1
 都市モンテロッソの市庁舎では、新しい密約と追加協定の調印が密かになされていた。
 具体的には、所在する辺境地方で、魔族進駐軍が制圧した元エルフ・ドワーフや人間の山村だった地域の実効支配を認めること。都市ボンデホンやリベリオ屯田兵村のような、反魔族強硬派傾向の地域や集団と連携しないこと。
 さらには、都市内や近郊で一定の条件下や期日に、魔族による人間狩りを黙認すること。

「こちらです、どうぞ」

「うむ」

 書類を手渡され、厳かに調印がなされる。
 それ自体は内密で、形式的なものではあったけれども、同意した政治家や有力者たちにとっては(親魔族勢力への)血判状の意味を持つだろう。
 おそらく一般の都市住民たちや一部軍部や今や少数派かもしれない真面目で反魔族的な警官どもからすれば、非難に値する内容だった。無力感であきらめつつも良い感情は持たれないだろうし、何かの拍子に怒りのリンチされかねない。
 だが、どのみち中央の有力な都やら他のあちこちも似たような有様だったから、迎合して同調しないと、かえって(腐敗勢力の)裏合意でハブられて売り飛ばされたり生贄にされかねない。たとえそれが身売りや切り売りであったとしても、一挙に丸ごと破滅するよりましだろうか。
 もちろん本人たちも裏金マネーを受け取って買収されているのだし、これまでの前歴からしても、今さら卑劣をやめてもどうせ非難は免れない居直りもある。彼らにとって、政治というのは正義や信念ではなく「利得ビジネス」なのだから、たまに立派なことを言って体裁を繕うのは建前のピエロ(道化)・パフォーマンスでしかない。
 次々に書類がテーブルに回され、各自が「ふむ」とか「うむ」とか重々しく呟いたり、白々しい咳払いなどしてサインを加えていく。

(なにが「ふむ」だ。こいつらやっていること、わかってるのか? 「私は魔族に利敵行為して裏切りしました」って意味の署名なんだが? ちょっと名前書いて本当にそれだけで金貰えるとか、そんな甘い話があるか?)

 その場の調停使節ゴンゴラゾ(中央の有利な都からきた腐敗有力者)に付き添っていた、ピエロの衣裳の魔術者アルチェットは内心で小馬鹿にして見物している。彼は魔術協会から護衛を兼ねて送り込まれた従者であった。

(こいつら、成り行き一つで自分らが民衆から吊し上げされて処刑される自覚あるのかねえ? こいつらの命なんかどうでもいいけど)

「何をニヤけているのかね」

「いえ、閣下。この度は万事がつつがなくて、ホッとしまして」

「ふむ、そうか。私も紛糾を恐れていたが、どこの都市も、このモンテロッソのように物わかりが良いと良いのだが」

 あえて「その(悪い意味での)物わかり良さが仕舞いに致命的なんだろうよ」とは、あえて言わないピエロ・アルチェット。自分は魔術協会の指示に従って特殊任務をこなすだけなのだし、それによって評価査定の向上や出世できるのだから「他のことは知らない」。
 もしもこの腐敗政治ディーラーのゴンゴラゾがいつの日か、卑劣の発覚と露見で死刑にでもなっても他人事である。どのみち今どきはそんな奴らばかりであるのだし、一定以上の地位ランクの間では衆愚への表向きにはともかく、仲間内では「暗黙の了解で相互承認」だ。
 たとえそんな世の中の狂った現状が人間社会そのものの破滅につながろうとも、アルチェットにとっては「いざとなったらそれはそれで構わない」。彼は母親が魔族の混血であるから、どうしても仕方がなければ「俺は魔族だから」とでも居直るだけであった。


2
 アルチェットの父親は数代続く魔術者で、好奇心と魔法能力の高い子供が欲しかった動機で、魔族の女を愛人に囲ったらしい。魔族といえども、人間との通婚は政略結婚や遊びと変態趣味で皆無というわけでない。
 その母親である魔族の女は、今も人間の二十代くらいの見た目で(角があって肌が青白いこと以外では、人間の基準でも美しい部類だろう)、父の別邸である屋敷の豪奢な地下座敷牢に囲われている。金メッキして宝石や綾で飾られた鉄格子のある部屋。人間の頭蓋骨に色を塗って模様を描いた手毬でお手玉するのを、小さな子供のときに檻の外から見ていた記憶がある。
 食事は人間の食べ物や「血のジャガイモ」「紫のハーブ」の他に、刑死者などの死体を調達・調理して与えている(たまにアルチェットもご一緒する)。世話役は「魔族寄り」とされるアビス(深淵)・エルフのメイドがいた。

「お帰りなさいませ」

 帰りを出迎えたアビス・エルフの小娘メイドはヒレのような耳。可愛らしいが少し魚じみた顔つきで、甘くやや生臭い。
 アルチェットにとっては、人間も、人間の魔術協会も、居場所や都合のいい道具でこそあれ本当に信用できるわけではない。むろんのこと、魔族にしたところで同じようなものかもしれないが。母親は魔族男爵(小魔王)の妾腹だそうだが、いつか殺して地位を簒奪してやるのが密かな野望だ。

「くんくん」

 メイド服のペーシャは、アルチェットの上着をかいがいしく脱がせ、胸元に顔を近寄せて臭いを嗅いで、それから納得顔で機嫌を直した。

「まっすぐ帰ってらしたのですね。何よりです。奥様もお待ちしております」

 とりすました態度だったが、本心は嫉妬と安心なのだろう。
 アルチェットは処世の都合上に、リベリオ屯田兵村に行くことがある。立場が複雑であるために手頃な各方面に媚びを売るような目的。そこに、半魔族のサキという令嬢がいる。
 サキに言わせると「無節操な人は嫌い」なのだそうで、他に親しい気に入った人間の男たちを何人も愛人にして、ボス・リーダー格のクリュエル(原人騎士と畏怖される猛者)にも本気で好意を寄せてお愛想しているのに、アルチェットにはかなり冷たい。だがペーシャは、どうやらサキを女としての競合者と見て密かなライバル心があるようで、リベリオ屯田兵村に出入りしたりサキの話題を出すと機嫌が悪くなるのだった。


3
 モンテロッソに近隣の都市ボンデホンから「依頼した援軍」がやってきたのは、その秘密の調印から一週間近く経ってからだった。防衛上での連携は魔族進駐軍が近くの地域に来る前から進めていた話だったので、急に断れば変心と裏での密約をボンデホン側から疑われるかもしれない。
 それに、いかに裏で密約・秘密協定して、魔族ギャングで(モンテロッソの有力者や支配層の一部以上の者たちが)利得を得ていたとしても、やはり魔族側の本格的な武装集団が近くにいるのは怖かった。何かのきっかけで襲いかかったり殺戮してくるかもしれないし、魔族側は都合次第での協定破りなど何とも思わないだろう。
 早い話が、自分たちは背信行為や無責任で利得を追及するけれど、それでも支配下の都市が壊滅させられたり自分たちが用済みになって魔族に殺されるのは嫌だから、「やる気のあるバカどもに負担を押し付けたい」という虫のいい話。

「な、なんなんだ? いったいなんだってんだ、お前らは! 貴様らのようなのを寄越して、どういうつもりなんだ?」

 通るわけがなかった。
 やってきた「ボンデホンからの援軍」はボロボロの格好をした浮浪者集団のような連中。頭目らしき壮年の男が恭しくお辞儀する。

「はい。低賃金でよろしいので、荷運びでも鉱石の選別作業でも、織機でもなんでもお申し付けくださいまし。こちらでお仕事を頂けると」

(こ、こいつら、食いつめた奴らや浮浪者だ!)

 思い起こせば、過去に呼び寄せたボンデホンからの護衛人員を、炭鉱労働に売り飛ばして壊滅させた前科が問われたらしい。意趣返しか。
 やむなく、有力者の一人が杖を振り回して怒鳴りつけて追い払おうとする。

「失せろ、ゴミども! 貴様らなどに用はない、荒野で草でも食ってこい!」

「そうですかい? こっちゃ、用事と恨みが大ありなんですがねえ」

 頭目格の男が、いきなり吠え立てる燕尾服の首を掴んで吊し上げる。背を屈めていたので気付かなかったが、直立すると逞しい長身だった。

「おい、あんまりふざけんなよ? これくらいやらんと、信用できん。おい、かかれ!」

 ジョナス大尉だった。
 怒りの号令で、ボロを脱ぎ捨てた兵士たちが襲いかかる。汚れた布マントの下には軽装の皮鎧に剣や斧を所持していた。同時にモンテロッソ内部の反魔族グループが決起する。瞬く間にクーデターであった。
 ジョナス大尉はモンテロッソの市参事会議員の協力者にため息しながら語った。

「おかげさまで、軍政せずに済んでホッとしておりますよ。ウチら防衛や治安維持はできても、行政や経済では頭が足りない。無理やり力ずくだけで統治しようとしたら、仕舞いに圧制と変わらなくなって本末転倒になりかねませんから。アハハ」

 後の目撃情報では「トラバサミの鉄仮面の悪魔のような男が~」という風聞もあったそうだ。「魔族でなく人間の魔術者だが、あいつはおとぎ話の魔界から来た悪魔に違いない」のだと。