「いい表情《かお》だ。騎士たるもの、守るべきものがなくてはな?」

 ローゼンティッヒが試合の場として指定したのは、騎士団の訓練場ではなく、ベアトリーチェの植物園の一角だった。
 ユーリは剣を握る手に力をこめて、ローゼンティッヒの背後を見た。
 ベアトリーチェは、ローゼンティッヒの後ろに隠れるように立っていた。ユーリの視線に気づいてローゼンティッヒは薄く笑うと、ベアトリーチェを隠すように一歩足を前に踏み出した。

「簡単に隠れる光なら、存在する意義はない。誰に認められない感情であったとしても、自分を貫く心こそが力になる。強い意志こそが、人に魔法という力を与える」

 剣を抜いて構える。ローゼンティッヒの大仰な物言いは、どこかロイと似ていた。

「君が俺に勝つことが出来れば、これは君に返そう。だが君が俺に負ければ、俺は君の全てを奪おう。覚悟はいいか? 『天剣』君」

 ユーリはこくりと頷くと、目を閉じて耳飾りに触れた。
 銀色の長い髪が風を纏い、柔らかく舞い上がる。
 その髪が肩に降りるより前に、ユーリは強く地面を蹴った。
 体は宙に浮かせたまま、ユーリは剣を突き出した。剣の切っ先は、真っ直ぐにローゼンティッヒに向けられている。

 雪のような白銀の髪から覗く金の瞳は、獲物を捉えた獅子のようにきらりと光る。
 一瞬で間合いを詰める剣。
 しかしそれを見て、ローゼンティッヒは静かに笑った。
 彼はすんでのところでユーリの剣を避けると、今度はローゼンティッヒがユーリに向かって剣を振り下ろした。
 銀糸のような綺麗な髪が、はらはらと地面に落ちる。

「……ッ!」

 ユーリは目を見開き首筋に触れ、ローゼンティッヒを睨んだ。あと少しずれていれば、確実に血管が切れていた。
 しかしローゼンティッヒはまるで埃でも払うかのように肩を叩いて、ユーリを見て目を細めた。

「駄目だ。それでは、俺には勝てない。君だって、本当はもうわかっているんだろう? 君の攻撃が、全て俺には視えているということを」

 ローゼンティッヒは自分の目尻を軽く指で叩いた。

「どうして光魔法を使おうとすらしない? 君はすでに知っているはずだ。この国の、騎士団長の『資質』を」

 王族であるリヒトが『火属性』を『王の資質』として求められるように。
 『光属性』――それがこの国における、騎士団長の『資質』。
 だが今のユーリに、その魔法は使えない。
 知っているだろうに、「使え」と口にするローゼンティッヒを、ユーリは唇を噛んで真っ直ぐに見つめた。

「『簡単に隠れる光なら、存在する意義はない』――貴方は、俺にそう言った。今の俺に、貴方を凌ぐ光魔法は使えない。でも俺は、『天剣』だ。あいつが俺にこの名を与えた。騎士団長の地位も、『今の俺』の地位はは、あいつに与えられたものに過ぎない」

 ユーリは、自分が光属性の魔法が使えるようになったとしても、ローゼンティッヒのように使いこなせるとは到底思えなかった。
 付け焼き刃ではどうせ、ローゼンティッヒには敵わない。

「今の俺には、貴方の求める言葉がわからない。答えなんて見つからない。でも俺はこの国の騎士団長として、周りに信頼される存在になりたいと思っている。未熟でも、相応しくないと言われても――今の俺では、貴方には勝てなくても。俺は、『騎士団長《こ》の座をかけて戦え』と言われるなら、逃げるつもりは毛頭ない!」

 ユーリはその瞬間、強く地面を蹴った。
 先程と同じ攻撃。
 しかしユーリの攻撃から、ローゼンティッヒは逃れることは出来なかった。
 未来が見えても避けられないほどに、ユーリの剣は速かった。
 ローゼンティッヒに動くことを許さず、ユーリはローゼンティッヒの喉元に剣を突きつけた。

「俺の……俺の勝ち、です。貴方が何者であろうと、今の騎士団長はこの俺だ!」
 
 しかし、ユーリが勝利を確信した瞬間――ローゼンティッヒは不敵な笑みを浮かべた。


「それはどうかな?」

 ローゼンティッヒはそう言うと、視線を上空へと向けた。
 ユーリも彼にならい――落下してくるモノに気付いて、ローゼンティッヒから距離をとろうとしたが、落ちてきた短剣は、ユーリの手を僅かにかすめた。

「……っ!」

 ユーリが怯んだその一瞬。ローゼンティッヒは隠していた新しい剣を取り出し距離を詰めると、ユーリの後ろに回って拘束した。

「君が本気で俺を殺そうとすれば、可能性はあったんだがな」
「……っ!」

 実のところ、『未来を予測する』力は、ユーリが思うほど戦闘中有用なものではなかった。
 光属性持ちが視る『未来』は、あり得るかもしれない可能性であって、僅かな誤差は生じてしまうし、加速しての戦闘スタイルは、風属性や強化属性が得意とする戦闘スタイルだからだ。

 だからこそローゼンティッヒは、昔から不意を突くことを得意としていた。
 それは、魔法の力でも何でもない。
 思考や行動パターンから、敵の行動を予測する戦闘スタイル。ベアトリーチェがロイから勝利したときにシャルルを使ったように、ローゼンティッヒは人の心理を利用して戦うのを得意としていた。

 ユーリが自分を追い詰めて油断することも、視線に誘導されてしまうことも、全てローゼンティッヒの予想通りだった。
 ユーリが勝利を確信する瞬間、逆手に取っての形勢逆転。
 ユーリが動きを止めれば、ローゼンティッヒは剣を下ろした。

「まあしかし、及第点だ」
 ローゼンティッヒはそう言うと、ユーリの手に赤い紐を置いた。

「君の優しさは君の短所であって、それでいて君の最も尊い武器だ。なるほど。俺が未来を予測したとしても、避けられないだけの速さか。これが、今の君の全力というわけだな」

「……どうしてこれを返してくださるんですか。俺は負けた。それにまだ、答えも出せていないのに」
 ユーリは震える声で訊ねた。

「君は本当に真面目だなあ。別にその事は咎めはしない。それに『今の君』にはまだ、光属性は使えない。元々、それが俺の視た未来だったからな。だいたい風属性に強い適性のある君にとって、この問いは難問なんだ。――君の心は、この世界のあらゆる生き物を生かす根幹になりうるものだ。けれど誰も、君の心《やさしさ》には気付かないかもしれない。そして君自身も、それが君の願いであることには気付くことは難しい。何故ならただそこに在ることが、周りを生かすことこそが、君という人間そのものだから」

 ユーリはローゼンティッヒの言葉を、今は完全には理解できなかった。

「だがもし、いつか君が俺の問いに答えを出せる日が来るなら、君はもっと強くなれることだろう。俺は君に、強くなって欲しかった。君に、行動して欲しかった。君の願いを、君の祈りを、君自身に自覚して欲しかった。今のベアトリーチェを支えられるのは、君だけだから」

「でも、俺は……。それに、ビーチェに支えられているのは俺の方で……」
 ユーリがそう小さな声で呟けば、ローゼンティッヒは静かに首を振った。

「いいや。君はアイツにとって、心の支えになっているはずだ。アイツはなかなか言葉にしないだろうが――……。それは、許してやってくれ。地属性のさがのようなものなんだ。まあ君が言うように、確かに『今の君』では俺には勝てない。今俺がこの国に戻れば、俺を騎士団長にと推す声は出るかもしれない。でもだからこそ俺は、君にはもっと強くなってもらいたいと思っている。『騎士団長』として、『ベアトリーチェの対』として」

 ローゼンティッヒはそう言うと、ユーリの肩に手をおいた。

「君には期待している。ユーリ・セルジェスカ。――この国を、ベアトリーチェを任せたぞ」

 その声は真っすぐで、その言葉に偽りがあるとはユーリは思えなかった。

「俺は帰る。――じゃあ、またな。『天剣君』」
 自分の意志だけ告げて、ローゼンティッヒはユーリ――そして、ベアトリーチェの前を歩いて背を向けた。

「ローゼンティッヒ!」

 ベアトリーチェが名を呼んでも、彼は足を止めようとはしなかった。
 ベアトリーチェは追いかけたい気持ちをぐっと抑えて、自分の相棒の方を振り返った。

「ユーリ」
 ベアトリーチェの声は、いつもとは違いどこか落ち着かない。

「貴方を、試すような真似をしてすいませんでした。でも、ユーリ。……私の天剣は、貴方だけです」

 珍しく直接的な表現をしたベアトリーチェは、ユーリの顔色を少しうかがうかのように上目遣いで見つめたあとに、くるりとユーリに背を向けた。

「ローゼンティッヒを送ってきます」

 ベアトリーチェはそう言うと、ユーリを一人残して走って去っていった。
 その横顔が、いつもより少し赤かった気がして――ユーリはベアトリーチェが見えなくなった曲がり角をしばらく見つめてから、自分の手に置かれた髪紐に視線を落とした。

 ベアトリーチェの自分に対する態度に、安堵している自分に気付く。でもだからこそ、ユーリはその心を、素直に受け入れることができなかった。

 ――勝てなかった。絶対に、負けたくないと思ったのに。今のクリスタロスの、騎士団長は俺なのに。

 かつてローズに負けたとき、ユーリは敗北を受け入れた。
 彼女が師の孫であり、師の力の片鱗のようなものを感じたから。
 そして精霊晶を使ったベアトリーチェに負けたときも、ユーリは心のどこかで、『仕方ない』と思っていた自分がいたようなに思えた。

 ようやく気付く。
 恵まれた能力。圧倒的な実力差。
 そんなものを感じたら、負けても仕方がないのだと、これまでの自分は、自分を諦めてしまっていたことに。
 そんな自分が、ユーリは悔しくて、腹立たしくてたまらなかった。

 ――俺が一番苛立っているのは、負けたせいなんかじゃない。そのことを本気で悔しいと思えなかった、これまでの俺自身にだ。
 
「俺は……。俺は、この国の……」

 言葉を続けようとして、ユーリは言葉を飲み込んだ。

『私の天剣は、貴方だけです』
 その時ユーリの頭の中に、ベアトリーチェの声が響いた。回りくどい言葉を好む相棒《にんげん》が、珍しく口にした言葉を思い出し、ユーリは手の中にあった髪紐を、いつの間にか強く握りしめていた。

「もっと……もっと、強くなりたい」

 『今の自分』では勝てなくても、『明日の自分』は、絶対に彼に勝てるように。
 この国の騎士団長として、相応しい自分になるために。
 
◇◆◇

「ローゼンティッヒ!」
「なんだ。俺を見送りに来たのか?」

 ベアトリーチェがローゼンティッヒに追いついたとき、彼はもう契約獣の背に乗り、クリスタロスを離れようとしていた。
 最後に自分と言葉をかわすこともなく、また行方をくらまそうとしていた男を前に、ベアトリーチェは怒気を孕んだ声で言った。

「どうしてあんな言い方をしたんですか。貴方最初から、ユーリからその座を奪うつもりなんてなかった。だから貴方は結局一度も、騎士団には行かなかった」

 ユーリは理由など考えもしなかっただろうが、ローゼンティッヒはクリスタロスの滞在期間中、ずっと植物園で過ごしていた。

 老騎士はベアトリーチェから話を聞いていたため知っていただけで、ローゼンティッヒが国に戻っていた事自体、殆どの騎士《にんげん》に知らされてはいなかった。
 ローゼンティッヒはユーリが不在の間、なにかあったときのための保険でしかなかった。

「まあそれでも、この国に何かあれば、手を貸そうとは思っていたさ」
「嘘吐き」
「そう拗ねるなよ。お前がどんなに俺に怒っても、天剣君の落ち込み具合は変わらないぞ」
「それは貴方のせいでしょう!? だいたい貴方が、私にあんな提案をするから……!」
「仕方ないだろ。これからの彼やこの国のためには、必要なことだったんだ」

 ローゼンティッヒはそう言うと、眉間にシワを作るベアトリーチェに、けらけらと笑いながら言った。

「まあいいじゃないか。俺の目的は果たされたわけだし」

 どごっ!
 ベアトリーチェは、そんなローゼンティッヒの腹に拳を叩き込んだ。

「お前、な……っ? 本気で殴るなよ……」
「ゆっくり反動をつけて殴りましたよ。避けなかったのは、私が怒っても仕方がないと、貴方自身が思っているからでしょう?」

 ローゼンティッヒは否定も肯定もしなかった。

「流石にやり過ぎです。ローズ様からの贈り物を奪うだなんて」
「大丈夫だろう。彼はそこまで弱くはないと思うぞ。それにほら、こんな言葉を聞いたことはないか? 『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』って」
「知識の話をしてあるのではありません!」

 ベアトリーチェは声を荒らげた。
 ローゼンティッヒはベアトリーチェが昔のように、悪い癖を出さないかと思わず少ししゃがんだが、何事もないことがわかると、ふうとため息を吐いた。

「そう怒るなよ。ベアトリーチェ。お前だって俺に賛成だったから、話に乗ったんだろ?」
「…………」

 ユーリに強くなって欲しかったのは本当だ。
 ベアトリーチェはそのために、ユーリにきつい訓練を課したこともある。
 だが賛成か反対かだなんて、そんな言葉で自分の感情を分類されるのは、ベアトリーチェは嫌だった。

「なあ、ベアトリーチェ」
「触らないでください! 貴方が、貴方が、ユーリのために必要だと言うから……!」

 ユーリとローゼンティッヒの首をすげ替えるつもりなんて、ベアトリーチェには最初からさらさらなかった。
 たとえ他の誰が望んで、もしそうなったときは――自分も一緒に、副団長の座から降りようとさえ思っていた。
 今の自分は、『ユーリ・セルジェスカ』の対なのだから。
 
「だいたい私が貴方から、グラナトゥムにいると聞かされた時の、私の気持ちが貴方にわかりますか!?」
 
 ベアトリーチェは、ローゼンティッヒに掴みかかった。
 ベアトリーチェはユーリに今よりもっと強くなってほしかった。自分にとっての対は彼だけだと、誰もがそう言うようになるように。
 ユーリが見目麗しいだけの、お飾りの騎士団長だと、他の人間から思われずに済むように。

 でも、幼い頃自分を支えてくれた――兄のようなローゼンティッヒに、クリスタロスに戻って欲しいという思いは本当だった。
 その願いが、叶わないことは知っていた。
 ローゼンティッヒの一番が、自分でないことをベアトリーチェは知っていたから。

 ローゼンティッヒにとっての『ビーチェ』の愛称《なまえ》は、ベアトリーチェ(じぶん)のものではなく、彼が愛するただ一人の女性のものだ。
 だからユーリと違って、ローゼンティッヒは『ビーチェ』とは呼んでくれない。
 彼の『ビーチェ(いちばん)』に、自分はなれない。
 この思いは、子どものような感情だ。ベアトリーチェだって、幼い執着だとわかっている。
 ……それでも。

「ずっと。ずっと……待っていたのに」

 やっと精霊病の薬を作り終わって、ジュテファー(おとうと)の病も治って、これからは自分の手のひらにあるものを、大事にして生きていけると思ったのに。
 これまで一番支えてくれた相手は自分との勝負にわざと負けて、自分一人にこの国を任せて去るだなんて――とんでもない責任放棄だと、当時は思ったものである。
 
『ほら、やっぱりお前はまだ、俺には勝てないだろ』

 なんでもいい。ユーリを負かしたように、ベアトリーチェはローゼンティッヒに負けたかった。そうして自分には、まだローゼンティッヒが必要だと、彼自身に口にしてほしかった。
 そうして『ほら、立て』だなんて言って、いつものように笑いかけてほしかった。

 けれど、ローゼンティッヒが騎士団長をやめた日。
 ローゼンティッヒはベアトリーチェと、全力で戦おうとはしなかった。

 才能あるレオンが目覚めず、第二王子のリヒトは『おちこぼれ』の評価のまま。
 現国王の甥にあたるローゼンティッヒが、難しい立場にあることはベアトリーチェも理解はしていた。
 でも、それでも……。自分のために、この国にとどまってくれると信じていたのに。
 ローゼンティッヒは結局、どこに行くとも告げず、ベアトリーチェを置いて行方をくらませた。

「だが、今のお前の相棒は彼だ。俺は昔から、誰かの場所を奪いがちだからな。だから俺は、この国にはいないほうがいいんだ」
「……」

 今ローゼンティッヒが騎士団に帰れば、ユーリの立場は危うくなる。
 そして騎士団で、ベアトリーチェに唯一勝てるローゼンティッヒは、かつてローズとの結婚を周囲に望まれていた男だ。

 十年間も眠り続けていたせいで、今はロイやベアトリーチェに劣るレオンも、ほとんど魔法を使えないリヒトも、王にいただくには弱い。
 ローゼンティッヒに炎属性はないが、今後騎士団に戻り才覚を再び示すことになれば、ローゼンティッヒを王にと望む声もまた、少なからず増えるかもしれない。

 彼の母は『光の巫女』。
 人の命をも救うことのできる、強い魔力を引き継ぐ赤い瞳。
 クリスタロス王国の王族の血を引く証である金の髪も、何もかもが彼の優位性を示すものとなる。

 昔から神殿は、炎属性よりも光属性を、王にと望む声が強かった。
 『光の祭典』に用いられる水晶を守る神殿は世界中どの国にもあり、神殿に勤める人間の中には、王を傀儡にして利を得ようとする者も存在する。
 立場ある人間の流動性がなく、長く力を持ち続けた組織は、やがてより大きな力を求めて腐敗する。
 アカリが光属性の力のみこそが全てだと神殿で教わっていたように、彼らは自らの属性に固執している。
 だからこそローゼンティッヒは、自分を次期国王にと擁立しようとする声が上がることを恐れた。

『光属性をお持ちのローゼンティッヒ様こそ、次代の王に相応しい』

 『光の巫女』は神殿にとって、彼らが力を誇示するための偶像だった。
 神殿の力をしめすための現人神《あらびとがみ》――だからこそ彼女が子を産むことに、かつて神殿は反対していた。
 しかしその子がいざ高い能力を持って生まれ、王子である二人の影が薄くなれば、神殿は彼を担ごうとした。

 ローゼンティッヒは、政争に巻き込ままれるのも、意思を奪われ誰かの傀儡にされるのも、その中で大事な人を傷付けられることもごめんだった。
 もしそうなれば、妻やこれから生まれる子供が危険に晒される可能性がないとは言えない。
 しかし正当な後継者であるレオンが目覚めたとしても、今の状態で、ローゼンティッヒは国に戻る気にはなれなかった。
 自分が自国に戻り問題になるのは、跡継ぎだけではない。この国の次代を担うべき人間にとって、自分の存在は邪魔になる。

 ユーリやリヒトが望んでも持ち得ない魔法《ちから》は、ローゼンティッヒにとっては足枷でもあった。
 力を持って生まれたことに、ローゼンティッヒは悲観したことは何度もある。けれどその力があったからこそ、得られたことが多かったことも事実だと、今の彼は思えた。
 所詮は硬貨の裏と表だ。どちらか自分に有益な方だけを、選んで得ることはできない。

「お前は俺の弟みたいなものだから。……だから、そんな顔をするな」
「……」
「お前の結婚式にはちゃんと戻ってくるから。俺の席は、空けておけよ?」
「招待状を送ります」
「生憎と、今俺宛の手紙は届かないようになっているんだ」

 輝石鳥を用いて手紙を送る場合、いくつか条件が必要となる。相手がそれを拒否する場合、手紙を届けることは出来ない。

「貴方はいつも、どうしてそうやって……っ!」

 身長の低いベアトリーチェが長身のローゼンティッヒを見上げようとしたとき――ベアトリーチェの視界は大きな手に阻まれて、相手の顔がよく見えなかった。

「ごめんな」
 ただその声はどこか、寂しそうにも彼には聞こえた。

「俺はまだ俺はこの国には帰れない。彼らが自分の立場を確立出来ないうちは、俺はこの国には戻らない」

『レオンかリヒトか。次期王が決まり、ユーリが騎士団長として、ローゼンティッヒと並ぶ実力を手に入れるまで――。自分は、クリスタロスには戻らない』

 暗にそう告げた兄貴分に、ベアトリーチェは唇を噛んだ。
 結局は自分に、目の前のこの人をつなぎとめる術《すべ》なんて無いのだ。
 ローゼンティッヒがベアトリーチェに、わざと敗北したあの日のように。

「でも、ベアトリーチェ。俺が騎士団に戻らなかったのは、お前のためでもあるんだぞ?」
 諭すような声で、ローゼンティッヒは言う。

「鏡のように、人の心を映す。お前は分かっていないかもしれないが、お前は彼が傷つけば、同じように傷つく人間であることを忘れるな」
「――私は、『貴方のため』という言葉が嫌いです」

 ベアトリーチェは、ローゼンティッヒに自分の顔が見えないよう、下を向いて呟いた。

「だってそれは、結局はいつも自分のためだ」
「ほんと可愛くないな。お前」
「……」

 俯くベアトリーチェの瞳が、僅かにきらめく。

「嘘だ」
 ローゼンティッヒは、ベアトリーチェの頭を軽く叩いた。

「お前はお前のままでいい。でもな。全部を抱え込んで、一人で解決しようとするな。たまにはちゃんといき抜きしろ。俺はお前が本音をぶつけられるくらい、彼がしっかりしてくれる日が来ることを願ってる」
「……『大人』のようなことを、言わないでください」
「残念だが、俺はもうとっくに大人だよ。そしてベアトリーチェ。それはお前も、俺と同じだ」
「……」

「幼い頃、『大人』はもっと強くて、かっこいいものだと思っていた。でもお前のいうように、人は簡単には変われない。大人も弱い。しかし社会はそれを許さない。周りは変化を求めるだろう。俺たちが子供だった時、大人が大人であることを望んだように、お前の周りの子供たちも、みんなお前に『大人の姿』を見るだろう」

 ローゼンティッヒの声は静かに、ベアトリーチェにふりそそぐ。

「忘れるな。お前が、しるべだ。お前が俺を望むなら、俺が戻ってこれるよう、お前が彼らを導いてみせろ」

 ローゼンティッヒはそう言うと、下を向いた幼子の目に浮かぶ、涙をそっと拭った。
 昔はよく泣いていた。大切な人を失っていたときだけでなく、泣き言も吐いていた。自分の力を制御できずに、力を発動させていたりもしていた。

 だから平静を保てるように、言葉遣いを改めるよう指導した。それがやがては、ベアトリーチェの為になるだろうと。
 ローゼンティッヒは、ベアトリーチェのことは大切に思っている。
 小さな子どものようなその姿は、きっも自分だけでなく、守ってやりたいと他人に思わせるには十分だろうと思う。クリスタロスに帰りたいと、思わないわけじゃない。でも今の自分には、他に守りたい人がいるのだ。
 誰に否定されたとしても、貫き通したい決意《おもい》がある。
 ならばまだ、自分はこの国には帰れない。

「期待しているぞ。ベアトリーチェ?」

 ローゼンティッヒはそれだけいうと、契約獣の背に載って、空高く舞上がった。

◇◆◇

「ベアトリーチェ」
「……メイジス」
「外は冷えます」

 契約獣が飛び立ったその場所で、一人とどまり続けていたベアトリーチェに、メイジスはそっと肩掛けを掛けた。

「ありがとうございます」
「――いえ。……ベアトリーチェ」
「はい?」
「貴方だって辛いときは、泣いてもいいんですよ?」

 メイジスの言葉に、ベアトリーチェは溜息を吐くかのように呟いた。

「……子供扱いしないでください」
「子供扱いではありません」
 メイジスは静かに首を振った。

「貴方の、友人としての言葉です」
「……」
「大丈夫。貴方が本当に望むものは、きっと貴方のもとへ返ってくる」

 メイジスの声は、今日も変わらず優しい。
 ただ自分を呼ぶ言葉は、ローゼンティッヒがいた頃よりも、自分と近くなったように彼は思った。
 ローゼンティッヒがこの国を去ってから、変わったもの。人との出会いによって、自分の成長によって、手にすることができたもの。
 それは確かに、ここにある。

「それにほら、昔から異世界では、いい子のところには白いひげに赤い帽子を被った老人が、毎年贈り物を届けてくれるそうですし」
「…………その『いい子』は、子どもだと聞いていますが?」
「あっ」

 ベアトリーチェの鋭い指摘に、メイジスは明らかな動揺を見せた。
 ベアトリーチェはじっと彼の様子を見つめると、沈黙の後にこう呟いた。

「――貴方なんか、嫌いです」
「べ、ベアトリーチェ!」

 ぷいと顔をそむけたベアトリーチェを見て、メイジスは慌てた。
 励ますつもりが傷つけてしまうなんて――動揺するメイジスを軽くあしらって、ベアトリーチェは横目でちらりと彼を見て、彼に隠れて小さく笑った。