試験会場を後にしたロイは、卒業した生徒たちを見送るため飛行場へと赴いた。
再会の約束を交わす者、教師に謝辞を述べる者。
そんな彼らをロイが見つめていると、昔からよく知る声が彼を呼んだ。
「――ロイくん」
声の方を振り返り、ロイは苦笑いした。
「今ここで、その名で呼ばないでください。……先生」
ロイの言葉に、エミリーはくすりと笑う。
「貴方にそう呼ばれることを、とても嬉しく思います」
「……」
相変わらずのエミリーの反応に、ロイは細めた。
フィズを育てた魔法使いの話のように、エミリー・クラークは、元々ロイの教育係だった。
母親の愛を感じられず育ったロイに、エミリーは無償の愛を与えようとした。
けれど彼が九歳を迎えるとき、エミリーはロイの前を去った。彼女の母が病に倒れたためだ。
『俺を子供扱いするな。俺は、貴方の子供じゃない!』
かつてのロイは、母親の代わりになろうとしたエミリーに反発した。
けれど甘い蜜のような優しさに、幼い頃のロイにすがりたくなる瞬間があったのは事実だった。
だからエミリーが自分の元を去るときに、幼かったロイは彼女の全てを否定した。
かけられた梯子を、突然外されたような思いがしたからだ。
『貴方は、優しくなんてない。甘やかすだけが、全てじゃない。人を依存させてしまうのは、貴方が境界線を引けないせいだ』
片時だけ与えられた甘さは、棘のように胸を刺した。
自分より他の誰かを選ぶ、それだけの『愛情』ををたのみにしていた自分を、当時のロイはひどく愚かしく思えた。
『自分の人生に関わり合いがないなら、責任を持つ必要がないなら、甘やかすのは簡単だ。俺の全てを知った顔をして、俺の全てを見透かしたような顔をして、俺に近寄るな。簡単に置いていくのなら――優しくするな。――俺は、貴方が嫌いだ』
シャルルと会う前に、ロイが大切にしたいと思ったただ一人の人。
エミリー・クラークはロイにとって、そういう人間だった。
「懐かしいですね。あれから、大切な人ができましたか?」
エミリーは幼い頃と同じように、ロイに優しい声音で尋ねた。
「そうだな。……答えは最初から、一番近くにあった」
ロイがエミリーを学院に迎えたのは、彼女の能力の高さを知っていたからだ。
だが彼女を選んだ理由の中に、かつての日々への思いが欠片もなかったと言えば嘘になることも、ロイは自覚していた。
「私ね、貴方に嫌いだと言われて、いろいろと考えたんです。私はどうして、先生になりたかったんだろうって。……私、昔から子供が好きでした。子どもたちは、何も知らなくて、何でも私の話を聞いてくれた。私が与えるものが、彼らの全てで、だから私はずっと彼らにとって優しい大人であろうとしていた。でも、あの日貴方に言われて、改めてまた考えてみたんです。私が、子供を好きな理由。――そうして、気が付いたんです』
エミリーは、ロイに微笑んだ。
「私が彼らを見るのが好きなのは、彼らが植物のようだからなんだと」
その言葉は、彼女の持つ属性に相応しく――ロイは黙って、彼女の話に耳を傾けた。
「この世界に生まれる誰もが、『可能性』という種を持って生まれる。私は、『貴方は貴方でいい』と、そう思ってほしかった。望むままに生きてほしかった。そうしていつか、貴方らしい花を咲かせてほしかった。でも、水を与えるばかりでも花は育たない。それに植物というのは、同じ育て方をしても、枯れるものもあれば咲くものもある。……私は、貴方と出会ったとき、それに気付けていなかった」
エミリーは、リヒトに優しくは接していた。
それでもロイの時とは違い、厳しいこともリヒトには尋ねた。
一線を引いて、エミリーはリヒトに周りの人間のことを尋ねた。
それはロイの教育係だった頃のエミリーであれば、有り得なかったことだ。
かつてのエミリーであればリヒトに甘い言葉を囁いて、彼から自分で前に進む心を奪ってしまっていたかもしれなかった。
「ロイ君、ごめんなさい。でも私に、気付かせてくれてありがとう」
たとえ相手を傷つけて、自分を否定されてしまっても。後悔が残っても。
人と関わることで、人は変化する。
かつて彼女の生き方を否定した自分に笑みを向けるエミリーに、ロイは深く息を吐いた。
「……やはり貴方はたちが悪い」
クリスタロスに戻るため、飛行場を訪れたリヒトは偶然二人のやりとりを見た。
「よかった。仲直り出来たんだな」
リヒトの言葉にロイは頷いて、怪訝な顔をした。
「まあな。……って、何故君がそれを知っている?」
「いや、それは――……」
盗み聞きしてしまった内容と、偶然フィズの育ての親である女性から聞いた話からとは言えずリヒトが目線を泳がせると、ロイは溜め息を吐いた。
「まあいい。別に、隠しているわけでもないからな」
「あれ? でもそうなると……先生は今何歳なんだ?」
ロイが幼い頃に教育係を務めていたという割に、エミリーの外見は二〇歳後半くらいにしかリヒトには見えなかった。
「――君に、一つヒントをやろう。地属性の特徴は?」
「愛されて育った、依存性、周囲の死、長命………………長命?」
「彼女の本当の年齢について俺は知らない。しかし、見た目よりもだいぶ年上であることは確かだぞ」
ロイはにやりと笑った。
――自分は一体、何歳年上の女性に甘やかされていたんだ……?
リヒトがロイの話を聞いて百面相をしていると、護衛のため後ろに控えていたローズが不機嫌そうに言った。
「リヒト様、顔がにやけています」
「に、にやけてないっ!!!」
慌ててリヒトは叫ぶ。
彼の頬は心なしか赤く染まっていた。そんなリヒトを見て、ロイは静かに笑った。
「ふっ。君もまだまだだな」
◇
その後クリスタロス王国一行の見送りには、ロイだけではなく、ロゼリアや幼等部の生徒たち、そして在学生である生徒たちと、ロイの護衛のための騎士たちが集まった。
『ローズ様』『レオン様』『ギルバート様』と、女生徒たちが別れを惜しむ声を上げたが、控えめに手を振るローズ、爽やかな笑みを浮かべるギルバート、どこか疲れたような顔をして、あまり表情は変えないレオンと、彼らの対応は様々だった。
「あらためて、リヒト・クリスタロス。レオン・クリスタロス。おめでとう」
「……ありがとう」
ロイの言葉に礼を述べたリヒトとは違い、レオンは軽く会釈しただけだった。
その時リヒトは――ロイの隣に立っていたロゼリアを見て、少し困ったように笑った。
今回の受験の有資格者は、全員卒業を許されたらしい。
しかしロゼリアは、『水晶宮の魔法』を成功させたにもかかわらず、結局成績の五位でも名前を呼ばれなかった。
リヒトの視線に気付いたロゼリアは、「馬鹿ね」とでも言いたげな顔をして笑うと、手を胸に添えて高らかにこう言った。
「私が選ばれなかったと言っても、貴方が気を遣う必要はないわ。それにまた、魔法が使えるようになったんだもの。五位には入れなくても、それだけで十分よ」
その声は、大国の姫に相応しく、自分への誇りを感じさせるものだった。
だがそんなロゼリアの肩を、とんと叩いてロイは言った。
「そのことなんだが――……お前、卒業できないぞ」
「えっ????」
ロイの言葉に、ロゼリアはピタリと動きを止めた。
「いや、だから……。単位が足りてない」
「な……っ」
ロゼリアは、「有り得ない」という表情《かお》をすると、背伸びをしてロイに掴みかかった。
そう。今回の試験では、受験資格のあるものは卒業を許された。
――規定の単位を取得した人間は。
「なんでそれを先に言わないの!?」
怒りの籠もった声で、ロゼリアがロイを問い詰める。
「それは自分で管理するものだろ? 大体俺がそれを教えたとして、お前が抜ければあの二人が不利益を被ると分かっていて――それでもお前は突然辞退するつもりだったのか?」
ロイの質問に、ロゼリアは口を噤んだ。
もし自分に資格がないと分かっていても、二人に迷惑をかけることをロゼリアはしたいとは思えなかったから。
魔法学院では、卒業者の実力を保証させるため、入学試験の成績によって、学院で卒業試験までに取得するべき単位数が変わる。
ローズが短期間で卒業を許されたのは、彼女が入学したときに好成績で、編入後も成績と単位分の成果を出したためだ。ロゼリアは殆ど授業に参加していなかったこともあり、その基準を満たしてはいなかった。
「まあ、いいじゃないか。新しい友だちが出来たなら、交友を深めればいい。お前も俺とばかり話していてもつまらなかっただろう?」
少しだけ、寂しそうに笑う。
ロイは遠い記憶の中で、ロゼリアたちと過ごした日々を思い出していた。
学校が出来たとき、『三人の王』はグラナトゥムに集まって話をした。
『学校を作りたい』そう願った『彼』は、立派な建物を見て喜んで、それからロイとロゼリアに感謝を述べた。
『俺の願いを、叶えてくれてありがとう』
『おや。いつもとは違いしおらしいじゃないか。なにか変なものでも食べたのか?』
『そうよ。どうしたの?』
軽い口調で返せば、『彼』はどこか穏やかな口調で言った。
いつもは行動に予想が付かなくて、慌ただしい雰囲気の『彼』だけれど、その時ばかりはロイはどこか言葉に重さのようなものを感じた。
『学校を作るなんて、きっと俺一人では叶えられなかったから。この国には、生まれによって差別する人間が大勢いる。魔法を使えないことは、仕方のないことだ。それによってつくことのできる仕事の違いが、今は彼らという存在自体の価値に繋がっていってしまっている。俺はそれは悲しいことだと思う。人間に、命に、差なんてものはない。俺は、そう思いたい。この世界に生まれてきた者たちが、等しく幸福を感じられる世の中にするために。魔法を持つものはが、自分のためだけに生きるのではなく、誰かのためにその力を使えるように。そのための第一歩として、俺は魔法を使えるものたちには、同じ学院で学んでほしいと思う。これからの世界のために、偏見の少ない子供のうちに、俺は彼らに、いろんな世界の人間と関わることを学んで欲しい。今はまだ研究の途中だが、魔法というものが、全ての人に使えるようなそんな世界にするために――俺はこれからも、魔法の研究を続けるつもりだ』
思い出の中の『彼』の声は、ロイの知るこの世界の誰よりも優しく響く。
『綺麗事だってわかっている。子供の夢だと周りは笑うかもしれない。きっと俺だけ後からでは、そうなるのが落ちだった。でも二人が、俺を助けてくれた。この世界で一二を争う大国の、王と皇女の力がなくては、この願いは叶わなかっった。だから、心から感謝している。――俺の願いを叶えてくれて、本当にありがとう』
金色の髪を揺らして、『彼』は頭を下げる。
そんな『彼』を見て、ロイとロゼリアは言った。
『全く、君は大馬鹿だな』
『そうよ。本当に馬鹿じゃない?』
『口うるさい老人共や、神殿の奴らを説き伏せたり、学院創設にあたりどれだけ俺が苦労したと思っている? その見返りが、ただのありがとうで済むとでも思っているのか?』
『全くだわ。こんなこれまでの常識を覆すようなこと頼んでおいて、そのお礼がそれだけで住むと思っているの?』
『関係は、お互いにとって利益がなければ、長続きはしない。君もそれはわかっているはずだ』
責め立てるような二人の声に、『彼』は申し訳なさそうにした。
『すまない。俺は国として……は、君たち二人に返せることは少ない。だから、俺は俺にできることなら、二人が望むならなんだってしよう』
『王としてはなにもできないけれど、個人としてはお返しがしたいなんて、私の国は随分安く見積もられたものね』
『全くだ。王でない君ができることなんて限られている。それに王としても、君の力は俺たちには及ばないはずだ』
『じゃあ、俺は何をしたら……?』
『何もいらない』
『え……?』
ロイの言葉に、『彼』が驚いたような声を上げた。
『俺は君だから、手を貸したいと思ったんだ。自分のためじゃない。心無い人間に笑われるとしても、誰かのために全力になれる君だから。君が好きな言葉を借りるなら――友というのは、そういうものなんだろう?』
『ロイ……』
『まあ、優秀な人材を確保できるのはこちらとしても有益だしな。だが、強いて言うなら……。ああそうだ。そういえば君の研究の中に、指に合わせて変形する指輪というものがあっただろう? 返礼はあれでいい』
『え? そんなものでいいのか?』
学院設立に協力した礼に、ロイは『彼』からシャルルに贈った指輪を受け取った。
それが、『彼』一人で作れるものだと知っていたから。
『別に俺は礼などいらないが、何か形あるものを俺が頼んだ方が、君にとってはいいだろう?』
『……わかった』
ロイがにやりと笑って言えば、『彼』はつられたように笑った。
『とびきり凝った細工にしよう! こう、ロゼリアは花柄で、ロイは炎みたいな……』
『君に芸術の造詣がないのは把握しているから、極力簡素な作りにしてくれ』
『おい! なんてなんてこと言うんだよ!』
『私も一つお願いしていいかしら。貴方、以前彫刻が動いたら楽しい……とか言っていたでしょう? あの魔法が完成しているなら、私は私の宮殿に海を作ってほしいわ。水を満たせば海の生き物が動き出す、なんて。私にぴったりだと思うの。彫刻自体はこちらで用意するから、貴方は動くようにしてくれたら十分よ』
そしてグラナトゥムに伝わるガーネットの指輪同様、『水晶宮の魔法』もまた、学院が出来た頃、『彼』が感謝の証に贈ったものだった。
『……二人とも、俺のこと信じてないな』
『生憎、君のこういうものへの才能の無さを確信している。俺は君の才能より、俺の君への理解の方を信じている』
『ううう……』
『貴方って本当に推しに弱いわよね。なにか言い返せばいいのに』
『……言い返したいが、ロイの言葉が嬉しいから言い返せないんだ』
『それを本人の前で言う? 本当に貴方って変な人ね』
『友達に向かってヘンってなんだよ!』
『その言葉のままの意味よ』
国の規模を考えればとても対等とは言えない国の王である『彼』の言葉を、ロゼリアは否定しなかった。
この世界の中心である二つの大国の王と皇女は『友』として、『彼』と対等であることを望んでいた。
懐かしい『友』との思い出。
学校を作るために三人で沢山話をした。
その日々を思い出して、ロイは少しだけ手に力を込めた。
ロゼリアにもリヒトにも、ロイは『二人』の面影を感じていた。
けれど二人に『今』の人生があることも、ロイは理解していた。
自分の中だけにある『思い出』。
それは決して、相手に押しつけていいものではない。
これから二人は沢山の人に出会い、認められていくことだろう。そうなれば、前世《むかし》の友人達のような関係を、自分と結ぶことを彼らは望まないかもしれない。
――彼らが同じ記憶を持っていなくても、二人の手を、それでも掴みたいと思ってしまうのは、やはり俺のわがままだろうか?
ロイがそう思っていると。
「何言ってるの? 貴方は友人ではなく、幼馴染のようなものでしょう? どうしてあの子達と同列に話す必要があるの?」
あっけらかんとしたロゼリアの言葉に、ロイは目を丸くした。
「それより、今の問題はお父様よ。今回のこと、お父様にバレたらまた怒られるに違いないわ……」
「ああ。そうだな」
「そこは頷くところじゃないわ!」
昔のように鋭い言葉が返ってきて、ロイは思わず頬が緩みそうになるのを必死にこらえた。
今のロゼリアは、魔法が使えた頃の彼女らしさを取り戻していた。
だからこそロイはロゼリアに微笑むと、彼女の新しい門出を祝福する言葉を口にした。
「まあ、頑張れ。今のお前になら、なんだって出来るはずだ』
「当然でしょう」
ロゼリアは、胸に手を当てて宣言した。
「次の試験では、私が絶対に一番をとってみせるわ。私が最優秀者に選ばれないなんておかしいもの。次こそは本当の私の実力を見せてあげるわ。あの二人に負けないくらい、もっとずっとすごいものを。だって私は――『海の皇女』なんだから!」
「それは楽しみだ」
今も昔も、自信たっぷりなロゼリアの姿を見て、ロイは少し目を細めてから笑った。
「――リヒト・クリスタロス。また、この国に来るといい。俺もまた、君の国にいこう」
「また来るのか……」
「なんだ? 不服か? 大国の王である俺が、わざわざ直々に来てやろうというのに」
「……だって、お前が来るといろいろめんどくさい気がする」
「ははっ」
ロイは、あからさまに顔を顰めたリヒトを見て笑った。
「その時はついでに、ロゼリアも連れて行こう。賑やかでいいだろう?」
「なんでだよっ!!!」
――一人でも五月蝿いと言っているのに、何故増やそうとするんだ!
しかも、グラナトゥムに並ぶ大国ディランの『海の皇女』を。だがリヒトから心からの叫びに、ロイは笑うばかりだった。
「あははははは」
そしてそんなロイの笑い声に、ロイを守護するグラナトゥムの騎士たちはぎょっと目を見開いていた。
『大陸の王』と呼ばれるのロイは、普段声をあげて笑うような男ではない。
他の者と接するときとは明らかに違う態度。
ロイがそれを示すたびに、クリスタロスは守られることになる。
ロイがわざわざ招いた国の二人の王子。
その二人が、世界中から集められた有能な若者たちの中で、最も優秀だと認められたこともまた、クリスタロスの名を再び世界に示すことになるだろう。
魔王を倒した英雄の出身国ではなく、『赤の大陸』の『大陸の王』、『青の大海』の『海の皇女』――そして『水晶の王国』の『賢王』――学院を創設した三人目の王の出身国として。
「――リヒト。では、また」
「――ああ。また、な」
大陸の王は、自分の国と比べたら小さな国の王子でしかないリヒトに、柔らかな笑みを浮かべた。
ローズと一緒にフィンゴットの背に乗っていたリヒトは、クリスタロスの王城が見えた頃、意を決して彼女に声をかけた。
「……あのさ、ローズ」
だがその声は、彼女の帰国を待っていたものたちによって掻き消された。
「おかえりなさいませ。ローズ様」
ローズの婚約者であるベアトリーチェは、彼女を迎えるためにわざわざ王城で待機していた。
ローズはベアトリーチェの声に振り返ると、フィンゴットから降りて彼の元へと進んだ。
「……ビーチェ様」
「半年間、お疲れ様でした。見ない間に、また美しくなられましたね」
「そ、そんなことは……」
「ローズ様。ずっと貴方のお帰りをお待ちしておりました。よければこれから、植物園にいらっしゃいませんか? そばにいられなかったぶん、沢山貴方と話がしたい」
「はい。喜んで」
ローズの手を取って、ベアトリーチェは自分の場所へと案内する。
ミリアとギルバートは、公爵家が用意した馬車で先に帰るとローズに告げた。
リヒトは彼らの姿が見えなくなっても、その場から動けずにいた。
「リヒト。早く中に入りなさい。いつまでもそうしていては、風邪を引いてしまうよ」
「……すいません。これから部屋に戻ります」
レオンに声をかけられ、リヒトは空を仰いで部屋へと戻った。
空には月が浮かんでいた。
その時漸く、いつの間にか随分時間が経っていたことに、リヒトは気が付いた。
実力主義の魔法学院。
その学校は、可能性を花開かせるために、三人の王が作った夢のような場所だった。
だが、夢はいつか覚めるものだ。
リヒトには学院で過ごした時間が、まるで何十年も昔のことのことのようにも感じられた。
◇
「久しぶりだな。フィンゴット」
人々が寝静まる頃、公爵家の薔薇の庭で翼を休めていた天龍は、昔よく聞いた声に気が付いて、ゆっくりと瞼をあげた。
「ああ――そうだ。俺は、お前の味方だよ」
「貴方がやりたかったことは、これで全て終わりですか?」
その様子を後ろ見ていたミリアは、少年――ギルバートに尋ねた。
「ああ。俺の布石は、これで終わりだ。後は、君一人だけ」
ギルバートはそう言うと、ミリアに手を差し出した。
「ミリア。選択の時だ。――選んでくれ。俺をとるのか、ローズをとるのか」
「私、は……」
「君がもし俺を選ばないなら、俺はもう二度と君にちょっかいは出さないと約束しよう。これでも公爵子息だからな。縁談の話は、ローズほどじゃないが、俺にも山ほどあるらしい。ミリア。君はどうしたい?」
「そんな言い方は卑怯です」
ミリアは唇を噛んだ。
「卑怯じゃないさ。俺は自分が出せる手札を、全て君に教えた。これほど優しい人間は、そうは居ない思うが?」
「……」
「俺は、君に選んでほしいんだ。――君が、俺の『運命』だから」
大切な『お嬢様』。
その少女にどこか似た彼は、いつも笑っているはずなのに、今自分が手を離せば、風に飛ばされて消えてしまいそうなほど弱々しく見えた。
ミリアは逡巡の後、ギルバートの手を取った。
「ありがとう。君には、辛い思いをさせるな」
「……代わりに、約束して下さい」
ミリアは包帯で覆われたギルバートの手に触れた。
これまでの『先見の神子』と同じように、魔法の使いすぎの影響で変色したギルバートの手に、ミリアはそっと手を重ねた。
「絶対にもうこれ以上、貴方の命を削らないことを」
「わかった。約束する」
ギルバートは、ミリアを強く抱きしめた。
「……っ!」
「この命が尽きるまで、俺の命は君のものだ」
二人のやりとりを、天龍は黙って見つめていた。
ギルバートは微笑むと、今度はフィンゴットに手を伸ばした。
「俺はお前の仲間だ。お前だって、主の元で暮らしたいだろ? だったら俺に協力してくれ」
天龍はギルバートの言葉に少し悩む素振りを見せたあと、彼が背に乗れるようにしゃがみこんだ。
フィンゴットはギルバートが背に乗ると、夜の空へと飛び立った。ギルバートとミリアを載せたフィンゴットは、クリスタロス王国の空中を旋回する。
「……相変わらず、主人想いだな。お前は」
ギルバートがそう口にすれば、フィンゴットは彼を睨むように目を動かした。
ギルバートは小さな袋を取り出した。その袋の中には、夢見草と呼ばれる花の花びらが詰まっていた。
「夢は現。現は夢。大地は過去を知り、今へと伝える。樹は夢を見る。――斎き木よ。夢見草よ。過去のまことを、ここに示せ」
そう呟いて、ギルバートは袋の中に詰まっていた花びらを撒いた。
はらはらと、ひらひらと。
薄桃色の花びらは地上に降り注ぐ。
「あとはどうすれば、『あの未来』に辿り着ける……?」
ギルバートの呟きは、夜の闇へと吸い込まれる。
空から撒かれた薄紅色の花びらは窓を通り抜け、とある少年の部屋へと落ちた。
花びらは彼の頬に触れると、すうっとその肌に溶け、眠る彼の瞳からは、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「愛している。――の、薔薇の騎士」
再会の約束を交わす者、教師に謝辞を述べる者。
そんな彼らをロイが見つめていると、昔からよく知る声が彼を呼んだ。
「――ロイくん」
声の方を振り返り、ロイは苦笑いした。
「今ここで、その名で呼ばないでください。……先生」
ロイの言葉に、エミリーはくすりと笑う。
「貴方にそう呼ばれることを、とても嬉しく思います」
「……」
相変わらずのエミリーの反応に、ロイは細めた。
フィズを育てた魔法使いの話のように、エミリー・クラークは、元々ロイの教育係だった。
母親の愛を感じられず育ったロイに、エミリーは無償の愛を与えようとした。
けれど彼が九歳を迎えるとき、エミリーはロイの前を去った。彼女の母が病に倒れたためだ。
『俺を子供扱いするな。俺は、貴方の子供じゃない!』
かつてのロイは、母親の代わりになろうとしたエミリーに反発した。
けれど甘い蜜のような優しさに、幼い頃のロイにすがりたくなる瞬間があったのは事実だった。
だからエミリーが自分の元を去るときに、幼かったロイは彼女の全てを否定した。
かけられた梯子を、突然外されたような思いがしたからだ。
『貴方は、優しくなんてない。甘やかすだけが、全てじゃない。人を依存させてしまうのは、貴方が境界線を引けないせいだ』
片時だけ与えられた甘さは、棘のように胸を刺した。
自分より他の誰かを選ぶ、それだけの『愛情』ををたのみにしていた自分を、当時のロイはひどく愚かしく思えた。
『自分の人生に関わり合いがないなら、責任を持つ必要がないなら、甘やかすのは簡単だ。俺の全てを知った顔をして、俺の全てを見透かしたような顔をして、俺に近寄るな。簡単に置いていくのなら――優しくするな。――俺は、貴方が嫌いだ』
シャルルと会う前に、ロイが大切にしたいと思ったただ一人の人。
エミリー・クラークはロイにとって、そういう人間だった。
「懐かしいですね。あれから、大切な人ができましたか?」
エミリーは幼い頃と同じように、ロイに優しい声音で尋ねた。
「そうだな。……答えは最初から、一番近くにあった」
ロイがエミリーを学院に迎えたのは、彼女の能力の高さを知っていたからだ。
だが彼女を選んだ理由の中に、かつての日々への思いが欠片もなかったと言えば嘘になることも、ロイは自覚していた。
「私ね、貴方に嫌いだと言われて、いろいろと考えたんです。私はどうして、先生になりたかったんだろうって。……私、昔から子供が好きでした。子どもたちは、何も知らなくて、何でも私の話を聞いてくれた。私が与えるものが、彼らの全てで、だから私はずっと彼らにとって優しい大人であろうとしていた。でも、あの日貴方に言われて、改めてまた考えてみたんです。私が、子供を好きな理由。――そうして、気が付いたんです』
エミリーは、ロイに微笑んだ。
「私が彼らを見るのが好きなのは、彼らが植物のようだからなんだと」
その言葉は、彼女の持つ属性に相応しく――ロイは黙って、彼女の話に耳を傾けた。
「この世界に生まれる誰もが、『可能性』という種を持って生まれる。私は、『貴方は貴方でいい』と、そう思ってほしかった。望むままに生きてほしかった。そうしていつか、貴方らしい花を咲かせてほしかった。でも、水を与えるばかりでも花は育たない。それに植物というのは、同じ育て方をしても、枯れるものもあれば咲くものもある。……私は、貴方と出会ったとき、それに気付けていなかった」
エミリーは、リヒトに優しくは接していた。
それでもロイの時とは違い、厳しいこともリヒトには尋ねた。
一線を引いて、エミリーはリヒトに周りの人間のことを尋ねた。
それはロイの教育係だった頃のエミリーであれば、有り得なかったことだ。
かつてのエミリーであればリヒトに甘い言葉を囁いて、彼から自分で前に進む心を奪ってしまっていたかもしれなかった。
「ロイ君、ごめんなさい。でも私に、気付かせてくれてありがとう」
たとえ相手を傷つけて、自分を否定されてしまっても。後悔が残っても。
人と関わることで、人は変化する。
かつて彼女の生き方を否定した自分に笑みを向けるエミリーに、ロイは深く息を吐いた。
「……やはり貴方はたちが悪い」
クリスタロスに戻るため、飛行場を訪れたリヒトは偶然二人のやりとりを見た。
「よかった。仲直り出来たんだな」
リヒトの言葉にロイは頷いて、怪訝な顔をした。
「まあな。……って、何故君がそれを知っている?」
「いや、それは――……」
盗み聞きしてしまった内容と、偶然フィズの育ての親である女性から聞いた話からとは言えずリヒトが目線を泳がせると、ロイは溜め息を吐いた。
「まあいい。別に、隠しているわけでもないからな」
「あれ? でもそうなると……先生は今何歳なんだ?」
ロイが幼い頃に教育係を務めていたという割に、エミリーの外見は二〇歳後半くらいにしかリヒトには見えなかった。
「――君に、一つヒントをやろう。地属性の特徴は?」
「愛されて育った、依存性、周囲の死、長命………………長命?」
「彼女の本当の年齢について俺は知らない。しかし、見た目よりもだいぶ年上であることは確かだぞ」
ロイはにやりと笑った。
――自分は一体、何歳年上の女性に甘やかされていたんだ……?
リヒトがロイの話を聞いて百面相をしていると、護衛のため後ろに控えていたローズが不機嫌そうに言った。
「リヒト様、顔がにやけています」
「に、にやけてないっ!!!」
慌ててリヒトは叫ぶ。
彼の頬は心なしか赤く染まっていた。そんなリヒトを見て、ロイは静かに笑った。
「ふっ。君もまだまだだな」
◇
その後クリスタロス王国一行の見送りには、ロイだけではなく、ロゼリアや幼等部の生徒たち、そして在学生である生徒たちと、ロイの護衛のための騎士たちが集まった。
『ローズ様』『レオン様』『ギルバート様』と、女生徒たちが別れを惜しむ声を上げたが、控えめに手を振るローズ、爽やかな笑みを浮かべるギルバート、どこか疲れたような顔をして、あまり表情は変えないレオンと、彼らの対応は様々だった。
「あらためて、リヒト・クリスタロス。レオン・クリスタロス。おめでとう」
「……ありがとう」
ロイの言葉に礼を述べたリヒトとは違い、レオンは軽く会釈しただけだった。
その時リヒトは――ロイの隣に立っていたロゼリアを見て、少し困ったように笑った。
今回の受験の有資格者は、全員卒業を許されたらしい。
しかしロゼリアは、『水晶宮の魔法』を成功させたにもかかわらず、結局成績の五位でも名前を呼ばれなかった。
リヒトの視線に気付いたロゼリアは、「馬鹿ね」とでも言いたげな顔をして笑うと、手を胸に添えて高らかにこう言った。
「私が選ばれなかったと言っても、貴方が気を遣う必要はないわ。それにまた、魔法が使えるようになったんだもの。五位には入れなくても、それだけで十分よ」
その声は、大国の姫に相応しく、自分への誇りを感じさせるものだった。
だがそんなロゼリアの肩を、とんと叩いてロイは言った。
「そのことなんだが――……お前、卒業できないぞ」
「えっ????」
ロイの言葉に、ロゼリアはピタリと動きを止めた。
「いや、だから……。単位が足りてない」
「な……っ」
ロゼリアは、「有り得ない」という表情《かお》をすると、背伸びをしてロイに掴みかかった。
そう。今回の試験では、受験資格のあるものは卒業を許された。
――規定の単位を取得した人間は。
「なんでそれを先に言わないの!?」
怒りの籠もった声で、ロゼリアがロイを問い詰める。
「それは自分で管理するものだろ? 大体俺がそれを教えたとして、お前が抜ければあの二人が不利益を被ると分かっていて――それでもお前は突然辞退するつもりだったのか?」
ロイの質問に、ロゼリアは口を噤んだ。
もし自分に資格がないと分かっていても、二人に迷惑をかけることをロゼリアはしたいとは思えなかったから。
魔法学院では、卒業者の実力を保証させるため、入学試験の成績によって、学院で卒業試験までに取得するべき単位数が変わる。
ローズが短期間で卒業を許されたのは、彼女が入学したときに好成績で、編入後も成績と単位分の成果を出したためだ。ロゼリアは殆ど授業に参加していなかったこともあり、その基準を満たしてはいなかった。
「まあ、いいじゃないか。新しい友だちが出来たなら、交友を深めればいい。お前も俺とばかり話していてもつまらなかっただろう?」
少しだけ、寂しそうに笑う。
ロイは遠い記憶の中で、ロゼリアたちと過ごした日々を思い出していた。
学校が出来たとき、『三人の王』はグラナトゥムに集まって話をした。
『学校を作りたい』そう願った『彼』は、立派な建物を見て喜んで、それからロイとロゼリアに感謝を述べた。
『俺の願いを、叶えてくれてありがとう』
『おや。いつもとは違いしおらしいじゃないか。なにか変なものでも食べたのか?』
『そうよ。どうしたの?』
軽い口調で返せば、『彼』はどこか穏やかな口調で言った。
いつもは行動に予想が付かなくて、慌ただしい雰囲気の『彼』だけれど、その時ばかりはロイはどこか言葉に重さのようなものを感じた。
『学校を作るなんて、きっと俺一人では叶えられなかったから。この国には、生まれによって差別する人間が大勢いる。魔法を使えないことは、仕方のないことだ。それによってつくことのできる仕事の違いが、今は彼らという存在自体の価値に繋がっていってしまっている。俺はそれは悲しいことだと思う。人間に、命に、差なんてものはない。俺は、そう思いたい。この世界に生まれてきた者たちが、等しく幸福を感じられる世の中にするために。魔法を持つものはが、自分のためだけに生きるのではなく、誰かのためにその力を使えるように。そのための第一歩として、俺は魔法を使えるものたちには、同じ学院で学んでほしいと思う。これからの世界のために、偏見の少ない子供のうちに、俺は彼らに、いろんな世界の人間と関わることを学んで欲しい。今はまだ研究の途中だが、魔法というものが、全ての人に使えるようなそんな世界にするために――俺はこれからも、魔法の研究を続けるつもりだ』
思い出の中の『彼』の声は、ロイの知るこの世界の誰よりも優しく響く。
『綺麗事だってわかっている。子供の夢だと周りは笑うかもしれない。きっと俺だけ後からでは、そうなるのが落ちだった。でも二人が、俺を助けてくれた。この世界で一二を争う大国の、王と皇女の力がなくては、この願いは叶わなかっった。だから、心から感謝している。――俺の願いを叶えてくれて、本当にありがとう』
金色の髪を揺らして、『彼』は頭を下げる。
そんな『彼』を見て、ロイとロゼリアは言った。
『全く、君は大馬鹿だな』
『そうよ。本当に馬鹿じゃない?』
『口うるさい老人共や、神殿の奴らを説き伏せたり、学院創設にあたりどれだけ俺が苦労したと思っている? その見返りが、ただのありがとうで済むとでも思っているのか?』
『全くだわ。こんなこれまでの常識を覆すようなこと頼んでおいて、そのお礼がそれだけで住むと思っているの?』
『関係は、お互いにとって利益がなければ、長続きはしない。君もそれはわかっているはずだ』
責め立てるような二人の声に、『彼』は申し訳なさそうにした。
『すまない。俺は国として……は、君たち二人に返せることは少ない。だから、俺は俺にできることなら、二人が望むならなんだってしよう』
『王としてはなにもできないけれど、個人としてはお返しがしたいなんて、私の国は随分安く見積もられたものね』
『全くだ。王でない君ができることなんて限られている。それに王としても、君の力は俺たちには及ばないはずだ』
『じゃあ、俺は何をしたら……?』
『何もいらない』
『え……?』
ロイの言葉に、『彼』が驚いたような声を上げた。
『俺は君だから、手を貸したいと思ったんだ。自分のためじゃない。心無い人間に笑われるとしても、誰かのために全力になれる君だから。君が好きな言葉を借りるなら――友というのは、そういうものなんだろう?』
『ロイ……』
『まあ、優秀な人材を確保できるのはこちらとしても有益だしな。だが、強いて言うなら……。ああそうだ。そういえば君の研究の中に、指に合わせて変形する指輪というものがあっただろう? 返礼はあれでいい』
『え? そんなものでいいのか?』
学院設立に協力した礼に、ロイは『彼』からシャルルに贈った指輪を受け取った。
それが、『彼』一人で作れるものだと知っていたから。
『別に俺は礼などいらないが、何か形あるものを俺が頼んだ方が、君にとってはいいだろう?』
『……わかった』
ロイがにやりと笑って言えば、『彼』はつられたように笑った。
『とびきり凝った細工にしよう! こう、ロゼリアは花柄で、ロイは炎みたいな……』
『君に芸術の造詣がないのは把握しているから、極力簡素な作りにしてくれ』
『おい! なんてなんてこと言うんだよ!』
『私も一つお願いしていいかしら。貴方、以前彫刻が動いたら楽しい……とか言っていたでしょう? あの魔法が完成しているなら、私は私の宮殿に海を作ってほしいわ。水を満たせば海の生き物が動き出す、なんて。私にぴったりだと思うの。彫刻自体はこちらで用意するから、貴方は動くようにしてくれたら十分よ』
そしてグラナトゥムに伝わるガーネットの指輪同様、『水晶宮の魔法』もまた、学院が出来た頃、『彼』が感謝の証に贈ったものだった。
『……二人とも、俺のこと信じてないな』
『生憎、君のこういうものへの才能の無さを確信している。俺は君の才能より、俺の君への理解の方を信じている』
『ううう……』
『貴方って本当に推しに弱いわよね。なにか言い返せばいいのに』
『……言い返したいが、ロイの言葉が嬉しいから言い返せないんだ』
『それを本人の前で言う? 本当に貴方って変な人ね』
『友達に向かってヘンってなんだよ!』
『その言葉のままの意味よ』
国の規模を考えればとても対等とは言えない国の王である『彼』の言葉を、ロゼリアは否定しなかった。
この世界の中心である二つの大国の王と皇女は『友』として、『彼』と対等であることを望んでいた。
懐かしい『友』との思い出。
学校を作るために三人で沢山話をした。
その日々を思い出して、ロイは少しだけ手に力を込めた。
ロゼリアにもリヒトにも、ロイは『二人』の面影を感じていた。
けれど二人に『今』の人生があることも、ロイは理解していた。
自分の中だけにある『思い出』。
それは決して、相手に押しつけていいものではない。
これから二人は沢山の人に出会い、認められていくことだろう。そうなれば、前世《むかし》の友人達のような関係を、自分と結ぶことを彼らは望まないかもしれない。
――彼らが同じ記憶を持っていなくても、二人の手を、それでも掴みたいと思ってしまうのは、やはり俺のわがままだろうか?
ロイがそう思っていると。
「何言ってるの? 貴方は友人ではなく、幼馴染のようなものでしょう? どうしてあの子達と同列に話す必要があるの?」
あっけらかんとしたロゼリアの言葉に、ロイは目を丸くした。
「それより、今の問題はお父様よ。今回のこと、お父様にバレたらまた怒られるに違いないわ……」
「ああ。そうだな」
「そこは頷くところじゃないわ!」
昔のように鋭い言葉が返ってきて、ロイは思わず頬が緩みそうになるのを必死にこらえた。
今のロゼリアは、魔法が使えた頃の彼女らしさを取り戻していた。
だからこそロイはロゼリアに微笑むと、彼女の新しい門出を祝福する言葉を口にした。
「まあ、頑張れ。今のお前になら、なんだって出来るはずだ』
「当然でしょう」
ロゼリアは、胸に手を当てて宣言した。
「次の試験では、私が絶対に一番をとってみせるわ。私が最優秀者に選ばれないなんておかしいもの。次こそは本当の私の実力を見せてあげるわ。あの二人に負けないくらい、もっとずっとすごいものを。だって私は――『海の皇女』なんだから!」
「それは楽しみだ」
今も昔も、自信たっぷりなロゼリアの姿を見て、ロイは少し目を細めてから笑った。
「――リヒト・クリスタロス。また、この国に来るといい。俺もまた、君の国にいこう」
「また来るのか……」
「なんだ? 不服か? 大国の王である俺が、わざわざ直々に来てやろうというのに」
「……だって、お前が来るといろいろめんどくさい気がする」
「ははっ」
ロイは、あからさまに顔を顰めたリヒトを見て笑った。
「その時はついでに、ロゼリアも連れて行こう。賑やかでいいだろう?」
「なんでだよっ!!!」
――一人でも五月蝿いと言っているのに、何故増やそうとするんだ!
しかも、グラナトゥムに並ぶ大国ディランの『海の皇女』を。だがリヒトから心からの叫びに、ロイは笑うばかりだった。
「あははははは」
そしてそんなロイの笑い声に、ロイを守護するグラナトゥムの騎士たちはぎょっと目を見開いていた。
『大陸の王』と呼ばれるのロイは、普段声をあげて笑うような男ではない。
他の者と接するときとは明らかに違う態度。
ロイがそれを示すたびに、クリスタロスは守られることになる。
ロイがわざわざ招いた国の二人の王子。
その二人が、世界中から集められた有能な若者たちの中で、最も優秀だと認められたこともまた、クリスタロスの名を再び世界に示すことになるだろう。
魔王を倒した英雄の出身国ではなく、『赤の大陸』の『大陸の王』、『青の大海』の『海の皇女』――そして『水晶の王国』の『賢王』――学院を創設した三人目の王の出身国として。
「――リヒト。では、また」
「――ああ。また、な」
大陸の王は、自分の国と比べたら小さな国の王子でしかないリヒトに、柔らかな笑みを浮かべた。
ローズと一緒にフィンゴットの背に乗っていたリヒトは、クリスタロスの王城が見えた頃、意を決して彼女に声をかけた。
「……あのさ、ローズ」
だがその声は、彼女の帰国を待っていたものたちによって掻き消された。
「おかえりなさいませ。ローズ様」
ローズの婚約者であるベアトリーチェは、彼女を迎えるためにわざわざ王城で待機していた。
ローズはベアトリーチェの声に振り返ると、フィンゴットから降りて彼の元へと進んだ。
「……ビーチェ様」
「半年間、お疲れ様でした。見ない間に、また美しくなられましたね」
「そ、そんなことは……」
「ローズ様。ずっと貴方のお帰りをお待ちしておりました。よければこれから、植物園にいらっしゃいませんか? そばにいられなかったぶん、沢山貴方と話がしたい」
「はい。喜んで」
ローズの手を取って、ベアトリーチェは自分の場所へと案内する。
ミリアとギルバートは、公爵家が用意した馬車で先に帰るとローズに告げた。
リヒトは彼らの姿が見えなくなっても、その場から動けずにいた。
「リヒト。早く中に入りなさい。いつまでもそうしていては、風邪を引いてしまうよ」
「……すいません。これから部屋に戻ります」
レオンに声をかけられ、リヒトは空を仰いで部屋へと戻った。
空には月が浮かんでいた。
その時漸く、いつの間にか随分時間が経っていたことに、リヒトは気が付いた。
実力主義の魔法学院。
その学校は、可能性を花開かせるために、三人の王が作った夢のような場所だった。
だが、夢はいつか覚めるものだ。
リヒトには学院で過ごした時間が、まるで何十年も昔のことのことのようにも感じられた。
◇
「久しぶりだな。フィンゴット」
人々が寝静まる頃、公爵家の薔薇の庭で翼を休めていた天龍は、昔よく聞いた声に気が付いて、ゆっくりと瞼をあげた。
「ああ――そうだ。俺は、お前の味方だよ」
「貴方がやりたかったことは、これで全て終わりですか?」
その様子を後ろ見ていたミリアは、少年――ギルバートに尋ねた。
「ああ。俺の布石は、これで終わりだ。後は、君一人だけ」
ギルバートはそう言うと、ミリアに手を差し出した。
「ミリア。選択の時だ。――選んでくれ。俺をとるのか、ローズをとるのか」
「私、は……」
「君がもし俺を選ばないなら、俺はもう二度と君にちょっかいは出さないと約束しよう。これでも公爵子息だからな。縁談の話は、ローズほどじゃないが、俺にも山ほどあるらしい。ミリア。君はどうしたい?」
「そんな言い方は卑怯です」
ミリアは唇を噛んだ。
「卑怯じゃないさ。俺は自分が出せる手札を、全て君に教えた。これほど優しい人間は、そうは居ない思うが?」
「……」
「俺は、君に選んでほしいんだ。――君が、俺の『運命』だから」
大切な『お嬢様』。
その少女にどこか似た彼は、いつも笑っているはずなのに、今自分が手を離せば、風に飛ばされて消えてしまいそうなほど弱々しく見えた。
ミリアは逡巡の後、ギルバートの手を取った。
「ありがとう。君には、辛い思いをさせるな」
「……代わりに、約束して下さい」
ミリアは包帯で覆われたギルバートの手に触れた。
これまでの『先見の神子』と同じように、魔法の使いすぎの影響で変色したギルバートの手に、ミリアはそっと手を重ねた。
「絶対にもうこれ以上、貴方の命を削らないことを」
「わかった。約束する」
ギルバートは、ミリアを強く抱きしめた。
「……っ!」
「この命が尽きるまで、俺の命は君のものだ」
二人のやりとりを、天龍は黙って見つめていた。
ギルバートは微笑むと、今度はフィンゴットに手を伸ばした。
「俺はお前の仲間だ。お前だって、主の元で暮らしたいだろ? だったら俺に協力してくれ」
天龍はギルバートの言葉に少し悩む素振りを見せたあと、彼が背に乗れるようにしゃがみこんだ。
フィンゴットはギルバートが背に乗ると、夜の空へと飛び立った。ギルバートとミリアを載せたフィンゴットは、クリスタロス王国の空中を旋回する。
「……相変わらず、主人想いだな。お前は」
ギルバートがそう口にすれば、フィンゴットは彼を睨むように目を動かした。
ギルバートは小さな袋を取り出した。その袋の中には、夢見草と呼ばれる花の花びらが詰まっていた。
「夢は現。現は夢。大地は過去を知り、今へと伝える。樹は夢を見る。――斎き木よ。夢見草よ。過去のまことを、ここに示せ」
そう呟いて、ギルバートは袋の中に詰まっていた花びらを撒いた。
はらはらと、ひらひらと。
薄桃色の花びらは地上に降り注ぐ。
「あとはどうすれば、『あの未来』に辿り着ける……?」
ギルバートの呟きは、夜の闇へと吸い込まれる。
空から撒かれた薄紅色の花びらは窓を通り抜け、とある少年の部屋へと落ちた。
花びらは彼の頬に触れると、すうっとその肌に溶け、眠る彼の瞳からは、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「愛している。――の、薔薇の騎士」