことだ──」
 
 二人の悲しみが居間全体に広がっていく様だった。沈黙の中、蕾生はその楓石に注目する。
 不思議な感覚がした。何か大切な感情がそこに吸い込まれていくようだった。
 
「申し訳ありませんでした。僕らは何も知りませんでした」
 永は土下座して謝罪する。
 
「楓さんのその後に気を配れずに申し訳ありません」
 梢賢にペンダントを返して鈴心も頭を下げた。瞳には少し涙が滲んでいる。
 
 蕾生も二人に倣って一礼した。
 すると幾分か態度を和らげて橙子は言った。
 
「いえ。貴方がたはとうに亡くなっていたんでしょう?叔母も後悔してましたよ、私だけ生き延びてしまったって」
 
「そんな!楓さんが生き残ったって聞いて僕らは救われたんです。こんな言い方は失礼かもしれませんが──」
 
「ありがとう。貴方がたも大変な運命を生きていらっしゃるのにね」
 
 微かに笑う橙子の顔が、どこかで見たような面影を思い出す。蕾生は恐縮しきりの永を他所に不思議な感覚に支配されていた。
 
「ンン、先程は憎んでいると申し上げたが、私達は母ほどそれに支配されている訳ではない。今の君達の見せてくれた態度でそんな感情も薄れた。むしろ私個人としては君達の境遇には同情している」
 
「ありがとうございます……」
 
 橙子が表した歩み寄りに倣って柊達も少し涙交じりになって理解を示す。それが永には有り難かった。
 
「過去を水に流す──ことはできないし、もう二度と楓のようなことはあってはならない。ましてや息子が同じ目にあうなど絶対に御免被る!」
 
「それはもちろんです!」
 
 柊達に向けて永は力強く頷いた。
 それに満足したのか、柊達も最後には声音を和らげて言った。
 
「そうならないためにも、私達ができることは協力して差し上げよう。蔵を開放するから気のすむまで調べたらいい」
 
「──ありがとうございます!」
 
 永は許しを得た喜びを表す。鈴心も勢いよく一礼し、蕾生も静かに頭を下げた。
 
「なんや、父ちゃん!良かったわー、それならそうと早く言ってくれんと!長々ともったいぶって!」
 
 全てを台無しにする梢賢の呑気な言葉を柊達は一喝するように睨む。
 
「ピッ!」
 
 肩を震わせた梢賢の頬を優杞が摘みながら凄んだ。
 
「お、ま、え、の、心配、を、していたんだろうが、馬鹿が!!」
 
「ひいいい、ふ、ふいまひぇん……」
 
 急なバイオレンスに三人が唖然としていると、優杞は我に返って誤魔化すように笑う。
 
「あら、いけない。オホホホ」
 
 雨都家はもしかしたら愉快な人達なのかもしれない、と三人は心の中で頷き合った。