「っはー。」
 おれ(竜也)は、晴れた胸を踊らせて渡り廊下を歩いていた。
 こんなに無事に解決するくらいなら、最初からこうしておけばよかったな。
 おれは、お前のおかげだよ、と"あいつ"に言いたくて、保健室に顔を出した。
「っ……」
 けれど、目の前に見えた光景はおれの記憶と重なった。
 その瞬間、おれは駆け出しそうになったその足を、その場で踏ん張った。
 今にも足が前に出そうになるけど……、
 ……もう二度と、あの過ちはおかせない。

『津、無視するなよ、俺にも話してくれよ!!!』

 全てを感情に任せてしまった日には戻れない。お前とも、ちゃんと向き合いたい。
 ならどうするかは……これしかないよな。

       * * *

「なーにしょげてんだよ、珍しいじゃん。」
 後ろから投げかけられた言葉。
 けれど、そんなものに構っている余裕なんて今の()にはなかった。
 振り返りもせず、ひたすらに背を向けて床の一点を見つめる。
 反応のしない僕を前に、静かに奴は隣の椅子に座った。
「……独りにしてくれ。」
 隣に座った奴に向けてぶっきらぼうに言い放つ。
 ……けれど、彼は言葉通りに体を動かそうとはしなかった。
「はいはい。今お前を独りにしたら、さらに状況が悪化することぐらい、習得済みだし」
 当たってるだろ、と言わんばかりに肩をすくめる彼。
 僕は、その時初めて顔を彼の方へ動かした。
 まるで、拗ねた子供の機嫌を取るかのように澄ました顔で肩を並べている彼の姿。
「……変わったんだな、竜也。」
「うん。あの時のおれとは違うんだ。あの時みたいに、お前の言う通りに独りにしてそのまま関係を絶たれるなんてもうごめんだね。」
「──────見捨てたのは……お前のくせに」
 小さい子のように、口をとんがらせて弱々しく呟いた。
 そんな僕を、竜也は目で瞠っていた。
「っ……。」
 珍しく弱気な僕を見て少々本気で驚いてるらしい。
「……だからもう下手な真似はしないんだよ。」
 切なそうな、淋しそうな、悲しい笑みを浮かべる竜也。
 そんな竜也は、僕の目の前に立ち上がった。そして、僕の肩へ手を伸ばす。
 頭高の高い竜也を見上げると、そこにはいつもの調子でニカ、っと笑う竜也の顔。
 ……けれど、今日はそんな調子のいい顔の中に、いつもとは違う温もりを感じた。
 差し伸べられた手を見つめる。
 ……本当にこいつは。
 僕は、手を握り気力のない体を起きあげて、竜也の胸の中にコツン、と額をくっつけた。竜也はそんな僕の体を快く支えてくれた。
 その間も、竜也は笑顔を絶やさなかった。
 そしてポケットから何やら取り出す。
「奢ってやるよ、大人しく肩借りろって!」
 小さな財布を掲げて、僕の霞んだ精神を吹き飛ばすかのように腕を引っ張る竜也。
 そのまま保健室から連れ出してくれた。
 
 ……何よりもこの孤独な空間から、連れ出してくれた。

       * * *

「ったく、なんで参加させられてる側が金払ってまで買わなきゃいけないんだよ、そう思わねーか?」
 そう言いながら、ガラガラガラと音を立てて自動販売機の中を落下していくペットボトルを取り出し、僕の目の前に差し出してきた。
 それを素直に僕は受け取る。
「……。学食の制限があるというのに、考えもせず食べまくるお前らが悪いんだ。」
 ジジジ、と音を立てて開かれたペットボトルは僕の口へ運ばれる。
 カラカラに乾いた体の中は、味のしない水によって全身に潤いが感じられた。
「おぉ、調子戻ってきたじゃん」
 ニカ、っと笑う竜也は、俺の隣にドスンと座った。
 ザラザラなコンクリートのレンガが、薄着越しに肌が擦れて痛い。
「っはー!やっぱりジュースは炭酸しか勝たないよなー!津は水で良かったのかよ。」
「あぁ。」
 どんどん、塞ぎ込んでいた視界が広がっていく。
 世界のピントがどんどんあってくる。
 あぁ、いつの間に雨上がっていたんだ。雲もすっかり風に乗って北の方へ向かったらしい。
 僕の真上には、オレンジ色に輝く空が広がっていた。

「……。」

 ……もう、全てを隠しきりながら、皮を被る余裕など、どこにもなかった。
 出口のない感情は、微かに開かれた口から溢れ出した。
「……僕は人間の心情を理解するのが苦手なんだ。人の気持ちが……よく分からない。」
「うん、わかってる。どれだけそれに苦しめられてたのかも。」
 とても暗い内容だと言うのに、竜也の返答は以外にもあっさりしていた。
 もう、聞き飽きて存じてる、と言わんばかりの顔だ。
「自分自身、どう思っているのか、どうしたいのかすら、よく分からないんだ。」
「うんうん」
 竜也は頷きながら僕の左肩に手を回してきた。
「答えが出てこない。それだけが。あと他は、考えたくもないほど溢れて来るって言うのに。」
 コツン、と竜也の肩に頭を乗せる。
「……けど、そんな曖昧な理由で……、曖昧な考えで……ッ、誰かを追い詰めるのだけは嫌なんだ……ッ、」
 僕は、左側に水入りのペットボトルを置いて、両手で顔を覆った。ぐしゃ、っと前髪を握る。
「だからって……、僕ももう独りになんか、なりたくッ、ないんだ……、」
 久しぶりにあげたしゃくりは、止まらなかった。声帯が震えて、上手く声も出ない。
 そんな僕を竜也は、とんとん、と左肩を優しく叩いて落ち着かせる。
 気力のない僕は、力なく竜也の肩を借りて喚くだけだった。
「そうか。……そうだよな。お前だって、寂しいもんな。悲しいもんな。もう、……独りは嫌だよな。」
 まるで、小さな子供を諭すかのように、背中を撫でたり、頭に手を乗せたりして、言葉を並べた。
「わかってる。そんな風にさせてしまったのも、おれの責任だって。津が苦しんでいる要因も元凶も、おれのせいだってわかってる。本当にごめんな。よく、ここまで独りで頑張ったよな。」
 その一言に、喉の奥がジーンと熱くなる。それは、脈を通って、鼻までやってきて、そのまま、瞳に溜まった。
 涙越しに見る世界は、ゴツゴツしてて、ぼやけてて、よく分からなかった。
 ……でも、あんなに不快感を感じていたあの涙が、悪い気分じゃ無かったのは確か。
「ほんと……。あの時、独りのままいかないでくれてありがとう。」
「ッ……。」
 その瞬間、塞いでいた何かがポロリと外れて、涙が溢れだしてきた。
 その腕の中で、僕はわんさか泣いた。久しぶりに泣いた。
 とうに枯れていた涙は、そんなことなくて、ただの思い込みだった。
 訳の分からないほど泣いて、親友の腕に包まれている自分が少し恥ずかしくて、それでも、心から安心できて。何年かぶりに、人の温もりを感じれた。
 
……僕は元々、霊感を持っていた。

 世間は霊感と聞くと霊が見えたり祓える、と想像する人も多いだろう。確かに、それを仕事に食べていく奴もいる。けれど、それ以上に霊感を持つ者は色々な苦労ことに悩まされることが多い。
 僕の場合、まぁまぁ強い霊感を持っていたため、霊は勿論。人のオーラ、空気、────本音のようなものが特に敏感だった。
 人混みが大の苦手で、三十人しかいないあの教室の中でも憂鬱で仕方がなかったんだ。
 だって、しょうがないだろう。
 何も意識していなくても、その人の心情が勝手に読み取れてしまったり、同級生の死期が見えたり、普段仲良い者同士の生き霊は、幽世(かくりよ)で生気を吸い取りあっていたりと、見たくもないもの全てが視界に入ってくるんだ。
 だから僕は、よく耳を塞ぐようになった。目を閉じるようになった。
 自らの心を……塞ぎ込むようになった。
 気づけば、不登校になって高等部進級からパタリと学校に行かなくなった。
 ……行けなくなった。そのストレスによって発症した起立性調節障害と付き合ってく日々に、学校までは追いつけなかった。
 ……そんな僕を、幼なじみだった竜也は見逃さなかったんだ。
 いつもいつも、しつこいほど家に押しかけてきたり、連絡してきたり。
 けれど、彼も彼なりに心優しい人間だ。人の幸福を自らの幸福のように喜んだり、人を優先して動く代表的な善人だ。
 単純で、純粋で、心優しい人間。
 ……だからこそだったんだろう。

"いつか必ず復帰するから、それまで関わってこないで。待ってて。"

 竜也が、僕を助けたいと一歩僕に詰め寄った日、その一言を告げたんだ。
 あれは、彼なりの優しさだったんだ。なのに僕は……、僕は……ッ。
 ……結局、竜也はそんな言葉を鵜呑みにして、僕たちの関係は崩れたんだ。
 復帰なんて……する訳無かったのだから。
 竜也はそんな自分を今、責めているが根本的に悪いのは僕自身だ。
 現実から、……()()()
 ────僕は逃げたんだ。
 
 一通り落ち着いた僕を見兼ねて、竜也は"流石にこの歳でこの状況は恥ずかしいだろー"とケラケラと笑いながら、僕の肩に置いていた手を退かす。
 その言葉にプチン、と来て僕もこいつから引き離れるようにドン、と体を押した。
 いってー、と言いながらも、竜也は笑っていた。
 ほんと……、こいつの悪い所でいい所だ。
 人が本気で悩んでいる間にも、こいつはいつもの調子で接してくる。
 ……でも、そのおかげで僕も落ち込まずに済んだ。
「この野郎、人が真剣に悩んでるってのに……ッ!!」
 キリッと睨んだ僕の目を見て、また一段と大袈裟に竜也は笑う。
「あっははは、お前、目ぇ真っ赤ー!」
 爆笑、爆笑、大爆笑。
 泣いて落ち込んでいるやつの前で、そんな態度あるか。
「まじで、一生お前に相談しない!!」
「ごめんってぇー!」
 ……内心こう思っていても、実は意外と竜也のことを必要としているんだよな、僕は。
 僕は、グラウンドの遠くを見つめて、こう告げた。
 一息つくと、次第に自分が置かれた状況下がはっきりとしてきた。
 けれど、答えはまだ見つからない。
「……お前はどうするんだよ。」
「はー?」
 竜也の口に接していたペットボトルの口がポロリと外れる。
 急な内容のない疑問に漠然としていた。
「……もし、自分にとって必要な何かが、目の前で崩れそうになったり、自分から離れていったりしたら。……お前ならどうする?」
「……。」
 竜也は数秒間沈黙すると、ペットボトルの蓋を閉めて、空を見上げた。
「それって、お前が悩んでた理由その物?」
 何も僕は答えなかった。足元の砂をじーっと見つめる。
 はは、っと笑って竜也は自分の答えを探した。
 その時。僕から見た彼は、今迄の中で一段と輝いているように見えた。
「そうだなー。お前の考えている()()()()()がなんなのかは分からないけど、……。例えば、僕の大切な人が、

 苦しんで独りで抱え込んだり、
    重圧感に押し潰されそうになってたら、

 ……自分を犠牲にしてでもおれは助けるなー。」
 犠牲にしても……。
 その一言は、僕には到底理解しきれないことだった。
 昔から、竜也はそうだよな。
「そのせいで、自分が死ぬとしても?」
「っ……。」
 竜也は、ポツリと投げ捨てた僕を見た。
 次第に、っふ、と笑ってまた言葉を並べた。
「そうだな。自分が死ぬとしても、大切な人が生きててくれるんなら、おれは構わないよ。」
「は……?死ぬんだぞ?大切な人とも、金輪際会えなくなるって言うのに……。」
 僕は、少し不満を持った顔で竜也を覗き込んだ。
「っ……、お前の考えは、いつまでも理解できない……。」
 そしてまた、そっぽを向いた。
 死を恐れるのは当たり前で、人間の本能だと言うのに……。
「うーん、そうだなぁー……。」
 人差し指を顎において、うーんと考え込む竜也。そんな竜也を僕は見た。
「……実際におれは、()()()()に救われたし。」
「そいつら?」
「例えば、」
 そこまで言うと、顎に置いていた人差し指を、僕の胸へ突き立てた。
 ニカ、っと笑う竜也の顔で視界がいっぱいになる。
「お前とか!!」
「ッ……。」
 なんでそうなるんだよ。
「僕はそんなことしてない。ましてや、自分を犠牲にさせるほど、お前を助けた事ないけど。」
「意外と、知らないところで救ってるもんだよ。無意識に、自分より他人を優先してんの、人間ってのは。」
「ふーん。」
 そこまで言うと、竜也はその場にタタッと立ち上がった。
「まぁ!おれは、そんな大切な何かが無くなるなんて、ありえないけどな!」
「……?」
「おれは、大切な()()を、()()を守りたい。……あの時、守れなかった自分が憎い。避け続けた自分に腹が立つ。……だから、俺は決めたんだ。絶対に大切なものは手放さない。絶対この手で守ってみせる。」
 綺麗なオレンジ色の空一面に響き渡るような透き通った声は、僕の頭を揺らした。
 大切な……、僕の()()
 その時、初めて自分が今、どう思っているのか知りたいと思った。
 今迄は、考えても無駄だと、突き放していたと言うのに。わかってはいないけれど、知りたい、って。思えた気がした。
 ……そして、僕は揺らいでいた不安定な意思を整えた。
 そうか、わかった。そんな僕にできるやるべきことは、一つ限りだ。
 今自分が求めている事。それに必要なピース。……集めに行くか。
「ありがとう。」
「え?」
「お前のおかげで決心が着いたよ。」
 揺らぐ心はもう許されない。
 胸元にある服をぎゅっと力強く握る。
 シワがそこに集中する。
「──────この物語に終止符を打とう。その覚悟ができたよ。」
 何も無い砂をジリジリと睨みつける。
 もう、僕は揺るがない。
 もう、僕は逃げない。
 もう、僕は覚悟を固めたんだ。
 守る為なら何でもする。なんでも、……─────利用してみせる。
 それが、僕のやり方だ。
「竜也。」
 僕の呼び掛けに、竜也は事の雰囲気を悟ったのか、真剣な眼差しになった。

例えそれが…──────自分の壊れる原因になろうとも。

()() ()()を、ここに呼んできてくれ。」
「……。はいはい。りょーかい。」
 そう言って、平然を語る竜也はそそくさと夏音を呼びに行った。
 ……もう僕は怖くない。もう僕は……、

─────独りじゃない。

 ラストの物語を進展させようじゃないか。
 ……高瀬 恵舞ッ。