2018年、1月30日。
手袋をして擦り合わせた手が指先からまたすぐに固まっていくんじゃないかというぐらい、今年の冬は寒かった。毎年この時期は寒いのだし、今年だっていつもと同じぐらいの気温なのに、どうしてだろう。
俺たち高校三年生にとって、この時期は人生で一番息苦しい時だ。センター試験を終え、いよいよ二次試験に向けてラストスパートをかける。国公立大学志望の俺は、2月下旬の二次試験が終わるまで気を抜くことはできない。
「実里、お疲れ様」
昨日、実里は志望していた私立大学の一般入試を終えた。センター試験後から自由登校になっているので、実里は今日来ないかと思っていた。でも、放課後俺の教室に姿を現した。長い戦いを終えてすっきりとした表情を見て、「ああ、終わったんだな。上手くいったんだな」と分かった。
「ありがとう。仁くんはあと少しだね」
「ああ。もうちょっとだけ、俺も頑張るよ」
実里はたぶん、明日からは学校に来ない。入試を終えた者が登校していると、なんとなくまだ入試の終わっていないメンバーの邪魔になる気がするのだ。登校するのはまったく問題ないのだが、暗黙の了解で私立組は入試後学校には来なくなる。
「今日は、どうして来たの」
「仁くんに激励を、と思って」
「そっか」
実里は最後に、俺を励ましに来たのだ。この寒い中、マフラーも手袋も忘れたのか、校舎の中にいるのに身体がガチガチと震えている。俺は自分の首に巻いていたマフラーと、はめていた手袋を外して彼女に渡した。
「そんな、悪いよ。受験生なのに風邪引いちゃう」
「一日ぐらい平気だって。ほら」
「……ありがとう」
実里は申し訳なさげにマフラーと手袋を受け取ってくれた。
残り1ヶ月。3月になれば俺たちは卒業する。実里と交際を初めて約一年半、長いようで短い時間だった。俺の青春のすべてが詰まった、良い時間だった。
「なあ、お願いがあるんだけど」
下駄箱で実里が靴を脱ごうとしていた時、俺はふと立ち止まって彼女に聞いた。
「なに?」
澄んだ瞳をこちらに向け、首を傾ける実里。実里の目は、出会った時からずっとまっすぐに俺を見てくれていた。嘘のない、素直な気持ちがそのまなざしから溢れ出ている。
「タイムカプセルを埋めたいんだ」
「タイム、カプセル……いいね」
小学生じみた俺の提案を、彼女は快く受け入れてくれた。受験前に、なんでこんなことをしているんだろうと我ながら呆れるが、その時の俺には必要なことだった。
何の価値もないと思っていた高校生活が、実里と出会ったおかげで鮮やかに色づいていって。
今この瞬間が去ってしまうことが、とても恐ろしく、寂しい。
だから、タイムカプセルだなんて古典的な方法を使ってでも、今の自分の想いを閉じ込めておきたかった。時間はみんなに平等に進んでいって、俺たちもいつか皺くちゃのおじいちゃん、おばあちゃんになる。不可逆的な時の流れに、少しでもあらがいたかった。
翌日、放課後に校門で彼女を待っていると、制服姿の彼女が片手を上げてこちらにやって来た。
「遅くなってごめんね」
「いや大丈夫。てかなんで制服?」
「まだ私、この学校の生徒だから」
実里は今日から学校には来ていないので、別に私服でも良かったのだけれど、彼女には彼女なりの正義というものがあるのだろう。真冬の制服はどんなに中に着込んでいても寒く、特に女子はスカートなんて大丈夫だろうかと毎年心配になる。
「何持って来たの?」
「秘密」
相変わらず冬の日の朝の空気みたいに澄んだ瞳をした彼女が無邪気に訊いてきた。恥ずかしかった俺は、タイムカプセルで何を埋めるのか、言うことができなかった。
「じゃあ私も秘密にしておこっと」
実里が楽しそうに微笑んだ。鼻の頭が赤く染まっている。よく見れば耳も、頬も同じように赤かった。きっと俺の顔も、寒さやら恥ずかしさやらで色づいているのだろう。
「どこに埋めるのかは決めてるの?」
「ああ。校庭に松の木があるだろ。あそこなら何年経っても目印になるだろうし、ほとんど人も来
ないからいいかなって」
「なるほど。松の木ね。なんだか縁起が良さそう」
それならばきみの名前だって。
俺は最初から、実里のことを幸福の象徴のようだと思ってきたよ。
そんなポエマーらしいことはさすがに口には出せず、鼻歌を歌う彼女の隣で、5年後、10年後の未来を想像してみた。もしもこの先、ずっと彼女が俺の隣にいてくれたら。どんなにか幸せなことだろうと思う。たぶん、燃えるようなドキドキ感や波乱などはない、穏やかな日常が待っているのだろう。それでいい。俺たちの幸福が永遠に続くのなら。小さな灯みたいに心を温めてくれる。たった一つの炎を、この先ずっと優しく燃やし続けたい。
松の木の下までやって来ると、持ってきたスコップで穴を掘り始めた。あまり浅すぎると何かの拍子に出てきてしまうかもしれないし、深すぎると掘り返すのに苦労する。ちょうどいい塩梅の穴を掘って、俺は持ってきた物を鞄から取り出した。母親が職場の人間からもらってきたお菓子の缶に入れてある。きっと何年も俺の今の想いを閉じ込めておいてくれるだろう。
「実里も、この中に入れる?」
「そうだね」
実里が用意したのは一枚の封筒だった。手紙だろうか。彼女の封筒を手に取り、缶の中に一緒に入れた。
「これ、いつ開けるつもり?」
ふと思い出したかのように実里が問う。そうだ、いつ開けるのか、俺は考えていなかった。ただタイムカプセルを埋めてみたいという一心でここに来たのだ。
「そうだな……明確には決めずに、掘り返したいと思ったタイミングでまた来るのはどう?」
「なにそれ、変なの。どっちも忘れてたらどうなるの」
「その時はそういう運命だったって思うしかないよ。てか、忘れてたらそもそも何も思わないし」
「ええ〜なんかロマンがないような……」
唇を尖らせる実里がおかしくて可愛らしくて、俺は思わずしゃがんだ姿勢のまま彼女を抱きしめた。
「わ、何するの」
「ごめん。急に、好きだなって思って」
「今? 私だって、ずっと好きだよ」
もう長いこと恋人同士なのに、どうして今更こんなに気持ちが溢れ出すのか、俺は自分でも不思議だった。相手が実里でなかったら、ここまで強い気持ちは育たなかったかもしれない。
実里の髪の毛から、爽やかなシャンプーの香りがする。受験とか将来とか、たった18年しか生きていない自分に背負わされていた重圧が、するすると解けていくような居心地の良さを覚えた。香りは人の心を癒し、香りに紐づけられた思い出を思い起こさせる効果がある。もし、この先彼女と道を分かち、再会する日が来るとすれば、香りによって今日のこの日の出来事を思い出す日が来るのかもしれない。
実里とタイムカプセルを埋めてからというもの、俺は来る国公立大学の二次試験に向けて、猛勉強をした。ラストスパート。最後の追い込み。どの教科の先生も同じような言葉を口にするたび、背筋が緊張感でひりついた。本番が近づくにつれて、みぞおちのあたりがきゅっと締め付けられるように痛かった。
二次試験当日。
寒いな、と思って朝目を覚ます。身体が重い。重くて寒くて熱い。嫌な予感しかしない。
リビングに出て体温計を引っ張り出し脇に挟むと、38度5分を示した。
「仁、どうしたの?」
朝食を作っていた母親が心配そうに俺の顔を覗き込む。今日は二次試験本番の日だ。もし熱があると知ったら、母親はきっと心配で居ても立ってもいられないだろう。
「いや……大丈夫」
幸い頭痛などはなく、ただ身体が熱くだるいだけだった。だからなんとか立ってはいられる。この一年間、受験のために費やしてきた時間をふいにしたくない。実里とのデートだって電話だって我慢したんだ。実里は今も、我慢している。俺の受験が終わるまで、そっと見守ってくれている。そんな彼女の期待を裏切るようなことはしたくなかった。
母親の愛情がこもった朝食を食べ終えた俺は、試験会場となる志望大学に向かうべく自宅を出た。2月下旬の冷たい風は、病気の俺の身体を容赦なく襲う。歯を食いしばりながら一歩ずつ前に進んだ。いつもよりゆっくりとした足取りで、確実に目的地へと近づいていた。
試験の結果は散々だった。合否なんて見なくても分かる。数学の試験の途中で、俺は吐き気がひどくなり、一時退室までしてしまった。その後の教科ではなんとか机に向かうことができたが、解答用紙を半分も埋められなかった。帰りの電車で朦朧とした意識の中、自然と溢れ出てくる涙が、三年間履き続けた学ランを惨めに濡らしていく。こんなはずじゃなかった。単に実力を出しきれなかっただけなら、悔し涙を流すだけで済んだ。こんなやるせない気持ちになることはなかった。
涙を流しながら、同じ車両に乗っている人たちが俺からそっと距離を置くのが分かった。そうだよな。変だよな。こんなところで泣いているなんて。馬鹿みたいだな。
実里と出会い、幸せだった高校生活が頭の中でフラッシュバックする。
もうあの日々には戻れない。
3月9日、受験発表の日は白い雪がちらちらと降っていた。暦の上ではもう春のはずなのに、うんざりするほど空気が冷たい。
俺は、マフラーと手袋をはめて家を出た。母親に「ついて行こうか?」と聞かれたが遠慮して。さすがに、うまくいかなかった大学試験の合格発表を親と見に行けるほど能天気な子供ではない。
大学に着くと、すでに合格発表を待っている受験生で掲示板の前が溢れ返っていた。ここにいる人たちは皆、受験結果に自信があるんだろうか。ないんだろうか。友達と一緒に見にきている人なんて、どちらかが受かってどちらかが落ちてしまった時、どうするのだろう。
自分以外のことなんてどうでもいいはずなのに、なぜか周りの人間にばかり気がいってしまっていた。本当は、結果を見るのが怖かったからかもしれない。気を逸らしていなければ、今ここで立っていられるかさえ、分からなかったから。
やがて掲示板の前に、大きな模造紙のような紙を持った人間が現れる。あそこに、合格者の受験番号が書いてあるのだ。受験生たちの間に、一気に緊張感が走りその場の空気が張り詰めたものになる。お願いだ。なんでもいいから、俺を解放してくれ。もう一秒だって長く、この場にはいたくないんだ。
ついに合格発表一覧が観衆の目前に晒される。
ワアっと、歓喜の声が上がる。涙を流して母親に抱きつく女子がいる。友達とハイタッチする男子が、嬉し涙でその場に泣き崩れる人が、視界の端々に映り込む。不合格者の方が多いはずなのに、意識がいくのはどうしてか、合格者の方ばかりだった。
俺は必死に自分の受験番号を探した。白い紙の上に羅列された番号の配列に、目がくらみそうになる。一つずつ番号を唱えながら、自分の番号が書いてあるはずの列までゆっくりと視線を這わせる。果たして、自分の番号は——なかった。
「……っ」
分かってはいた。受験中、途中で退室してしまった俺に、受験の神様が微笑むはずがない。受験前にタイムカプセルなんか埋めて、彼女と青春を謳歌していた俺が、脇目も振らず必死に机にかじりついてきた他の受験生に敵うはずがないって。
視界がだんだんとぼやけて、目の縁に熱がこもっていく。溜まりに溜まった涙は降り頻る雪と一緒に、地面に落下する。そうか。ダメだったやつは皆、絶望するしかないんだ。だからどんなに人数が多くても、歓声をあげる合格者たちの中で、埋もれてしまう。自分みたいに、泣いて、慟哭している人間だって多いはずなのに、圧倒的な喜びの海の中で、身を沈めるしか今ここで息をする方法が見つからないのだ。
俺は重たい意識が途切れないように懸命に保ちながら、踵を返して大学を後にした。携帯を持っていない俺は、誰に報告することもなくその場を去る。今思えば、携帯がなくて良かったかもしれない。もし持っていたら、母親から電話が来るだろう。情けない結果を、今この瞬間に伝えなければならないことほどキツいものはない。
ふと実里の顔が頭の中をよぎる。
実里……ごめん。俺は、力を出しきれずに終わったよ。もうきみと、一緒にいる資格はないかもしれない。一年間、浪人することになったんだ。きみがいたら俺はまた、心のどこかできみを逃げ場にしてしまうだろう。
それじゃダメなんだ。
ふらつく足取りのまま、電車に乗って自宅の最寄駅で降りる。身体が勝手に、自宅ではなく実里の家の方に歩いていた。チャイムを鳴らすと、彼女が出てきた。今日、俺の合格発表があると知っていたから、待っていてくれたんだろう。携帯がない俺は、実里に報告をするには直接会うしかなかった。
玄関から出てきた実里はまず、俺の顔を見て「大丈夫?」と口にした。相当疲れた顔をしていたのかもしれない。
俺は、大丈夫、と口にすることができなかった。とても大丈夫とは言えない。自分の顔が強張っているのが分かる。実里の瞳が、不安げに揺れる。「仁くん」と聖母のような優しい声で俺の名前を呼んだ。それが、限界だった。
「実里、俺たち、別れよう」
自分でも信じられないほど冷静で、冷たくて、血の通っていないような声だった。
実里の目が大きく見開かれ、怪物でも見るような目で俺を見つめた。そうだ。俺は怪物なんだ。
大好きなはずの彼女に、こんなにも冷たく一方的な感情を押し付けられる。自分の人生が上手くいかないことを、こんなにも彼女のせいにしたいと思っているのだから。
「どうして……」
実里の口からこぼれ落ちてきた当然の疑問は、空虚な目をした俺の前に、はっきりとした輪郭を帯びることもなく消えていく。俺の口から答えを聞くことはできないと悟ったのか、実里は抵抗することなく肩を落とした。寂しくて、今にも死んでしまいそうなくらい暗い表情をして。
「……ごめん」
実里にあげられる言葉があるとすれば、謝罪以外に何もなかった。ありがとう。本当に楽しかった。愛してる。でも俺は、きみをこれ以上、俺の人生に付き合わせることはできない。そんな言葉を今彼女にぶつけたところで、きっと納得なんてしてもらえない。無駄に彼女の気持ちを翻弄し、これまで二人でつくってきた幸せな思い出を黒く塗りつぶすようなことはしたくなかった。
俺は硬直したままの実里に背を向けて、一歩足を踏み出す。
「待って、これで終わりなの……?」
実里が、今まで聞いたこともないような絶望の滲む声で俺を引き留めた。終わりたくない。彼女の全身がそう叫んでいると分かる。雪が、先ほどよりも激しく降り始める。冷たい。ああ、痛いな。手袋をしているはずの掌が、こんなにも凍りつくほど痛くなるなんて。神様はよく分かってる。
「本当にごめん」
俺は振り返らずにもう一度そう口にした。
今振り返ったら、実里がどんな顔をしているのか分かる。いや、振り返らなくても大体は想像がついた。
「……そっか」
蚊の鳴くような声で彼女が呟いたのが、俺たちの会話の最後だった。
お互いに、言いたいことはたくさんあった。でも、言葉は時として人を縛りつける。今彼女が俺に何かを伝えて、俺が彼女に返事をして、そのことが一生俺たちの人生の重しになるかもしれない。実里もきっと分かっていたはずだ。だからこそ、それ以上はなにも言わずに、俺を行かせたのだ。彼女がどこまで、俺の背中を見つめていたのか分からない。なにせ俺は一度も彼女の方を振り返らなかったのだから。
冷たい雪が降り頻る中、春を待っていた俺たちの心に、ぽっかりと埋まらない穴が空いたのだと、思った。