「それじゃあ、中を探索するか」
「お待ち下さい」
地下の階段に足を踏み入れようとしたリヒトを、ローズは遮って指輪に触れた。
すると半透明の膜が、球形の壁となって二人を包み込んだ。
「こういう古い遺跡などには、人の体に害があるものも溜まっていると、お祖父様に聞いたことがあります。リヒト様。私の防壁の中からは出ないでください」
「わかった」
魔法の使えないリヒトは、ローズの注意を聞いて頷いた。
「思っていたより、随分長いな」
「そうですね。……あっ。リヒト様、道が開けるようです」
二人が石の階段を暫く進むと、円柱状の空間が現れた。
二人は、その光景に驚きが隠せなかった。
天井からは、まるで海底に出来る水の影のように、ゆらゆらと水面に揺れる月の光が射し込んでいたからだ。
「……湖の底が、ここと繋がっていると言うことでしょうか?」
これまで歩いた距離や位置から、ローズはそう推測した。
白と、微かな灰色の混ざったような青い光が射し込むその空間は、どこまでも静かで――きっと一人だけで訪れてしまったら、心細く感じただろうとローズは思った。
感傷に浸るローズと違い、リヒトは空間に設置された照明道具に興味を示した。
「ローズ、見てくれ。これ面白いぞ!」
静寂が似合う空間に、リヒトの弾んだ声が響く。
ローズは、はあと溜め息をついたあとにリヒトに尋ねた。
「何が面白いのですか?」
「この照明、魔力を込めると光が灯るみたいなんだ」
それは、一般的に流通している『ランプ』とは、少し異なっていた。
「おそらく、これは魔力の火だ。魔力で色が変わるんだ。ローズ、少し魔力を込めてみてくれ」
リヒトに促され、ローズは白い炎を燃やす照明へと触れた。
その瞬間、ごおっと高く火が燃えあがったかと思うと、火は虹色の丹色を変えた。
虹色の火は、火を囲むガラスのような入れ物で光を増幅させる。
静かな古い遺跡の中で、まるでそこだけが、宴の席のように明るく照らされる。
「なんかこれあれだな……。異世界の『みらあぼうる』ってやつみたいだな」
「……」
せっかくの冒険気分が台無しだ。
ローズはぼそりと呟いたリヒトの腕を掴むと、無理矢理照明に触れさせた。
「リヒト様、魔力を込めてください」
「え? でもせっかくローズがつけたのに……」
「いいですから。はやく」
「お、おう……」
リヒトは再び魔力を込めた。すると火は、元の白い色の静かな光に戻った。
円柱状の空間に続く階段は石ではなく、古びた木や紐で作られれていた。
簡素な吊り橋だ。
きっと大雨でも降ろうものなら、一瞬で流れるに違いない。
「これ、かなり古いよな……。一体いつのものだろう?」
「一〇〇〇年くらいは経っているのかもしれません。もしここがフィンゴットの遺跡だとするなら――フィンゴットは、その頃から書物から記載が消えるはずですから」
一〇〇〇年!
ローズの言葉を聞いて、リヒトはふるふる震えながら足を踏み出した。
先ほどの石の階段とは異なり、板の安定性はかなり低い。リヒトは、自分の体が悲鳴上げる声を聞いた。
まっすぐに体勢を保つだけでも、かなりの体力が削られるのがわかる。
「わ、わ、わっ」
ぐらぐらと足場が揺れる。
特に表情の変わらないローズとは違い、リヒトの表情《かお》は強ばっていた。
「リヒト様」
耐久性の問題も考え、先に広い足場まで進んでいたローズは、明らかに自分より歩みが遅いリヒトを見つめて言った。
「体幹が少しぶれているように思います。研究も結構ですが、体も多少は鍛えておいた方が良いのではないのですか」
「今冷静にそれを言うな……」
漸くローズのいた場所に辿り着いたリヒトは、若干顔色が悪かった。
そんなリヒトに、ローズはにこりと微笑んだ。
「リヒト様がお望みなら、ここから出たら、私が稽古をつけて差し上げます。大丈夫。出来るだけ怪我はなさらないよう努力します」
「俺が怪我をする前提なのか……」
リヒトはふうと息を吐いて、自分が渡ってきた道を振り返った。
最下層まで、どの程度距離があるか分からないことも、リヒトにとって恐ろしかった。
一枚一枚板を踏みしめる度に、まるで自分の墜落を待つかのように、闇がこちらを見つめているようにさえ感じられる。
――足を踏み外したら、確実に死んでしまうだろう。
そう思い、ぶるりと体を震わせるリヒトとは異なり、ローズは至って冷静だった。
「リヒト様は少しお疲れのようですし、ここらで休憩しましょう。どうぞ」
当然のように温かいお茶を差し出され、リヒトは「わけがわからない」という顔をした。
「なんでそんなに冷静なんだ……。ローズは怖くないのか?」
「はい」
「なんで怖くないんだ……?」
「何故、と仰いましても。私は風魔法を使っているので、足場が崩れても落ちないかと思います」
「……」
冷静なローズの返答に、リヒトは頭を押さえた。
こんな場所で、わざわざお湯を沸かしてお茶を入れるのは、どう考えても能力差が理由だけではないような気がする。
「リヒト様。サンドイッチは卵とハムどちらがよろしいですか? それとも、いちごのフルーツサンドをご所望ですか?」
「待て。今どこから出した?」
ぽいぽいと異空間からものを取り出すローズを見て、リヒトは疑問に思ったことを尋ねた。
「どこって指輪から――……。指輪の収納機能です」
ローズはきょとんとした顔をして答えた。
リヒトからローズが預かっている指輪には、ローズが壊した指輪と同じ収納機能がある。指輪の中に保全したものは、時間型っても状態は変わらないのだ。しかも、何を収納しても、指輪以上の重さにはならない。
「ローズ。俺が持ってる荷物についてどう思う?」
リヒトは『冒険』のために、自分が作った魔法道具を袋に詰めて持っていた。
「……そうですね。私の指輪に収納しておきましょう」
ローズはそう言うと、リヒトの荷物を指輪の中に閉まった。
「大分下に降りたつもりだが、まだ先は長そうだな。……しかし一番下まで降りたとして、帰りはどうなるんだろう。また歩いて戻るのか?」
かれこれ二時間以上、二人は階段を降りていた。
「それこそフィンゴットが見つかったら、帰りは背中に乗せてもらえば良いのではないですか?」
「なるほど。いいな、それ」
ローズの言葉に、リヒトはははっと笑う。
普段机に向かってばかりのリヒトだから、ローズはてっきりリヒトはすぐに音を上げると思っていたが、リヒトは疲れたとかもう無理だとか、弱音を吐くそぶりは一切見せなかった。
「……リヒト様。一つお尋ねしても宜しいですか?」
だから、ローズはリヒトに尋ねた。
「リヒト様はどうして、フィンゴットにそこまで固執なさるのですか?」
きっとこの先に待っているのが『フィンゴット』でなければ、リヒトはここまで真剣にはならない。ローズにはそう思えた。
「……兄上が、レイザールと契約してるから」
リヒトの答えを聞いて、ローズはきゅっと唇を噛んだ。
そんなローズに気付いてか無意識か、リヒトは困ったような顔をして笑った。
「まあ、それもあるんだけど……。でもさ、他にも理由があるんだ」
「他に理由……?」
「兄上が倒れる前、俺兄上に、レイザールに触らせてもらったことがあるんだ。その時に、空からクリスタロスを見たことがあって」
リヒトはそう言うと、遠い昔のことを思い出すかのように天井を見上げた。
「レイザール、兄上に本当に懐いていてさ。なんとなく、その光景を見たときに、『いいなあ』って思ったんだ。それで――俺は、こうも思ったんだ」
リヒトは自分の手を胸に押し当てた。
「主人を待って石になった、なんて。そんな生き物の主人になれたら、それはどんなに幸せなことだろうって。絶対に裏切らない、そんな忠誠を、契約を交わせたら、どれだけ心強いだろうって……」
美しい白銀の天龍。
誰もが憧れる、もしそんな存在が、自分の味方になってくれるとしたら。
ろくな魔法を使えない自分でも、少しは自信を持てる気がして――……。
「……リヒト様」
「まあでも子どものときのことだし、兄上も、今の兄上より少し優しかった気がするし……。もしかしたら俺の願いから生まれた存在しない記憶かもしれないって、そう思うこともあるんだけどな。でもさ、やっぱり――青空を駆ける銀色のドラゴンなんて、実際この目で見ることが出来たなら、どれだけ綺麗なんだろうって……。想像したら、わくわくしないか?」
過去を思い少しだけ影を帯びる。
そんな表情《かお》をしていたリヒトは、心配そうに自分を見つめるローズに、明るい笑みを返した。
◇◆◇
「見てください! リヒト様、面白いものを見つけました!」
階段を下に下るにつれて、ローズのテンションは右肩上がりだった。
「ここを押すと壁から矢が出てきました!」
ローズはそう言うと、壁に設けられたボタンを押した。
突然現れた矢は、リヒトの目に届くすんでのところでローズの氷によって無力化される。
「この板を踏むと足下から氷結します!」
ローズが板を踏んだ瞬間、リヒトの足下は突然ピキッという音を立てたかと思うと凍り始めた。だがその氷は、ローズが出現させた炎によって溶けていく。
「続いてこのロープを引くとおそらく……」
「引かなくていい! 引かなくていいから! 何でお前はわざと罠に引っかかろうとするんだよ!」
「そこに……罠があるから?」
ローズは至極真面目な声で言った。
「理由になってない!」
リヒトは悲痛な声を上げた。魂からの言葉だった。
「はあ……」
広い足場に辿り着き、リヒトは頭を抱えた。
「ローズ……」
「はい」
地を這うように沈んだ声のリヒトに対し、ローズの声は弾んでいた。
まるで快晴の中、これからお気に入りのドレスを着てピクニックに行く少女のようだった。
「少し楽しんでるだろう」
「そ、そんなことはありません。リヒト様が行きたいとおっしゃるので、私は護衛を務めているだけです」
「……そういえば、昔はよく冒険譚を聞かせられたな」
リヒトの言葉に、ローズはギクリとして視線を逸らした。
冷静になると、いつもなら絶対に言わない言葉や行動を、リヒトに向けていたことに気付く。
それはどれも、『貴族の令嬢』としては、絶対に相応しくない行動だった。
「『剣聖』の孫娘なら、血は争えない――か」
先ほどまでとは違う、少しあきれたような、でも温かな声音。
子どもっぽい自分のことをリヒトが笑ったような気がして、ローズはなんだか照れくさくなってしまった。
「な……なんですか! 私に公爵令嬢らしくないと、文句でも仰りたいのですか? 私がお祖父様のお話をちゃんと聞いていなかったら、リヒト様は今頃天に召されていたかもしれないんですからね!」
「おいおい。不吉なことを言うなよ」
リヒトは思わずつっこんだ。
地下で、二人っきりで。少し間違えたら死んでしまうかも知れないような冒険の最中だというのに、照れたような、拗ねたような幼馴染に、不思議と心が和らぐのをリヒトは感じた。
「別に、からかってるとか、馬鹿にしてるとかそう言うんじゃないんだ。ただ俺のせいでこんな場所に付き合わせてしまったから……。でもローズが楽しいなら、よかったなって思って」
控えめに笑うリヒトを見て、ローズは思わず胸を押さえた。
なんだが心が落ち着かない。
「……さっさと先に進みますよ。遅れないでくださいね。リヒト様」
ローズはそう言うと、またリヒトより先に道を進んだ。
それからも、罠に対しローズが処理をするということが続いた。そしてリヒトは、度々自分たちを襲う罠に対し、ある仮説を立てた。
「ローズ。質問なんだが、今まで何属性の罠がでてきたか覚えてるか?」
リヒトはローズに尋ねた。
「火に水に氷、土の礫《つぶて》も飛んできました。全て無効化しましたが……。何か気になられることでも?」
ローズの答えを聞いて、リヒトは目を細めた。
「もしかして……全ての属性を持っていないと、通れない仕組みなのか……?」
ロイが用意した、『ハロウィン』の巨大迷路は、結果として全ての属性を持っていなければ最奥に辿り着くことは出来なかった。
リヒトにはこの場所が、それに似ているように思えた。
『王を選ぶ』
それはこの地下遺跡を突破するためには、全ての属性が必要、ということ絵お意味していたのかもしれない。
しかしローズが規格外なだけで、全属性に適性を持ち、且つ使える人間は歴史上でもそう存在しない。
つまり本来、この関門を突破するには、たくさんの人間の協力が必要となるのだとしたら――確かにその仕組みそのものが、『王』にしか突破できないようにもリヒトには思えた。
「でもまだ木属性の攻撃は来ていません。楽しみですね! リヒト様」
ローズは満面の笑みだった。
心なしか、リヒトはローズの肌がつやつや輝いて見えた。
「俺は全然楽しみじゃない!」
――この戦闘狂が!
リヒトは心の中で叫んだ。あの祖父にしてこの孫ありである。
二人がそんな話をしていると、階段を構成していた蔓が、突然にゅるりとリヒトの足に絡みついた。
「へ」
リヒトが情けない声を上げた瞬間――壁が壊れる音がして、土煙と共に毒々しい色をした花が現れた。
それは巨大な花の怪物だった。
リヒトの体は一瞬で蔦で拘束され、体は空中に吊り上げられる。
ぐわん、と蔓が大きく横にふれたかと思うと、壁が急接近してリヒトは悲鳴を上げた。
「ああああああっ!」
危うく壁で体を削られそうになり、リヒトは全力で壁を走った。
――やばいやばいやばいやばい! これ、完全に捕食する前の下ごしらえじゃないか!
花の怪物は、リヒトがダメージを負っていないことを、まるで疑問に思っているかのように体を揺らした。
『うーん……。おかしいなあ。せっかくお料理したつもりだったのに。まあいっか!
口の中に入るときに血が滴るくらいが美味しいけど、お腹に入れば何でも一緒だよねっ!』
リヒトには、そんな花の声が聞こえた気がした。
「おいおい嘘だろっ!?」
今度は壁ではなく、花は自分の口の方にリヒトの体を移動させた。
身動きのとれなくなったリヒトは、自分の体の下でぱかりと花が口を開いたのを見た。
ギザギザの鋭い歯先にはぐつぐつと、あらゆるものを溶かしてしまいそうな液体が沸騰しながらリヒトを待っていた。
「……っ!」
驚きと恐怖で声が出ない。
リヒトが死を覚悟して、ぎゅっと目を瞑った瞬間。
鋭い風が吹いたか年うと、空間を揺らすような、けたたましい怪物の声が響いた。
そして自分を縛っていた蔦が緩んだかと思うと、いつもより少しだけ焦りのこもった少女の声が、リヒトの頭上から降ってきた。
「大丈夫ですか? リヒト様」
「お待ち下さい」
地下の階段に足を踏み入れようとしたリヒトを、ローズは遮って指輪に触れた。
すると半透明の膜が、球形の壁となって二人を包み込んだ。
「こういう古い遺跡などには、人の体に害があるものも溜まっていると、お祖父様に聞いたことがあります。リヒト様。私の防壁の中からは出ないでください」
「わかった」
魔法の使えないリヒトは、ローズの注意を聞いて頷いた。
「思っていたより、随分長いな」
「そうですね。……あっ。リヒト様、道が開けるようです」
二人が石の階段を暫く進むと、円柱状の空間が現れた。
二人は、その光景に驚きが隠せなかった。
天井からは、まるで海底に出来る水の影のように、ゆらゆらと水面に揺れる月の光が射し込んでいたからだ。
「……湖の底が、ここと繋がっていると言うことでしょうか?」
これまで歩いた距離や位置から、ローズはそう推測した。
白と、微かな灰色の混ざったような青い光が射し込むその空間は、どこまでも静かで――きっと一人だけで訪れてしまったら、心細く感じただろうとローズは思った。
感傷に浸るローズと違い、リヒトは空間に設置された照明道具に興味を示した。
「ローズ、見てくれ。これ面白いぞ!」
静寂が似合う空間に、リヒトの弾んだ声が響く。
ローズは、はあと溜め息をついたあとにリヒトに尋ねた。
「何が面白いのですか?」
「この照明、魔力を込めると光が灯るみたいなんだ」
それは、一般的に流通している『ランプ』とは、少し異なっていた。
「おそらく、これは魔力の火だ。魔力で色が変わるんだ。ローズ、少し魔力を込めてみてくれ」
リヒトに促され、ローズは白い炎を燃やす照明へと触れた。
その瞬間、ごおっと高く火が燃えあがったかと思うと、火は虹色の丹色を変えた。
虹色の火は、火を囲むガラスのような入れ物で光を増幅させる。
静かな古い遺跡の中で、まるでそこだけが、宴の席のように明るく照らされる。
「なんかこれあれだな……。異世界の『みらあぼうる』ってやつみたいだな」
「……」
せっかくの冒険気分が台無しだ。
ローズはぼそりと呟いたリヒトの腕を掴むと、無理矢理照明に触れさせた。
「リヒト様、魔力を込めてください」
「え? でもせっかくローズがつけたのに……」
「いいですから。はやく」
「お、おう……」
リヒトは再び魔力を込めた。すると火は、元の白い色の静かな光に戻った。
円柱状の空間に続く階段は石ではなく、古びた木や紐で作られれていた。
簡素な吊り橋だ。
きっと大雨でも降ろうものなら、一瞬で流れるに違いない。
「これ、かなり古いよな……。一体いつのものだろう?」
「一〇〇〇年くらいは経っているのかもしれません。もしここがフィンゴットの遺跡だとするなら――フィンゴットは、その頃から書物から記載が消えるはずですから」
一〇〇〇年!
ローズの言葉を聞いて、リヒトはふるふる震えながら足を踏み出した。
先ほどの石の階段とは異なり、板の安定性はかなり低い。リヒトは、自分の体が悲鳴上げる声を聞いた。
まっすぐに体勢を保つだけでも、かなりの体力が削られるのがわかる。
「わ、わ、わっ」
ぐらぐらと足場が揺れる。
特に表情の変わらないローズとは違い、リヒトの表情《かお》は強ばっていた。
「リヒト様」
耐久性の問題も考え、先に広い足場まで進んでいたローズは、明らかに自分より歩みが遅いリヒトを見つめて言った。
「体幹が少しぶれているように思います。研究も結構ですが、体も多少は鍛えておいた方が良いのではないのですか」
「今冷静にそれを言うな……」
漸くローズのいた場所に辿り着いたリヒトは、若干顔色が悪かった。
そんなリヒトに、ローズはにこりと微笑んだ。
「リヒト様がお望みなら、ここから出たら、私が稽古をつけて差し上げます。大丈夫。出来るだけ怪我はなさらないよう努力します」
「俺が怪我をする前提なのか……」
リヒトはふうと息を吐いて、自分が渡ってきた道を振り返った。
最下層まで、どの程度距離があるか分からないことも、リヒトにとって恐ろしかった。
一枚一枚板を踏みしめる度に、まるで自分の墜落を待つかのように、闇がこちらを見つめているようにさえ感じられる。
――足を踏み外したら、確実に死んでしまうだろう。
そう思い、ぶるりと体を震わせるリヒトとは異なり、ローズは至って冷静だった。
「リヒト様は少しお疲れのようですし、ここらで休憩しましょう。どうぞ」
当然のように温かいお茶を差し出され、リヒトは「わけがわからない」という顔をした。
「なんでそんなに冷静なんだ……。ローズは怖くないのか?」
「はい」
「なんで怖くないんだ……?」
「何故、と仰いましても。私は風魔法を使っているので、足場が崩れても落ちないかと思います」
「……」
冷静なローズの返答に、リヒトは頭を押さえた。
こんな場所で、わざわざお湯を沸かしてお茶を入れるのは、どう考えても能力差が理由だけではないような気がする。
「リヒト様。サンドイッチは卵とハムどちらがよろしいですか? それとも、いちごのフルーツサンドをご所望ですか?」
「待て。今どこから出した?」
ぽいぽいと異空間からものを取り出すローズを見て、リヒトは疑問に思ったことを尋ねた。
「どこって指輪から――……。指輪の収納機能です」
ローズはきょとんとした顔をして答えた。
リヒトからローズが預かっている指輪には、ローズが壊した指輪と同じ収納機能がある。指輪の中に保全したものは、時間型っても状態は変わらないのだ。しかも、何を収納しても、指輪以上の重さにはならない。
「ローズ。俺が持ってる荷物についてどう思う?」
リヒトは『冒険』のために、自分が作った魔法道具を袋に詰めて持っていた。
「……そうですね。私の指輪に収納しておきましょう」
ローズはそう言うと、リヒトの荷物を指輪の中に閉まった。
「大分下に降りたつもりだが、まだ先は長そうだな。……しかし一番下まで降りたとして、帰りはどうなるんだろう。また歩いて戻るのか?」
かれこれ二時間以上、二人は階段を降りていた。
「それこそフィンゴットが見つかったら、帰りは背中に乗せてもらえば良いのではないですか?」
「なるほど。いいな、それ」
ローズの言葉に、リヒトはははっと笑う。
普段机に向かってばかりのリヒトだから、ローズはてっきりリヒトはすぐに音を上げると思っていたが、リヒトは疲れたとかもう無理だとか、弱音を吐くそぶりは一切見せなかった。
「……リヒト様。一つお尋ねしても宜しいですか?」
だから、ローズはリヒトに尋ねた。
「リヒト様はどうして、フィンゴットにそこまで固執なさるのですか?」
きっとこの先に待っているのが『フィンゴット』でなければ、リヒトはここまで真剣にはならない。ローズにはそう思えた。
「……兄上が、レイザールと契約してるから」
リヒトの答えを聞いて、ローズはきゅっと唇を噛んだ。
そんなローズに気付いてか無意識か、リヒトは困ったような顔をして笑った。
「まあ、それもあるんだけど……。でもさ、他にも理由があるんだ」
「他に理由……?」
「兄上が倒れる前、俺兄上に、レイザールに触らせてもらったことがあるんだ。その時に、空からクリスタロスを見たことがあって」
リヒトはそう言うと、遠い昔のことを思い出すかのように天井を見上げた。
「レイザール、兄上に本当に懐いていてさ。なんとなく、その光景を見たときに、『いいなあ』って思ったんだ。それで――俺は、こうも思ったんだ」
リヒトは自分の手を胸に押し当てた。
「主人を待って石になった、なんて。そんな生き物の主人になれたら、それはどんなに幸せなことだろうって。絶対に裏切らない、そんな忠誠を、契約を交わせたら、どれだけ心強いだろうって……」
美しい白銀の天龍。
誰もが憧れる、もしそんな存在が、自分の味方になってくれるとしたら。
ろくな魔法を使えない自分でも、少しは自信を持てる気がして――……。
「……リヒト様」
「まあでも子どものときのことだし、兄上も、今の兄上より少し優しかった気がするし……。もしかしたら俺の願いから生まれた存在しない記憶かもしれないって、そう思うこともあるんだけどな。でもさ、やっぱり――青空を駆ける銀色のドラゴンなんて、実際この目で見ることが出来たなら、どれだけ綺麗なんだろうって……。想像したら、わくわくしないか?」
過去を思い少しだけ影を帯びる。
そんな表情《かお》をしていたリヒトは、心配そうに自分を見つめるローズに、明るい笑みを返した。
◇◆◇
「見てください! リヒト様、面白いものを見つけました!」
階段を下に下るにつれて、ローズのテンションは右肩上がりだった。
「ここを押すと壁から矢が出てきました!」
ローズはそう言うと、壁に設けられたボタンを押した。
突然現れた矢は、リヒトの目に届くすんでのところでローズの氷によって無力化される。
「この板を踏むと足下から氷結します!」
ローズが板を踏んだ瞬間、リヒトの足下は突然ピキッという音を立てたかと思うと凍り始めた。だがその氷は、ローズが出現させた炎によって溶けていく。
「続いてこのロープを引くとおそらく……」
「引かなくていい! 引かなくていいから! 何でお前はわざと罠に引っかかろうとするんだよ!」
「そこに……罠があるから?」
ローズは至極真面目な声で言った。
「理由になってない!」
リヒトは悲痛な声を上げた。魂からの言葉だった。
「はあ……」
広い足場に辿り着き、リヒトは頭を抱えた。
「ローズ……」
「はい」
地を這うように沈んだ声のリヒトに対し、ローズの声は弾んでいた。
まるで快晴の中、これからお気に入りのドレスを着てピクニックに行く少女のようだった。
「少し楽しんでるだろう」
「そ、そんなことはありません。リヒト様が行きたいとおっしゃるので、私は護衛を務めているだけです」
「……そういえば、昔はよく冒険譚を聞かせられたな」
リヒトの言葉に、ローズはギクリとして視線を逸らした。
冷静になると、いつもなら絶対に言わない言葉や行動を、リヒトに向けていたことに気付く。
それはどれも、『貴族の令嬢』としては、絶対に相応しくない行動だった。
「『剣聖』の孫娘なら、血は争えない――か」
先ほどまでとは違う、少しあきれたような、でも温かな声音。
子どもっぽい自分のことをリヒトが笑ったような気がして、ローズはなんだか照れくさくなってしまった。
「な……なんですか! 私に公爵令嬢らしくないと、文句でも仰りたいのですか? 私がお祖父様のお話をちゃんと聞いていなかったら、リヒト様は今頃天に召されていたかもしれないんですからね!」
「おいおい。不吉なことを言うなよ」
リヒトは思わずつっこんだ。
地下で、二人っきりで。少し間違えたら死んでしまうかも知れないような冒険の最中だというのに、照れたような、拗ねたような幼馴染に、不思議と心が和らぐのをリヒトは感じた。
「別に、からかってるとか、馬鹿にしてるとかそう言うんじゃないんだ。ただ俺のせいでこんな場所に付き合わせてしまったから……。でもローズが楽しいなら、よかったなって思って」
控えめに笑うリヒトを見て、ローズは思わず胸を押さえた。
なんだが心が落ち着かない。
「……さっさと先に進みますよ。遅れないでくださいね。リヒト様」
ローズはそう言うと、またリヒトより先に道を進んだ。
それからも、罠に対しローズが処理をするということが続いた。そしてリヒトは、度々自分たちを襲う罠に対し、ある仮説を立てた。
「ローズ。質問なんだが、今まで何属性の罠がでてきたか覚えてるか?」
リヒトはローズに尋ねた。
「火に水に氷、土の礫《つぶて》も飛んできました。全て無効化しましたが……。何か気になられることでも?」
ローズの答えを聞いて、リヒトは目を細めた。
「もしかして……全ての属性を持っていないと、通れない仕組みなのか……?」
ロイが用意した、『ハロウィン』の巨大迷路は、結果として全ての属性を持っていなければ最奥に辿り着くことは出来なかった。
リヒトにはこの場所が、それに似ているように思えた。
『王を選ぶ』
それはこの地下遺跡を突破するためには、全ての属性が必要、ということ絵お意味していたのかもしれない。
しかしローズが規格外なだけで、全属性に適性を持ち、且つ使える人間は歴史上でもそう存在しない。
つまり本来、この関門を突破するには、たくさんの人間の協力が必要となるのだとしたら――確かにその仕組みそのものが、『王』にしか突破できないようにもリヒトには思えた。
「でもまだ木属性の攻撃は来ていません。楽しみですね! リヒト様」
ローズは満面の笑みだった。
心なしか、リヒトはローズの肌がつやつや輝いて見えた。
「俺は全然楽しみじゃない!」
――この戦闘狂が!
リヒトは心の中で叫んだ。あの祖父にしてこの孫ありである。
二人がそんな話をしていると、階段を構成していた蔓が、突然にゅるりとリヒトの足に絡みついた。
「へ」
リヒトが情けない声を上げた瞬間――壁が壊れる音がして、土煙と共に毒々しい色をした花が現れた。
それは巨大な花の怪物だった。
リヒトの体は一瞬で蔦で拘束され、体は空中に吊り上げられる。
ぐわん、と蔓が大きく横にふれたかと思うと、壁が急接近してリヒトは悲鳴を上げた。
「ああああああっ!」
危うく壁で体を削られそうになり、リヒトは全力で壁を走った。
――やばいやばいやばいやばい! これ、完全に捕食する前の下ごしらえじゃないか!
花の怪物は、リヒトがダメージを負っていないことを、まるで疑問に思っているかのように体を揺らした。
『うーん……。おかしいなあ。せっかくお料理したつもりだったのに。まあいっか!
口の中に入るときに血が滴るくらいが美味しいけど、お腹に入れば何でも一緒だよねっ!』
リヒトには、そんな花の声が聞こえた気がした。
「おいおい嘘だろっ!?」
今度は壁ではなく、花は自分の口の方にリヒトの体を移動させた。
身動きのとれなくなったリヒトは、自分の体の下でぱかりと花が口を開いたのを見た。
ギザギザの鋭い歯先にはぐつぐつと、あらゆるものを溶かしてしまいそうな液体が沸騰しながらリヒトを待っていた。
「……っ!」
驚きと恐怖で声が出ない。
リヒトが死を覚悟して、ぎゅっと目を瞑った瞬間。
鋭い風が吹いたか年うと、空間を揺らすような、けたたましい怪物の声が響いた。
そして自分を縛っていた蔦が緩んだかと思うと、いつもより少しだけ焦りのこもった少女の声が、リヒトの頭上から降ってきた。
「大丈夫ですか? リヒト様」