「あ、またなくなってる」
ペンケースの中身を見て、私は溜息を吐いた。お気に入りのカラーペンが一本、なくなっている。
高校三年生。新年度になって、私は何故か身の回りの物がよくなくなる現象に悩まされていた。
最初はいじめかな? と思ったが、物がなくなるだけで、それ以外の被害は全くない。いじめならば、なくしたものはトイレやゴミ箱などから出てくるのが定石だ。私が必死で探す姿を見るため、隠れて眺めたりもするだろう。しかし、そうした様子は一度もなかった。
単純な窃盗と考えても、それなら現金を持っていくのが一番効率が良い。今までなくなったものは、ペン、シュシュ、キーホルダーなど、小物が中心で、大した価値のあるものじゃない。ただ、どれも私のお気に入りだったのでショックは大きい。
「クラスに泥棒がいるなんて、嫌だな」
ぽつりと零して、私は口を塞いだ。いけない。こんなの聞かれたら大事になる。ただでさえ、受験生のクラスメイト達はぴりぴりしている。
気分は悪いけど、なくなってどうしても困るほどのものじゃない。愉快犯ならその内収まるだろう、と私は口を噤んだ。
家に帰ると、母親が玄関まで迎えに出てきた。
「ただいま」
「おかえり。今日小テストだったのよね? 見せて」
「……はい」
成績にうるさい母は、毎回テストの結果や模試の結果などを逐一確認する。見せて困るほどの点数ではなかったので、おとなしく渡す。
「うん。まぁまぁね。でもこれくらいの内容ならもうちょっととれたんじゃない?」
「そうだね、頑張るよ。夕飯まで勉強するから」
「できたら声かけるわね」
二階に上がって自室に入り、ベッドに倒れ込む。勉強。勉強。勉強。
仕方ない。受験生だ。今だけ、今だけ。
暗い部屋で、目を閉じた。
翌日。また、と私は顔を顰めた。パスケースに貼っていたステッカーがない。無地で他の人と混ざるから、目印に貼っておいたのに。不思議の国のアリスをモチーフにしたウサギのステッカーは、なかなかユニークで一目で気に入って買ったものだった。
いい加減にしてほしいな、とイライラしながら、私はその日の授業を受けた。
帰りの時間になって、教室から出ていくクラスメイトの鞄に、ふと目が留まった。鞄に下がったパスケースには、ウサギのステッカーが貼られていた。
あれ、私のじゃない?
私は目を丸くして、それでもすぐに声はかけずに、彼女が校門を出るまで後をつけた。なるべく騒ぎにならない場所で聞こうと思ったからだ。
「ねぇ、ちょっと」
声をかけられた彼女は、振り向いて私の姿を確認した途端、明らかに警戒した様子で鞄を抱えた。やましいことがないなら、こんな反応はしないだろう。私は眉を寄せて、きつい口調で問い詰めた。
「そのパスケースに貼ってあるステッカー、見せてくれない?」
「……嫌」
「なんで。見せるだけなら、いいでしょ」
「嫌だよ、あんたなんかに!」
「何それ。本当は、見せられないんでしょう。私から盗ったやつだから」
「はぁ!?」
「違うっていうなら、ちゃんと見せてよ!」
ぐい、と彼女の手を引くと、手首にシュシュが巻かれていた。
あ、これ。
私は息を呑んだ。このシュシュも、なくしたと思ってたやつ。
「これも盗ったの?」
シュシュが見えるように、彼女の目の前まで手首を持ってくる。図星をさされたからか、彼女の顔は青ざめていた。
「……もう!! なんなのよ、なんなの!! いい加減にしてよ!!」
半ば泣き叫ぶようにして、掴まれた手を振りほどき、彼女は走り去っていった。
何あれ。被害者みたいな顔して。泥棒のくせに。
私は彼女の背を睨みつけていた。
次の日、彼女が登校したらとっちめてやろうと思っていたのに、彼女は来なかった。次の日も、その次の日も。彼女は、ずっと学校に来なかった。
「早瀬―、ちょっといいか」
担任の先生に呼ばれて、私は生徒指導室へ向かった。
「県立大学への推薦な、綿谷で決まってたんだけど、あいつ今学校来てないだろ。出席日数が足りなくて、推薦取り消しになりそうなんだ」
綿谷、というのは、たしか私の物を盗んでいたあのクラスメイトの名前だ。彼女の志望校は、どうやら私と同じだったらしい。
「推薦枠は一枠だから、あいつがなくなると、本来の次点は早瀬なんだ。お前も、それは分かってたろ」
綿谷とやらのことは知らないが、私が次点だということは知っていた。つまり、私は繰り上がりで推薦を貰えるのだろうか。期待に目が輝く。
「ただ、お前の場合は……素行に問題がある。だから推薦は出せない。それを、今日はっきり伝えておこうと思って」
「は?」
思わず声が出た。なんで? 次点は私なんでしょ。素行に問題って、なんで?
自分で言うのもなんだが、私は優等生タイプだ。問題も起こさないし、協調性はあるし、行事にだって真面目に参加してきた。それなのに。
「いったい、私のどこに問題があるんですか」
「綿谷を、不登校に追い込んだからだ」
「綿谷さんを……? 知りません、私は彼女の名前だって、今聞いて思い出したくらいなんですよ」
「……また、お前の中では、そういうことになってるんだな」
担任の先生は、心底疲れたように頭をかきむしった。
「お前は、前々から綿谷の私物を盗んでは、自分の物だと言い張ってただろ。それを綿谷に返しても、お前はまた綿谷を泥棒扱いして、勝手に持っていく。繰り返す度にあいつはノイローゼになって、ついに学校に来られなくなった」
「なんですか、それ。綿谷さんの嘘ですよ。彼女の方が、私の物を勝手に」
「最初はお前が、綿谷から推薦を奪いたいがための嫌がらせだと思っていた。でも本気で自分の物だと思い込んでる節があって、保健の先生とも相談して、少し様子を見ることにしたんだ。お前の方も受験ノイローゼなんじゃないかって。金を盗んだり、暴力を振るったわけじゃないから、ちゃんと病院に行ってカウンセリングを受けて、反省するようなら問題にする気はなかったんだ。でもいつまでたっても病院には行かないし、お前の被害妄想も治らない。正直これ以上は、学校じゃ手に負えん」
担任の言っていることが理解できない。ノイローゼ? そんなの、綿谷とやらが勝手に言っているだけだろう。被害者の私が、なんでこんな目に遭わないといけないの。
「とにかく、推薦は出さない。それから、もう一度同じことが起きたら、停学処分にする。これは、お前の父親にも連絡しておいた」
「……お父さん? なんで」
「お前の母親は話にならん。何度言っても、娘がおかしいわけがないだの、内申には響かないかだの、ヒステリックでこっちの話を聞く気がない。仕方ないから父親の勤め先に電話したんだ。母親にもカウンセリングを受けさせた方がいいと伝えておいた」
父親の単語が出てから、手を震わせる私に気づかずに、担任は続けた。
「せめて父親がまともな人で良かったよ。電話口で謝ってたぞ。腰の低い良い人だったな。お前も父親を見習って、ちゃんとやり直すんだぞ。まだ若いんだから」
諭すようにそう言うと、タイミングよくチャイムの音が鳴り響いた。
「お、チャイム鳴ったな。俺は戻るから。お前は、少し休んでてもいいぞ」
俯く私に落ち込んでいると思ったのか、肩を叩いて、担任は生徒指導室を出ていった。
担任は知らない。何故母がああなってしまったのか。何故私がいい大学に行こうとしているのか。父が家でどんな人なのか。
知らない、くせに。
ぱちん、と何かが消えた。
ぼうっとした頭で、私はあたりを見回した。なんだったっけ。ああ、そうだ。体調が悪いから、早退していいって話だったっけ。
帰ろう、と私はドアを開けて生徒指導室を出て、下駄箱で靴を履き替えて、帰り道を歩く。
「今日の夕飯何かなぁ」
ちょっと気分が悪いから、消化のいいものがいいな。鍋にしてもらおうかな。お母さんの鍋、美味しいし。
お父さんも今日は早く帰ってこれるはずだから、一緒に食べよう。推薦取れたって言ったら、喜んでくれるかな。
早く帰りたいな。
私の、綿谷家に。
ペンケースの中身を見て、私は溜息を吐いた。お気に入りのカラーペンが一本、なくなっている。
高校三年生。新年度になって、私は何故か身の回りの物がよくなくなる現象に悩まされていた。
最初はいじめかな? と思ったが、物がなくなるだけで、それ以外の被害は全くない。いじめならば、なくしたものはトイレやゴミ箱などから出てくるのが定石だ。私が必死で探す姿を見るため、隠れて眺めたりもするだろう。しかし、そうした様子は一度もなかった。
単純な窃盗と考えても、それなら現金を持っていくのが一番効率が良い。今までなくなったものは、ペン、シュシュ、キーホルダーなど、小物が中心で、大した価値のあるものじゃない。ただ、どれも私のお気に入りだったのでショックは大きい。
「クラスに泥棒がいるなんて、嫌だな」
ぽつりと零して、私は口を塞いだ。いけない。こんなの聞かれたら大事になる。ただでさえ、受験生のクラスメイト達はぴりぴりしている。
気分は悪いけど、なくなってどうしても困るほどのものじゃない。愉快犯ならその内収まるだろう、と私は口を噤んだ。
家に帰ると、母親が玄関まで迎えに出てきた。
「ただいま」
「おかえり。今日小テストだったのよね? 見せて」
「……はい」
成績にうるさい母は、毎回テストの結果や模試の結果などを逐一確認する。見せて困るほどの点数ではなかったので、おとなしく渡す。
「うん。まぁまぁね。でもこれくらいの内容ならもうちょっととれたんじゃない?」
「そうだね、頑張るよ。夕飯まで勉強するから」
「できたら声かけるわね」
二階に上がって自室に入り、ベッドに倒れ込む。勉強。勉強。勉強。
仕方ない。受験生だ。今だけ、今だけ。
暗い部屋で、目を閉じた。
翌日。また、と私は顔を顰めた。パスケースに貼っていたステッカーがない。無地で他の人と混ざるから、目印に貼っておいたのに。不思議の国のアリスをモチーフにしたウサギのステッカーは、なかなかユニークで一目で気に入って買ったものだった。
いい加減にしてほしいな、とイライラしながら、私はその日の授業を受けた。
帰りの時間になって、教室から出ていくクラスメイトの鞄に、ふと目が留まった。鞄に下がったパスケースには、ウサギのステッカーが貼られていた。
あれ、私のじゃない?
私は目を丸くして、それでもすぐに声はかけずに、彼女が校門を出るまで後をつけた。なるべく騒ぎにならない場所で聞こうと思ったからだ。
「ねぇ、ちょっと」
声をかけられた彼女は、振り向いて私の姿を確認した途端、明らかに警戒した様子で鞄を抱えた。やましいことがないなら、こんな反応はしないだろう。私は眉を寄せて、きつい口調で問い詰めた。
「そのパスケースに貼ってあるステッカー、見せてくれない?」
「……嫌」
「なんで。見せるだけなら、いいでしょ」
「嫌だよ、あんたなんかに!」
「何それ。本当は、見せられないんでしょう。私から盗ったやつだから」
「はぁ!?」
「違うっていうなら、ちゃんと見せてよ!」
ぐい、と彼女の手を引くと、手首にシュシュが巻かれていた。
あ、これ。
私は息を呑んだ。このシュシュも、なくしたと思ってたやつ。
「これも盗ったの?」
シュシュが見えるように、彼女の目の前まで手首を持ってくる。図星をさされたからか、彼女の顔は青ざめていた。
「……もう!! なんなのよ、なんなの!! いい加減にしてよ!!」
半ば泣き叫ぶようにして、掴まれた手を振りほどき、彼女は走り去っていった。
何あれ。被害者みたいな顔して。泥棒のくせに。
私は彼女の背を睨みつけていた。
次の日、彼女が登校したらとっちめてやろうと思っていたのに、彼女は来なかった。次の日も、その次の日も。彼女は、ずっと学校に来なかった。
「早瀬―、ちょっといいか」
担任の先生に呼ばれて、私は生徒指導室へ向かった。
「県立大学への推薦な、綿谷で決まってたんだけど、あいつ今学校来てないだろ。出席日数が足りなくて、推薦取り消しになりそうなんだ」
綿谷、というのは、たしか私の物を盗んでいたあのクラスメイトの名前だ。彼女の志望校は、どうやら私と同じだったらしい。
「推薦枠は一枠だから、あいつがなくなると、本来の次点は早瀬なんだ。お前も、それは分かってたろ」
綿谷とやらのことは知らないが、私が次点だということは知っていた。つまり、私は繰り上がりで推薦を貰えるのだろうか。期待に目が輝く。
「ただ、お前の場合は……素行に問題がある。だから推薦は出せない。それを、今日はっきり伝えておこうと思って」
「は?」
思わず声が出た。なんで? 次点は私なんでしょ。素行に問題って、なんで?
自分で言うのもなんだが、私は優等生タイプだ。問題も起こさないし、協調性はあるし、行事にだって真面目に参加してきた。それなのに。
「いったい、私のどこに問題があるんですか」
「綿谷を、不登校に追い込んだからだ」
「綿谷さんを……? 知りません、私は彼女の名前だって、今聞いて思い出したくらいなんですよ」
「……また、お前の中では、そういうことになってるんだな」
担任の先生は、心底疲れたように頭をかきむしった。
「お前は、前々から綿谷の私物を盗んでは、自分の物だと言い張ってただろ。それを綿谷に返しても、お前はまた綿谷を泥棒扱いして、勝手に持っていく。繰り返す度にあいつはノイローゼになって、ついに学校に来られなくなった」
「なんですか、それ。綿谷さんの嘘ですよ。彼女の方が、私の物を勝手に」
「最初はお前が、綿谷から推薦を奪いたいがための嫌がらせだと思っていた。でも本気で自分の物だと思い込んでる節があって、保健の先生とも相談して、少し様子を見ることにしたんだ。お前の方も受験ノイローゼなんじゃないかって。金を盗んだり、暴力を振るったわけじゃないから、ちゃんと病院に行ってカウンセリングを受けて、反省するようなら問題にする気はなかったんだ。でもいつまでたっても病院には行かないし、お前の被害妄想も治らない。正直これ以上は、学校じゃ手に負えん」
担任の言っていることが理解できない。ノイローゼ? そんなの、綿谷とやらが勝手に言っているだけだろう。被害者の私が、なんでこんな目に遭わないといけないの。
「とにかく、推薦は出さない。それから、もう一度同じことが起きたら、停学処分にする。これは、お前の父親にも連絡しておいた」
「……お父さん? なんで」
「お前の母親は話にならん。何度言っても、娘がおかしいわけがないだの、内申には響かないかだの、ヒステリックでこっちの話を聞く気がない。仕方ないから父親の勤め先に電話したんだ。母親にもカウンセリングを受けさせた方がいいと伝えておいた」
父親の単語が出てから、手を震わせる私に気づかずに、担任は続けた。
「せめて父親がまともな人で良かったよ。電話口で謝ってたぞ。腰の低い良い人だったな。お前も父親を見習って、ちゃんとやり直すんだぞ。まだ若いんだから」
諭すようにそう言うと、タイミングよくチャイムの音が鳴り響いた。
「お、チャイム鳴ったな。俺は戻るから。お前は、少し休んでてもいいぞ」
俯く私に落ち込んでいると思ったのか、肩を叩いて、担任は生徒指導室を出ていった。
担任は知らない。何故母がああなってしまったのか。何故私がいい大学に行こうとしているのか。父が家でどんな人なのか。
知らない、くせに。
ぱちん、と何かが消えた。
ぼうっとした頭で、私はあたりを見回した。なんだったっけ。ああ、そうだ。体調が悪いから、早退していいって話だったっけ。
帰ろう、と私はドアを開けて生徒指導室を出て、下駄箱で靴を履き替えて、帰り道を歩く。
「今日の夕飯何かなぁ」
ちょっと気分が悪いから、消化のいいものがいいな。鍋にしてもらおうかな。お母さんの鍋、美味しいし。
お父さんも今日は早く帰ってこれるはずだから、一緒に食べよう。推薦取れたって言ったら、喜んでくれるかな。
早く帰りたいな。
私の、綿谷家に。