R食品のグループディスカッションが終わり「大学院生じゃない」と実里に嘘を見抜かれてから、俺たちは連絡先を教え合い、就活の情報を交換しようという話になった。
彼女は俺が通っていた大学から程近い、私立大学の大学院に通っていた。そのため、必然的に下宿先も近かった。
できればまた会いたい、と言ってきたのは彼女の方だ。
記憶の中の彼女が、こんなふうに自分から誰かを誘うなんてことはなかったので驚いた。どう見たって、俺の記憶と、この日「初めて」会った特殊能力を持つという彼女は人間像が違っていた。
正直な話、高校を卒業し、彼女と会えなくなってから7年間、一度も彼女のことを忘れた日はなかった。四六時中考えていたわけではないが、頭の片隅にはいつもどこかに彼女と過ごした時間の記憶がある。その記憶に、助けられた日もあれば苦しめられた日もあった。最近になってようやく化石のように記憶が脳にしみつき墓場まで大切に持っていけると思っていた矢先、再び彼女を目にする日がくるなんて、思ってもみなかった。
だが久しぶりに再会した彼女は、俺の全然知らない目をしてディスカッションでの話し合いを引っ張っていた。さらに人の嘘を見抜くことができると豪語し、余計に俺の記憶は混乱していた。一体彼女は誰だ。彼女の方は俺のことを覚えていないように見えた。覚えていない? そんなことがあるのだろうか。高校二年生の秋から三年生の終わりまで付き合った元恋人のことを忘れるなんて、そんなこと——。
考えだすときりがなく、俺は今日も他の会社の面接試験があることを思い出し、一度頭の中をリセットした。
松葉実里。高校時代、俺が全身全霊をかけて愛した人。
その人がなぜ別人のように変わってしまったのか、真相は本人に聞くしかないようだ。
無事に、と言っていいのか分からないが、特に目立ったミスもなく今日の面接を終えた俺は、電車の中でスマホをチェックしていた。すると早速彼女から連絡が入っていて「明日の夜にご飯食べに行かない?」と軽く誘ってきた。こんなふうにカジュアルに男をご飯に誘えるなんて、彼女はやっぱり変だ。
俺は迷わず「大丈夫」と送り返し、スマホを閉じる。
また、彼女に会える。
別人のようには見えるが、松葉実里であることには変わらない。俺はまだ明日の話だというのに、面接の時みたいに心臓が速く動き出すのを感じていた。
翌日、昼間に高校生模試の採点バイトを終えた俺は、約束通り実里と待ち合わせをしているカフェに向かった。カフェで夜ごはんなんていつぶりだろう。普段研究室の仲間とご飯に行く時は必ず居酒屋だったし、大学院を辞めた今は、一緒に飲みに行く友達もいない。なんだか寂しくなってきたとお店の前で感傷に浸っていると、実里が姿を現した。
「ごめん、待った? でも一分前! セーフ」
「あ、ああ。大丈夫だよ」
「良かったー。きみって心広いんだね。さ、入ろう」
慣れない「きみ」という呼び方に背筋が伸びる。実里と付き合っていた頃、彼女は俺のことを「仁くん」と呼んでいた。あの頃の彼女と目の前にいる彼女との差に、やっぱり頭が混乱してくる。
「いらっしゃいませー」
実里が指定してきたカフェは俺と彼女の自宅からは電車で四駅のところにある、小洒落た街のカフェだった。女性はこういう街にショッピングなどをしに来るのかもしれないが、男の俺はそもそも駅に降り立ったのがほとんど初めてだった。
ゆえに、店内も落ち着いた暗い照明に観葉植物がそこかしこに置かれているという、お洒落な内観をしていた。
俺は反射的に萎縮しながら店員から案内された席まで歩く。反対に実里はこういう店に慣れているのか、特に何も気にする様子もなく、俺と反対側の席についた。
「ここ、前にも来たことがあるんだけど、ピザが美味しいの。私、これにする」
メニュー表を広げて三秒でメニューを決めた実里に、俺は焦り出す。
「あ、えっと……」
「はは、ゆっくりでいいよ」
余裕の笑みで俺がメニューを決めるのを待つ実里は、お冷やグラスに口をつけた。グラスにほんのりと残るリップの跡が、俺が置き忘れた七年間の空白を思い知らせた。
「これにします」
俺が頼んだのは実里と同じピザだった。散々悩んだ結果、結局おすすめされたものを選んだ。
味は違うので、まあいいだろう。
彼女が「すみませーん」と店員さんを呼び、さっとメニューを注文する。
「何か飲む?」
さらっと実里にそう聞かれて、迷う暇もなく、
「じゃあビールを……」
と反射的に答えてしまう。
「生ビールと、ミモザ、お願いします」
「かしこまりました」
実里はなんでもないふうに注文を終えると、メニュー表を片付けて端に寄せた。
「ここ、よく来るの?」
「ええ。といっても二回しか来たことないけど。友達とカフェ巡りするのが好きだから」
「へえ」
カフェ巡りか。俺と付き合っていた頃はそんなことは言っていなかった。カフェに行ったことは確かに何回かあるけれど、取り立ててカフェ巡りが好きだという話はしたことがない。
俺は彼女と同じように、お冷やグラスに口をつける。冷たい液体が、俺の食道や胃まで萎縮させるようにツンと滑り落ちた。
「今日は何してたの?」
今度は実里の方が俺にそう聞いた。料理が運ばれてくるまでのこの時間は、まだ気持ちも温まっておらず、女の子とこうして二人で顔を突き合わせるのにはいささか気力がいる。だからこの時ばかりは、積極的な彼女の存在がありがたかった。
「採点バイトしてた。就活がない日は大抵バイトしてるかな。みの——松葉さんは?」
「私は修士論文の準備。半年後には中間発表があるのよ。ハードスケジュールだと思わない?」
「はあ」
理系だった俺は卒論を書くのが自由だったため、正直なところ実里が苦しんでいることに理解できない。まあ、卒業論文と修士論文では難易度もまったく違うのだろうけれど。大学院を辞めてしまった俺には、どちらにせよ理解しがたいものだった。
「大変なんだね。頑張って」
「ありがとう」
ありきたりな励ましの言葉しか出てこなくて、俺は再び水を飲んだ。しばらくしてピザが運ばれてくる。香ばしい匂いに、実里が思わず「美味しそう!」と感嘆の声を上げる。3回目でもこんな反応ができるのは素敵なことだ。
「いただきます!」
嬉しそうに無邪気な笑顔で手を合わせる実里は、高校時代の彼女に少し似ていた。
だが、やはり納得いかない。どうしても、今目の前にいる実里が、昔交際していた女の子だという事実を受け入れられない自分がいた。
「どうしたの?」
運ばれていたピザをそのままに、微動だにせず考え事をしていた俺を見て、実里がそう聞いた。
「……いや、なんか新鮮だなと思って」
「何が?」
「みの——いや、就活で出会った女の子とこうしてご飯を食べていること」
本当は目の前の実里が、記憶の中の実里とは違うことに混乱している、などとは口が裂けても言えなかった。
「ふふ、確かにそうよね。私も初めてだよ? 誰でも彼でも誘ってるわけじゃないからね」
意味深なことを言いながらピザにかぶりつく実里。豪快な食べ方だ。昔の実里だったら、口元にソースがつかないか、服に具材を落とさないか心配しながら、お箸でピザを掴んで食べていただろう。
俺も彼女につられてピザを食べる。エビとイカが乗ったオイルベースのピザは、魚介の風味がふんわりと鼻に抜けて大人の味わい、といったところだった。
しばらくお互いの就活の話や世間話をして盛り上がった。最初は彼女と何を話せばいいのかもっと迷うのかと思っていたのだが、彼女が会話の主導権を握ってくれたおかげで、話題に尽きることはなかった。だが、昔のように本の話などは一切しない。彼女はもう、本を読まないのだろうか。記憶との齟齬に、俺は頭を悩ませた。
「実はさ、五十嵐くんに伝えたいことがあって」
二人ともピザを食べ終わり、お酒も3杯目に差し掛かった頃、実里がかしこまった顔ですっと俺を見た。なんだか真剣な雰囲気だ。俺は手に持っていたグラスを置き、「なに?」と聞き返す。
「会ったばかりでこんなこと言うのもなんだと思うけど……私、記憶喪失なんだ」
先ほどまで流れていたBGMの曲が途切れ、新しい曲が始まった。
重大告白をした実里の表情は、固く強張っていた。
「そう……なんだ」
薄々感づいてはいた。昔、恋人だった俺にここまで他人行儀な態度をとれるはずがない。俺は近くを歩いていた店員を呼び止め、水を入れてもらうようにお願いする。
「これ、どうぞ」
「ありがとう」
水を一口飲んだ彼女は、ふっと肩の力を抜いた。
「こんなこと急に言われても意味わかんないよねえ。ごめんね?」
「いや、大丈夫。差し支えなければ、どうして記憶喪失になったか、聞いてもいい?」
俺と別れたあとの空白の七年間に、彼女の身に何が起こったのか。とても気になった。
「大したことじゃないんだけど。大学三年生の時に、自転車で通学してたら交差点で車にぶつかって。自転車から投げ出された私は数メートル吹っ飛ばされたの。それで、目が覚めたら昔のこととか、親しかった人のことを忘れてた。幸い怪我は骨折と打撲程度で済んだんだけど。授業にもついていけなくなって一年留年したから、今私、25なの。それ以来、怖くて自転車に乗れないんだよねえ」
自転車に乗っている最中に車に撥ねられたことを「大したことではない」と言える彼女もすごいが、俺の知らない時に彼女の身にそんな壮絶な不運が降りかかっていたことに、驚きを隠せなかった。
「……大変、だったね」
どんな言葉をかければいいか分からず、俺は通り一辺倒なありふれた返事をしてしまった。
「ええ。まあそうね」
彼女は事故当時のことを思い出したのか、遠い目をして頷いた。もし俺が彼女の立場なら、とても辛いし立ち直れているか分からない。昔の彼女の控えめな性格はなくなってしまったけれど、こうして普通に暮らしているだけでも、どれだけの努力を要したのか想像がつく。長く、暗いトンネルだったかもしれない。そう思うと、昔の彼女と今の彼女を比べるのは良くないと思った。
「どうして俺に話してくれたの?」
俺が気になったのはそこだ。記憶喪失だなんて重大な身の上話を、なぜ彼女の中では出会ったばかりであるはずの俺に話したのか。
「うーん、何て言うか、きみなら受け止めてくれると思ったから、かな」
彼女は困ったように眉を下げて分かるようで分からない理由を教えてくれた。本心ではないとは思ったが、あまり深く立ち入ってほしくないことなのかもしれない。俺は「そっか」とだけ返事をした。
それからはお互いに無言でお酒を飲み干し、お会計という流れになった。
「今日はありがとう。私、話しすぎちゃったよね。ゴメン」
「いやそんなことないよ。楽しかった。こちらこそありがとう」
自分でも不思議なほどに素直な気持ちが口からこぼれ出ていた。外は暗くなっていたが、人通りが多い道に面しているから夜遅いという感覚にはならない。ネオンライトの看板がいくつも立ち並ぶこの街は、今の俺にはまぶしすぎた。
二人で同じ電車に乗り、最寄駅で下車した。電車の中で、実里は自分のSNSアカウントを教えてくれた。俺はあまりSNSをやらない方だったが、彼女のものと知っては見ないわけにはいかない。
最寄駅は同じだったので、駅から出て別れたあと、彼女のSNSを眺めながら歩いた。“呟きアプリ”を彼女はかなり使っているようで、一日に数件投稿していた。
『今日は就活でまた嘘を見破っちゃいました。同じグループの子だったんだけど、グルディス、初めてじゃないのに初めてだって言ってたんだ〜。まあ、結構どうでもいい内容でゴメンネ!』
ちょうど一週間前のR食品会社でのグループディスカッションでの話だ。百件もの「いいね」がついている。ふとフォロワーの数を確認してみると、なんと3206人。ついでに目に入ってきたプロフィールには、「他人の嘘を見抜くことできる、不思議な力を持ってます」と記載されている。俺は食い入るようにして一つ上の投稿を見つめた。
『あと、もう一人嘘ついてる人がいてね。その人、本当は大学院生じゃなくてフリーターなのに、大学院生って偽って自己紹介してたの。さすがにちょっとびっくりした』
俺のことだ。「いいね」は152件。コメントもたくさん来ていて、『経歴詐称乙』『即アウトだろww』『嘘つくメリットある?』と俺を批判する声が相次いで寄せられていた。
それに対し、実里は特に返信などはしておらず、気にすることはないのだろうけれど、反射的にスマホの画面から目を逸らしてしまった。苦いコーヒーを飲んで胃の中で酸が渦を巻いていくような気持ち悪さを覚えた。はっきりとは見なかったが、他にも実里の呟きはほとんどが「他人の嘘を見抜いた話」で、聴衆は彼女の話を面白おかしく楽しんでいるようだった。
なぜ、実里はこのSNSを俺に見せたのだろうか。
そもそもどうして、こんなことを呟き続けるのだろうか。
見ていてあまりいい気分はしなかったので、俺はスマホの画面を閉じ、消沈した足取りで下宿先まで帰宅していた。
その日以降、俺たちは頻繁に連絡を取り、会うことが増えた。
SNSの件はともかく、直接会って話す彼女には興味があった。
実里とのデートはほとんどカフェや居酒屋に行くことが多かったが、時々映画館に行くこともあった。高校時代も二人でよく映画を見に行っていたな、と思うと感慨深いものがある。他にも海を眺めたり、川辺を永遠と話しながら散歩したり、彼女と付き合っている頃を彷彿とさせるデートを重ねた。記憶喪失とはいえ、彼女の心のどこかに俺と交際していた頃の気持ちが残っているのではないだろうか、と少女漫画みたいな奇跡を思い描いた。
「五十嵐くんは、好きな人はいないの?」
ある日、いつもの如く二人で散歩をしている最中に足を踏み入れた喫茶店で、彼女がアイスティーを啜りながらそう聞いてきた。お互いの就職活動もいよいよ佳境に入り、そろそろ最終面接が行われる企業がいくつかあった。彼女の方は、本命ではない会社から内定をもらっているようで、以前よりも心に少し余裕ができているようだった。
散歩の途中でパラパラと降ってきた雨が、本格的に降り出して庭先の紫陽花を艶やかに濡らしていく。紫陽花は水に濡れている時の方が好きだ、と高校生の彼女が言っていたのを思い出す。梅雨は好きじゃないけれど、雨に降られた紫陽花が、化粧を覚え始めて輝いていく少女のようだと彼女は言った。紫陽花一つにそんな見方をする彼女を、俺は美しいと思った。
好きな人はいないのか、という彼女の質問に、俺の心臓がひと跳ねする。
外でもない、きみのことが好きだ。
そんな素直な気持ちを口にできたならば、俺はもう少しマシな人間になっていたことだろう。
「好きな人はいないけど、今は元カノのことが気になっている」
結局、含みのある言い方をしてしまって、俺はダメだなと凹む。元カノのことが気になるなんて言われていい気分になる女性はいない。間違いなくいない。ただ、俺の場合は特殊な事情があるので、一般的な意見は多少跳ね返せる自信があった。
実里は俺の返事を聞いて、「へえ」とつまらなそうに頷いた。手慰みにストローをくるくるか回している。そりゃそうだよな。目の前の男が、元カノのことを気にしているなんて知って、どうすればいい。
しばらく俺たちの間を流れる沈黙に、俺は普段は実里との間に感じることのない気まずさを覚えた。あんなこと、言わなければよかったという後悔がじわじわと広がっていく。小学生の時、習字の授業で俺の書いた文字が、時間が経つごとに滲んでいったのを思い出す。教室の後ろに全員の文字が貼り出された時、俺の文字だけが滲んだ墨汁のせいで丸みを帯びていた。その時の苦い思いが、今彼女の質問に答えた俺の中に蘇っていた。
実里は窓の外でふりしきる雨を見つめて、ふうと息を吐く。何を考えていたのだろうか。やがて彼女はゆっくりと口を開いた。
「それって……嘘、だよね」
吐息を漏らすような声でゆっくりと絞り出された声に、俺は息をのんだ。
他人の嘘を見抜くことができる、不思議な力を持ってます。
SNSのプロフィール欄に書かれていた一文がフラッシュバックする。
心臓の音が、外から聞こえてくる雨音よりも大きく鳴っているのではないかというぐらい、激しく脈打っていた。彼女の瞳は驚くほど澄んでいて、一点の曇りのない目で俺を見つめた。
「……」
返事はできなかった。単になんと言えば良いのか分からなかったということもあるが、それ以上に今目の前にいる実里の瞳が宝石玉のように美しく、もう少しこのまま眺めていたいというのが本音だった。
他人の嘘を見抜き、それをSNSで豪語する実里。彼女は今日のことも、SNSで呟くのだろうか。大学の友達に教えるのだろうか。でも、そんなことすらどうでもよく思えるほど、今俺は新しい彼女のことをもっと知りたいと思ったし、もっと近づきたいと思っていた。
彼女の心の深淵に触れたい。
高校時代、あの鈍い青春の痛みや輝きの中で思い続けてきたことを、俺は再び感じるのだった。
彼女がこの日のことをSNSに投稿しなかったのは意外だった。あまり自信がなかったのだろうか。それとも単に忘れていたのか忙しかったからなのか、俺の些細な嘘は人目に晒されることはなかった。
そのことに安堵を覚えたが、同時に寂しくもあった。彼女は俺が思っているほど、俺のことをそこまで考えてはくれていないのかもしれない。ともすればあの日、R食品会社のグループディスカッションで同じグループだった人全員と、俺のように情報交換と称して何度か会っているという可能性もある。今まで自分だけが特別なのではないかと思っていたが、完全に俺の思い違いで、勝手に一人舞い上がっているだけなのかも、と。それならばこれ以上彼女に対して期待したくないと思った俺は、彼女に「次の日曜日、また遊びに行きたい」というようなメッセージを送った。
これまで何度も逢瀬を交わしてきた俺たちだったから、今度も実里は俺の誘いに乗ってくれると思っていた。だが、予想に反して実里からの返事は一日経っても、三日経っても、一週間経ってもこなかった。SNSの更新も止まっている。風邪でも引いて寝込んでいるのだろうか。そういえば前回会った時、ちょうど一週間後に本命の会社の最終面接があると言っていたから、余裕がないのかもしれない。何かと理由をつけて、彼女からの返信が来ない言い訳を並べ立てた。
しかし、待てど暮らせどやはり実里から返信は来ない。メッセージは「既読」になっていたから、明確に無視をされていることになる。俺は凹んでしばらく食事が喉を通らず、就活にも身が入らなくなった。最終面接を控えていた会社の面接には心ここにあらず、の状態で向かったので当然落ちた。すべての会社で不合格をくらった。これまで潜り抜けてきた選考は全部無駄になった。虚しいほどの企業研究も、それなりに取り組んできたOB訪問も、努力はみな泡のようにあっけなく弾けてしまった。
もはや自分は本当に就職したいのだろうかと思いつめるほどに落ち込み、自宅でだらだらとネットサーフィンにふけっていた。完全に廃人と化してしまっていた俺は、無意識のうちに検索窓に「ブログ まつかぜ」と打ち込んでいた。
「もうやってないよな」
期待などまったくと言っていいほどしていなかった。単なる慰めに過ぎない。高校時代、携帯を持っていなかった俺が唯一オンラインで彼女と繋がれた場所。その場所が、今も変わらずに残っているとすれば、彼女は今、どんな言葉を綴っているだろうか。
検索結果に表示されたタイトルには、飲食店のブログと思われるものが多かった。「まつかぜ」という屋号の店が全国にちらほら存在しており、予約サイトも並んでいた。
諦め半分、好奇心半分の気分で画面を縦にスクロールしていくと、二ページ目の一番下に、それは現れた。
Free Blog「まつかぜ」。
自分以外誰もいない部屋の中で、息を凝らしてそのタイトルをタップする。
途端、ぱっと表示された画面のデザインに、見覚えがあった。
「あった……」
画面上にずらりと並んだ記事のタイトルは、「明日の五限目は大好きな古典」「昔は苦手だった村上春樹にハマってます」「今日、彼と見てきた映画が最高でした」と、高校時代に一度目にしたことのあるものだった。最終更新日は2018年3月8日になっている。俺が、彼女に別れを告げたのが2018年3月9日なので、その前日になる。3月9日は、俺が受験した大学の合格発表の日だった。
最後のブログのタイトルは、「高校を卒業しました」というものだった。
俺も当時読んだはずだったのだが、無意識のうちにその記事を再び開いていた。
『先日、三年間通った高校を卒業しました。入学の時、私は中学校と変わらず、教室でひとり、本を読んで退屈な授業を聞くだけの青春が始まるのだと思っていました。青春が痛かったり楽しかったりするのは、一部の明るい人間の特権なんだろうと。私みたいな、日陰でひっそりと生きている人間に、青春という言葉は重すぎるって。そんなふうに最初から決めつけていた私は、これから始まる高校生活に、何の意味も見出せずにいました。
でも、私が経験した高校三年間は、当初私が想像していたものとは180度違っていて、特に最後の一年半は、かけがえのない人と出会い、私にとって宝物の時間になりました。
気がつけば私は、痛かったり楽しかったり、苦しかったり嬉しかったり、自分でもびっくりするほど感情の波に飲まれていて。ああ、青春してるなって思ったんです。私のような人間でも、こんな痛みや喜びを味わえた。大切な三年間のことを、これからどんなことがあっても、この先一生忘れずに生きていきたいです。
最後に。
私の高校生活を色づけてくれた、かけがえのないあなたへ。
心から、ありがとう。
月並みだけど、これからもよろしくお願いします』
「ああ……」
自分の喉からかすれ声が出て、俺は口を手で覆った。
ブログに綴られていた当時の実里の想いの丈を知って、七年前にタイムスリップしたかのように、実里への気持ちが蘇る。再会してからも実里のことが気になっていたが、俺が好きだった実里は、本当の実里は、こんなにもあの日々を大切に思ってくれていたんだな。
胸に湧き上がる熱湯のような思いを、俺はもう抑えることができなくなっていた。
「高校を卒業しました」の記事の一番下のコメント欄をタップして、カーソルを合わせる。震える指で、俺は文字を打ち込んだ。
「実里へ。
俺です。覚えていますか?
今さらだけど、このブログを読みました。
懐かしくて、当時のことを思い出してしまっています。
実里はもう覚えていないと思うけど、俺の高校生活も実里の横で鮮やかに色を帯びていったんだ」
記憶を失くした彼女は、もう「まつかぜ」のことなんて覚えていないだろう。だから、コメント欄なんて見られることはないと思っていた。むしろ、読まれないと思ったからこそ、素直な気持ちを綴ることができる。
その日から俺は、実里の過去のブログを読み返しては、コメント欄を埋めていくという作業を繰り返した。気づいてほしいような、ほしくないような。どちらとも言えない気持ちで言葉を、今の俺の思いを残していく。知らない誰かに見られる可能性はあるが、このブログの更新自体、長い間止まっているので、誰も見ていない可能性の方が高いと思っている。
実里のブログを読み、過去を掘り返す作業は寂しくもあり、でも楽しくもあった。あの時の新鮮な気持ちがまだ、俺の中に残っていることが分かり、嬉しかったのだ。
俺の数少ない娯楽の一つとなった「まつかぜ」再読の時間は、夏が来て、秋が去り、冬の始まりまで続いた。
12月、街全体がクリスマスムードに包まれて華やいだ恋人たちの姿を目にすることが増えたいま、俺は内定0のまま、ただひたすら実里のことを考えていた。
クリスマスに、実里をデートに誘いたい。
実里とは結局あの6月のデートを最後に、一度も会えていなかった。メッセージを送っても返信が来ないのでもう諦めていた。でもやっぱり、どうしても実里に会いたい。会って、俺が七年間抱えていた気持ちをぶつけたい。いつしかそう強く願いようになっていた。
12月15日、そろそろ彼女をデートに誘わなければクリスマスの予定が埋まってしまう。いや、もしかしたらもう埋まっているのかもしれない。そんな危機感を抱きながら、どうにかして彼女に会うべく最寄駅で待ち伏せをしようと決心し、自宅から駅まで歩いている時だった。
「あれ?」
反対側の歩道を、一台の自転車がすっと通り過ぎて行った。普段なら気にも留めない光景だが、乗っている人物に見覚えがある。白いダウンコートを羽織り、マフラーで黒髪ごと首を覆っている彼女。すぐに走り去ってしまったが、実里に違いなかった。
「なんで」
心の中で、なんで、どうしてを繰り返していた。目にした光景が、本当なのか幻なのか、あやふやになる。もやもやした気持ちをなぎ払おうと、最近一人で見に行った映画のことなんかを思い浮かべてみたが、ダメだった。
茫然自失状態のまま、俺は自宅へと戻る。
彼女には今日、会える気がしなかった。
玄関の扉を開けると、部屋の奥の窓にちらちらと白い雪が降り始めたのが見えた。振り返ると、吹きさらしのアパートの廊下に、雪が舞い落ちている。いつのまにこんなに寒い季節になったんだろう。
きれいな雪。白い雪。まっさらな気持ち。
俺がかつて、高校生の頃に抱いていた彼女への感情は、この雪のように純粋だった。
そっと玄関の扉を閉じて、「まつかぜ」を開く。
いてもたってもいられなかった。一番最近の投稿——つまり、「高校を卒業しました」の記事に、再びコメントを書き込む。前回俺が書き込んだコメントには、予想通り何の反応もない。世界中に発信された俺の言葉は、ブログの主である実里にさえきっと、届いていない。だから今こうして書き込んでいることだって、実里は絶対に見ない。それなのに、どうして言葉が溢れて止まらないんだろう。
ようやく最後の文字を打ち終わり「投稿」ボタンを押すと、ブログのコメント欄に俺の二つ目のコメントが並んだ。
記憶喪失の彼女に、このブログの存在を知らせたい。
高校時代の俺を知らない、まっさらな彼女。
でも、生まれ変わった彼女だからこそ、むしろ知らせるべきではないのかもしれない。そんなふうにも思う。
窓の外をふりしきる雪は、先ほどよりも強く激しく、気がつけば吹雪のように吹き荒れていた。テレビをつけると今日の雪はかなり積もるだろうと予想されていた。そんなことも知らずに駅で彼女を待ち伏せしようとしていた自分が面白いくらいに痛い。自転車で颯爽と対岸を駆け抜けて行った彼女だって、痛い。こんなところで、俺の住んでいる街で、簡単に嘘を嘘だとばらしてしまうような行為をする彼女が、恐ろしいほど憎くて愛しくなった。
彼女は俺が通っていた大学から程近い、私立大学の大学院に通っていた。そのため、必然的に下宿先も近かった。
できればまた会いたい、と言ってきたのは彼女の方だ。
記憶の中の彼女が、こんなふうに自分から誰かを誘うなんてことはなかったので驚いた。どう見たって、俺の記憶と、この日「初めて」会った特殊能力を持つという彼女は人間像が違っていた。
正直な話、高校を卒業し、彼女と会えなくなってから7年間、一度も彼女のことを忘れた日はなかった。四六時中考えていたわけではないが、頭の片隅にはいつもどこかに彼女と過ごした時間の記憶がある。その記憶に、助けられた日もあれば苦しめられた日もあった。最近になってようやく化石のように記憶が脳にしみつき墓場まで大切に持っていけると思っていた矢先、再び彼女を目にする日がくるなんて、思ってもみなかった。
だが久しぶりに再会した彼女は、俺の全然知らない目をしてディスカッションでの話し合いを引っ張っていた。さらに人の嘘を見抜くことができると豪語し、余計に俺の記憶は混乱していた。一体彼女は誰だ。彼女の方は俺のことを覚えていないように見えた。覚えていない? そんなことがあるのだろうか。高校二年生の秋から三年生の終わりまで付き合った元恋人のことを忘れるなんて、そんなこと——。
考えだすときりがなく、俺は今日も他の会社の面接試験があることを思い出し、一度頭の中をリセットした。
松葉実里。高校時代、俺が全身全霊をかけて愛した人。
その人がなぜ別人のように変わってしまったのか、真相は本人に聞くしかないようだ。
無事に、と言っていいのか分からないが、特に目立ったミスもなく今日の面接を終えた俺は、電車の中でスマホをチェックしていた。すると早速彼女から連絡が入っていて「明日の夜にご飯食べに行かない?」と軽く誘ってきた。こんなふうにカジュアルに男をご飯に誘えるなんて、彼女はやっぱり変だ。
俺は迷わず「大丈夫」と送り返し、スマホを閉じる。
また、彼女に会える。
別人のようには見えるが、松葉実里であることには変わらない。俺はまだ明日の話だというのに、面接の時みたいに心臓が速く動き出すのを感じていた。
翌日、昼間に高校生模試の採点バイトを終えた俺は、約束通り実里と待ち合わせをしているカフェに向かった。カフェで夜ごはんなんていつぶりだろう。普段研究室の仲間とご飯に行く時は必ず居酒屋だったし、大学院を辞めた今は、一緒に飲みに行く友達もいない。なんだか寂しくなってきたとお店の前で感傷に浸っていると、実里が姿を現した。
「ごめん、待った? でも一分前! セーフ」
「あ、ああ。大丈夫だよ」
「良かったー。きみって心広いんだね。さ、入ろう」
慣れない「きみ」という呼び方に背筋が伸びる。実里と付き合っていた頃、彼女は俺のことを「仁くん」と呼んでいた。あの頃の彼女と目の前にいる彼女との差に、やっぱり頭が混乱してくる。
「いらっしゃいませー」
実里が指定してきたカフェは俺と彼女の自宅からは電車で四駅のところにある、小洒落た街のカフェだった。女性はこういう街にショッピングなどをしに来るのかもしれないが、男の俺はそもそも駅に降り立ったのがほとんど初めてだった。
ゆえに、店内も落ち着いた暗い照明に観葉植物がそこかしこに置かれているという、お洒落な内観をしていた。
俺は反射的に萎縮しながら店員から案内された席まで歩く。反対に実里はこういう店に慣れているのか、特に何も気にする様子もなく、俺と反対側の席についた。
「ここ、前にも来たことがあるんだけど、ピザが美味しいの。私、これにする」
メニュー表を広げて三秒でメニューを決めた実里に、俺は焦り出す。
「あ、えっと……」
「はは、ゆっくりでいいよ」
余裕の笑みで俺がメニューを決めるのを待つ実里は、お冷やグラスに口をつけた。グラスにほんのりと残るリップの跡が、俺が置き忘れた七年間の空白を思い知らせた。
「これにします」
俺が頼んだのは実里と同じピザだった。散々悩んだ結果、結局おすすめされたものを選んだ。
味は違うので、まあいいだろう。
彼女が「すみませーん」と店員さんを呼び、さっとメニューを注文する。
「何か飲む?」
さらっと実里にそう聞かれて、迷う暇もなく、
「じゃあビールを……」
と反射的に答えてしまう。
「生ビールと、ミモザ、お願いします」
「かしこまりました」
実里はなんでもないふうに注文を終えると、メニュー表を片付けて端に寄せた。
「ここ、よく来るの?」
「ええ。といっても二回しか来たことないけど。友達とカフェ巡りするのが好きだから」
「へえ」
カフェ巡りか。俺と付き合っていた頃はそんなことは言っていなかった。カフェに行ったことは確かに何回かあるけれど、取り立ててカフェ巡りが好きだという話はしたことがない。
俺は彼女と同じように、お冷やグラスに口をつける。冷たい液体が、俺の食道や胃まで萎縮させるようにツンと滑り落ちた。
「今日は何してたの?」
今度は実里の方が俺にそう聞いた。料理が運ばれてくるまでのこの時間は、まだ気持ちも温まっておらず、女の子とこうして二人で顔を突き合わせるのにはいささか気力がいる。だからこの時ばかりは、積極的な彼女の存在がありがたかった。
「採点バイトしてた。就活がない日は大抵バイトしてるかな。みの——松葉さんは?」
「私は修士論文の準備。半年後には中間発表があるのよ。ハードスケジュールだと思わない?」
「はあ」
理系だった俺は卒論を書くのが自由だったため、正直なところ実里が苦しんでいることに理解できない。まあ、卒業論文と修士論文では難易度もまったく違うのだろうけれど。大学院を辞めてしまった俺には、どちらにせよ理解しがたいものだった。
「大変なんだね。頑張って」
「ありがとう」
ありきたりな励ましの言葉しか出てこなくて、俺は再び水を飲んだ。しばらくしてピザが運ばれてくる。香ばしい匂いに、実里が思わず「美味しそう!」と感嘆の声を上げる。3回目でもこんな反応ができるのは素敵なことだ。
「いただきます!」
嬉しそうに無邪気な笑顔で手を合わせる実里は、高校時代の彼女に少し似ていた。
だが、やはり納得いかない。どうしても、今目の前にいる実里が、昔交際していた女の子だという事実を受け入れられない自分がいた。
「どうしたの?」
運ばれていたピザをそのままに、微動だにせず考え事をしていた俺を見て、実里がそう聞いた。
「……いや、なんか新鮮だなと思って」
「何が?」
「みの——いや、就活で出会った女の子とこうしてご飯を食べていること」
本当は目の前の実里が、記憶の中の実里とは違うことに混乱している、などとは口が裂けても言えなかった。
「ふふ、確かにそうよね。私も初めてだよ? 誰でも彼でも誘ってるわけじゃないからね」
意味深なことを言いながらピザにかぶりつく実里。豪快な食べ方だ。昔の実里だったら、口元にソースがつかないか、服に具材を落とさないか心配しながら、お箸でピザを掴んで食べていただろう。
俺も彼女につられてピザを食べる。エビとイカが乗ったオイルベースのピザは、魚介の風味がふんわりと鼻に抜けて大人の味わい、といったところだった。
しばらくお互いの就活の話や世間話をして盛り上がった。最初は彼女と何を話せばいいのかもっと迷うのかと思っていたのだが、彼女が会話の主導権を握ってくれたおかげで、話題に尽きることはなかった。だが、昔のように本の話などは一切しない。彼女はもう、本を読まないのだろうか。記憶との齟齬に、俺は頭を悩ませた。
「実はさ、五十嵐くんに伝えたいことがあって」
二人ともピザを食べ終わり、お酒も3杯目に差し掛かった頃、実里がかしこまった顔ですっと俺を見た。なんだか真剣な雰囲気だ。俺は手に持っていたグラスを置き、「なに?」と聞き返す。
「会ったばかりでこんなこと言うのもなんだと思うけど……私、記憶喪失なんだ」
先ほどまで流れていたBGMの曲が途切れ、新しい曲が始まった。
重大告白をした実里の表情は、固く強張っていた。
「そう……なんだ」
薄々感づいてはいた。昔、恋人だった俺にここまで他人行儀な態度をとれるはずがない。俺は近くを歩いていた店員を呼び止め、水を入れてもらうようにお願いする。
「これ、どうぞ」
「ありがとう」
水を一口飲んだ彼女は、ふっと肩の力を抜いた。
「こんなこと急に言われても意味わかんないよねえ。ごめんね?」
「いや、大丈夫。差し支えなければ、どうして記憶喪失になったか、聞いてもいい?」
俺と別れたあとの空白の七年間に、彼女の身に何が起こったのか。とても気になった。
「大したことじゃないんだけど。大学三年生の時に、自転車で通学してたら交差点で車にぶつかって。自転車から投げ出された私は数メートル吹っ飛ばされたの。それで、目が覚めたら昔のこととか、親しかった人のことを忘れてた。幸い怪我は骨折と打撲程度で済んだんだけど。授業にもついていけなくなって一年留年したから、今私、25なの。それ以来、怖くて自転車に乗れないんだよねえ」
自転車に乗っている最中に車に撥ねられたことを「大したことではない」と言える彼女もすごいが、俺の知らない時に彼女の身にそんな壮絶な不運が降りかかっていたことに、驚きを隠せなかった。
「……大変、だったね」
どんな言葉をかければいいか分からず、俺は通り一辺倒なありふれた返事をしてしまった。
「ええ。まあそうね」
彼女は事故当時のことを思い出したのか、遠い目をして頷いた。もし俺が彼女の立場なら、とても辛いし立ち直れているか分からない。昔の彼女の控えめな性格はなくなってしまったけれど、こうして普通に暮らしているだけでも、どれだけの努力を要したのか想像がつく。長く、暗いトンネルだったかもしれない。そう思うと、昔の彼女と今の彼女を比べるのは良くないと思った。
「どうして俺に話してくれたの?」
俺が気になったのはそこだ。記憶喪失だなんて重大な身の上話を、なぜ彼女の中では出会ったばかりであるはずの俺に話したのか。
「うーん、何て言うか、きみなら受け止めてくれると思ったから、かな」
彼女は困ったように眉を下げて分かるようで分からない理由を教えてくれた。本心ではないとは思ったが、あまり深く立ち入ってほしくないことなのかもしれない。俺は「そっか」とだけ返事をした。
それからはお互いに無言でお酒を飲み干し、お会計という流れになった。
「今日はありがとう。私、話しすぎちゃったよね。ゴメン」
「いやそんなことないよ。楽しかった。こちらこそありがとう」
自分でも不思議なほどに素直な気持ちが口からこぼれ出ていた。外は暗くなっていたが、人通りが多い道に面しているから夜遅いという感覚にはならない。ネオンライトの看板がいくつも立ち並ぶこの街は、今の俺にはまぶしすぎた。
二人で同じ電車に乗り、最寄駅で下車した。電車の中で、実里は自分のSNSアカウントを教えてくれた。俺はあまりSNSをやらない方だったが、彼女のものと知っては見ないわけにはいかない。
最寄駅は同じだったので、駅から出て別れたあと、彼女のSNSを眺めながら歩いた。“呟きアプリ”を彼女はかなり使っているようで、一日に数件投稿していた。
『今日は就活でまた嘘を見破っちゃいました。同じグループの子だったんだけど、グルディス、初めてじゃないのに初めてだって言ってたんだ〜。まあ、結構どうでもいい内容でゴメンネ!』
ちょうど一週間前のR食品会社でのグループディスカッションでの話だ。百件もの「いいね」がついている。ふとフォロワーの数を確認してみると、なんと3206人。ついでに目に入ってきたプロフィールには、「他人の嘘を見抜くことできる、不思議な力を持ってます」と記載されている。俺は食い入るようにして一つ上の投稿を見つめた。
『あと、もう一人嘘ついてる人がいてね。その人、本当は大学院生じゃなくてフリーターなのに、大学院生って偽って自己紹介してたの。さすがにちょっとびっくりした』
俺のことだ。「いいね」は152件。コメントもたくさん来ていて、『経歴詐称乙』『即アウトだろww』『嘘つくメリットある?』と俺を批判する声が相次いで寄せられていた。
それに対し、実里は特に返信などはしておらず、気にすることはないのだろうけれど、反射的にスマホの画面から目を逸らしてしまった。苦いコーヒーを飲んで胃の中で酸が渦を巻いていくような気持ち悪さを覚えた。はっきりとは見なかったが、他にも実里の呟きはほとんどが「他人の嘘を見抜いた話」で、聴衆は彼女の話を面白おかしく楽しんでいるようだった。
なぜ、実里はこのSNSを俺に見せたのだろうか。
そもそもどうして、こんなことを呟き続けるのだろうか。
見ていてあまりいい気分はしなかったので、俺はスマホの画面を閉じ、消沈した足取りで下宿先まで帰宅していた。
その日以降、俺たちは頻繁に連絡を取り、会うことが増えた。
SNSの件はともかく、直接会って話す彼女には興味があった。
実里とのデートはほとんどカフェや居酒屋に行くことが多かったが、時々映画館に行くこともあった。高校時代も二人でよく映画を見に行っていたな、と思うと感慨深いものがある。他にも海を眺めたり、川辺を永遠と話しながら散歩したり、彼女と付き合っている頃を彷彿とさせるデートを重ねた。記憶喪失とはいえ、彼女の心のどこかに俺と交際していた頃の気持ちが残っているのではないだろうか、と少女漫画みたいな奇跡を思い描いた。
「五十嵐くんは、好きな人はいないの?」
ある日、いつもの如く二人で散歩をしている最中に足を踏み入れた喫茶店で、彼女がアイスティーを啜りながらそう聞いてきた。お互いの就職活動もいよいよ佳境に入り、そろそろ最終面接が行われる企業がいくつかあった。彼女の方は、本命ではない会社から内定をもらっているようで、以前よりも心に少し余裕ができているようだった。
散歩の途中でパラパラと降ってきた雨が、本格的に降り出して庭先の紫陽花を艶やかに濡らしていく。紫陽花は水に濡れている時の方が好きだ、と高校生の彼女が言っていたのを思い出す。梅雨は好きじゃないけれど、雨に降られた紫陽花が、化粧を覚え始めて輝いていく少女のようだと彼女は言った。紫陽花一つにそんな見方をする彼女を、俺は美しいと思った。
好きな人はいないのか、という彼女の質問に、俺の心臓がひと跳ねする。
外でもない、きみのことが好きだ。
そんな素直な気持ちを口にできたならば、俺はもう少しマシな人間になっていたことだろう。
「好きな人はいないけど、今は元カノのことが気になっている」
結局、含みのある言い方をしてしまって、俺はダメだなと凹む。元カノのことが気になるなんて言われていい気分になる女性はいない。間違いなくいない。ただ、俺の場合は特殊な事情があるので、一般的な意見は多少跳ね返せる自信があった。
実里は俺の返事を聞いて、「へえ」とつまらなそうに頷いた。手慰みにストローをくるくるか回している。そりゃそうだよな。目の前の男が、元カノのことを気にしているなんて知って、どうすればいい。
しばらく俺たちの間を流れる沈黙に、俺は普段は実里との間に感じることのない気まずさを覚えた。あんなこと、言わなければよかったという後悔がじわじわと広がっていく。小学生の時、習字の授業で俺の書いた文字が、時間が経つごとに滲んでいったのを思い出す。教室の後ろに全員の文字が貼り出された時、俺の文字だけが滲んだ墨汁のせいで丸みを帯びていた。その時の苦い思いが、今彼女の質問に答えた俺の中に蘇っていた。
実里は窓の外でふりしきる雨を見つめて、ふうと息を吐く。何を考えていたのだろうか。やがて彼女はゆっくりと口を開いた。
「それって……嘘、だよね」
吐息を漏らすような声でゆっくりと絞り出された声に、俺は息をのんだ。
他人の嘘を見抜くことができる、不思議な力を持ってます。
SNSのプロフィール欄に書かれていた一文がフラッシュバックする。
心臓の音が、外から聞こえてくる雨音よりも大きく鳴っているのではないかというぐらい、激しく脈打っていた。彼女の瞳は驚くほど澄んでいて、一点の曇りのない目で俺を見つめた。
「……」
返事はできなかった。単になんと言えば良いのか分からなかったということもあるが、それ以上に今目の前にいる実里の瞳が宝石玉のように美しく、もう少しこのまま眺めていたいというのが本音だった。
他人の嘘を見抜き、それをSNSで豪語する実里。彼女は今日のことも、SNSで呟くのだろうか。大学の友達に教えるのだろうか。でも、そんなことすらどうでもよく思えるほど、今俺は新しい彼女のことをもっと知りたいと思ったし、もっと近づきたいと思っていた。
彼女の心の深淵に触れたい。
高校時代、あの鈍い青春の痛みや輝きの中で思い続けてきたことを、俺は再び感じるのだった。
彼女がこの日のことをSNSに投稿しなかったのは意外だった。あまり自信がなかったのだろうか。それとも単に忘れていたのか忙しかったからなのか、俺の些細な嘘は人目に晒されることはなかった。
そのことに安堵を覚えたが、同時に寂しくもあった。彼女は俺が思っているほど、俺のことをそこまで考えてはくれていないのかもしれない。ともすればあの日、R食品会社のグループディスカッションで同じグループだった人全員と、俺のように情報交換と称して何度か会っているという可能性もある。今まで自分だけが特別なのではないかと思っていたが、完全に俺の思い違いで、勝手に一人舞い上がっているだけなのかも、と。それならばこれ以上彼女に対して期待したくないと思った俺は、彼女に「次の日曜日、また遊びに行きたい」というようなメッセージを送った。
これまで何度も逢瀬を交わしてきた俺たちだったから、今度も実里は俺の誘いに乗ってくれると思っていた。だが、予想に反して実里からの返事は一日経っても、三日経っても、一週間経ってもこなかった。SNSの更新も止まっている。風邪でも引いて寝込んでいるのだろうか。そういえば前回会った時、ちょうど一週間後に本命の会社の最終面接があると言っていたから、余裕がないのかもしれない。何かと理由をつけて、彼女からの返信が来ない言い訳を並べ立てた。
しかし、待てど暮らせどやはり実里から返信は来ない。メッセージは「既読」になっていたから、明確に無視をされていることになる。俺は凹んでしばらく食事が喉を通らず、就活にも身が入らなくなった。最終面接を控えていた会社の面接には心ここにあらず、の状態で向かったので当然落ちた。すべての会社で不合格をくらった。これまで潜り抜けてきた選考は全部無駄になった。虚しいほどの企業研究も、それなりに取り組んできたOB訪問も、努力はみな泡のようにあっけなく弾けてしまった。
もはや自分は本当に就職したいのだろうかと思いつめるほどに落ち込み、自宅でだらだらとネットサーフィンにふけっていた。完全に廃人と化してしまっていた俺は、無意識のうちに検索窓に「ブログ まつかぜ」と打ち込んでいた。
「もうやってないよな」
期待などまったくと言っていいほどしていなかった。単なる慰めに過ぎない。高校時代、携帯を持っていなかった俺が唯一オンラインで彼女と繋がれた場所。その場所が、今も変わらずに残っているとすれば、彼女は今、どんな言葉を綴っているだろうか。
検索結果に表示されたタイトルには、飲食店のブログと思われるものが多かった。「まつかぜ」という屋号の店が全国にちらほら存在しており、予約サイトも並んでいた。
諦め半分、好奇心半分の気分で画面を縦にスクロールしていくと、二ページ目の一番下に、それは現れた。
Free Blog「まつかぜ」。
自分以外誰もいない部屋の中で、息を凝らしてそのタイトルをタップする。
途端、ぱっと表示された画面のデザインに、見覚えがあった。
「あった……」
画面上にずらりと並んだ記事のタイトルは、「明日の五限目は大好きな古典」「昔は苦手だった村上春樹にハマってます」「今日、彼と見てきた映画が最高でした」と、高校時代に一度目にしたことのあるものだった。最終更新日は2018年3月8日になっている。俺が、彼女に別れを告げたのが2018年3月9日なので、その前日になる。3月9日は、俺が受験した大学の合格発表の日だった。
最後のブログのタイトルは、「高校を卒業しました」というものだった。
俺も当時読んだはずだったのだが、無意識のうちにその記事を再び開いていた。
『先日、三年間通った高校を卒業しました。入学の時、私は中学校と変わらず、教室でひとり、本を読んで退屈な授業を聞くだけの青春が始まるのだと思っていました。青春が痛かったり楽しかったりするのは、一部の明るい人間の特権なんだろうと。私みたいな、日陰でひっそりと生きている人間に、青春という言葉は重すぎるって。そんなふうに最初から決めつけていた私は、これから始まる高校生活に、何の意味も見出せずにいました。
でも、私が経験した高校三年間は、当初私が想像していたものとは180度違っていて、特に最後の一年半は、かけがえのない人と出会い、私にとって宝物の時間になりました。
気がつけば私は、痛かったり楽しかったり、苦しかったり嬉しかったり、自分でもびっくりするほど感情の波に飲まれていて。ああ、青春してるなって思ったんです。私のような人間でも、こんな痛みや喜びを味わえた。大切な三年間のことを、これからどんなことがあっても、この先一生忘れずに生きていきたいです。
最後に。
私の高校生活を色づけてくれた、かけがえのないあなたへ。
心から、ありがとう。
月並みだけど、これからもよろしくお願いします』
「ああ……」
自分の喉からかすれ声が出て、俺は口を手で覆った。
ブログに綴られていた当時の実里の想いの丈を知って、七年前にタイムスリップしたかのように、実里への気持ちが蘇る。再会してからも実里のことが気になっていたが、俺が好きだった実里は、本当の実里は、こんなにもあの日々を大切に思ってくれていたんだな。
胸に湧き上がる熱湯のような思いを、俺はもう抑えることができなくなっていた。
「高校を卒業しました」の記事の一番下のコメント欄をタップして、カーソルを合わせる。震える指で、俺は文字を打ち込んだ。
「実里へ。
俺です。覚えていますか?
今さらだけど、このブログを読みました。
懐かしくて、当時のことを思い出してしまっています。
実里はもう覚えていないと思うけど、俺の高校生活も実里の横で鮮やかに色を帯びていったんだ」
記憶を失くした彼女は、もう「まつかぜ」のことなんて覚えていないだろう。だから、コメント欄なんて見られることはないと思っていた。むしろ、読まれないと思ったからこそ、素直な気持ちを綴ることができる。
その日から俺は、実里の過去のブログを読み返しては、コメント欄を埋めていくという作業を繰り返した。気づいてほしいような、ほしくないような。どちらとも言えない気持ちで言葉を、今の俺の思いを残していく。知らない誰かに見られる可能性はあるが、このブログの更新自体、長い間止まっているので、誰も見ていない可能性の方が高いと思っている。
実里のブログを読み、過去を掘り返す作業は寂しくもあり、でも楽しくもあった。あの時の新鮮な気持ちがまだ、俺の中に残っていることが分かり、嬉しかったのだ。
俺の数少ない娯楽の一つとなった「まつかぜ」再読の時間は、夏が来て、秋が去り、冬の始まりまで続いた。
12月、街全体がクリスマスムードに包まれて華やいだ恋人たちの姿を目にすることが増えたいま、俺は内定0のまま、ただひたすら実里のことを考えていた。
クリスマスに、実里をデートに誘いたい。
実里とは結局あの6月のデートを最後に、一度も会えていなかった。メッセージを送っても返信が来ないのでもう諦めていた。でもやっぱり、どうしても実里に会いたい。会って、俺が七年間抱えていた気持ちをぶつけたい。いつしかそう強く願いようになっていた。
12月15日、そろそろ彼女をデートに誘わなければクリスマスの予定が埋まってしまう。いや、もしかしたらもう埋まっているのかもしれない。そんな危機感を抱きながら、どうにかして彼女に会うべく最寄駅で待ち伏せをしようと決心し、自宅から駅まで歩いている時だった。
「あれ?」
反対側の歩道を、一台の自転車がすっと通り過ぎて行った。普段なら気にも留めない光景だが、乗っている人物に見覚えがある。白いダウンコートを羽織り、マフラーで黒髪ごと首を覆っている彼女。すぐに走り去ってしまったが、実里に違いなかった。
「なんで」
心の中で、なんで、どうしてを繰り返していた。目にした光景が、本当なのか幻なのか、あやふやになる。もやもやした気持ちをなぎ払おうと、最近一人で見に行った映画のことなんかを思い浮かべてみたが、ダメだった。
茫然自失状態のまま、俺は自宅へと戻る。
彼女には今日、会える気がしなかった。
玄関の扉を開けると、部屋の奥の窓にちらちらと白い雪が降り始めたのが見えた。振り返ると、吹きさらしのアパートの廊下に、雪が舞い落ちている。いつのまにこんなに寒い季節になったんだろう。
きれいな雪。白い雪。まっさらな気持ち。
俺がかつて、高校生の頃に抱いていた彼女への感情は、この雪のように純粋だった。
そっと玄関の扉を閉じて、「まつかぜ」を開く。
いてもたってもいられなかった。一番最近の投稿——つまり、「高校を卒業しました」の記事に、再びコメントを書き込む。前回俺が書き込んだコメントには、予想通り何の反応もない。世界中に発信された俺の言葉は、ブログの主である実里にさえきっと、届いていない。だから今こうして書き込んでいることだって、実里は絶対に見ない。それなのに、どうして言葉が溢れて止まらないんだろう。
ようやく最後の文字を打ち終わり「投稿」ボタンを押すと、ブログのコメント欄に俺の二つ目のコメントが並んだ。
記憶喪失の彼女に、このブログの存在を知らせたい。
高校時代の俺を知らない、まっさらな彼女。
でも、生まれ変わった彼女だからこそ、むしろ知らせるべきではないのかもしれない。そんなふうにも思う。
窓の外をふりしきる雪は、先ほどよりも強く激しく、気がつけば吹雪のように吹き荒れていた。テレビをつけると今日の雪はかなり積もるだろうと予想されていた。そんなことも知らずに駅で彼女を待ち伏せしようとしていた自分が面白いくらいに痛い。自転車で颯爽と対岸を駆け抜けて行った彼女だって、痛い。こんなところで、俺の住んでいる街で、簡単に嘘を嘘だとばらしてしまうような行為をする彼女が、恐ろしいほど憎くて愛しくなった。