夏の夜は短い。そのくせ、涼しい時間がこのくらいしかない。
 ビアガーデンとかいう催しに便乗して、俺たちもビルの屋上でビールを飲んでいた。

 スーツを着るのにも慣れてきた、社会人二年目。隣にいる幼馴染、夏夜(かよ)のオフィスカジュアルな姿も、このビアガーデンに馴染んでいると思う。

「も〜〜〜、私ってそんなに魅力ないかなーーーー!」

 夏夜は三杯目のビールを呷る。彼氏にフラれたからって、飲みすぎだろ。

「アンタはいいよね、気楽で」
「何だよそれ。お前も恋人作らなきゃいいだけだろ」
「うわーーーん! 酷いだろそんなのーーーー!」

 酷いのはどっちだ、と思ったが、言わないでおく。ただ慰めてほしいだけなのだろう。
 会話にならないこんな会話を、もうさっきから十回は繰り返している。

 幼馴染だからといって、俺たちはそれ以上特別な関係にあるわけじゃない。ただ、彼女が失恋をするたびにこうやって俺が慰めるのが、何故か定番になっている。

 今回で、もう四回目。いったいこれは、いつまで続くのだろう。夏夜がおばあちゃんになっても続くのなら、勘弁してほしいところである。

 ✻ ✻ ✻

 彼女が最初に失恋したのは、中学生の時。当時高校生だった俺の兄貴に、恋人がいると知ったときだ。

 夏夜がうちに遊びに来ていたタイミングで、ちょうど、兄貴が恋人を連れて帰ってきた。
 恋人同士の特殊な手の繋ぎ方をしているのを、夏夜は見逃さなかったらしい。

「夏夜ちゃん、いらっしゃい」

 兄貴に名前を呼ばれるといつも頬を赤く染めていた夏夜はその日、「帰る」と唐突に俺の家を飛び出した。

 兄貴は「悪いことしちゃったなー」とか言いながら、恋人と部屋に籠ってしまう。閉じた兄貴の部屋のドアを睨みながら、俺は慌てて靴を履いた。

 夏夜が落ち込むときは、だいたい公園のすべり台の下にいる。だからその日も、俺は夏夜を探しに公園に向かった。

「バカにしに来たわけ?」

 帰宅を促す鐘も鳴り終わった、夕暮れ時の人気(ひとけ)のない公園。
 顔を上げた彼女の泣き顔を今でも鮮明に思い出せるのは、幼い頃は泣き虫だった彼女の泣き顔を、すっかり忘れていたからだと思う。

「んなわけないだろ」

 俺を睨みつける夏夜のぐちゃぐちゃな顔には、俺のことなど大っ嫌いだと書いてあるようだ。

「じゃあ慰めに来たのかよ!」
「そうだよ」

 俺は夏夜を抱きしめた。

「放せーーーーっ!」

 男らしい言葉の叫び声が、どうしようもなく乙女の響きに聞こえた。

「離さねーよ」

 しばらく抵抗を続けていた夏夜だったが、不意に抵抗を辞めて小さくこぼした。

「なんでお前、顔似てるんだよ」
「仕方ねーだろ、兄弟なんだから」
「昔は似てなかったのに……、どんどん似て来やがって」
「俺のせいじゃねーし」 
「ふっざけんな」

 夏夜は俺の胸元をぼかすか殴った。泣きながら、ひたすらに殴った。
 理不尽だ。

 ✻ ✻ ✻

 二度目は高校生の時。

「なんとなく、フラれる気がしてた」

 夜の虫がチリチリと鳴く、公園のすべり台の下。

 手持ち無沙汰なのが嫌で、コンビニで買ってやった棒付きキャンディーを並んで舐めた。

「そんな根性で告白したんじゃ、そりゃフラれんだろ」
「それでも言いたかったんだよ、『好き』って」
「ふーん、分かんねーな」

 本当に、夏夜のことは良く分からない。
 今の関係が壊れるくらいなら、告白なんてしないほうがいいと思う。

 けれど、あの頃みたいにわんわん泣かない彼女の流した、すうっと頰を伝う涙が、公園の街灯にぼんやりと照らされて、何となく乙女だと思った。
 
「泣いてんじゃねーよ」

 ポケットから取り出した、ハンカチを差し出した。
 誕生日に、夏夜からもらったものだった。

「キャラじゃね―ことすんなよ」
「キャラじゃなくねーよ、別に」

 俺だってそれなりにモテる。
 告白だってされたことはある。
 けれど、それを今言うのは地雷な気がする。

 彼女は俺の差し出したハンカチを、自分があげたものだと気づかずに「いらない」と首を横に振った。

 ✻ ✻ ✻

 三度目は大学生の時。
 初めて彼氏ができたらしいが、キスが下手すぎると言われたらしい。

「酷くない!? 信じられる!?」

 この時は夏夜に呼び出された。
 慌てて向かった夜の公園で、早々に彼女はそう叫んだ。

「キスしたのなんて初めてだし!」
「いや、知らねーし」

 キスに上手いも下手もあるもんか。
 けれど、夏夜はキスが下手なのかもしれないと思う自分と、だから何なんだと思う自分が対立した。

「でも、その男と別れて良かったんじゃねーの?」
「え?」
「好きならキスが上手いとか下手とか、関係ねーだろ」

 言えば、彼女は黙り込んだ。
 俯向いたその瞳に、薄く涙が浮かんでいるのが見えた。
 しまった、言葉を間違えた。そう思ったときにはもう遅い。慌てて家を出たから、棒付きキャンディーもハンカチも持っていない。

「ねえ、キスしてよ」
「しねーよ」
「忘れるから」
「ぜってー嫌だ」
「……だよね、ごめん」

 彼女の涙が頰を伝い、顎から足元に垂れてゆく。
 けれど、俺は抱きしめることもできない。

 どうしてほしいのか、何を言ってほしいのか。
 正解が分からなくて、彼女が「帰る」と言うまで、ただそこで立ち尽くすしか出来なかった。

 ✻ ✻ ✻

 そして今、四度目。
 今の俺にできることは、酔っ払って謎の会話を繰り返す彼女の隣で、ビールを大人しく飲むことだけになってしまった。

 大人になったのに、あの頃みたいにはできない。
 むしろ、年を取るたびに何もできなくなってゆく。

「あーもう! なんで毎回こーなるかなー」

 それは俺のセリフだ。

 俺は完全にタイミングを逃した。好きだと勇気を出して伝えた彼女を、下手でもキスをしようとした彼女を、それでも前を向いて次の恋をした彼女を、俺は格好いいと思う。

 臆病な俺とは大違いだ。

 結局、酔って潰れかけた彼女をおぶり、家路についた。
 コンビニに寄って、水を二本買った。彼女はまだ俺の背中で、なんだかんだとうだうだ愚痴っている。

 子供の頃に戻りたい。このまま彼女を抱きしめることができたら、どれだけいいだろう。

「あー!」

 と、彼女が声を上げるから、俺は立ち止まった。

「ごめん、鼻水出た」

 なんなんだよ、それ。
 俺はポケットに手を突っ込み、ハンカチを手渡した。

「ハンカチって……乙女かよ」

 そんなことを言いながらも、盛大に(はな)をかむ音がする。
 幼馴染に、遠慮はないらしい。そもそも、酔っぱらいに遠慮などないか。

「これ、サンキュー」

 背後からチラチラとハンカチを目の前に垂らされる。

「いらねーよ、汚ねえ」
「えー、これ、私があげたやつなのに?」

 くそ、なんで覚えてるんだよ。

 夏夜にもらったハンカチを彼女に差し出したら、何かが変わるかもしれない。そんな淡い期待を読まれたようで、背中でヘラヘラ笑う彼女からさっとハンカチを奪い取った。
 顔が熱い。明らかに、お酒のせいだけじゃない。

「あー。もうここでいいよー」

 彼女はそう言って、俺の背中をバシバシ叩いた。
 下ろしてやった場所は、あの公園の前だった。

「じゃーな」

 まるで汚れ物を持つように摘んだハンカチを、別れの挨拶とともに振った。
 けれど、月明りと街灯に照らされた彼女の笑顔は、思ったよりもグシャグシャで。
 無理やり笑っているのだと気付いたら、身体が勝手に動いた。

「何すんだよ、バカ」

 俺の腕に閉じ込められた、彼女が零す。

「泣いてんのか笑ってんのか、分かんねー顔してんじゃねーよ」
「泣きたくねーんだよ、お前の前で。バカ」
「泣けよ。あの頃みたいに」
「泣かねーよ。絶対に……泣かねーから……」

 男みたいな言葉遣いは、あの頃から変わらない。けれどずいぶんとしおらしくなった彼女は、あの頃みたいに俺の胸を殴ってきたりはしなかった。

 代わりに、静かに嗚咽を押し殺して泣いていた。なんで急に、そんなに女らしくなるんだよ。

「……棒付きキャンディ」

 しばらくして泣き止んだ彼女が、小声で呟いた。

「……ねーよ」
「準備悪すぎだろ」
「理不尽だな」
「じゃあ、ハンカチ」
「さっきお前が(はな)かんだ」
「そうだった。……バカ」

 やがて夏夜は小さく俺の胸を叩いた。

「バカ。本当に、バカ」

 それは、俺のことなのか。それとも自分のことなのか。俺のことを責めるなよと思うけれど、自分の事も責めないでほしいと思う。

 恋の終わりは、誰が悪いとかじゃない。
 ただタイミングが悪かったとか、たまたまそういう気分じゃなかったとか、ちょっとマンネリ化してしまったとか、きっとそういう些細なきっかけなのだろうと思う。
 知らんけど。

 俺は彼女を抱きしめた。先程よりも、強く。こんなに小さい体で、何をどんだけ抱えてんだよ。

 不意に彼女が顔を上げた。

「痛い」

 夏夜は唇をとがらせ、こちらを睨む。
 けれど俺には、どうしても彼女が乙女にしか見えない。

「なあ」
「何?」
「キス、するか?」
「は?」
「忘れるから」

 夏夜は怪訝な顔をする。けれどすぐにはっとして、「そんなこと言ったことあったな」と笑う。

「いいぞー、その代わり下手だからな。驚くな……」

 彼女のおどけた言葉を飲み込むように、口づけた。溢れ出す想いに身を任せ、何度もついばむ。
 薄く開いた唇に舌を侵入させれば、彼女のそれと絡みつく。ザラザラとした感覚が気持ちよくて、何度も深く交じりたいと思った。

 怖くて怖くて越えられなかった一線を、お酒に乗じて奪うなんて、どうかしてる。

 でも今なら、酒のせいにできる。俺は、悪い大人だ。

 明日になったら、きっと幼馴染のままじゃいられない。なんて言って別れようか。
 さよなら? またな?
 そんなことを考えながら、彼女の唇をたっぷり味わった。

 けれど、どんなに離したくなくても、終わりはやってくる。彼女の息遣いが苦しそうで、俺は唇を離した。

「悪かった」
「もう、バカ」
「本当だな」
「忘れろよ、バカ」
「分かった」
「……バカ」

 何度も「バカ」と小声で俺を罵る彼女に、さっき買ったペットボトルを渡してやる。グビグビっと一気に半分ほど飲み干して、「バカ」と呟き彼女は走って帰っていった。

 俺はポケットに忍ばせていた、棒付きキャンディの包みを開いた。
 夏は夜でも、気温が高い。ベタベタと包みに飴がまとわりついて、綺麗に剥がせない。

 俺の恋に、似ている。
 舐めた飴は、甘くて酸っぱくて、ちょっとしょっぱい。

 けれど、もしこれで夏夜が前に進めるなら。
 俺は永遠に「バカ」のままかもしれないけれど、それでもいいと思う。

 不意に腕が痒くなってポリポリ掻いたら、そこだけぷくっと腫れていた。
 血と一緒に、ヤツに何かを持っていかれた気がする。

 これはきっと、もう執着するなってことだよな。

 俺は見上げた月にだけ、濡れた目元を見せた。
 さよなら、恋心。

 【終】