溌剌として明るい彼女に出会ったのは、2025年4月10日の今日が初めてのことだった。
「大学院生? それじゃあ私と同じじゃん」
10分後に始まる大手食品会社・R食品のグループディスカッションの席で、正面に座る彼女が、自分と共通点のある相手を発見し、分かりやすく頬を綻ばせた。ねえねえ何を研究してるの? なんでこの会社に応募したの? と矢継ぎ早に質問してくる様も、俺にとってはまさに青天の霹靂。就活の場でこんなふうに積極的に自分に質問してくる子がいると思っていなかった俺は、ドキマギしてしまっていた。
「てか今から何話し合うんだろうね? 食品会社、受けるの初めてだから緊張してきた」
まったく緊張していない様子であははと笑う彼女の顔を、俺は凝視した。
同じグループの他の学生も、この緊張した場面で明るく笑い飛ばす彼女を見て目を丸くしていた。彼らは俺たちより年下の大学四年生だ。自己紹介で分かったことは、この場にいる五人のうち三人が大学四年生、残る俺と実里が彼らよりも年上だということだ。
「早瀬くん、だっけ? 今すっごい緊張してるでしょ。どんな議題が来るのかってドキドキしてる」
彼女こと、松葉実里は俺の隣に座る男子学生に声をかけた。早瀬という名前をすんなり呼んだことに、その場にいた全員が驚く。
「え? あ、はい。実は俺、グループディスカッション初めてで」
「そうなんだ。あ、でもそれって本当は嘘じゃない?」
「はい?」
初対面の彼にずけずけと「嘘じゃない?」なんて聞き返す実里に、俺を始めその場にいた全員が目を瞬かせた。
「いやいや、だって『初めてだ』って言った方が、面倒な役割とか押しつけられなくて済むし。あ、でも大丈夫。私はそういうの他人に押し付けたりしないから!」
「……そうですね」
敗北した様子で肩をすくめる早瀬君を見ると、どうやら実里の聞いたことは図星だったらしい。つまり、彼はグループディスカッションが「初めて」ではない。
どうしてそんなことが分かったんだろう。自分も初めてだと嘘をついた経験があるのだろうか。でも、このあっけらかんとした実里がわざわざそんな姑息な嘘をつくようには見えなかった。
「それでは今からグループディスカッションを開始します。30分後に各グループより発表をしていただきますので、頑張ってください」
採用担当の男が各グループに資料を配り終えたところで開始の合図をした。俺たちはさっそく配られた資料を各自で読み込む。議題は、「新商品カップ麺『九州ヌードル柚子胡椒味』の売上年間10億円を達成する具体的なプランを考えよ」というものだった。議題の書かれた紙を一枚めくると、カップ麺の特徴や、同社が販売する他のカップ麺の売上のデータがずらりと並んでいる。眺めるだけで頭が痛くなりそうなものだったが、グループのメンバーは皆黙々と資料を読んでいた。
ちらりと横目で実里の方を見ると、顎に手を当てて何か考え込んでいた。その風貌を見ると、いかにも賢そうで、自分が彼女と同じ年齢であることを忘れそうになる。
「みんな、読んだ?」
5分程して実里が顔を上げて全員に声をかけた。グループディスカッションはとにかく時間が短い。資料を読み、意見をまとめて発表するところまでこぎつけるには、正確なタイムキープと,
ここぞという時に無理やりにでも意見をまとめられるリーダーが必要だ。その大事な役目を彼女が買って出ているように思われた。
「読みました」
「私も」
「僕もです」
全員が資料を読んだのを確認すると、予想通り彼女が舵をとり、「じゃあまずはペルソナを考えましょう」と切り出したのだった。
グループディスカッションは思いの外白熱し、30分間誰一人として顔を下げなかった。誰かが意見を言うと、すかさず実里が「それはとてもいいね。じゃあこっちはどう?」と相手の意見を肯定しつつ、新しい論点をついていった。そんな彼女の議論の進め方は審査員にもよく映ったのか、そばで見ていた社員たちが神妙に頷いているのが見えた。
無事に発表まで終えた俺たちは程よく燃え尽きていた。議論が始まる前までは固まっていた女子も大きく伸びをする。
「あー疲れたね。発表、いい感触だった」
「そうですね。でもこの中で誰か落ちるなんて信じられないです」
「そうとは限らないよ。グループディスカッションって、会社にもよるけど一つのグループの中から合格者・不合格者を出すこともあれば、全員合格になったり不合格になったりすることもあるんだって。まあこれは噂だし、本当か嘘か分からないけどね」
実里が最後にそんな豆知識を披露し、その場はお開きとなった。
今回のディスカッションがうまくいったのは、間違いなく実里のおかげだ。実里以外、自ら積極的に議論を進めようという気概のある人間が、あの中にはいなかった。
「五十嵐くん」
グループディスカッションを受けたR食品のビルから出て最寄駅まで歩いている最中、後ろから軽く肩を叩かれた。
「松葉さん」
振り返るとそこに立っていたのはやはり彼女だった。最寄駅までは大抵の学生が帰り道が一緒なので声をかけられるかもしれないとは思っていたけれど、まさか本当に予想が的中するなんて。心臓がどくんと一回大きく跳ねる。彼女と、一体何を話せばいいのか。
「五十嵐くんもこっちなの?」
「ああ。京鉄なんだ。松葉さんも?」
「ええ」
京鉄というのは今から俺が乗ろうとしている電車のことだ。どうやら彼女も同じ電車らしい。このまま一緒に電車に乗る流れになるのかな、と予測する。こんなふうに明るい彼女と話すのは慣れない。そもそも就職活動自体、俺の性格には合っていないのだ。あんなの、コミュニケーション能力に長けていて、その場の流れを把握する力があるやつが一番強い。俺みたいに、周りの空気感とか周りの目を気にして自分の意見を変えてしまうような人間に、就活がうまくいくはずがないと思っている。
実里は一瞬俺から目を逸らし、どう話を切り出そうか迷っている素振りを見せた。なんだろう。単に一緒に帰りたいというだけなら、話の流れでそのまま同じ電車に乗ってしまえばいいのに。そこまで迷うことないだろう。今日ディスカッションで場の流れを掴み、チームの議論を引っ張っていた彼女ならできないはずがない。ただそうしないということは、他に何か話があるということだろう。
「あのさ……こんなこと言うのもアレなんだけど」
「アレ」というところで彼女は俺からまたも目を逸らす。なんだ。何を言おうとしているんだ。
一呼吸待って、彼女がようやく核心部分に触れる。
「大学院生って嘘だよね?」
*
俺が大学院に進みたいと思ったのは、同じ学部にいた同期のやつらが皆一様に大学院に進学すると言ったからだ。
農学部で食品関係の研究をしていた。研究室内で飛び交う言葉はアミノ酸がどうとか、マウスの実験がここまで済んだとか、いかにも理系の研究室らしいものばかりだった。もともと自分も理系教科が得意だったので、専門的な言葉が飛び交う教室にいても苦にはならなかった。
「俺さ、食品会社でアレルギー対応食品の研究をしたいんだ。妹がエビアレルギーなんだけど、あいつエビが大好きでさあ。今でももちろんそういう食品ってたくさん出てると思うけど、味とか食感とか、より本物に近づけて、誰もがアレルギー食品でも美味しく食べてるような感覚になってほ
しくて」
同期だった一人の男がビールジョッキを片手に夢を語ると、周りにいたやつらも次々に“将来やりたいこと”を口にした。強制ではなかったはずのその告白大会も、いつしか全員が夢を話さなければならない空気になっており、最後に順番が回ってきたのが俺だった。
「仁はどうしたいんだ?」
研究室で一番成績がよく、端正な顔立ちで「イケメン」と皆から称される伊藤がこちらに視線を向けた。アルコールのせいか顔が耳まで赤くなっているのに、なんて目力だと思った。
「俺は……みんなと同じだよ。食品会社で働きたい」
少し間をあけてから出てきた答えは、当たり障りのない、言い換えればひどくつまらないものだった。
「そっかー。やっぱみんな研究だよな。せっかく大学院まで来たんだし」
伊藤は頭の後ろに腕を組み、店員さんにビールのおかわりを頼んだ。俺の話したことに、少しも疑問を抱いていない様子だ。ほっとしつつも、なんだか後ろめたい気分にさせられた。
その日から、俺の脳裏にはいつも自分が本当は何がしたいのか、という疑問が付き纏った。
相変わらず研究室でひたすら実験に打ち込む日々を送っていたが、ふとした瞬間に隣で熱心に実験の結果を記録する友人を目にしたり、英語で書かれた論文と格闘する先輩の姿を見たりするたびに、腹の底の一番深い部分が、ツンと針で突かれたような痛みを覚えた。
そして、いざ就職活動を始めようと思った今年三月、ついに張り詰めていた糸が切れてしまったのだ。
何か特別なきっかけがあったわけではない。ただ、ずっと細くピンと張っていた糸が限界を迎えてしまっただけだ。隣の県の実家で暮らしている母親に電話をして、「大学院をやめたい」と告げた。母は始め、「どうして?」と聞いてきた。当然の疑問だろう。一年前に大学院に進むための試験を受け、学費を払ってもらえるように母親に説得したのは自分だ。その時は確か、「理系はみんな院進するもんなんだ」と通り一辺倒の理由を話した。母は案外あっさりと「そう」と大学院に進学することを許してくれた。「みんなやってるから」「みんな行ってるから」という言い訳は、日本人ならば誰にでも通用する免罪符のようなものだった。
「いろいろ考えて、今やってる研究に自信がなくなったというか。みんな、食品会社に行きたいって言ってて。それなら俺も、別に研究職じゃなくても同じようなところに就職できるかなって。今やりたくもない研究に無駄な時間とお金を費やすより、時間を有効に使える方がいいかと、思って」
自分の言い訳にだんだんと自信がなくなってきて、最後は尻すぼみになってしまった。でも母はまた「そっか」とだけ呟いて、それだけでもう了承の意を得たのだと分かった。
「頑張って」
ただ一言、最後に母がくれた励ましの言葉が今でも俺の頭から離れない。余計なことは何も聞かず、背中を押してくれた母。全身から一気に力が抜けて、その日には大学院二年生に進学するのを辞めるよう、大学で手続きを済ませてしまった。決意した時はとても緊張していたし、本当にこれでいいのかと何度も自分に問いかけた。でも、いざ決断をして行動に出てしまえば呆気ないものだった。
かくして俺は大学院二年生にはならず、一年間は無職のフリーターとして就職活動に専念することになった。別の会社の面接でなぜ大学院を辞めたのかとつっこまれることも多いが、素直に答えていれば採用担当者もそれほど引っかからないようだった。自分たち学生が気にしていることなんて、大企業の人間からすれば些細な点にすぎないのだ。
そういうわけでこの日も俺は、フリーターとしてR食品の採用試験を受けに来たのだ。グループ内の自己紹介では面倒なので「大学院二年生」と嘘をついた。もちろん履歴書にはきちんと大学院中退と記載している。他の学生にちょっと嘘を言っただけだ。採用には響かないと思う。
*
松葉実里の真っ直ぐな瞳が、俺の目を掴んで離さない。
地下鉄の入り口から風が吹きつけて、きちんと固められていた彼女の前髪がはらはらと崩れた。前髪がある方が、色っぽくて綺麗だなと場違いなことを思う。
「……嘘だ。大学院生じゃない」
ごくりと生唾を飲み込んで喉の奥から絞り出た答えに、実里は満足げに微笑んだ。
「やっぱりね! あーそうかなと思ってたの。それが気になって、議論に集中できなかったんだからっ」
いやーすっきりした! と表情を綻ばせる実里。そんなことが気になっていたのか? 議論に集中できなかったって、その割にはちゃんとチームをゴールまで導いていたように思うけれど。
「なんで分かったんだ? 顔に出てた?」
「うーん、顔に出てたっていうか、私、分かっちゃうんだよね。人が嘘ついてるのが。なんかこう、誰かが嘘をついてると、パッとひらめくの。火花が散るみたいに目の前がチカチカしてくる。超能力って私の友達は言うけど、特殊能力があるみたい」
真剣な顔で「超能力」などと口にする大学院生の彼女を、俺は茫然とした気分で見つめてしまう。
人の嘘が見抜ける超能力なんて、聞いたことがない。そんな能力があるなら、犯罪者を取締るのに大活躍するだろう。
と心ではつっこみたい気持ちでいたのだが、実際俺は彼女に嘘を言い当てられている。そういえばディスカッションの時も、大学四年生の早瀬くんが、ディスカッションが初めてというのは嘘だと見抜いていた。
「……すごいね。そんな特殊能力ある人、初めて会った」
「でしょ」
得意げに笑う実里が、勝気な表情で乱れた前髪を黒いピンで止めた。
「本当に、初めてだよ」
俺は、八年前に初めて彼女と出会った日のことを思い出す。
あの日も彼女は、黒いヘアピンで風になびく横髪を止めていた。
高校二年生の、秋の運動会での出来事だった。