その日メイジスは、植物園でいつものように水やりをしていた。
メイジスの後ろには彼の補佐であるアンナが控えており、今日も高速でペンを走らせていた。
「大分、大きくなりましたね」
「はい。クリスタロスでは育てることが難しいと言われていましたが、今年は無事成功してよかったです!」
メイジスは、植物園では立場としてはベアトリーチェの次にあたる。
そのため、ベアトリーチェが騎士団の仕事で不在にしている間は、植物園の主な管理はメイジスが行っているのだが――水属性と光属性のメイジスだけでは出来ないことも多く、アンナが補佐についているのだ。
ちなみに、アンナは今年十六歳になったばかりの、地属性持ちの少々変わり者の伯爵令嬢だ。
普通の少女なら、綺麗なドレスや宝石で自分を着飾ることを好みそうなのに、当の彼女ときたら父に誕生日の贈り物について尋ねられたとき、「土が欲しい」と言ったという話は、植物園では誰もが知る逸話である。
植物園には現在、十数人の職員が勤めている。
男性と女性の比率は男性が多く、最年長はメイジスだ。
彼らは所謂オタクの集まりで、彼らの興味関心分野は植物だけではなく、鉱石や、生き物と幅広い。
しかし彼らは、それぞれの特性の専門家ではあったが、話をまとめたり人に話すのは苦手だった。
メイジスは、ベアトリーチェに招かれるまで植物の育て方についての知識は無かった。
だから正直彼らの上に立つのは気が引けたが、以前勤めていた年長者が高齢のため職を辞すことになったとき、全員がメイジスがを推した結果、一番知識の浅かったメイジスがその地位を引き継いだ。
今でこそ知識豊富なメイジスだが、後々当時のことを思い返せば、『繋ぎ』としての適性を見出されて自分は選ばれたようにメイジスは思った。
変人同士放置しようものなら意見の衝突などはよくあるため、メイジスは仲裁役を担うことが多かったのだ。そして結果、メイジスは変人奇人の集まりである植物園の職員達に懐かれることになった。
現在クリスタロス王国の植物園では、『魔法薬』の研究を行っている。
この世界には基本的に、異世界で言う『エリクサー』のような、『万病薬』というものは存在しない。
あらゆる傷や病を治すことができるとすれば、それは最早神の所業だ。
ちなみに神殿は『聖なる光』と呼ばせて光魔法による治療を行ってはいるが、その対価は非常に値がはるため、簡単に平民が手を出せるものではない。
神殿では清めた水を『聖水』と呼んでおり、その配布も行っている。
ただこれも寄付金が必要となるため、販売と言っても過言ではない。
そして神殿の『光魔法の』とは別に、この世界には『薬学』や『医学』とよばれる学問が存在する。
それは、『魔法を必要としない』怪我や病気の治療法だ。
これは魔法を使えない民間の中で発達した技術であり、その発展には『異世界人《まれびと》』も大きく貢献したと言われている。
だがこの世界には、この世界の薬草や魔法でしか治せない病や傷も存在する。
そしてそのような特別な病や傷なとに対して、魔法を持たない者たちは無力だった。
そんな現状だからこそ、『魔法薬』の需要はあると言える。
『魔法薬』とは、これまでの薬学の研究に、魔法の力や考え方を足したものだ。
治療のため光魔法をそのまま使えばかなりの魔力を消費してしまうが、植物を魔法で育てたり、調合の際に魔法を使うことで、消費魔力を少なくして、病や傷を治すことができるこの薬は、いわば『新しい薬』であると言える。
魔法を使える人間はどうしても貴族が多く、アンナもその一人だが、特に植物園ではメイジスのように平民でありながら魔法を使えるものが多く勤めているのは、彼らの興味関心も理由だろうが、彼らが幼い頃、身近で人の死を見てきたせいだろうともメイジスは考えていた。
ベアトリーチェから、自分が不在にしている間ユーリに騎士団の管理を任せていたらひどい状態だったため、騎士団総出で掃除をしたという話をメイジスは聞いたことがあったが、食生活においても衛生面においても貴族と平民ではかなりの知識や認識に差があり、それが平均寿命の差にも繋がっている。
「七歳までは神のうち」という言葉があるが、これは七歳までに死ぬのは珍しいことではないから、悲しむなという意味であると、メイジスは解釈していた。
それでなく、平民の間には、貧しい家では子供を売りに出したり、口減らしというものもあるという。
幸いクリスタロスの王都ではそんな不幸な子どもの話を耳にすることはなかったが、貧しい山村などではいまだに因習が残っている知識もあると、メイジスは人づてに聞いたことがあった。
そんな話を聞く度に、メイジスは胸を痛めた。
現国王リカルド・クリスタロスは、人前で魔法を披露することこそないものの、為政者としては立派な王だとメイジスは考えていた。
リカルドがこの国の王になってから、クリスタロス王国では貧しさ故に亡くなる人間の数は減ったとされるからだ。そして彼が神殿の光魔法に依存しない、薬学や医学、そして植物園での研究を支援したことも、その評価に繫がっている。
魔法の強さが評価に変わるこの世界では、ロイやロゼリアのように特出した魔法の才能を王が披露することで、国や王の名声も高まるという側面はどうしても存在する。
だからこそ周囲の人間はレオンに期待していたし、其の反面リヒトに対しては、国民はどこか失望感のようなものを抱いていた。
メイジスも、自分は彼らとは違う考えであるといえば嘘になる。
ただ、ベアトリーチェから間接的に二人の王子の話を聞いたメイジスは、その時のベアトリーチェの表情を見て、彼が嬉しそうに自分に話してくれた弟と自分を救ってくれたという少年のことを、最近は応援したいと思うようになっていた。
大切な人が大切に思う相手なら、その幸福を願いたいと。
◇
メイジスが花の水やりを終えて休んでいると、自分と面会を求めている人間がいると聞いて、メイジスは植物園の門へと向かった。
「ゴードン殿?」
「メイジス殿。開けてくだされ」
メイジスを訪ねてきたのは、かつてユーリを諭した老騎士だった。
メイジスは門を開くと、ゴードンを庭へと案内した。
来客用の庭には、虫を食べる植物などの変わり種はなく、一般的に美しいと言われている花や緑が植えられている。
「久しぶりですな。貴方は、騎士団にはいらっしゃらないから」
「もう騎士でない者が、簡単に入っていい場所ではないでしょう?」
メイジスは苦笑いした。
メイジスが騎士団にいる間、よく話を聞いてくれたのがゴードンだった。
彼は元々メイジスが営んでいた喫茶店の常連で、メイジスの妻の葬式には花を供えてくれた人物でもあった。
メイジスが魔法が使えるようになり、騎士として誰かを守りたいと願ったとき、指南したのも彼だった。
「先日は、天剣殿のこと、ありがとうございました」
「いや、なに。若者が困ったときは、導いてやるのが年長者の役目というものだ」
ゴードンは、そう言うと気持ちの良い笑い声を上げた。
「まあ、ローゼンティッヒは昔からやり方が豪快だからなあ。繊細な団長殿とは、少し相性が悪かったやもしれんな」
ゴードンの言葉を、メイジスは否定はしなかった。
ローゼンティッヒがクリスタロスに滞在していた間、メイジスは彼によく絡まれたが、正直だいぶ疲れたのを思い出す。
というより、騎士団にいた頃から、酔っ払ったベアトリーチェの世話を押し付けられたり、何かと彼のせいで自分は迷惑を被っていたようにもメイジスは思えた。
しかも面倒なことに、向こうはメイジスのことを気に入っているとわざわざ伝えてくるのだ。
それも彼を慕うベアトリーチェの前で。
ローゼンティッヒの行動は、ローゼンティッヒには嫌われてもベアトリーチェには出来れば嫌われたくはないメイジスにとっては、不都合なことこのうえなかった。
要するに、ローゼンティッヒはメイジスを使って、二人の反応を見てで遊んでいたというわけである。小悪この上ない。
「そういえば、彼は近々子供が生まれるそうですね。……出来ればもう少し、落ち着きというものを身に着けていただきたいものです」
珍しくメイジスが溜め息とともにそう漏らせば、ゴードンはわははと笑った。
「貴方がそのようなことを仰るとは」
「そう言いたくもなるような出来事があったのです……」
メイジスは、テーブルに座っていたゴードンの前に、コーヒーの入ったカップをおいた。
「……ああ。やはり、貴方のコーヒーに勝るものはこの世界には存在しませんな」
ゴードンは目を瞑り、コーヒーの香りを嗅いでからカップに口をつけた。
昔から変わらない彼の言葉に、メイジスはくすりと笑って礼を述べた。
「ありがとうございます」
そしてそう呟いて――昔なら、自分の後に妻が必ず言っていた言葉を、メイジスは思い出した。
『でしょう? 私、彼がいれるコーヒーが、世界で一番好きなの!』
まるで宝物を自慢する子どものように笑う妻を見るのが、メイジスは好きだった。
今は亡きその妻の名前は、メイジスが誰よりも大切にしている少年と同じ名前である。
メイジスが懐かしさに目を細めると、ゴードンが思い出したように言った。
「そういえば、ローゼンティッヒ殿の奥方の名前を聞いたのですが、なんというか……運命のようなものを感じてしまいましたな」
「というと??」
「ベアトリクス、と」
「なるほど……。あの方が、『ビーチェ』と呼ばないわけですね」
メイジスは苦笑いした。
自分と彼がベアトリーチェを『ビーチェ』と呼ばない理由が、まさか同じだとは思わなかった。
ただメイジスは、妻も『ベアトリーチェ』と呼んでいたのだが。
なおこのことは、メイジスが妻のことを人前で話していたときにベアトリーチェが居合わせたことがあったので、ベアトリーチェはメイジスが妻を同じように呼んでいたことを知ってはいる。
メイジスは、自分のことを『ビーチェ』と呼んで欲しいとベアトリーチェに言われたことはなかったが――呼び方を分けていた場合は、ベアトリーチェの自尊心に引っかかるのだろうなとメイジスは思った。
同じ呼び方なら許せるが、愛称を他の人間に取られることを、ベアトリーチェは嫌っているようにメイジスは感じていた。
「でもきっとあの方は、そうでなくてもベアトリーチェを、ビーチェとは呼ばなかったと思いますよ」
ローゼンティッヒの、どこかいつも遠くを見つめるような瞳を思い出して、メイジスは苦笑いした。
未来予知。
『光の巫女』を母に持つ彼の能力は光属性に特化しており、彼がいつも笑みを浮かべながらも、どこか冷めた目で見る瞬間があることに、メイジスは気が付いていた。
ある意味ローゼンティッヒは手に入りそうで入らない、つかみ所の無い厄介な男なのだ。
「あの方はきっと気安そうに見えて、どこかで他人《ひと》と線をひかれる方でしょうから。でも、天剣殿はきっとそうではないから――彼は、ベアトリーチェの望む人間《ひと》だと思います」
その点において、メイジスはユーリのことを気に入っていた。
裏表のない性格というか、打算を知らないというか――少し頼りないと思わせる青年ではあるけれど、人間性で見ればユーリはローゼンティッヒより好ましいとメイジスは考えていた。
今はまだ騎士団長としての素質としてはローゼンティッヒに劣っても、ユーリこそがベアトリーチェの相棒には相応しいと。
「そういえば貴方も、『ビーチェ』とは呼ばないのですな」
「それは……そもそも私は、私の妻も『ビーチェ』とは呼んでいませんでしたから」
ゴードンの問いに、メイジスは笑って答えた。
そういえば以前、同じ質問を妻にされたことをメイジスは思い出した。
『ねえどうして、貴方は私をそう呼ぶの?』
その問いに、かつてメイジスはこう答えた。
『少しでも長く、貴方の名を呼んでいたいから』
それは『ベアトリーチェ・ロッド』に対しても、メイジスの思いは変わらない。
むしろ精神的に不安定なところのあるベアトリーチェこそ、メイジスは名前を長く呼んでいたいと思った。
やがて自分たちが死んだとき、世界の誰よりもベアトリーチェが長い時を生きることになった時――少しでも彼の心の中に、自分と過ごした時間が、心の支えとなるように。
とはいえ、『地剣殿』から『ベアトリーチェ』に変わるまでだって、それなりの月日を要したのだ。
彼が自分に、『ビーチェ』と呼んで欲しいと来る日は来るのだろうか。そんな日を想像して、メイジスは笑った。
『ビーチェと、呼んでくれてもいいんですよ』
『私は、ベアトリーチェがいいです。貴方の名前を、少しでも長く呼んでいたいから』
自分がこう言えばベアトリーチェがどういう反応するかは、メイジスには予想がついていた。
『馬鹿なんじゃないですか!?』
きっと、そう言うに違いない。
かつて妻はメイジスに『貴方って、やっぱりひとたらしね』と笑ったが――同じ名前の人間だとしても、違う人間にはかわりはないのだから。同じ言葉を伝えても、かえってくる言葉は違う。
幼い頃、メイジスは騎士というものに憧れていたが、魔法を使えない自分に才能はないと思って、喫茶店を開いていた。
そして常連になってくれた妻と結婚し、二人で仲良く店を営んでいた。
目の前で、愛する彼女を失うまでは。
『ベアトリーチェ!』
『手を離して。そうじゃなきゃ、貴方も落ちてしまう』
『嫌です。死んでも、この手だけは……っ』
『メイジス。――貴方のことを、愛してる』
『ベアトリーチェ!』
――自分にもっと力があれば、彼女を守ることができたのに、どうして自分は、こんなにも無力なのだろう?
弱さを呪い、彼女のいない世界に、自分の生きる意味などないと思ったその日。
メイジスは、魔法を使えるようになった。
その力さえあれば、彼女を助けられたはずであろう力を。
そしてゴードンの指導を受け、店を畳んで騎士になることになったメイジスは、ベアトリーチェの下につくことになった。
『地剣――ベアトリーチェ・ライゼン殿、か』
自分はつくづく、ベアトリーチェというなに縁がある。その時メイジスは、そう思ったものである。
『こんにちは、僕』
『…………』
『騎士団の子かな? 小さいのに偉いね』
上司がいるはずの場所で、小さな子どもを見つけたメイジスが少年をあやせば、あからさまに子どもは顔を顰めた。
『貴方は誰ですか? 私はベアトリーチェ・ライゼンです』
『え!? あ、貴方が『地剣』殿!?』
子どもはまさかの上司だった。
メイジスは、慌てて頭を垂れた。
『た、大変失礼いたしました。今日から貴方の下で学ぶように言われている、メイジス・アンクロットと申します』
その日からは毎日が慌ただしく――そして当時のベアトリーチェは、今よりも更に子どもっぽかったことを、メイジスは覚えている。
けれど見た目はどんなに子どもでも、『初恋の相手』をベアトリーチェが心から愛していたことを、メイジスは知っている。
『地剣殿!』
愛する人の死期を知り、自暴自棄になったベアトリーチェを守るために、メイジスは片腕を失った。
『な、何故、貴方が……』
『貴方が。……貴方がご無事でよかった』
メイジスは腕を治すために神殿に向かったが、その日はレオンとギルバートが『魔王』のせいで意識を失った日でもあり、メイジスの怪我の治療は叶わなかった。
『……地剣殿』
自分を見舞うため、病室を訪れたベアトリーチェの頬に、メイジスは手を伸ばした。
『どうしたんです? 目なんか腫らして。私はちゃんと生きているんですから、そんな顏しないでください』
メイジスは、ベアトリーチェの為に光魔法を使った。
メイジスは、ベアトリーチェには笑っていて欲しかった。
死んでしまえば何も出来ない。でも、たとえ自分の体の一部が失われてしまっても、生きてさえいればどうにでも出来る。
――生きてさえ、いれば。
『貴方が、ご無事で良かった』
神様は優しくない。
魔法を与えられたとき、メイジスはそう思った。
それでも、今度はちゃんと『ベアトリーチェ』を守れたのなら、自分が騎士になったことに、メイジスは意味はあったように思えた。
あの日妻を守れなかった。でもおかげで、守れた命がここにある。
『う……あ……ああ……! あ……ッ!』
ベアトリーチェは声にならない声を上げた。
その姿を見て、メイジスはやはりこの子を守って良かったと思った。
そしてこの先も、この子を守ろうと心に誓った。
『神に祝福された子ども』
どんなに沢山の人が彼をそう呼んでも、その命に「責任」があると言っても、メイジスの目に映るベアトリーチェは子どもただの小さくて幼い子どもでしかなく、過酷な運命を背負った子どもを誰かが守ってやらなくては、その心はやがて死んでしまうに違いないと思った。
いずれ、彼はもっと強くなれることだろう。
どんな不可能も、彼なら可能に出来る。
時は偉大だ。
たとえその「時」の遺産が、彼の心を苛んでも、その力はやがて彼を称える賞賛の声に代わることだろう。
――それでも。
『泣かないでください。……私にとって貴方は、ずっと憧れだったんですから』
ベアトリーチェのその涙を見たときに、メイジスはその心を守るために、この先生きることを決めた。
『貴方は愛し愛される人だ。貴方が選ばれたのは、きっと貴方が、誰よりも優しいから』
だから、メイジスはベアトリーチェの頭を撫でた。
『だから、泣かないで。私は貴方を、傷つけたいわけじゃないんです。笑ってください。地剣殿。誰も貴方の、不幸は望んでいないのだから』
そしてその後メイジスは、ベアトリーチェが養父から管理を任された植物園の職員として雇用された。
『森の木陰、新緑の瞳。貴方はきっと、この世界に愛された人だ』
ローズ・クロサイトが『魔王』を倒すまでは、植物園はまだ穏やかだったようにメイジスは思う。
だがその後何者かが植物園に侵入し、『青い薔薇』が盗まれてから、ベアトリーチェはしばらく荒れた。
メイジスは、久しぶりにベアトリーチェの素の姿を見たような気がした。
表面は取り繕っても、人の根本はそう簡単には変わらない。
本来であれば優しい言葉でもかけてやるべきかとも思ったが、前に進もうとする彼のことを、ずっと見守っていくことを誓ったから、たとえ彼に嫌われたとしても、厳しく接することをメイジスは選んだ。
『地剣殿。貴方は愛し、愛される人だ。だからこそ、時には貴方の本当の心を、もっとちゃんと誰かに伝えるべきだと私は思います』
『……何を言いたいのですか』
『貴方の言葉は回りくどい』
『…………』
自分の欠点を指摘され、ベアトリーチェは口を噤んだ。
『だからこそ貴方の属性は水ではなく大地なのです。性分なのだから仕方がない。それはわかりますが、もう少し相手に合わせないと伝わりません。私は貴方の過去を知っている。だからこそ貴方がわかる。……貴方は、自分の過去を知られることを、なぜそこまで拒もうとなさるのですか?』
『……あの子には。綺麗なものだけを見ていてほしいと思ってしまうのです』
ベアトリーチェは小さな声で答えた。
『……地剣殿。天剣殿は、もう子どもではありません。永遠ともいえる時間を生きる貴方にとって、時間は止まっているように感じられるかもしれないけれど。それだけは、確かなことなんですよ』
『…………』
『それに私からすれば、貴方だって年下です』
『それでも。いつか貴方も、ユーリも、私の前から居なくなる。私は一人残される』
ベアトリーチェは、頭に載せられていたタオルを少し下げて言った。
その声が、少しだけ震えているように聞こえたのは、きっと気のせいではないだろうとメイジスは思った。
『ええ。そうでしょうね』
メイジスは頷いた。
『……だったら。せめて誰かの心の中に生きる私は、綺麗なままでいたいと思うことの、何がいけないことなのですか?』
『地剣殿。貴方の仰る綺麗なものがそれを指すのなら、その考え方はもっと間違えている』
濡れた冷たいタオル越しに、メイジスはそっとベアトリーチェに触れた。
『楽しいこと。嬉しいこと。そんな綺麗なものだけが、思い出ではないはずですよ』
メイジスは、この世界に生きる誰よりも、ベアトリーチェには幸せになって欲しかった。
でも同時に、そう思う自分には、ベアトリーチェの心は動かせないような気がした。
どんなにひどいことをされても、メイジスはベアトリーチェの行いなら受け入れてしまうから、だから彼の人生を動かす欠片《ピース》には、自分ではなれないのだと。
だからこそメイジスは、二人にベアトリーチェの過去を話すことにした。
彼が選んだ『天剣』と、彼が贈った『四枚の葉』を贈った少女に。
結果としてそのおかげで、ベアトリーチェの時は動いた。
『地属性の適性は、水属性とは違う適性を必要とする。植物を育てる肥沃な大地は、して自分だけの力だけでは作れない。地属性の適性者の多くは、愛情をかけられて生まれ育った子どもであるとされる。……貴方は、貴方が与えられた属性の意味を、もっと受け止めなければならない』
これまでのことを思い出し、メイジスは微笑んだ。
旧知の仲であったゴードンと過ごす時間は、思ったよりもはやく過ぎてしまった。
「もう随分、時間が経ってしまいましたね」
砂時計の砂を見て、メイジスは困ったように笑った。
ゴードンと過ごす中で、植物園で過ごす日々は退屈こそしなかったが、一方で心が休まる暇も少なかったにメイジスは思えた。
植物園では今日も奇人変人が、厄介事を抱えてはメイジスの元にやってくる。
ただその時間が、メイジスは嫌いではなかった。
「そうですな。それでは私は、そろそろお暇するとしましょう。――メイジス殿」
帰り際、ゴードンは最後にメイジスにこう告げた。
「貴方のことを、儂は今も、この国を守る騎士だと思っておりますぞ」
「え?」
「貴方の心《けん》は確かに、ベアトリーチェ殿を守っている。彼が剣を取れるのは、貴殿あってこそ」
腕を失い、騎士を辞めた。
けれどベアトリーチェが今も戦い続けられるのは、メイジスが居たからだ。
メイジス・アンクロットの属性は光と水。
誰かを思うその心が、誰かの力になるならば――それは、共に戦っていることと等しい。
「――ありがとう、ございます」
メイジスは、こぼれそうになる涙をこらえて綺麗に笑った。
妻を失ってから、メイジスは考えることがある。
大切な人がこの世界から消えたとしても、世界は変わらず回り続ける。
自分にとって特別な誰かも、世界にとってはかけても構わない欠片でしかない。
それでも、たくさんの欠片で作られたこの世界で、また新しい欠片は絶えず生まれる。
その欠片の一つ一つが、一人一人が――幸福を願い今を生きている。
それはきっと、不幸なことではないと。
◇
「……珈琲の薫りがします」
ゴードンが帰ってからすぐ、ベアトリーチェが植物園にやってきた。
「私が居ない間に、誰か来たのですか?」
「はい。昔の友人が」
メイジスの答えに、ベアトリーチェが少し不機嫌になるのを察してメイジスは心の中で笑った。
今のところ予定はないが、もしベアトリーチェに内緒で再婚相手など決めようものなら、一ヶ月は口をきいてくれなさそうだなとメイジスは思った。
メイジスはベアトリーチェが自分に対して、思春期の子どものような面倒くささを発揮することがあることを知っていた。
「貴方も飲みますか?」
「いえ、いいです。私は飲めないので」
「そうでしたね」
「……メイジス。私が飲めないと知っているのに、何故聞くんですか。子どもっぽいと、そう言いたいんですか?」
その言動が子どもっぽくて、メイジスは思わず少し笑ってしまいそうになった。
そしてそんなことを思っていると教えたら、ベアトリーチェには確実に怒られてしまうだろうともメイジスは思った。
「いいえ。そうではありませんよ。では、それでは貴方にはハーブティーを――……」
メイジスがポットを持とうとすると、その手をベアトリーチェが遮った。
「私がいれます。貴方は座っていてください」
ベアトリーチェは今日も、メイジスに対しては遠慮にかけていた。
メイジスは椅子に座り、ベアトリーチェを待つことにした。
ベアトリーチェにハーブティーのいれ方を教えたのはメイジスだが、実は先に教えようとしたのは、珈琲のいれ方だった。
本人には教えていないが、実はこれは生前の妻の願いだったりする。
『私たちに子供が生まれたら、いつか珈琲をいれるのを、教えてあげてね』
メイジスの妻は、かつてメイジスにそう願った。
『親の仕事を継がせるのは、あまり……』
メイジスは、小さな喫茶店を子どもに引き継がせるのは気が引けて断った。
すると彼女は、小さく首を横に振って言った。
『違うわ。別に、仕事でなくてもいいの。私が好きな貴方のことを、もっと知ってほしいだけ。私ね、貴方のコーヒーが一番好きなの』
そう言うと彼女は笑った。
メイジスの亡き妻は、メイジスの珈琲を子どもに受け継がれることを願っていた。
結局、彼の妻は子どももない内にこの世を去った。
メイジスは、ベアトリーチェに珈琲の入れ方を教えようと思ったが――当の彼は珈琲が苦手だといって、ハーブティーばかり愛飲するようになった。
昔のことを思い出してメイジスがぼんやりとしていると、ベアトリーチェがメイジスにカップをさしだした。
「……え?」
メイジスは、それを見て驚いた。
何故ならカップの中身は、ベアトリーチェが苦手なはずの珈琲だったからだ。
「私は飲めませんが……貴方は本当は、こちらが本業だったと聞いていたので」
「あの、これは……貴方がいれたのですか?」
「貴方の所作を見て覚えました。それに昔飲んだことはありましたし……。私はあまり得意ではないですが、砂糖と牛乳を入れれば飲めなくもないですし、他の方が美味しいという貴方の味は、ちゃんと残したいなとは思って……」
ベアトリーチェが視線を泳がせる。
メイジスは、少しだけ震える手で取っ手を持つと、それを口に含んだ。
その味は自分がいれるものと、よく似ているように思えた。
「美味しいです。ベアトリーチェ。ありがとうございます。貴方は本当に、優しい」
「……べ、別に私はっ」
ベアトリーチェは、バツが悪そうに顔をそむけた。
メイジスはそんなベアトリーチェに微笑んで、それから彼の名前を呼んだ。
「ベアトリーチェ」
「な、なんですか」
すると新緑の瞳が自分を睨むように見つめてきて、メイジスはその色を、心の底から嬉しく思った。
正直なところ、メイジスの妻とベアトリーチェは、外見も中身もまるで似ていない。
ただ、不器用なりに自分に好意を示してくれる――それだけは変わらないような気がして、自メイジスは分が生きている限り、『ベアトリーチェ・ロッド』の幸福を願って生きていきたいと思った。
心の中で言葉を紡ぐ。それは、決意と誓いの言葉。
――ベアトリーチェ。貴女はこの世界にはもういないけれど、それでも私はこれからも、今を歩いていこう。
彼《あなた》の隣で。
彼《あなた》の幸せを願って。
だからいつか、私がそちら側に行くまでは、どうか私を待っていてください。
貴女が私に最後にくれたその言葉のように、私もずっと、貴女のことを思っている。
「ただ、呼びたかっただけです」
メイジスの言葉に、ベアトリーチェは憤慨した。
「子供のようなイタズラはやめてくださいっ!」
――貴女と同じ名を持つ、優しい子供の名を呼びながら。
メイジスの後ろには彼の補佐であるアンナが控えており、今日も高速でペンを走らせていた。
「大分、大きくなりましたね」
「はい。クリスタロスでは育てることが難しいと言われていましたが、今年は無事成功してよかったです!」
メイジスは、植物園では立場としてはベアトリーチェの次にあたる。
そのため、ベアトリーチェが騎士団の仕事で不在にしている間は、植物園の主な管理はメイジスが行っているのだが――水属性と光属性のメイジスだけでは出来ないことも多く、アンナが補佐についているのだ。
ちなみに、アンナは今年十六歳になったばかりの、地属性持ちの少々変わり者の伯爵令嬢だ。
普通の少女なら、綺麗なドレスや宝石で自分を着飾ることを好みそうなのに、当の彼女ときたら父に誕生日の贈り物について尋ねられたとき、「土が欲しい」と言ったという話は、植物園では誰もが知る逸話である。
植物園には現在、十数人の職員が勤めている。
男性と女性の比率は男性が多く、最年長はメイジスだ。
彼らは所謂オタクの集まりで、彼らの興味関心分野は植物だけではなく、鉱石や、生き物と幅広い。
しかし彼らは、それぞれの特性の専門家ではあったが、話をまとめたり人に話すのは苦手だった。
メイジスは、ベアトリーチェに招かれるまで植物の育て方についての知識は無かった。
だから正直彼らの上に立つのは気が引けたが、以前勤めていた年長者が高齢のため職を辞すことになったとき、全員がメイジスがを推した結果、一番知識の浅かったメイジスがその地位を引き継いだ。
今でこそ知識豊富なメイジスだが、後々当時のことを思い返せば、『繋ぎ』としての適性を見出されて自分は選ばれたようにメイジスは思った。
変人同士放置しようものなら意見の衝突などはよくあるため、メイジスは仲裁役を担うことが多かったのだ。そして結果、メイジスは変人奇人の集まりである植物園の職員達に懐かれることになった。
現在クリスタロス王国の植物園では、『魔法薬』の研究を行っている。
この世界には基本的に、異世界で言う『エリクサー』のような、『万病薬』というものは存在しない。
あらゆる傷や病を治すことができるとすれば、それは最早神の所業だ。
ちなみに神殿は『聖なる光』と呼ばせて光魔法による治療を行ってはいるが、その対価は非常に値がはるため、簡単に平民が手を出せるものではない。
神殿では清めた水を『聖水』と呼んでおり、その配布も行っている。
ただこれも寄付金が必要となるため、販売と言っても過言ではない。
そして神殿の『光魔法の』とは別に、この世界には『薬学』や『医学』とよばれる学問が存在する。
それは、『魔法を必要としない』怪我や病気の治療法だ。
これは魔法を使えない民間の中で発達した技術であり、その発展には『異世界人《まれびと》』も大きく貢献したと言われている。
だがこの世界には、この世界の薬草や魔法でしか治せない病や傷も存在する。
そしてそのような特別な病や傷なとに対して、魔法を持たない者たちは無力だった。
そんな現状だからこそ、『魔法薬』の需要はあると言える。
『魔法薬』とは、これまでの薬学の研究に、魔法の力や考え方を足したものだ。
治療のため光魔法をそのまま使えばかなりの魔力を消費してしまうが、植物を魔法で育てたり、調合の際に魔法を使うことで、消費魔力を少なくして、病や傷を治すことができるこの薬は、いわば『新しい薬』であると言える。
魔法を使える人間はどうしても貴族が多く、アンナもその一人だが、特に植物園ではメイジスのように平民でありながら魔法を使えるものが多く勤めているのは、彼らの興味関心も理由だろうが、彼らが幼い頃、身近で人の死を見てきたせいだろうともメイジスは考えていた。
ベアトリーチェから、自分が不在にしている間ユーリに騎士団の管理を任せていたらひどい状態だったため、騎士団総出で掃除をしたという話をメイジスは聞いたことがあったが、食生活においても衛生面においても貴族と平民ではかなりの知識や認識に差があり、それが平均寿命の差にも繋がっている。
「七歳までは神のうち」という言葉があるが、これは七歳までに死ぬのは珍しいことではないから、悲しむなという意味であると、メイジスは解釈していた。
それでなく、平民の間には、貧しい家では子供を売りに出したり、口減らしというものもあるという。
幸いクリスタロスの王都ではそんな不幸な子どもの話を耳にすることはなかったが、貧しい山村などではいまだに因習が残っている知識もあると、メイジスは人づてに聞いたことがあった。
そんな話を聞く度に、メイジスは胸を痛めた。
現国王リカルド・クリスタロスは、人前で魔法を披露することこそないものの、為政者としては立派な王だとメイジスは考えていた。
リカルドがこの国の王になってから、クリスタロス王国では貧しさ故に亡くなる人間の数は減ったとされるからだ。そして彼が神殿の光魔法に依存しない、薬学や医学、そして植物園での研究を支援したことも、その評価に繫がっている。
魔法の強さが評価に変わるこの世界では、ロイやロゼリアのように特出した魔法の才能を王が披露することで、国や王の名声も高まるという側面はどうしても存在する。
だからこそ周囲の人間はレオンに期待していたし、其の反面リヒトに対しては、国民はどこか失望感のようなものを抱いていた。
メイジスも、自分は彼らとは違う考えであるといえば嘘になる。
ただ、ベアトリーチェから間接的に二人の王子の話を聞いたメイジスは、その時のベアトリーチェの表情を見て、彼が嬉しそうに自分に話してくれた弟と自分を救ってくれたという少年のことを、最近は応援したいと思うようになっていた。
大切な人が大切に思う相手なら、その幸福を願いたいと。
◇
メイジスが花の水やりを終えて休んでいると、自分と面会を求めている人間がいると聞いて、メイジスは植物園の門へと向かった。
「ゴードン殿?」
「メイジス殿。開けてくだされ」
メイジスを訪ねてきたのは、かつてユーリを諭した老騎士だった。
メイジスは門を開くと、ゴードンを庭へと案内した。
来客用の庭には、虫を食べる植物などの変わり種はなく、一般的に美しいと言われている花や緑が植えられている。
「久しぶりですな。貴方は、騎士団にはいらっしゃらないから」
「もう騎士でない者が、簡単に入っていい場所ではないでしょう?」
メイジスは苦笑いした。
メイジスが騎士団にいる間、よく話を聞いてくれたのがゴードンだった。
彼は元々メイジスが営んでいた喫茶店の常連で、メイジスの妻の葬式には花を供えてくれた人物でもあった。
メイジスが魔法が使えるようになり、騎士として誰かを守りたいと願ったとき、指南したのも彼だった。
「先日は、天剣殿のこと、ありがとうございました」
「いや、なに。若者が困ったときは、導いてやるのが年長者の役目というものだ」
ゴードンは、そう言うと気持ちの良い笑い声を上げた。
「まあ、ローゼンティッヒは昔からやり方が豪快だからなあ。繊細な団長殿とは、少し相性が悪かったやもしれんな」
ゴードンの言葉を、メイジスは否定はしなかった。
ローゼンティッヒがクリスタロスに滞在していた間、メイジスは彼によく絡まれたが、正直だいぶ疲れたのを思い出す。
というより、騎士団にいた頃から、酔っ払ったベアトリーチェの世話を押し付けられたり、何かと彼のせいで自分は迷惑を被っていたようにもメイジスは思えた。
しかも面倒なことに、向こうはメイジスのことを気に入っているとわざわざ伝えてくるのだ。
それも彼を慕うベアトリーチェの前で。
ローゼンティッヒの行動は、ローゼンティッヒには嫌われてもベアトリーチェには出来れば嫌われたくはないメイジスにとっては、不都合なことこのうえなかった。
要するに、ローゼンティッヒはメイジスを使って、二人の反応を見てで遊んでいたというわけである。小悪この上ない。
「そういえば、彼は近々子供が生まれるそうですね。……出来ればもう少し、落ち着きというものを身に着けていただきたいものです」
珍しくメイジスが溜め息とともにそう漏らせば、ゴードンはわははと笑った。
「貴方がそのようなことを仰るとは」
「そう言いたくもなるような出来事があったのです……」
メイジスは、テーブルに座っていたゴードンの前に、コーヒーの入ったカップをおいた。
「……ああ。やはり、貴方のコーヒーに勝るものはこの世界には存在しませんな」
ゴードンは目を瞑り、コーヒーの香りを嗅いでからカップに口をつけた。
昔から変わらない彼の言葉に、メイジスはくすりと笑って礼を述べた。
「ありがとうございます」
そしてそう呟いて――昔なら、自分の後に妻が必ず言っていた言葉を、メイジスは思い出した。
『でしょう? 私、彼がいれるコーヒーが、世界で一番好きなの!』
まるで宝物を自慢する子どものように笑う妻を見るのが、メイジスは好きだった。
今は亡きその妻の名前は、メイジスが誰よりも大切にしている少年と同じ名前である。
メイジスが懐かしさに目を細めると、ゴードンが思い出したように言った。
「そういえば、ローゼンティッヒ殿の奥方の名前を聞いたのですが、なんというか……運命のようなものを感じてしまいましたな」
「というと??」
「ベアトリクス、と」
「なるほど……。あの方が、『ビーチェ』と呼ばないわけですね」
メイジスは苦笑いした。
自分と彼がベアトリーチェを『ビーチェ』と呼ばない理由が、まさか同じだとは思わなかった。
ただメイジスは、妻も『ベアトリーチェ』と呼んでいたのだが。
なおこのことは、メイジスが妻のことを人前で話していたときにベアトリーチェが居合わせたことがあったので、ベアトリーチェはメイジスが妻を同じように呼んでいたことを知ってはいる。
メイジスは、自分のことを『ビーチェ』と呼んで欲しいとベアトリーチェに言われたことはなかったが――呼び方を分けていた場合は、ベアトリーチェの自尊心に引っかかるのだろうなとメイジスは思った。
同じ呼び方なら許せるが、愛称を他の人間に取られることを、ベアトリーチェは嫌っているようにメイジスは感じていた。
「でもきっとあの方は、そうでなくてもベアトリーチェを、ビーチェとは呼ばなかったと思いますよ」
ローゼンティッヒの、どこかいつも遠くを見つめるような瞳を思い出して、メイジスは苦笑いした。
未来予知。
『光の巫女』を母に持つ彼の能力は光属性に特化しており、彼がいつも笑みを浮かべながらも、どこか冷めた目で見る瞬間があることに、メイジスは気が付いていた。
ある意味ローゼンティッヒは手に入りそうで入らない、つかみ所の無い厄介な男なのだ。
「あの方はきっと気安そうに見えて、どこかで他人《ひと》と線をひかれる方でしょうから。でも、天剣殿はきっとそうではないから――彼は、ベアトリーチェの望む人間《ひと》だと思います」
その点において、メイジスはユーリのことを気に入っていた。
裏表のない性格というか、打算を知らないというか――少し頼りないと思わせる青年ではあるけれど、人間性で見ればユーリはローゼンティッヒより好ましいとメイジスは考えていた。
今はまだ騎士団長としての素質としてはローゼンティッヒに劣っても、ユーリこそがベアトリーチェの相棒には相応しいと。
「そういえば貴方も、『ビーチェ』とは呼ばないのですな」
「それは……そもそも私は、私の妻も『ビーチェ』とは呼んでいませんでしたから」
ゴードンの問いに、メイジスは笑って答えた。
そういえば以前、同じ質問を妻にされたことをメイジスは思い出した。
『ねえどうして、貴方は私をそう呼ぶの?』
その問いに、かつてメイジスはこう答えた。
『少しでも長く、貴方の名を呼んでいたいから』
それは『ベアトリーチェ・ロッド』に対しても、メイジスの思いは変わらない。
むしろ精神的に不安定なところのあるベアトリーチェこそ、メイジスは名前を長く呼んでいたいと思った。
やがて自分たちが死んだとき、世界の誰よりもベアトリーチェが長い時を生きることになった時――少しでも彼の心の中に、自分と過ごした時間が、心の支えとなるように。
とはいえ、『地剣殿』から『ベアトリーチェ』に変わるまでだって、それなりの月日を要したのだ。
彼が自分に、『ビーチェ』と呼んで欲しいと来る日は来るのだろうか。そんな日を想像して、メイジスは笑った。
『ビーチェと、呼んでくれてもいいんですよ』
『私は、ベアトリーチェがいいです。貴方の名前を、少しでも長く呼んでいたいから』
自分がこう言えばベアトリーチェがどういう反応するかは、メイジスには予想がついていた。
『馬鹿なんじゃないですか!?』
きっと、そう言うに違いない。
かつて妻はメイジスに『貴方って、やっぱりひとたらしね』と笑ったが――同じ名前の人間だとしても、違う人間にはかわりはないのだから。同じ言葉を伝えても、かえってくる言葉は違う。
幼い頃、メイジスは騎士というものに憧れていたが、魔法を使えない自分に才能はないと思って、喫茶店を開いていた。
そして常連になってくれた妻と結婚し、二人で仲良く店を営んでいた。
目の前で、愛する彼女を失うまでは。
『ベアトリーチェ!』
『手を離して。そうじゃなきゃ、貴方も落ちてしまう』
『嫌です。死んでも、この手だけは……っ』
『メイジス。――貴方のことを、愛してる』
『ベアトリーチェ!』
――自分にもっと力があれば、彼女を守ることができたのに、どうして自分は、こんなにも無力なのだろう?
弱さを呪い、彼女のいない世界に、自分の生きる意味などないと思ったその日。
メイジスは、魔法を使えるようになった。
その力さえあれば、彼女を助けられたはずであろう力を。
そしてゴードンの指導を受け、店を畳んで騎士になることになったメイジスは、ベアトリーチェの下につくことになった。
『地剣――ベアトリーチェ・ライゼン殿、か』
自分はつくづく、ベアトリーチェというなに縁がある。その時メイジスは、そう思ったものである。
『こんにちは、僕』
『…………』
『騎士団の子かな? 小さいのに偉いね』
上司がいるはずの場所で、小さな子どもを見つけたメイジスが少年をあやせば、あからさまに子どもは顔を顰めた。
『貴方は誰ですか? 私はベアトリーチェ・ライゼンです』
『え!? あ、貴方が『地剣』殿!?』
子どもはまさかの上司だった。
メイジスは、慌てて頭を垂れた。
『た、大変失礼いたしました。今日から貴方の下で学ぶように言われている、メイジス・アンクロットと申します』
その日からは毎日が慌ただしく――そして当時のベアトリーチェは、今よりも更に子どもっぽかったことを、メイジスは覚えている。
けれど見た目はどんなに子どもでも、『初恋の相手』をベアトリーチェが心から愛していたことを、メイジスは知っている。
『地剣殿!』
愛する人の死期を知り、自暴自棄になったベアトリーチェを守るために、メイジスは片腕を失った。
『な、何故、貴方が……』
『貴方が。……貴方がご無事でよかった』
メイジスは腕を治すために神殿に向かったが、その日はレオンとギルバートが『魔王』のせいで意識を失った日でもあり、メイジスの怪我の治療は叶わなかった。
『……地剣殿』
自分を見舞うため、病室を訪れたベアトリーチェの頬に、メイジスは手を伸ばした。
『どうしたんです? 目なんか腫らして。私はちゃんと生きているんですから、そんな顏しないでください』
メイジスは、ベアトリーチェの為に光魔法を使った。
メイジスは、ベアトリーチェには笑っていて欲しかった。
死んでしまえば何も出来ない。でも、たとえ自分の体の一部が失われてしまっても、生きてさえいればどうにでも出来る。
――生きてさえ、いれば。
『貴方が、ご無事で良かった』
神様は優しくない。
魔法を与えられたとき、メイジスはそう思った。
それでも、今度はちゃんと『ベアトリーチェ』を守れたのなら、自分が騎士になったことに、メイジスは意味はあったように思えた。
あの日妻を守れなかった。でもおかげで、守れた命がここにある。
『う……あ……ああ……! あ……ッ!』
ベアトリーチェは声にならない声を上げた。
その姿を見て、メイジスはやはりこの子を守って良かったと思った。
そしてこの先も、この子を守ろうと心に誓った。
『神に祝福された子ども』
どんなに沢山の人が彼をそう呼んでも、その命に「責任」があると言っても、メイジスの目に映るベアトリーチェは子どもただの小さくて幼い子どもでしかなく、過酷な運命を背負った子どもを誰かが守ってやらなくては、その心はやがて死んでしまうに違いないと思った。
いずれ、彼はもっと強くなれることだろう。
どんな不可能も、彼なら可能に出来る。
時は偉大だ。
たとえその「時」の遺産が、彼の心を苛んでも、その力はやがて彼を称える賞賛の声に代わることだろう。
――それでも。
『泣かないでください。……私にとって貴方は、ずっと憧れだったんですから』
ベアトリーチェのその涙を見たときに、メイジスはその心を守るために、この先生きることを決めた。
『貴方は愛し愛される人だ。貴方が選ばれたのは、きっと貴方が、誰よりも優しいから』
だから、メイジスはベアトリーチェの頭を撫でた。
『だから、泣かないで。私は貴方を、傷つけたいわけじゃないんです。笑ってください。地剣殿。誰も貴方の、不幸は望んでいないのだから』
そしてその後メイジスは、ベアトリーチェが養父から管理を任された植物園の職員として雇用された。
『森の木陰、新緑の瞳。貴方はきっと、この世界に愛された人だ』
ローズ・クロサイトが『魔王』を倒すまでは、植物園はまだ穏やかだったようにメイジスは思う。
だがその後何者かが植物園に侵入し、『青い薔薇』が盗まれてから、ベアトリーチェはしばらく荒れた。
メイジスは、久しぶりにベアトリーチェの素の姿を見たような気がした。
表面は取り繕っても、人の根本はそう簡単には変わらない。
本来であれば優しい言葉でもかけてやるべきかとも思ったが、前に進もうとする彼のことを、ずっと見守っていくことを誓ったから、たとえ彼に嫌われたとしても、厳しく接することをメイジスは選んだ。
『地剣殿。貴方は愛し、愛される人だ。だからこそ、時には貴方の本当の心を、もっとちゃんと誰かに伝えるべきだと私は思います』
『……何を言いたいのですか』
『貴方の言葉は回りくどい』
『…………』
自分の欠点を指摘され、ベアトリーチェは口を噤んだ。
『だからこそ貴方の属性は水ではなく大地なのです。性分なのだから仕方がない。それはわかりますが、もう少し相手に合わせないと伝わりません。私は貴方の過去を知っている。だからこそ貴方がわかる。……貴方は、自分の過去を知られることを、なぜそこまで拒もうとなさるのですか?』
『……あの子には。綺麗なものだけを見ていてほしいと思ってしまうのです』
ベアトリーチェは小さな声で答えた。
『……地剣殿。天剣殿は、もう子どもではありません。永遠ともいえる時間を生きる貴方にとって、時間は止まっているように感じられるかもしれないけれど。それだけは、確かなことなんですよ』
『…………』
『それに私からすれば、貴方だって年下です』
『それでも。いつか貴方も、ユーリも、私の前から居なくなる。私は一人残される』
ベアトリーチェは、頭に載せられていたタオルを少し下げて言った。
その声が、少しだけ震えているように聞こえたのは、きっと気のせいではないだろうとメイジスは思った。
『ええ。そうでしょうね』
メイジスは頷いた。
『……だったら。せめて誰かの心の中に生きる私は、綺麗なままでいたいと思うことの、何がいけないことなのですか?』
『地剣殿。貴方の仰る綺麗なものがそれを指すのなら、その考え方はもっと間違えている』
濡れた冷たいタオル越しに、メイジスはそっとベアトリーチェに触れた。
『楽しいこと。嬉しいこと。そんな綺麗なものだけが、思い出ではないはずですよ』
メイジスは、この世界に生きる誰よりも、ベアトリーチェには幸せになって欲しかった。
でも同時に、そう思う自分には、ベアトリーチェの心は動かせないような気がした。
どんなにひどいことをされても、メイジスはベアトリーチェの行いなら受け入れてしまうから、だから彼の人生を動かす欠片《ピース》には、自分ではなれないのだと。
だからこそメイジスは、二人にベアトリーチェの過去を話すことにした。
彼が選んだ『天剣』と、彼が贈った『四枚の葉』を贈った少女に。
結果としてそのおかげで、ベアトリーチェの時は動いた。
『地属性の適性は、水属性とは違う適性を必要とする。植物を育てる肥沃な大地は、して自分だけの力だけでは作れない。地属性の適性者の多くは、愛情をかけられて生まれ育った子どもであるとされる。……貴方は、貴方が与えられた属性の意味を、もっと受け止めなければならない』
これまでのことを思い出し、メイジスは微笑んだ。
旧知の仲であったゴードンと過ごす時間は、思ったよりもはやく過ぎてしまった。
「もう随分、時間が経ってしまいましたね」
砂時計の砂を見て、メイジスは困ったように笑った。
ゴードンと過ごす中で、植物園で過ごす日々は退屈こそしなかったが、一方で心が休まる暇も少なかったにメイジスは思えた。
植物園では今日も奇人変人が、厄介事を抱えてはメイジスの元にやってくる。
ただその時間が、メイジスは嫌いではなかった。
「そうですな。それでは私は、そろそろお暇するとしましょう。――メイジス殿」
帰り際、ゴードンは最後にメイジスにこう告げた。
「貴方のことを、儂は今も、この国を守る騎士だと思っておりますぞ」
「え?」
「貴方の心《けん》は確かに、ベアトリーチェ殿を守っている。彼が剣を取れるのは、貴殿あってこそ」
腕を失い、騎士を辞めた。
けれどベアトリーチェが今も戦い続けられるのは、メイジスが居たからだ。
メイジス・アンクロットの属性は光と水。
誰かを思うその心が、誰かの力になるならば――それは、共に戦っていることと等しい。
「――ありがとう、ございます」
メイジスは、こぼれそうになる涙をこらえて綺麗に笑った。
妻を失ってから、メイジスは考えることがある。
大切な人がこの世界から消えたとしても、世界は変わらず回り続ける。
自分にとって特別な誰かも、世界にとってはかけても構わない欠片でしかない。
それでも、たくさんの欠片で作られたこの世界で、また新しい欠片は絶えず生まれる。
その欠片の一つ一つが、一人一人が――幸福を願い今を生きている。
それはきっと、不幸なことではないと。
◇
「……珈琲の薫りがします」
ゴードンが帰ってからすぐ、ベアトリーチェが植物園にやってきた。
「私が居ない間に、誰か来たのですか?」
「はい。昔の友人が」
メイジスの答えに、ベアトリーチェが少し不機嫌になるのを察してメイジスは心の中で笑った。
今のところ予定はないが、もしベアトリーチェに内緒で再婚相手など決めようものなら、一ヶ月は口をきいてくれなさそうだなとメイジスは思った。
メイジスはベアトリーチェが自分に対して、思春期の子どものような面倒くささを発揮することがあることを知っていた。
「貴方も飲みますか?」
「いえ、いいです。私は飲めないので」
「そうでしたね」
「……メイジス。私が飲めないと知っているのに、何故聞くんですか。子どもっぽいと、そう言いたいんですか?」
その言動が子どもっぽくて、メイジスは思わず少し笑ってしまいそうになった。
そしてそんなことを思っていると教えたら、ベアトリーチェには確実に怒られてしまうだろうともメイジスは思った。
「いいえ。そうではありませんよ。では、それでは貴方にはハーブティーを――……」
メイジスがポットを持とうとすると、その手をベアトリーチェが遮った。
「私がいれます。貴方は座っていてください」
ベアトリーチェは今日も、メイジスに対しては遠慮にかけていた。
メイジスは椅子に座り、ベアトリーチェを待つことにした。
ベアトリーチェにハーブティーのいれ方を教えたのはメイジスだが、実は先に教えようとしたのは、珈琲のいれ方だった。
本人には教えていないが、実はこれは生前の妻の願いだったりする。
『私たちに子供が生まれたら、いつか珈琲をいれるのを、教えてあげてね』
メイジスの妻は、かつてメイジスにそう願った。
『親の仕事を継がせるのは、あまり……』
メイジスは、小さな喫茶店を子どもに引き継がせるのは気が引けて断った。
すると彼女は、小さく首を横に振って言った。
『違うわ。別に、仕事でなくてもいいの。私が好きな貴方のことを、もっと知ってほしいだけ。私ね、貴方のコーヒーが一番好きなの』
そう言うと彼女は笑った。
メイジスの亡き妻は、メイジスの珈琲を子どもに受け継がれることを願っていた。
結局、彼の妻は子どももない内にこの世を去った。
メイジスは、ベアトリーチェに珈琲の入れ方を教えようと思ったが――当の彼は珈琲が苦手だといって、ハーブティーばかり愛飲するようになった。
昔のことを思い出してメイジスがぼんやりとしていると、ベアトリーチェがメイジスにカップをさしだした。
「……え?」
メイジスは、それを見て驚いた。
何故ならカップの中身は、ベアトリーチェが苦手なはずの珈琲だったからだ。
「私は飲めませんが……貴方は本当は、こちらが本業だったと聞いていたので」
「あの、これは……貴方がいれたのですか?」
「貴方の所作を見て覚えました。それに昔飲んだことはありましたし……。私はあまり得意ではないですが、砂糖と牛乳を入れれば飲めなくもないですし、他の方が美味しいという貴方の味は、ちゃんと残したいなとは思って……」
ベアトリーチェが視線を泳がせる。
メイジスは、少しだけ震える手で取っ手を持つと、それを口に含んだ。
その味は自分がいれるものと、よく似ているように思えた。
「美味しいです。ベアトリーチェ。ありがとうございます。貴方は本当に、優しい」
「……べ、別に私はっ」
ベアトリーチェは、バツが悪そうに顔をそむけた。
メイジスはそんなベアトリーチェに微笑んで、それから彼の名前を呼んだ。
「ベアトリーチェ」
「な、なんですか」
すると新緑の瞳が自分を睨むように見つめてきて、メイジスはその色を、心の底から嬉しく思った。
正直なところ、メイジスの妻とベアトリーチェは、外見も中身もまるで似ていない。
ただ、不器用なりに自分に好意を示してくれる――それだけは変わらないような気がして、自メイジスは分が生きている限り、『ベアトリーチェ・ロッド』の幸福を願って生きていきたいと思った。
心の中で言葉を紡ぐ。それは、決意と誓いの言葉。
――ベアトリーチェ。貴女はこの世界にはもういないけれど、それでも私はこれからも、今を歩いていこう。
彼《あなた》の隣で。
彼《あなた》の幸せを願って。
だからいつか、私がそちら側に行くまでは、どうか私を待っていてください。
貴女が私に最後にくれたその言葉のように、私もずっと、貴女のことを思っている。
「ただ、呼びたかっただけです」
メイジスの言葉に、ベアトリーチェは憤慨した。
「子供のようなイタズラはやめてくださいっ!」
――貴女と同じ名を持つ、優しい子供の名を呼びながら。