寒風吹きすさぶ冬の道を想定していたが、今の気候はとても穏やかで過ごしやすい。
キルシュの言葉に俺は頷く。
「そうですね、今年の冬はそれほど寒さも辛くない良い気候でした。作物の収穫量も悪くない様ですね」
馬車にぎっしりと積まれた木箱の中身は蕪にキャベツ、ブロッコリーにカリフラワー、人参など野菜や林檎など冬の作物が大半を占めており、これらはディリンゲンの町の市場で人気のある品として取引されている。
その他に詰まれているものは薪だ。
周囲を森で囲まれたティツ村で生産される薪は良質であることが知られており、火の付きと持ちが良いと評判なのだ。
「ええ、おかげさまで今年の冬はどれも豊作ですよ。これも先生が肥料や畝、畔などの作り方を教えてくださったお陰です」
「そう言ってもらえると嬉しいね。知識というものは正しく運用してナンボだからね。皆の役に立てて何よりだよ」
魔術師とは、この世界で最も広範な知識を修めた知識階級の人間である。
魔物に断絶されているこの世界を知識で繋ぎ、各地に叡智による恩恵を授けることもまた大切な仕事なのだ。
それから少し時が過ぎ馬車がティツ村とディリンゲンの町の丁度中間の地点に差し掛かったところで、俺はバスケットに手をかけた。
「少し時間が過ぎましたが、そろそろ昼食にしましょ……!?」
その時、音が聞こえた。
「ザイ、何を感じ取ったの?」
「待ってください、今確認します!」
身体強化により感覚を研ぎ澄ますと、馬車が行く道の遥か前方、草原の先から音が聞こえてくる。
人らしきものたちが必死に走る音、そしてその後に続く大地を踏みしだく強烈な音。
「前方から何かきます。数の総数は三、人型生物が二体、それより遥かに巨大な何かが一体です」
「……なるほど、あれがそうかな?」
キルシュが指さす方角からは、土煙を上げてこちらの乗合馬車に猛スピードで突進してくる何かが視認できた。
御者のゼンケルもようやく数百メートル先の異変に気づいたようで、手綱を握りしめながら驚きの声を上げた。
「な、何ですかあれは!? とりあえず逃げますよ、揺れますからどこかにつかまっていてください!」
手綱を握りしめて進行方向を変えようとするゼンケルに対し、俺は制止の声を上げた。
「違う、逆だ! そのまままっすぐ突っ込め、誰かが追われている!」
土煙を上げて突進してくる何かの前には、まだ豆粒程度の大きさにしか見えないが必死に逃げる人らしき姿が二つ見える。
かなりの速さで逃げているようだが、僅かに後ろを追いかけている魔物のほうが速度が速い。
あれではいずれ追いつかれるだろう。
俺の出した指示にゼンケルが恐怖で青ざめた顔で振り返った。
「そ、そんな無茶な!? あれだけの大きさの化け物にこっちから突っ込めというんですか!!」
「安心しろ。あの化け物は見た目こそ不気味だが、それほど凶悪な魔物じゃない」
「そ、そういう問題じゃありませんって……うわぁ!?」
まだ四の五の言うゼンメルを無視して、俺は荷台から彼のいる御者席に飛び移った。
そして左手で背中にかけてあった弓を取り、右手で矢筒から矢を取り出してつがえる。
「いいからこのまま直進するんだ! あの魔物を狙える位置まで近づけてくれればそれでいい」
「そ、そんなぁ……」
ゼンケルは涙目になっているようだが、今は気にしている場合ではない。
「ああ、なるほどギガントスパイダーだね。こんな平原で遭遇するのは珍しいね。それにしてもスパイダーに追われている二人の逃げ足の速さは中々のものだよ」
恐らく“千里眼”の魔術によって視力を飛躍的に高めたのだろう、キルシュも土煙を上げて突進している魔物の姿を捉えたようだ。
黒い毛に覆われた小さな小屋ほどもある巨躯から生える八つの脚、そして顔面に張り付いた四つの赤い瞳。
巨大な蜘蛛型の魔物ギガントスパイダー。
目の前にあるものをすべて喰らう悪食の魔物だ。
「キルシュ、勝手に判断して申し訳ありませんが……」
「いや、いいよザイ。まずはあの人たちを助けよう。それが今一番に優先すべきことだからね」
「ありがとうございます。……それでは仕掛けます」
俺が今手にしている弓、コンポジットボウは遥か東方の騎馬民族より伝来したという代物だ。
様々な素材で弓本体を強化したことで、引く側と反対方向に湾曲した構造になっている。
このため長弓に比べやや小型な造りで取り回しやすいサイズに収まり、速射性が高くなっている。
身体強化で腕力や体幹が大幅に強化される俺にとって、いかなる不安定な足場や姿勢でもあらゆる方向にスムーズに矢を連射できるこの弓は非常に都合がいい。
俺は狙いを定めて、矢を放つ。
それは狙いを違わず、ギガントスパイダーの四つの眼の内の一つを撃ち抜いた。
「シィィィィィィィ!!!」
馬車よりも巨大な蜘蛛は、奇怪な声を上げて怒りを露わにする。
そして俺の狙いどおり、奴の目標は自分の目の前を必死に走る二人から俺たちが乗る乗合馬車に切り替わった。
魔物がこちらに向けて突進してくる。
「ひぃぃぃぃぃぃ! き、きたぁぁぁぁぁ!!」
ゼンケルが悲鳴を上げるが、手綱を手放さずに馬を制御し続けるのは御者として大したものだった。
この有難い状況を活かして、俺はさらにギガントスパイダーに矢を射かける。
腹と脚に矢が突き刺さりその度にギガントスパイダーが苦悶の声を上げるが、それでも速度を落とさずにこちらにまっすぐ突き進んでくる。
流石に巨大な体をしているだけあって耐久力は高いようだ。
ギガントスパイダーの巨体が乗合馬車の目前に迫ってきた。
「うわぁぁぁぁ!! やっぱりダメだぁぁぁぁ!! こっちにくるぅぅぅぅぅ!!!」
ゼンケルの声が悲鳴から絶叫に切り替わったに聞こえる。
獲物である俺たちごと乗合馬車を押しつぶさんと、ギガントスパイダーは驚くべき跳躍力を持って空中に飛び上がった。
乗合馬車ごと俺たちを押しつぶす腹積もりのようだ。
しかし、そうはならなかった。
キルシュの言葉に俺は頷く。
「そうですね、今年の冬はそれほど寒さも辛くない良い気候でした。作物の収穫量も悪くない様ですね」
馬車にぎっしりと積まれた木箱の中身は蕪にキャベツ、ブロッコリーにカリフラワー、人参など野菜や林檎など冬の作物が大半を占めており、これらはディリンゲンの町の市場で人気のある品として取引されている。
その他に詰まれているものは薪だ。
周囲を森で囲まれたティツ村で生産される薪は良質であることが知られており、火の付きと持ちが良いと評判なのだ。
「ええ、おかげさまで今年の冬はどれも豊作ですよ。これも先生が肥料や畝、畔などの作り方を教えてくださったお陰です」
「そう言ってもらえると嬉しいね。知識というものは正しく運用してナンボだからね。皆の役に立てて何よりだよ」
魔術師とは、この世界で最も広範な知識を修めた知識階級の人間である。
魔物に断絶されているこの世界を知識で繋ぎ、各地に叡智による恩恵を授けることもまた大切な仕事なのだ。
それから少し時が過ぎ馬車がティツ村とディリンゲンの町の丁度中間の地点に差し掛かったところで、俺はバスケットに手をかけた。
「少し時間が過ぎましたが、そろそろ昼食にしましょ……!?」
その時、音が聞こえた。
「ザイ、何を感じ取ったの?」
「待ってください、今確認します!」
身体強化により感覚を研ぎ澄ますと、馬車が行く道の遥か前方、草原の先から音が聞こえてくる。
人らしきものたちが必死に走る音、そしてその後に続く大地を踏みしだく強烈な音。
「前方から何かきます。数の総数は三、人型生物が二体、それより遥かに巨大な何かが一体です」
「……なるほど、あれがそうかな?」
キルシュが指さす方角からは、土煙を上げてこちらの乗合馬車に猛スピードで突進してくる何かが視認できた。
御者のゼンケルもようやく数百メートル先の異変に気づいたようで、手綱を握りしめながら驚きの声を上げた。
「な、何ですかあれは!? とりあえず逃げますよ、揺れますからどこかにつかまっていてください!」
手綱を握りしめて進行方向を変えようとするゼンケルに対し、俺は制止の声を上げた。
「違う、逆だ! そのまままっすぐ突っ込め、誰かが追われている!」
土煙を上げて突進してくる何かの前には、まだ豆粒程度の大きさにしか見えないが必死に逃げる人らしき姿が二つ見える。
かなりの速さで逃げているようだが、僅かに後ろを追いかけている魔物のほうが速度が速い。
あれではいずれ追いつかれるだろう。
俺の出した指示にゼンケルが恐怖で青ざめた顔で振り返った。
「そ、そんな無茶な!? あれだけの大きさの化け物にこっちから突っ込めというんですか!!」
「安心しろ。あの化け物は見た目こそ不気味だが、それほど凶悪な魔物じゃない」
「そ、そういう問題じゃありませんって……うわぁ!?」
まだ四の五の言うゼンメルを無視して、俺は荷台から彼のいる御者席に飛び移った。
そして左手で背中にかけてあった弓を取り、右手で矢筒から矢を取り出してつがえる。
「いいからこのまま直進するんだ! あの魔物を狙える位置まで近づけてくれればそれでいい」
「そ、そんなぁ……」
ゼンケルは涙目になっているようだが、今は気にしている場合ではない。
「ああ、なるほどギガントスパイダーだね。こんな平原で遭遇するのは珍しいね。それにしてもスパイダーに追われている二人の逃げ足の速さは中々のものだよ」
恐らく“千里眼”の魔術によって視力を飛躍的に高めたのだろう、キルシュも土煙を上げて突進している魔物の姿を捉えたようだ。
黒い毛に覆われた小さな小屋ほどもある巨躯から生える八つの脚、そして顔面に張り付いた四つの赤い瞳。
巨大な蜘蛛型の魔物ギガントスパイダー。
目の前にあるものをすべて喰らう悪食の魔物だ。
「キルシュ、勝手に判断して申し訳ありませんが……」
「いや、いいよザイ。まずはあの人たちを助けよう。それが今一番に優先すべきことだからね」
「ありがとうございます。……それでは仕掛けます」
俺が今手にしている弓、コンポジットボウは遥か東方の騎馬民族より伝来したという代物だ。
様々な素材で弓本体を強化したことで、引く側と反対方向に湾曲した構造になっている。
このため長弓に比べやや小型な造りで取り回しやすいサイズに収まり、速射性が高くなっている。
身体強化で腕力や体幹が大幅に強化される俺にとって、いかなる不安定な足場や姿勢でもあらゆる方向にスムーズに矢を連射できるこの弓は非常に都合がいい。
俺は狙いを定めて、矢を放つ。
それは狙いを違わず、ギガントスパイダーの四つの眼の内の一つを撃ち抜いた。
「シィィィィィィィ!!!」
馬車よりも巨大な蜘蛛は、奇怪な声を上げて怒りを露わにする。
そして俺の狙いどおり、奴の目標は自分の目の前を必死に走る二人から俺たちが乗る乗合馬車に切り替わった。
魔物がこちらに向けて突進してくる。
「ひぃぃぃぃぃぃ! き、きたぁぁぁぁぁ!!」
ゼンケルが悲鳴を上げるが、手綱を手放さずに馬を制御し続けるのは御者として大したものだった。
この有難い状況を活かして、俺はさらにギガントスパイダーに矢を射かける。
腹と脚に矢が突き刺さりその度にギガントスパイダーが苦悶の声を上げるが、それでも速度を落とさずにこちらにまっすぐ突き進んでくる。
流石に巨大な体をしているだけあって耐久力は高いようだ。
ギガントスパイダーの巨体が乗合馬車の目前に迫ってきた。
「うわぁぁぁぁ!! やっぱりダメだぁぁぁぁ!! こっちにくるぅぅぅぅぅ!!!」
ゼンケルの声が悲鳴から絶叫に切り替わったに聞こえる。
獲物である俺たちごと乗合馬車を押しつぶさんと、ギガントスパイダーは驚くべき跳躍力を持って空中に飛び上がった。
乗合馬車ごと俺たちを押しつぶす腹積もりのようだ。
しかし、そうはならなかった。